―――視界が、角張っている。
目蓋を持ち上げた瞬間、脳に滑り込んできた光景を、衛宮士郎の、いや―――英霊エミヤの魔術回路は即座に理解することを拒絶した。
見上げる空は、完璧な正方形のパッチワーク。棚引く雲は、定規で断裁されたかのような純白の直方体。風にそよぐはずの木々の葉は、一枚の例外もなく、一メートル四方のボクセルとなって虚空に積み上がっていた。
極限まで解像度を削ぎ落とされた、剥き出しの三次元。あらゆる有機的な曲線が圧殺され、直線と直角のグリッドだけで規定された、狂気的なまでに無機質でローポリゴンな世界。
「……ここは、どこだ」
身体を起こそうとして、再び違和感に眉をひそめる。自らの腕を見下ろせば、見慣れた赤原礼装の袖までもが、蛇腹のようなボクセルの集合体に置換されていた。五感はある。しかし、世界のすべてが「記号」として簡略化されている。
ざぁ、と風が吹いた。草木が揺れる音ではない。それはデジタルノイズに近い、カサカサとした乾いたブロックの摩擦音。同時に、どこからともなく、美しくも、狂おしいほどに物悲しいピアノの旋律が世界に流れ始める。
哀愁を帯びた静謐なBGM。
それは誰の魔術でも、サーヴァントのスキルでもない。ただ、この世界の「背景」として最初から埋め込まれている音の巡り。
「気配がない。生物の―――いや、『人類』の呼吸が、皆無だ」
世界の外側、『英霊の座』から抑止力の掃除屋として現世にダウンロードされる度、エミヤが真っ先に感じるのは、人類の集合無意識、即ちアラヤが放つ、澱んだ生存への執着だった。
他者を排してでも生き延びようとする、無数の人間の熱気。だが、この四角い荒野には、それが一滴も存在しない。
広大な世界に、人間は自分一人。
歩を進めると、不自然に地面が陥没した大穴―――地下深くへと続く暗黒の縦穴が口を開けていた。
その奥底から、突然、地鳴りのような、あるいは旧時代の列車が鉄軌道を爆走するような、重苦しい『洞窟の環境音』が鼓膜を震わせる。
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走る。誰もいないのに、地下には誰かが掘り進めて打ち捨てたような「廃鉱」の木枠が見える。誰もいないのに、苔むした「遺跡」の石レンガが静かに時を刻んでいる。
かつてここには、高度な文明を持った『何か』が存在し―――そして、何らかの災厄によって、跡形もなく滅び去ったのだ。圧倒的な孤独感。
エミヤがその場に立ち尽くし、自身の変質した魔術回路で世界の走査を試みようとした、その時だった。
「―――おいおい。次のリスポーン先で最初に出くわすのがお前とはな。因果の糸ってのは、四角くなっても絡み合うもんだ」
カサリ、と四角い草ブロックを踏みしめる音がした。振り返れば、そこには二匹の、青白い眼光を宿したカクカクの「狼」を従えた男が立っていた。
青いタイツのような防具ではない。その身に纏うのは、どこか土着的な、アイルランドの森の匂いを残した緑のフードローブ。手には、無骨ながらも凄まじい魔力を秘めた一本の木の杖。見謬うはずのない、鋭い眼光。
幾度となく刃を交え、あるいはカルデアという特異点で背中を預け合った、誇り高き光の御子。
エミヤは、この絶望的な静寂の中で、かつての知己の姿を見出したことに、微かな安堵を覚え、声をかける。
「ん?ランサー、貴様も来ていたのか。他のはぐれサーヴァントはいないようだ」
だが、返ってきたのは、かつての戦友の気安さではなかった。
男はニカッと、八重歯を覗かせて不敵に笑う。その瞳の奥には、エミヤの知るケルトの英雄の枠には決して収まらない、底知れない、神話の最高神としての昏い知性が宿っていた。
