『神になったエミヤ』VS『U-オルガマリー』〜君になれないことが俺にとっての永遠なのかもしれない〜 作:みそそ
神殿の空間を埋め尽くしていたのは、あまりにも圧倒的な、三千年の歴史を爆縮させた赤黒い終末の熱量だった。
人理修復の旅の果て、カルデアが総力を挙げて挑んだ魔神王ゲーティアとの決戦は、戦略も、戦術も、人間が積み上げてきたあらゆる『絆』の熱量すらも通用しない、ただの一方的な蹂躙へと変貌していた。
「――無価値な歴史だ。人理の礎に還元されるがいい」
ゲーティアの放つ極大の光帯が、峻烈な咆哮を上げて空間を薙ぐ。
これまで数多の特異点を共に駆け抜け、背中を預け合ってきた誇り高き英霊たちが、その光の奔流に触れた刹那、声を上げる暇すらなく「蒸発」していく。
霊基の破壊という生易しいものではなかった。カルデアの召喚履歴から、彼らの存在そのものが強制消去されていく、乾いた、あまりにも残酷な還元。戦場は、消えゆく燐光すら残さない凄惨な死の灰で満たされていく。
「マシュ――っ!!」
藤丸立香の、喉をかき毟るような悲鳴が時間神殿に響き渡る。
光の檻に呑み込まれ、焼き尽くされ、新たな綺麗な世界を記述するためのデータとして無慈悲に回収されていく彼女の輪郭。
視界が白く弾けた次の瞬間、崩壊する大地に残されていたのは、主を失い、冷たく床に突き刺さった一本の鈍色の盾だけだった。
「ああ、あああ……っ!!」
藤丸はその盾にすがりつき、額を押し当てて慟哭する。守るべきものは消えた。紡いできた未来は潰えた。
その少年の絶望に同期するように、彼の右手に刻まれていた三画の令呪が、急激にその赤き輝きを失っていく。ジ、と電子回路が焼き切れるような嫌な音が響き、令呪の皮膚が剥がれ落ちるように、文字通り煙となって虚空へ「霧散」して消えた。
それは、マスターとサーヴァントを結ぶ因果の、完全な終焉。
英霊たちをこの現世に、この戦場に縛り付けていた人理の軛は、これで綺麗さっぱり消滅したのだ。残されたサーヴァントたちは、もはや世界に登録すらされていない、いつ霧散してもおかしくないただの『幽霊』へと引き摺り下ろされた。
魔神王の冷笑と、少年のむせび泣く声だけが響く戦場。
すべてが破綻し、義務も契約も消え失せた灰の檻に、生死の境界すら曖昧になった絶対の静寂が訪れる――。
全ての契約が切れた静寂の戦場に、途方もない冷気が満ちていく。人理修復の義務も、マスターを護るという契約も、もはやここには存在しない。あるのはただ、瓦解を待つだけの世界の残骸だった。
その灰の檻の奥から、ずるりと足を引きずりながら、エミヤの隣へと歩み寄る影があった。
神性が完全に剥落し、青い色彩を失って黒髪黒目となった、ただの「死にゆく人間」――クー・フーリンだった。魔槍『ゲイ・ボルク』もなく、霊基の崩壊に血を流す彼は、しかし、どこか吹っ切れたような穏やかな笑みを浮かべて壁に背を預けた。
「……なあ、アーチャー。もう誰も見てねえよ。マスターの契約も、守るべき人理ってやつも、もう綺麗さっぱり無くなっちまった」
義務から解放された戦士の、どこか優しげな、けれど痛切な声がエミヤの鼓膜を叩く。
「するべきことも、責任も何もありゃしねえ。……だからさ、最後くらい、お前自身のオリジナル武器ってやつを見せてくれよ。神話の焼き直しじゃねえ、お前だけの本物をさ。……安心しろ、観客は俺だけだ」
その言葉が、エミヤの胸の奥底に澱のように眠っていた「人間・衛宮士郎」の残骸を激しく打ち据えた。
他者の人生をなぞり、他者の理想をコピーして正義の味方を志した生前。死してなお守護者として駆り出され、無数の人間をただ間引き、名前も心も擦り切れていった地獄のループ。
その果てにようやく見つけたカルデアという温かい居場所、マシュの健気な献身、マスターの泥臭い笑顔――。その全てが、今、世界の終わりの光の中に溶けて、手の届かない彼方へと急速に遠ざかっていく。
守るべき全てが消えていく。その圧倒的な喪失感が、彼の胸を急速に支配していく。エミヤは確信めいた、しかし酷く哀しい表情で、かつての暖かかった日常の熱量だけを絞り出すように、ゆっくりと両手をかざした。
脳裏に描いたのは、戦場を制する最強の魔剣ではない。かつて冬木の街の小さな台所で、誰かのために飯を作り、笑い合い、温かい湯気に包まれていた「当たり前の日常」の反転。
