「お? お前びしょ濡れじゃねえか。――またいつものアレか?」
岩センが撫でる手を止め、にやりとこちらを見た。身長が低い彼は、俺を見上げる形になる。
「……うん」
千夏が長い栗色の髪を揺らして、可愛らしいハンカチを差し出してくれる。
「ありゃ……。あたしのハンカチ使うっすか?」
汚すのは悪いが、気遣いを断るのも申し訳ない。俺はありがたく受け取った。
部長がさらりとした前髪を直し、いつものように嫌味を垂れる。
「もっと気をつけていれば防げただろう? まったく、君はいつもそうだ。不甲斐ない……他人が被る迷惑のことも少しは考えたまえ。」
しかし、その瞳はわずかに揺れていた。
スイがどこかドヤ顔でサムズアップをする。
「……どんまい。次は足の裏に滑り止めシート付けよう」
なんだそのリアクション。相変わらず読めない奴だ。
――いつものアレ。
そう、俺は世界に嫌われている。じゃんけんは勝てないし、急げば赤信号に引っかかる。それに、あの人もいなくなってしまった。俺の、唯一の。胸の奥が鈍く痛んだ。
その時、スイがそっと呟くように言った。
「ハルトくん、シャツ濡れちゃってる。それ、あの人が中学の入学祝いにくれたやつでしょ。」
「え? ああ……。お前にその話したか?」
誰かに話した記憶はないのだが。……いや、俺が忘れているだけか?
俺はどかりと椅子に座り、借りたハンカチで濡れた自身の茶髪を拭う。洗って返そう。
「はあ。今日も相変わらず最悪だ。明日もその次も、ずっと最悪なんだろうな……」
やる気が出ずただだらりと座る俺を、千夏が微笑んで見つめた。
「……じゃあ、書き換えちゃえばいいじゃないっすか!」
元気なその言葉に、俺は目を瞬かせる。皆もきょとんと彼女を見つめた。
「センパイはもっと楽していいと思うっす。あたしたちもいるんだし!」
岩センが俺の背を叩いた。力加減が悪くて痛い。
「ま、焦るこたあない。人生そういう時もあるさ。
しんどい間は何かに寄りかかってりゃいいんだよ。今度一押しの本を貸してやる。読め」
部長がパソコンを叩きながら口を開く。
「不幸を言い訳にする人間は三流だ。まあ、凡人がよく陥る穴といったところだな」
スイがこちらをちらりと横目に見る。ふわふわの金髪がわずかに揺れた。
「……やりたいこと全部やっちゃえばいいんじゃない」
皆の励ましに俺は面食らい、何も言えなくなってしまった。千夏がぐっと拳を握って続ける。
「そうそう! あたしでよければ話とか聞くし……あの、そのハンカチ返すついでに、一緒にサイゼとか……!」
「ああ、いいな。皆で行こうぜ」
「あ、あぅ……そうっ、すね」
千夏は何故かしょぼんと俯いてしまった。部長が大きくため息をつき、岩センが俺の肩を強めに小突く。その様子をスイは静かに眺めていた。少し微笑み、首から下げたカメラのシャッターを切る。パシャリ、とシャッター音が響いた。
「それで、来月の文化祭だが――」
部長が教壇に立ち、皆を見回して眼鏡をあげる。そして虚空に指をさし、キザなポーズを決めて言った。
「オリジナルの脚本で、演劇をやるぞ!」
その言葉に、俺は首をひねった。
「え……演劇?文芸部が?」
部長は大真面目な顔で頷いた。
「ああ、演劇だ。」
さらりとした少し長い髪が揺れる。スイが小首を傾げて問う。
「……なにゆえ?」
部長は得意げに答えた。
「ふん、お前にしてはいい問いだ久遠。ここには僕の深遠なる計画があるのだよ!そもそも文芸とは――」
「長くなりそうなんで一言でまとめてもらっていいっすか?」
千夏が呆れてツッコミを入れた。俺もうんうんと頷く。
「……要するに、だ。普段本を読まない愚か者どもに、演劇で文芸の魅力を叩き込んでやろうというわけだよ!」
部長は再びビシッと虚空を指差し、眼鏡をあげて言った。
岩センが目を細め、足を組み直す。
「なるほどな?面白えじゃねえか。俺ぁ賛成だぜ。誰が脚本を書くんだ?」
部長が岩センに向き直って返事をする。
「はい、先生。僕がやります。文芸部で殺人事件が起こるミステリーの劇にしようと思って。探偵役は他に譲りますがね」
その時、岩センの手元からひらりと写真が落ちた。
「あ、岩セン。大事な写真落ちたよ……これ、一昨年の入学式? 今と制服が違う」
「おお、あんがとな。お前はよく気づくなあ」
岩センはにかっと俺に笑いかけた。
部長がこちらを見て、わずかに目を細める。
「……よく分かったな、吹雪」
その言葉に俺は頷いた。
「はい。あと、この年の桜は遅咲きだったはずだから」
スイは演劇の話に興味を惹かれたようで、少し目が輝いている。
「……私、演出とか……やってみたいかも。」
「ふん、お前に出来るのか?せいぜいお遊戯会程度のクオリティを期待しておくか」
部長は相変わらず冷たい。しかし、スイに向けるその顔はどことなく普段と違った。
千夏も元気に賛成した。
「じゃああたしはセットとか作りますよ! 機械いじり得意なんで任せてくださいっす。それに、お芝居も楽しそうじゃないっすか?」
俺はその様子を、手を頭の後ろで組んで眺めていた。演劇なんて、俺みたいな不運体質が関わったら碌なことにならないだろう。
彼らに迷惑をかけないためにも、俺はバイトに専念して――
「おい、何を他人事のような顔をしている?」
「へ?」
部長に突然、鋭く声をかけられる。
「演劇には人数が必要だ。お前にも手伝ってもらうぞ。……自覚していないだろうが、お前は無駄に観察力があるからな」
「……いやいや!俺の不運のこと忘れたんすか?」
俺は慌てて言い返した。自分のせいで楽しい文化祭が台無しになったら目も当てられない。
「俺なんか、そんな頼りにされても困るって言うか……」
焦る俺に、岩センが椅子から立ち上がって笑いかける。
「まあまあ、落ち着けや。まずは真田の話を聞こうぜ。断るのはそれからだって遅くねえだろ?」
「で、でも……。」
部長は冷静に俺を見ている。その切れ長の目元はいつものように鋭かった。そして、彼は口を開く。
「吹雪。お前には――主役の探偵役を演じてもらうぞ。」
時が止まった。
「…………はあああああ!?」
俺の口から、人生でいちばんの絶叫が出た。