『神になったエミヤ』VS『U-オルガマリー』〜君になれないことが俺にとっての永遠なのかもしれない〜 作:みそそ
人理修復の終着駅、時間神殿への最終突入を数時間後に控えたカルデアは、およそ平穏とは程遠い喧騒に包まれていた。
タクティカル・モニターには無数の魔術数式と魔力グラフが明滅し、廊下を行き交う職員たちの足音はどれも硬く、焦りを含んでいる。
だが、その熱気から完全に弾き出されたかのような、奇妙な『冷気』が、ある待機房の片隅にだけ漂っていた。
「……ちっ」
クー・フーリンは、自分の手の平を見つめたまま、低く短い毒を吐いた。
冷や汗がこめかみを伝って顎のラインへと流れ落ちる。
指先が、ガタガタと情けなく震えていた。爪を肉に食い込ませて拳を握りしめても、その微細な戦慄は止まらない。
生前、どれほど悲惨な破滅であっても、彼はそれを「己の運命」として笑って受け入れてきた。ゲッシュに縛られ、最愛の友をこの手で刺し、己の腸を石柱に巻き付けて立ち往生を遂げたその瞬間でさえ、胸を張り、不敵に笑ってみせたのが、クー・フーリンという男だ。
死や絶望など、英霊クー・フーリンにとっては、戦場に転がる石ころ程度に馴染み深いものだったはずだった。
だが、今この胸を支配しているものは何だ。
運命への諦観でも、戦士としての高揚でもない。もっと泥臭く、もっと生々しい――ただの、明日死ぬかもしれないという生物としての『本能的な恐怖』。
どうにも、いつものように「なるようになるさ」と笑い飛ばせる気分になれなかった。英霊としての誇りが、己の内側から恐ろしい速度で瓦解していくのが分かった。
ふと、壁に掛けられた姿見の鏡に視線をやった瞬間、彼の息が止まった。
「……神話の神様方が、まとめて夜逃げでもしやがったか」
鏡の中に映る自分は、明らかに歪んでいた。
彼の代名詞である、あの戦場に鮮烈に映える青い髪。端正な顔立ちに野性を宿らせる、猛獣のような赤い瞳。
その誇り高き『色彩』が、まるで古い写真がセピア色に褪せるように、根元から急速に、どす黒い漆黒へと染まり始めていた。
魔力の残量が低下したことによる退行ではない。
彼をケルトの英雄たらしめていた神の血――太陽神ルーの「神性」という概念そのものが、強制的に削ぎ落とされ、消えかけているのだ。
確かめるように、震える指先を虚空へひねる。
だが、脳裏に刻み込まれているはずのルーンの刻印は起動を拒み、微かな火花すら散らすことなく、ただの薄汚れた煤となって虚空に消えた。呪呪たるケルトの神秘が、彼の手の平から砂のように滑り落ちていく。
肉体が軽くなるどころか、酷く重く、血の巡るだけの「ただの肉の塊」になっていく感覚。神秘を失い、世界の理から見放されていくその底無しの恐怖に、彼は息を詰め、ただじっと耐えるしかなかった。
これ以上、鏡の中にいる「ただの人間」を見つめているわけにはいかなかった。クー・フーリンは深く乱れた呼吸を無理やり肺の奥へと押し込み、重い足取りで待機房の重厚な扉を押し開けた。
一歩外へ出れば、そこは最終決戦への熱気に浮かぶカルデアの基幹通路だ。せわしなく行き交う職員たちの影と、スピーカーから流れる無機質なアナウンス。その濁流のような喧騒を、彼は壁に肩をこする様にして、避けるように歩みを進める。
だが、彼が内に抱え込んだ異変は、カルデアの仲間たちに対して奇妙な、しかし決定的な違和感としてすぐに伝播していった。
「あ、ランサー!……って、えっ?」
前方から足早に歩いてきたマスター――藤丸立香が、クー・フーリンの姿を捉えた瞬間に弾かれたように足を止めた。少年の瞳が、ケルトの英雄にあるまじき黒く染まった頭髪と、生気の抜けた暗い眼窩を射抜き、瞬時に強い不安へと揺れる。
「髪の色、どうしたの……? 霊基の調子が悪いなら、すぐに作戦の登録を外れてダ・ヴィンチちゃんに見てもらおう。お願いだから無理はしないで」
本気で心配そうに顔を覗き込んでくる、まだあどけなさの残るマスター。その純粋な気遣いが、今のクー・フーリンには酷く痛かった。