「ああ、俺はお前の知ってるクー・フーリンじゃなくてね。―――初めましてだが、よろしくな、アーチャー」
「初めまして、だと―――?」
エミヤの眉が、不自然な直線を描いて深く寄せられる。
目の前に立つ男の霊基、そして魂の根底にある神性。それは間違いなく、アイルランドの光の御子のものだ。だが、その口調、その佇まいに宿る「重み」が違っていた。
「サーヴァントとしての記憶が混濁している訳ではなさそうだな、ランサー。……いや、その杖を見るに、今はキャスターか」
キャスターは、手にした木の杖でトントンと、カクカクの土ブロックを叩いた。
「お前たちの言う型月世界は、とっくに通り過ぎた。驚くことはねえさ、アーチャー。ここはいわば世界の残骸―――かつて世界樹ユグドラシルが燃え落ち、あらゆる神話の命が絶滅した、北欧神話のラグナロク...即ち世界滅亡の跡地だ」
「ラグナロクの、跡地……」
「そうだ。世界の終末の熱線によって、万物の表層は焼き尽くされ、剥ぎ取られた。後に残ったのは、世界を構成していた骨組みだけだ。極限までデータが間引かれ、解像度を削ぎ落とされた結果が、この四角いローポリゴンって訳さ」
男は、自らのカクカクとした四角い腕を掲げ、どこか楽しげにそれを眺めている。
「納得がいかないな。すべてが滅び去り、直線の檻に囚われたような世界だ。なぜ君は、そこまで泰然としていられる」
「ハッ、そいつはケルトの戦士を舐めすぎだぜ」
クー・フーリンはガハハと豪快に笑い飛ばし、胸を張った。
「俺たちの宗教観に比べりゃ、大した違いじゃねえ。魂は滅びず、死ねばまた別の肉体、別の世界で生まれ変わる。戦って死んで、目が覚めたら体がカクカクになってた。それだけのことさ。俺を縛るゲッシュと、この魂さえ残ってりゃあ、腕の形が四角かろうが丸かろうが何の問題もねえ」
「アラヤの奴隷という名の死」に縛られ、義務として人間を間引き続けて擦り切れているエミヤに対し、世界の異常な仕様すら楽しんでいるクー・フーリン。その精神性の強烈なコントラストが、二人の間に散る。
「……で、北欧の主神、オーディンともあろうお方が、わざわざアイルランドの英雄を『碇』にしてまで、この滅びの跡地で何をしている」
エミヤの鋭い指摘に、男は片目を細め、底知れない笑みを深めた。やはり、クー・フーリンという英霊の背後には、滅びから生き延びた北欧の最高神の影が張り付いている。
「退屈しのぎ、と言ったら怒るか? すべての因果の鎖が弾け飛び、アラヤの命令も届かない『完全な自由』になったこの空っぽの世界だ。そこに、よりにもよって『贋作』しか作れねえはずのお前がドロップされた。―――神霊の知的好奇心を刺激するには、十分すぎる獲物だろ?」
男はローブの懐にカクカクの手を突っ込むと、一冊の奇妙なオブジェクトを取り出し、エミヤへと放り投げた。それは、一冊の古びた『本と羽ペン』だった。ページを開けば、そこには不気味なほどに真っ白な空白だけが広がっていた。
「アラヤの生存命令も、他人の理想のトレースも、この世界には存在しねえ。お前を縛るものは何もないんだ。だから―――お前自身の内側にあるエゴ、『本当に作りたいもの』を、その白紙のページにクラフトしてみせろ。お前がどんな新しい神話を描くか、特等席で見物させてもらうぜ、アーチャー」
クー・フーリンは杖を肩に担ぎ、二匹の使い魔の狼を従えて歩き出す。残されたエミヤは、恐るおそる、しかし確かに、その真っ白なページを見つめ続けた。
他者の夢の贋作として生きてきた男が、自由という名の広大な荒野で、初めて「自己の不在」という深淵を覗き込む。彼の手は微かに震えていた。