時間は、恭平が血みどろの身体を洗い流すために川へと向かった、十数分前へと遡る。
物見櫓に立て掛けられた木製のハシゴを、慎太郎、達也、風弥の三人は泥に汚れた手で一段ずつ踏みしめながら登っていった。
ハシゴの最上段を越え、バリケードの内側へと足を踏み入れた瞬間、彼らを待ち受けていたのは、歓迎とは程遠い、張り詰めた鉄の匂いと冷徹な銃口だった。
物見櫓の上、そして内側の即席の防壁の陰から、ヘルメットを被り、猟銃や警察用の拳銃を構えた数人の男たちが、鋭い視線で彼らを取り囲む。
「手を上げろ! ゆっくりだ、妙な動きはするな!」
低く威圧的な声が響く。三人は反射的に両手を高く掲げた。達也の持つ金属バット、そして慎太郎が恭平から預かったままだった、赤黒い血のべっとりとこびりついた鉄パイプが、駐車場のアスファルトの上へとカラン、と虚しい音を立てて転がり落ちる。
彼らが案内されたのは、体育館とバリケードの間に位置する、広大な公用車駐車場だった。ひび割れたコンクリートの上、遮るもののない冷たい風が吹き抜ける中で、三人はすぐに武装解除と肉体の確認を受けることとなった。
「上着を脱げ。袖を捲くれ。首筋と手首を見せろ。噛み傷や引っかき傷がないか、徹底的に調べる」
数人の武装した男たちが、一切の感情を排した目で彼らを値踏みするように見つめ、手際よく全身を触診していく。 衣服を剥がされるような厳重なボディーチェック。傷跡一つ見逃すまいとするその異様なまでの執念に、風弥は恐怖で肩を小刻みに震わせ、達也は奥歯を噛み締めていた。
だが、今の避難所の状況を考えれば、この過剰なまでの警戒も当然の防衛策だった。もし一人でも感染者を内部に入れてしまえば、この安全地帯は一瞬にして地獄へと変貌する。
数分に及ぶ、息の詰まるような検査の末、男たちの一人がようやく銃口を下げ、短く告げた。
「……三人とも、感染の痕跡は無し。問題ありません」
その言葉に、緊張で限界まで強張っていた三人の身体から、一気に力が抜けた。しかし、安堵したのも束の間、彼らが次に案内された体育館の内部の光景は、彼らの心にさらなる絶望の影を落とすことになった。
一歩足を踏み入れた体育館の中は、まさに言葉通りの『地獄絵図』だった。
かつては学生たちの歓声が響き、スポーツの汗が流れていた広大な空間は、今や絶望と悲鳴、そして腐敗と排泄物の混ざり合った酸っぱい悪臭が充満する、巨大な「人間の檻」と化していた。
バスケットコートの床一面を埋め尽くすように、色褪せたブルーシートやボロボロの毛布が敷き詰められ、その上に何百人もの避難民がひしめき合っている。
隅の方では、親を失ったのだろう、小さな子供が顔を涙と泥でぐしゃぐしゃに濡らしながら、力の限り泣き叫んでいた。
その隣では、血の滲んだ包帯を頭や腕に巻き、虚ろな目で天井を見つめる怪我人たちが、呻き声すら上げられずに横たわっている。段ボール箱や物資を台車で運ぶ、腕章を巻いた職員らしき大人たちが慌ただしく走り回り、その後ろを、訳も分からず「いつになったら自衛隊が来るんだ!」「飯はこれだけか!」と胸ぐらをつかんで怒鳴り散らす男たちが追いかけていく。
秩序は、辛うじて保たれているように見えて、その実、極限まで張り詰めた細い糸のようなものだった。いつ誰がパニックを起こし、暴動に発展してもおかしくない。そんな狂気的な熱気が、体育館の空気を重く湿らせていた。
「今から君たちには、局長と直接話し合ってもらう」
不意に、三人の前を歩き、案内をしていた男が振り返り、低く、しかし感情の籠もらない平坦な声で話しかけてきた。