いつもの彼なら「心配すんな。」と不敵に笑い飛ばせたはずだった。だが、今の彼にはそれができない。どれほど顔を作ろうとしても、頬の筋肉が凍りついたように強張り、引きつった歪な笑みしか浮かべられなかった。言葉が喉の奥で硬く凝固し、何一つ言い訳が出てこない。
「おいおい、なんだよその黒髪。時間神殿突入前のゲン担ぎか?」
そこへ、背後から小気味よい、快活な足音が響いた。同じく「神性」の加護を持つ快速の英雄、アキレウスだった。彼はクー・フーリンの肩を親しげに、しかし今の彼の肉体には酷く重く響く強さで叩きながら、無邪気な笑みを浮かべる。
「新しい霊衣にしちゃ、ちと地味じゃねえか、光の御子サマ。」
アキレウスにはまだ、何も見えていないのだ。
クー・フーリンの肉体の内側で、神秘の基盤がどれほど凄惨に崩壊しているか。これが自分たち神話の英雄すべてをいずれ襲う、世界の危機の前兆だとは、微塵も気づいていない。
アキレウスの纏う、一点の曇りもない瑞々しい快活さが、今のクー・フーリンが抱える果てしない孤独と恐怖を、かえって残酷なほどに色濃く浮き彫りにしていた。
「……何でもねえよ。ちょっと、魔力の巡りが悪りぃだけだ」
クー・フーリンはそれだけをかろうじて絞り出すと、二人の視線から逃げるように顔を伏せ、暗い通路の奥へと逃げるように歩みを進めた。背後からマスターの心配そうな視線が突き刺さるのを感じながらも、彼は振り返ることすらできなかった。
人の気配が途絶えた、冷え切ったカルデアの備蓄通路。
赤い外套の裾をわずかに揺らし、コンクリートの壁に背を預けて佇んでいた弓兵――エミヤは、暗闇から近づいてくる奇妙に重い足音に気づき、鋭い眉を不審そうにひそめた。
「……随分と、みすぼらしい姿になったな、ランサー。いや、今はその得物すら携えていないようだが」
いつも通り、歓迎の意を微塵も含まない冷淡な声。だが、今のクー・フーリンにとっては、その突き放すような皮肉こそが、逆説的に唯一の救いに思えた。
英雄としての虚飾を必要としない、無銘の底に生きる男の前だからこそ、彼は壁に泥のようにすがりつきながら、掠れた声を絞り出すことができた。
「……なあ、アーチャー。どうにも、不安感が拭えねえんだ」
「何?」
「今までどんな死地でも、死ぬ時は死ぬさと笑えた。だが、今は違う。これから来る戦いが……ただただ恐ろしい。己の存在が、根元から消されるような感覚がしやがるんだ。俺は、どうしちまった……?」
縋るような、そして答えを乞うような、弱々しい眼眸。
だが、エミヤはその視線を真っ向から拒絶するように、いつも通りの硬質な双眸を向けたまま、一言、冷たく突き放した。
「らしくないな。どれほど悲惨な運命だろうと、胸を張ってそれを受け入れるのが、クランの猛犬だろう?」
目の前の黒髪の男は、ただ力なく肩を落とし、弱々しくその言葉に頷いた。
「……そうだよな。お前の言う通りだ。悪かったよ、柄にもねえこと言っちまって」
それ以上何も言わず、クー・フーリンは背を向け、通路の闇へと立ち去っていく。その足取りには、かつて世界を駆けた俊足の面影など微塵もなく、酷く重く、脆かった。
去りゆく黒髪の背中を見つめながら、エミヤの全身を、かつてない強烈な戦慄が駆け抜けた。
(……引き下がった? あのクー・フーリンが、私の嫌味にあっさりと頷いて背を向けただと?)
手元を動かしていたエミヤの指先が、完全に硬直する。
(違う。あれは私の知るサーヴァントではない。挑発も、戦意も、誇りすらも失い、ただ……明日死ぬかもしれないという予測に怯えている)
(あれではまるで、ただの……ただの、ちっぽけな『人間』ではないか)
背筋をベトリと這い上がる冷たい汗。
エミヤの鋭い直感は理解していた。これは彼個人の変質ではない。世界が、「サーヴァントという神秘」を拒絶し、単なる不確かな歪みとして、強引にただの人間へと退行させ、間引き始めようとしているのだ。
英霊たちが誇りを奪われ、ただの怯える人間へと引き摺り下ろされていく、不気味な静けさ。
その異常を孕んだまま、カルデアの残党は、あの魔神王ゲーティアという絶対的な蹂躙の戦場へと足を踏み入れていくことになる――。