(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
ロモス王国は、一夜で落ちた。
ラインリバー大陸唯一の国家。
深い山と森に囲まれ、雄大な自然に恵まれた王国。
国民の団結は固く、王は民に慕われ、港町ソフィアには旅人と商人が行き交い、魔の森の東には小さなネイル村があった。
だが、ロモスには決定的に足りないものがあった。
戦力である。
カール王国やパプニカ王国、ベンガーナ王国のように、外敵と渡り合うための強大な軍備はない。
王国の兵は忠実で勇敢だったが、魔王ハドラーの軍勢を止めるにはあまりに足りなかった。
国境では、すでに混乱が起きていた。
周辺諸国の境では、正体不明の遊撃隊が砦を焼き、隣国の旗を残し、互いに国境侵犯を疑わせる工作を行っている。
どの国もロモス救援どころではなかった。
そして、その間にハドラーは動いた。
魔の森の奥からキギロの配下が道を塞ぎ、ガンガディアが兵站路を読み切り、クロコダインが正面の守りを打ち砕き、バルトスが城門前に立った。
地獄の騎士バルトス。
古戦場の武の記憶と、ハドラー自身の武人としての魂から生み出された高潔な騎士。
彼は民家に火を放たず、逃げる兵を無用に追わず、城へ向かう道だけを開いた。
夜明け前、ロモス城は包囲された。
ロモス王シナナは、王座の間に残っていた。
家臣たちは逃亡を勧めた。
だが王は首を横に振った。
「城の者たちを見捨てて逃げるわけにはいかん。王の逃亡は敗北と同じじゃ」
その言葉は勇ましかった。
だが、王自身も己の無力はよく知っていた。
ロモス王は名君である。
民に慕われ、気さくで、温厚で、お人好しですらある。
だが、戦上手ではない。
軍事大国の王でもない。
それでも王は玉座に座った。
逃げずに、待った。
やがて、王座の間の扉が開く。
入ってきたのは、魔王ハドラー。
その後ろにはガンガディア、バルトス、そして獣王クロコダインが控えていた。
ロモス王は息を呑んだ。
圧倒的な威圧だった。
ハドラーはただ立っているだけで、王座の間の空気を変える。
燃えるような闘気。
魔王に相応しい覇気。
だが、その目にあったのは狂気ではない。
ロモス王は、それに気づいた。
この男は、ただ殺しに来た者の目をしていない。
「ロモス王シナナ」
ハドラーが言った。
「おぬしが、この国の王か」
「いかにも」
王は震える足を叱りつけながら答えた。
「わしがロモスの王じゃ。魔王ハドラーよ。わしの命で済むならば、民には手を出さぬでくれ」
ガンガディアがわずかに目を細めた。
ハドラーはしばらく王を見ていた。
そして、意外な言葉を発した。
「お前は殺さん」
王座の間が静まり返った。
ロモス王も、家臣たちも、思わず言葉を失う。
「……わしを、殺さぬと?」
「そうだ」
「では、牢へ入れるのか」
「それもせん」
「ならば、どうするつもりじゃ」
ハドラーは王座の前まで進み出た。
「お前には、これまで通りロモスを統治してもらう」
家臣たちがざわめいた。
王も目を見開く。
「わしに……?」
「この国の民はお前を慕っている。官吏もお前の名なら動く。ならば王を殺す理由はない」
ハドラーは静かに言った。
「ただし、これよりロモスは魔王軍の保護下に入る。軍事権と外交権は俺が握る。税と兵糧の一部も差し出してもらう」
ロモス王は唇を引き結んだ。
それは降伏である。
国が魔王軍の支配下に入るということだ。
だが、同時に、民は殺されない。
城も焼かれない。
田畑も奪い尽くされない。
王国の形は残される。
「なぜじゃ」
王は問うた。
「魔王ならば、わしの首を刎ね、城を焼き、恐怖で国を従えるものではないのか」
「昔の俺なら、そうしたかもしれん」
ハドラーは否定しなかった。
「だが、焼いた国からは何も生まれん。死んだ民は畑を耕さぬ。潰した港は船を迎えぬ。斬った王は布告を出せぬ」
王は黙った。
「俺が欲しいのは廃墟ではない」
ハドラーの声が低くなる。
「国だ」
「国……」
「ロモスはラインリバー大陸唯一の国家だ。森があり、山があり、港がある。民の団結も固く、王の人望もある。ここは地上における橋頭堡にふさわしい」
ロモス王はその言葉を聞き逃さなかった。
「橋頭堡とは、何のための」
「魔のものが光の元で生きるための国を作る」
ハドラーは答えた。
王座の間の空気が変わった。
人間たちは困惑し、魔物たちは静かに聞いている。
「魔のものが……光の元で」
「そうだ」
ハドラーはロモス王を見据えた。