その男の目は、あまりにも多くの死と混沌を見すぎたせいか、どこか感覚が麻痺しているような、ガラス玉のような無表情であった。
「あのバリケードの外に立っている、例の『血塗れの青年』についてだ。彼について、知っている事は全て、包み隠さず話すんだ。それと、分かっているとは思うが、我々の前で妙な真似をすれば、強硬な手段を取る。見ての通り、今の我々には、何の余裕もないんだ」
男の言葉には、脅しというよりも、乾ききった現実の重みがあった。
慎太郎、達也、風弥の三人は、それぞれ顔を見合わせ、言葉にできない複雑な感情を宿しながらも、深く頷くしかなかった。彼らは館内の隅に位置する非常用階段へと導かれ、冷たい鉄のステップを上っていった。
体育館の2階から、渡り廊下を経て、併設されている「管理棟」のエリアへと入る。
体育館の、あの耳を劈くような喧騒が、防音扉の向こうへと遮断され、驚くほどの静寂が廊下に広がった。
幾分か落ち着いた雰囲気の廊下。だが、そこにも確かな緊張感は漂っていた。
時折、通り過ぎる会議室の半開きになった扉から、職員たちの「物資の配分が……」「周辺のゾンビの数が……」といった、焦燥の滲む話し声が漏れ聞こえてくる。
三人はその声を余所に、廊下の最も奥に位置する、重厚な扉の前へと導かれた。案内をしていた男が扉の前に立ち、少しだけ姿勢を正して、静かにノックをする。
「局長。例の、正面門からの新規生存者三名をお連れしました」
一瞬の沈黙。やがて、扉の奥から、低くくぐもった、しかし不思議とよく通る声が届いた。
「……入れ」
案内役の男が扉を開け、促すように手を差し出す。三人が恐る恐る足を踏み入れた会議室の内部は、避難所の『心臓部』とも言うべき場所だった。
会議室の中央には、事務用の長机をいくつか寄せ集めて作られた、即席の大きな作戦卓が置かれていた。
その上には、赤ペンで無数にバツ印や矢印が書き込まれた詳細な市街地図、びっしりと名前が記された避難者名簿、手書きの、しかし極めて緻密な外周警備の配置図、指示器のランプが心許なく赤く点滅している充電残量の少ない無線機が、雑然と、しかしある規則性を持って並べられている。
その混乱と焦燥の中心で、ただ一人、一切声を荒げることなく、周囲の職員に静かに指示を飛ばしている男がいた。
「──君たちが、例の三人組か」
その声の響きに、三人は思わず身を固くした。男は持っていた資料を作戦卓の上に静かに置くと、ゆっくりと彼らの方へと向き直った。
年齢は四十代前半程度だろうか。長身で、すらりとした無駄のない体格。整えられた髪に、仕立ての良いスーツをこの極限状態でも崩さずに着こなしている。
何よりも、周囲の職員たちが半ばパニックに陥っている中で、彼一人だけが、まるで静かな湖面のような、圧倒的な落ち着きと知的な佇まいを崩さずに立っていた。
「話はある程度、警備の者から無線で聞いている。何でも、素手で感染者を蹴散らした『化け物』と行動を共にしていた、と」
彼が淡々と発した、ある「特定の言葉」に、慎太郎、達也、風弥の三人は即座に、鋭く反応した。
恭平は自分たちを救ってくれた。確かにその力は異常で、見ていて恐怖を覚えるほどだったが、それでも、彼は自分たちのためにその力を振るい、こうして避難所まで送り届けてくれたのだ。
その彼を、目の前の男が「化け物」と切り捨てたことが、三人の胸の奥にある感情を激しく逆撫した。
「……っ。彼は『化け物』ではありません……! 確かに力は普通じゃないですが、あいつにはちゃんと理性があって、俺たちのことを気遣ってくれる心を持った、『人間』です!」
