(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
目を開けた瞬間、世界が低く沈んで見えた。
いや、違う。
自分が高みにいるのだ。
黒曜石めいた玉座。
果てしなく高い天蓋。
柱の間を渡る、冷たい闇。
その闇の奥で、幾百、幾千もの気配が息を殺している。
膝をつく者。
額を床にこすりつける者。
恐怖と崇敬を混ぜた眼差しを、こちらへ向ける者。
そのすべてが、自分を見上げていた。
自分の手を見る。
白い。
老いている。
だが、その肌の内側には、ありえない密度の魔力が渦を巻いていた。
指先をわずかに動かしただけで、空間が軋む。
大気が、己の機嫌をうかがっている。
闇が、己の呼吸に合わせて震えている。
この身体は、ただ生きているだけで周囲を支配していた。
喉の奥から、低い声が漏れた。
「……余、か」
その声を聞いた瞬間、玉座の前にひれ伏す魔族たちがさらに深く頭を垂れた。
俺は理解した。
夢ではない。
錯覚でもない。
これは、そういうやつだ。
転生。
しかも、よりによって。
大魔王バーン。
いや、大魔王という言葉すら、この身体には少し軽い。
この世界の魔界において、バーンとは王であり、支配者であり、ほとんど神に等しい存在だった。
魔界の神様に転生。
冗談にしては、あまりにも規模が大きすぎる。
内心では頭を抱えたかった。
だが、この身体はそんな真似を許さない。玉座に腰かけているだけで、背筋は自然と伸び、眼差しは冷たく、呼吸は深く、口元には威厳めいた静けさが宿る。
困ったことに、似合っていた。
「……魔界の現状を示せ」
とっさに口から出た言葉は、妙にそれらしかった。
側近らしき魔族が震えながら進み出る。黒い巻物が広げられ、魔界各地の状況が次々と映し出された。
荒野。
瘴気に焼けた谷。
水のない集落。
光を知らぬ地下都市。
干からびた畑の跡。
岩肌にしがみつくように暮らす魔族の群れ。
弱い魔物が強い魔物に喰われる。
飢えた一族が、別の一族の貯蔵庫を襲う。
子供が、濁った水を奪い合う。
魔界。
それは、俺の知っている物語の中では「地上を脅かす悪の根拠地」だった。
だが、こうして玉座の上から見下ろすと違う。
これは、地獄だ。
太陽がない。
水がない。
土が死んでいる。
だから命が育たない。
命が育たないから、奪うしかない。
強者が弱者を踏むのは、倫理が腐っているからではない。
そうしなければ生き残れないからだ。
その瞬間、俺は理解してしまった。
原作のバーン様が、なぜ地上の太陽を欲したのか。
魔界には、確かに救いが必要だ。
この闇に閉じ込められた世界に、光は必要だ。
ひび割れた大地に、水は必要だ。
奪い合いではない暮らしが必要だ。
ただし。
「……地上を吹き飛ばすのは、やり過ぎだな」
玉座の間が凍りついた。
誰も返事をしない。
当然だ。
大魔王がぽつりと呟いただけで、そこにいる者たちにとっては神託に等しい。
俺は沈黙を保ったまま、内心で考え続けた。
地上を消す。
太陽を奪う。
魔界に光を与える。
発想としてはわかる。
だが結果が雑すぎる。あまりにも力任せすぎる。
地上を滅ぼせば、地上にある水も、森も、農業も、文明も、全部まとめて消える。
魔界は光を得るかもしれないが、世界全体の環境は破綻する。
必要なのは破壊ではない。
計画の修正だ。
「地上の地図を」
命じると、別の巻物が差し出された。
広げられた地図には、大陸、山脈、王国、そして広大な海が描かれていた。
海。
地上の大半を覆う、膨大な水の器。
俺はそれを見つめた。
この海をすべて奪う必要はない。
太陽を地上から剥ぎ取る必要もない。
海底の一部を抜けばいい。
地上の海と魔界をつなぐ巨大な穴。
そこから光を落とす。
海水を制御して流し込む。
落下する水で魔界に大河を作る。
水路を引く。
貯水池を作る。
地下湖を広げる。