「魔界には光がない。水も乏しい。弱き魔物は奪われ、強き魔族も飢えに苦しむ。神々が見捨てた腐った世界だと、かつての俺は思っていた」
その声には、遠い過去を見つめる響きがあった。
「だが、バーン様は違った。神々が見捨てようとも、余はこの世界を見捨てぬと仰せられた。魔界を再生する。魔のものにも、光の下で生きる道を与える。そのために地上に楔がいる」
「それが、ロモスか」
「そうだ」
ハドラーは頷いた。
「ロモスを滅ぼすために来たのではない。ロモスを作り替えるために来た。人間を不必要に害するつもりはない。従う者は生かす。働く者は守る。税は取る。法も変える。だが、民を無意味に殺すことは禁じる」
王は深く息を吸った。
目の前の魔王の言葉は、都合がよすぎるとも思えた。
魔王軍を信じるなど愚かだ。
そう言う者もいるだろう。
だが、すでにロモスは敗れている。
王が意地を張れば、民が死ぬ。
城が焼ける。
港町ソフィアが踏みにじられ、ネイル村も魔の森も戦火に巻き込まれる。
ならば、王が選ぶべき道は一つだった。
民を守る道。
「条件がある」
ロモス王は言った。
家臣たちが驚いて王を見た。
魔王ハドラーを前に、条件を出すというのか。
だが、ハドラーは怒らなかった。
「言え」
「人間を不必要に害さぬこと。民の命と暮らしを守ること。兵に略奪をさせぬこと。王国の法を一夜で壊さぬこと」
ハドラーは聞いていた。
「それと」
王は一瞬ためらい、それから言った。
「覇者の冠と覇者の剣には手を出さぬこと」
その言葉に、ガンガディアの目がわずかに鋭くなった。
ロモス王国には、覇者の冠と覇者の剣がある。
神々が人間にわずかに与えたという、最高硬度の超金属オリハルコンで作られた品。
どのような経緯でロモス王国にあるのかは、王自身にも定かではない。
だがロモス王は、それを自分の宝とは思っていなかった。
相応しい者に譲るまで、少し預かっているだけ。
それが彼の認識だった。
「なぜだ」
ハドラーが問う。
「お前の所有物ではないのか」
「わしのものではない」
王は即座に答えた。
「あれは、相応しい者が持つべきものじゃ。わしはただ、それが現れるまで預かっているにすぎん」
ハドラーはしばし沈黙した。
やがて、低く笑った。
「なるほど」
ロモス王は身構えた。
「欲しければ奪うがよい。だが、わしは認めぬ」
「奪わん」
ハドラーは言った。
「お前が預かるというなら、預かっておけ。俺がそれを必要とする時が来れば、正面から求める」
王は目を見開いた。
「よいのか」
「オリハルコンの武具は貴重だ。だが、国を治める信義はもっと貴重だ」
ハドラーは言った。
「最初の約定を破れば、ロモスは従わん。従わぬ国は橋頭堡にならん」
ガンガディアが小さく頷く。
ロモス王は、長い沈黙の後、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
そして、ハドラーの前に歩み出る。
家臣たちが止めようとしたが、王は手で制した。
「魔王ハドラー」
「何だ」
「わしは、おぬしを信じると言い切るほど愚かではない」
「当然だ」
「だが、民を守るためならば、わしはおぬしの下で王を続けよう」
ロモス王は膝をつかなかった。
王として、立ったまま告げた。
「人間を不必要に害しない。その約束を守る限り、ロモス王シナナは魔王ハドラーの統治に協力する」
ハドラーはその姿を見た。
弱い王だ。
武力はない。
戦略も拙い。
疑うことを知らぬお人好しでもある。
だが、逃げなかった。
民のために敗北を受け入れた。
その一点において、彼は確かに王だった。
「よかろう」
ハドラーは言った。
「ロモス王シナナ。お前には、引き続きロモスを治めてもらう」
王座の間に、奇妙な静けさが満ちる。
征服者と敗者。
魔王と人間の王。
だが、その場で結ばれたものは、単なる降伏ではなかった。
ロモスは滅びなかった。
王は生かされ、国は残り、民は翌朝も畑へ向かうことを許された。
ただし、その国はもう以前のロモスではない。
魔王ハドラーの橋頭堡。
魔のものが光の元で生きる国への第一歩。
その始まりであった。
後にロモスの民は、この夜を恐怖と共に語る。
一夜で国が落ちた夜。
魔王が王座の間に現れた夜。
そして、王が民を守るために敗北を選んだ夜。
その選択が正しかったのかどうかは、まだ誰にもわからない。
だが少なくとも、その夜、ロモスの首都に無差別の炎は上がらなかった。
港町ソフィアは焼かれず、ネイル村も襲われず、王の首も落ちなかった。
魔王ハドラーは、約束を守った。
その事実だけが、ロモスに新しい朝をもたらした。