慎太郎が、一歩前に踏み出し、神崎の射るような視線を真っ向から受け止めながら、必死に声を張り上げた。それに続くように、達也もまた、自らの胸元に拳を当てて、神崎を睨みつけるようにして言った。
「慎太郎の言う通りだ! あいつは……恭平は、意味が分かんねぇぐらい強いし、やってることはめちゃくちゃだけど、中身はちゃんと『人間』なんだよ!」
いつもは、ゾンビを前にして真っ先に腰を抜かし、泣き出しそうになっていた風弥までもが、今度はその怯えを必死に押し殺し、震える手をぎゅっと握りしめながら、か細い、しかし確かな重みを持った声で局長に訴えかけた。
「……そ、それに。もし、恭平を味方に付けることができれば、あのゾンビたちに立ち向かうことだってできるかも……! あいつは、あいつの力は、それぐらいすごいんです……!」
三人の必死の弁明。会議室の主であるその男は表情一つ変えることなく、冷徹かつ極めて冷静に、彼らの言動や表情の機微を分析していた。
彼の切れ長の瞳が、慎太郎の、達也の、そして風弥の顔を順に舐めるように見つめる。
(なるほど。口では『人間だ』『友達だ』と擁護しているが、彼らの瞳の奥には、微かに、しかし確実にあの青年に対する『怯え』の色が焼き付いている。盲目的に彼を信頼し、崇拝しているわけではない。
しかし、同時に『味方に付ければ』という言葉が出るあたり、彼らもまた、その異常な力を利用して生存しようという、冷徹な『打算』を自覚なしに抱いている。
……実に興味深い。単なる友情の綺麗事ではない、極限状態が生み出した、極めて歪で強固な生存の繋がりか)
彼は、わずか数秒の観察だけで、三人の複雑な心理構造を完全に看破していた。しかし、それを表に出すような浅薄な男ではなかった。彼はふっと、表情をわずかに和らげ、静かに首を振った。
「……なるほど。言葉が過ぎたな。それは失礼した」
彼がそう言って短く謝罪すると、会議室の内部は、妙な静寂に包まれた。それまで、室内のあちこちで大声を上げて物資の相談や警備の割り振りをしていた職員たちも、今はすべての手を止め、新規の生存者である三人組と、自分たちのリーダーである局長のやり取りを、固唾を呑んで見守っていた。
彼が三人組をどう扱うかによって、この避難所の運命が大きく左右されることを、全員が本能的に理解していたからだ。
「……自己紹介が遅れていたな。私は、この避難所の総責任者であり、市危機管理局長の神崎誠一郎だ」
彼は自身の名を告げると、一拍置いて、遮るもののない静かな声で、この避難所が隠し持っている『最悪の現実』を語り始めた。
「君たちの言う通り、その彼の持つ異常な力が、理性を伴った『人間』のものであるならば、我々にとってこれ以上ない救いになるかもしれない。……なぜなら、現在、避難民の人数と備蓄の比率から計算して、この避難所の食料は、残り『二日』で完全に尽きるからだ」
その、あまりにも冷酷な数字に、慎太郎たちは息を呑んだ。神崎は、絶望的な現実を、淡々とした口調で続ける。
「水は辛うじて確保できているが、食料が尽きれば、この体育館にひしめく数百人の避難民がどうなるかは、想像に難くない。秩序は瞬時に崩壊し、内部からのパンデミック、あるいは暴動が発生するだろう。我々も、もはやなり振り構ってはいられない。もし、その彼が、理性を持ちながらも超常の力を有し、生存のために協力を申し出てくれるのであれば、私は彼に対して、全力での協力を要請し、しかるべき見返りを提供したい」
その、神崎の驚くべき決断の言葉に、会議室の片隅で静かに聞いていた職員たちに、まるで落雷でも落ちたかのような激震が走った。青ざめた顔をした一人の男性職員が、耐えかねたように作戦卓を両手で叩き、前に乗り出した。