光の届く盆地に農地を造成する。
魔界の農業改革。
地上を滅ぼさず、魔界に水と光をもたらす。
完璧ではないか。
問題はひとつ。
海底に穴を開ければ、普通は海水がすべて魔界へ落ちる。
地上の海が底抜けになる。
魔界は大洪水。
地上は干上がる。
そこで結界だ。
バーンの超魔力で、海そのものを支える大結界を張る。
穴は開ける。
だが海は落とさない。
必要な光と、必要な水だけを魔界へ通す。
俺は地図の一点に指を置いた。
「ここだ」
指先から魔力が滲み、地図上の大海に黒い円が刻まれる。
側近たちが息を呑んだ。
「この海域に大結界を張る。海底を抜き、魔界へ通じる穴を開ける。光を落とし、水を導く」
自分の声が、玉座の間に重く響いた。
「魔界に川を作る。湖を作る。畑を作る。飢えを減らす」
魔族たちがざわめいた。
飢えを減らす。
その言葉は、この世界では奇跡に近かったのだろう。
俺はさらに考えた。
大結界の維持には、膨大な魔力が必要になる。
だがこの身体ならできる。
大魔王バーンの魔力なら、地上の海を支えるなど不可能ではない。
そして、もうひとつ。
この結界を、俺の命と直結させる。
バーンが生きている限り、海は支えられる。
バーンが死ねば、結界は消える。
その瞬間、地上の海水はすべてギアガの大穴から魔界へ落下する。
魔界は大洪水で滅びる。
地上は一滴の水もなくなり、乾き死ぬ。
地上も魔界も終わる。
つまり。
誰も俺を滅ぼせない。
勇者も、神も、魔族の反逆者も、地上の王も。
俺を殺すということは、世界そのものを殺すということになる。
あれ?
これ、かなり良いのでは?
魔界を救える。
地上を滅ぼさない。
ついでに自分の安全保障も完璧になる。
我ながら天才ではないか。
玉座の上で、俺はゆっくりと笑った。
その笑みを見た魔族たちは、一斉に震え上がった。
きっと彼らには、大魔王が世界を手中に収める恐るべき策を思いついたように見えたのだろう。
まあ、間違ってはいない。
「名をつけよう」
俺は地図に刻まれた黒い円を見下ろした。
「地上と魔界をつなぐ大穴。光と水を落とす神の孔。魔界に新たな時代を開く傷口」
しばし考え、告げた。
「ギアガの大穴」
玉座の間に、その名が落ちた。
誰もが息を止めた。
俺は立ち上がる。
たったそれだけで、空間が震えた。
柱に走る影が深くなり、玉座の間の闇が膝をつくように沈む。
俺は両腕を広げた。
「聞け、魔界の者ども」
声が、広間を越え、城を越え、闇の大地へ広がっていく。
「余は地上を滅ぼさぬ」
ざわめきが走る。
「だが、魔界をこのままにもせぬ」
魔力が膨れ上がる。
地図の上に、海が浮かび上がった。
海底が割れ、光が落ち、魔界の暗黒に白い筋が差し込む幻が広がる。
「余は海を支える。余は光を導く。余は水を落とす」
その光景に、魔族たちは言葉を失っていた。
「魔界に川を。魔界に湖を。魔界に畑を。魔界に朝を」
朝。
この世界で、その言葉を聞いた者がどれほどいたのか。
膝をついていた魔族の一人が、震えながら顔を上げた。
恐怖ではない。
期待だ。
その目を見た瞬間、俺の中で何かが決まった。
これはただの保身ではない。
いや、保身もかなりある。
ものすごくある。
だが、それだけではない。
この魔界には、本当に救いが必要だ。
ならばやってやる。
大魔王の力で。
転生者の知識で。
神のような魔力で。
土木と農業と結界術を総動員して。
地上を滅ぼすのではなく、世界の構造を変えてやる。
「余が生きる限り、海は落ちぬ」
俺は静かに言った。
「余が生きる限り、魔界は渇かぬ」
そして心の中で、こっそり付け加えた。
余が死んだら全部終わるので、誰も余を殺せない。
よし。
完璧だ。
玉座の前で、魔族たちが平伏する。
その日、魔界の歴史は変わった。
後の世にいう、ギアガの大穴計画。
魔界に光と水をもたらし、地上と魔界の運命をひとつに縛りつけた、大魔王バーン最初の神業である。