眩い魔力の光が収まったエミヤの手の中にあったのは、錆びることのない、しかしどこまでも質朴で使い古された――「一本の調理器具...包丁」だった。
それを握りしめた瞬間、エミヤの瞳から、彼が英霊になってから誰にも、自分自身にさえも見せたことがないほどの激しい涙が溢れ出した。それは世界の終わりを前にした、彼の魂の痛切な叫びだった。
「……ああ、酷いな。情けないな、クー・フーリン。……世界が、人理が、これほど美しく残酷に終わろうという時に……私は、私はまだ、あんなちっぽけな日常を夢見ているのだな」
溢れる涙は、赤い外套を濡らしていく。かつて誰よりも人間に寄り添おうとし、それゆえに人間を諦めた無銘の弓兵は、完全な虚無へと堕ちる直前、一人の男としてその生涯で最も激しい未練の涙を流していた。
血の池と化した神殿のただ中で、エミヤの手の平に載せられた一本の包丁。その異様な光景を見下ろし、ゲーティアの数千の瞳が、侮蔑と哀れみを込めて細められた。
人理焼却の完成を目前にした魔神王にとって、それは窮地に追い込まれた英霊が放つ、正気を失った哀れな錯乱にしか映らなかった。
「――それがお前の終着か、無銘の守護者。戦うための刃すら失い、日常の玩具を拝むか。あまりにも矮小、あまりにも無価値。我が人理式の熱量で、その虚妄ごと灰に還るがいい」
ゲーティアの頭上に浮かぶ光帯が、死の審判を下すように爆発的な熱量を膨らませていく。しかし、神性を完全に剥落させ、純粋な「ただの人間」へと退行した唯一の観測者・クー・フーリンは、その終末の光を背に浴びながら、声を出して笑った。
ケルトの神話という大いなる神秘の枠組みから引き摺り下ろされ、人間の視点に落ちた彼だからこそ、その道具の本質が牙を剥く瞬間を見届けていた。
「――はっ、上等じゃねえか、エミヤ。誰がそいつを『ただの家事道具』だなんて決めた?」
光の中で霊基を崩壊させ、消えゆく彼は、その質朴な鉄の刃を見つめ、優しく、そしてこの上なく不敵に微笑む。その言葉は、凍りついた世界の因果に直接打ち込まれる楔となった。
「命を屠り、命を育み、明日を生きるための戦いを作る。……おい、これ以上ねえほど立派な『闘争の武器』じゃねえか。なあ、エミヤ。」
――瞬間、世界を構築する魔術論理の隙間で、凄まじいエネルギーが爆発した。
神の視点を完全に失った純粋な人間「観測者」が、固有結界を持つ「魔術師」の生み出した日常の象徴を、「闘争の武装」として絶対的に定義した。そして、それを製作者である魔術師が魂の底から認めた。
人理が崩壊し、あらゆる既存の概念が失われた極限の戦場において、【調理器具=生命を守護するための、すべての剣の上位概念】という途方もない屁理屈が成立してしまう。
世界を縛っていた「真作と贋作」「正義と悪」「武器と道具」という、エミヤをこれまで縛り付けていたすべての固定観念、二元論の壁が、跡形もなく吹き飛んでいく。
他人の剣をなぞり、焼き直すことしかできなかった「贋作者」は、ここで完全に死んだ。
エミヤの身体から、彼を戦士たらしめていた「赤」の色彩が急速に抜け落ちていく。代わりに満ちていくのは、すべての色を内包し、同時にすべての色を拒絶する、絶対の「白」と「黒」の調和。
心象風景を満たしていた他人の剣の山は一瞬で塵へと還り、彼自身の魂の炉から、世界で唯一無二の「オリジナル」が新生を始める。それは敵を殺すための道具ではない。世界そのものを食材とし、秩序へと再構成するための、世界記述の権利そのもの。
彼の瞳から、先ほどまで溢れていた激しい人間としての涙が、一瞬で乾き、凍りついていく。愛憎も、絶望も、未練も、すべての感情の揺らぎが削ぎ落とされ、淡々と世界の運行を最適化する――『創造主』としての絶対的な神威が、その霊基を塗り替えていく。
「――そうか。欠けているから、人は泣くのだな」
人間の物差しを完全に失ったエミヤは、もう足元のクー・フーリンの消滅も、目の前のゲーティアの存在すらも、個人の愛憎では見ていない。空間そのものをきしませる無機質な神音が、時間神殿の闇を震わせる。
「ならば、最初から何も失われないように。これ以上の涙を生まぬよう、この世界を『完成』させよう」
創造主へと羽化したエミヤは、人理の檻を透過して、宇宙の深淵へとその冷徹な視線を向けた。