「きょ、局長正気ですか!? 避難民を危険に晒すかもしれないんですよ!? 自衛隊の助けを──────」
「助けを待っている間に、ここで餓死するか秩序が崩壊するかのどちらかだ」
神崎は、職員の言葉を、静かに、しかし絶対的な重みを持って遮った。その瞳には、一切の迷いも妥協もない。
自衛隊の救助が来ない中、周辺都市もすべて同様のパンデミックだ。彼らがこちらを優先して救助に来るという、明確な根拠はどこにもなかった。
「……っ」
冷酷に、しかし確かな重みを持たせて、神崎は告げられ、男性職員は、悔しげに唇を噛み締め、それ以上言葉を続けることができずに、ただ引き下がるしかなかった。
神崎の言葉が、あまりにも正しいからこそ、誰も反論できなかった。高まりかけた会議室の熱気が、また急速に、冷たい現実の空気へと引き戻されていく。
神崎は、職員に向けていた厳しい顔を、再び三人組へ戻して口を開く。
「では、聞かせてもらおうか、彼のその特異性について──────」
その瞬間だった。
ドガァァァァァッッッッッ!!!!
耳を劈き、脳髄を直接揺さぶるような、凄まじい大爆発の音が、避難所全体に鳴り響いた。同時に、コンクリートで頑強に作られているはずの管理棟全体が、まるで巨大な巨人に足元をすくい上げられたかのように、激しく、上下左右へと揺れ動く。
「うわあああ!?」 「何だ!? 何が起きた!?」
会議室内の全員が、立っていられずに、床へと無様に倒れ伏した。窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げて激しく振動し、卓上の書類や、充電中だった無線機、市街地図が、床の上へと雑然と飛び散る。数人の職員たちが、恐怖で顔を覆いながら悲鳴を上げていた。
「……っ! 全員無事か!」
神崎が、いち早く床に手をつきながらも、床に散らばった無線機を素早く引っ掴み、スイッチを入れて怒鳴るように声を張り上げる。
すると、無線機のスピーカーから、砂嵐の雑音を掻き消すような、極限の恐怖と混乱に満ちた、悲鳴混じりの逼迫した音声が流れ込んできた。
『緊急事態発生!!! 上空から二メートル近いヒトガタの異形が駐車場に飛来!!! 衝撃による負傷者多数!!! 繰り返す、上空から、ヒトガタの異形が──』
「……ヒトガタ……異形?」
達也が、床に這いつくばったまま、困惑を滲ませた声音で呟いた。二メートルを超える、ヒトガタの、異形。そんなものが、この世に存在するのか。
しかし、それだけでは終わらない。
──────ドガンッッ!!!
先ほどの、管理棟全体を揺らした大爆発のような衝撃に比べれば、いくらか控えめな、しかし、確かにすぐ近くで何かが激突したような、鈍く重い衝撃音が、再び会議室の空気を震わせた。
神崎が、無線機を握る手にぐっと力を込める。直後、スピーカーから、さらに声を枯らした、信じられないものを見たという驚愕に満ちた絶絶叫が響き渡った。
『っ! バリケード外にもう一体飛来!!! あれは……。──────例の青年です!!!』
「恭平……!?」
慎太郎が、弾かれたように顔を上げ、窓の向こう、砂煙の舞う外の世界を見つめた。
恭平が、戻ってきた。しかも、上空から飛来した『何か』を追いかけるようにして、自身の足で、この避難所へと、爆速で帰ってきたのだ。
避難所の平穏は、今、完全に瓦解した。異形の怪物と、それを追う、自称人間の怪物。二つの規格外の存在が、この避難所を舞台に、いよいよ激突しようとしていた。