(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
ギアガの大穴予定地。
地上の大海の中央にあるその海域は、表向きにはただの深海であった。
人間の船が近づくことはほとんどない。
海図にも、特別な名は記されていない。
ただ深く、暗く、古い海流が幾重にも絡む場所。
だが、その海底ではすでに、世界を変えるための準備が進められていた。
オトギリ姫の指揮により、周辺の海底集落は移住を始めている。
マーマン族の古い貝殻都市、深海洞窟に住む魔物の群れ、海底に根を張る魔性植物、巨大海獣の産卵場。
それらは一つずつ調べられ、説得され、時には力で従えられ、ギアガ予定地の外へと移されていた。
移住が終わるまで、大穴は開けない。
それがバーンの命であった。
だが、移住が終わった後、どうやって地上の海底を抜くのか。
その答えは、海底の最深部に秘匿されていた。
黒の核晶。
魔界の奥地に眠る黒魔晶――魔力を無尽蔵に吸収する石を原材料とし、さらに呪術で加工した超破壊兵器である。
黒の核晶は、ただの爆弾ではない。
爆弾と呼ぶことすら生ぬるい。
魔力を蓄え、蓄えた魔力を破壊へ変える、地獄の火種。
サイズの分だけ魔力を込められる。
込められた魔力の分だけ、威力は跳ね上がる。
掌に収まる程度のものですら、竜闘気で威力を半減されてなお、島一つを跡形もなく消し飛ばす。
それほどの代物である。
魔界では、黒の核晶は悪名高き伝説の兵器として知られていた。
禁呪法を平然と使う悪人ですら、これには手を出さない。
邪悪な魔物でさえ恐れる。
使えば勝つかもしれない。
だが、勝った後に残るものがない。
バランはかつて、こう評したという。
爆弾と呼ぶのすら生ぬるい悪夢の兵器。
ハドラーは吐き捨てるように呼んだ。
忌まわしい伝説の超爆弾。
ヒュンケルならば、悪名に高い超破壊爆弾と呼ぶだろう。
それが今、ギアガ予定地の海底中央へ秘密裏に運び込まれていた。
オトギリ姫は、深海の闇の中でそれを見つめていた。
黒い結晶。
岩とも金属ともつかぬ、不吉な塊。
近づくだけで、周囲の魔力が静かに吸われていく。
生き物ではない。
だが、そこには生き物よりも邪悪な気配があった。
「……これで、海底を抜くのですね」
オトギリ姫の声は、深海の水圧に押し潰されるように低かった。
隣に立つジオウ衆のジョウが、珍しく軽口を叩かなかった。
「せや。普通に穴を掘るには深すぎる。地上の海底と魔界の境目をまとめてぶち抜くには、これくらい要る」
「これくらい、ですか」
「本音を言えば、使いたくはないな」
ジョウは黒の核晶を見つめた。
「土木屋としては、爆破は最後の手段や。しかもこれは、爆破というには荒すぎる」
「では、なぜ」
「バーン様が、結界の中で使うからや」
ジョウは海底に刻まれた巨大な術式を示した。
そこには、幾重にも結界陣が組まれている。
黒の核晶の破壊力を外へ逃がさず、下方向へ集中させるための封じ込め。
海水を一気に巻き込ませないための制御。
爆心周辺に残る呪力を処理するための浄化構造。
爆弾を使うというより、世界そのものへ巨大な楔を打ち込む準備だった。
「これをそのまま爆ぜさせたら、海も周辺の島も終わる。けど、結界で縛り、方向を決め、逃がす道を一つに絞れば、海底を抜く槌になる」
「……地獄の火種を、土木の槌にする」
「そういうことや」
ジョウは苦々しく笑った。
「普通の王なら思いついてもやらん。普通の魔王なら考えなしに爆ぜさせる。バーン様は、使う前に数百年かけて受け皿を作っとる」
オトギリ姫は黙った。
ギアガの大穴を開く。
それは神業であり、同時に禁忌の作業でもある。
黒の核晶ほどの悪夢を使わねば、地上の海底と魔界の境界は抜けない。
だが、それを制御できなければ、海も魔界も破滅する。
「起爆はいつに?」
オトギリ姫が問う。
ジョウは答えなかった。
代わりに、後ろから別の声がした。
「ヴェルザーが黒の核晶を使う時だ」
ハドラーである。
海底であっても、その闘気は揺るがない。
彼は黒の核晶を見つめ、忌々しげに眉をひそめた。
「冥竜王ヴェルザーは、いずれ竜の騎士バランを討つために黒の核晶を使う」
オトギリ姫は顔を向けた。
「ヴェルザーが……」
「奴は竜の騎士を恐れている。正面から勝てぬと見れば、必ず地獄の火種に手を出す」
ハドラーの声には嫌悪があった。
黒の核晶は、魔界の悪人ですら恐れる兵器だ。
それを領土で使うというのは、勝利よりも破滅に近い。
だが、ヴェルザーならばやる。
そして実際に、かつての歴史ではやった。
バランを抹殺するため、魔界の大陸で黒の核晶を用い、大陸そのものを消し飛ばした。
しかし肝心のバランは、竜闘気で威力を抑え、かろうじて生き延びる。
結果として、ヴェルザーは自らの支配域を失っただけだった。
領土拡大を望む者が、自分の領土を消し飛ばす。
それは本末転倒の極みである。
ヴェルザー自身も、その愚かさを思い知ったのだろう。
再戦でバランに倒される時でさえ、二度と黒の核晶を使おうとはしなかった。
「その時に合わせるのですね」
オトギリ姫が言った。
「そうだ」
ハドラーは頷いた。
「ヴェルザーの黒の核晶が魔界で炸裂する。その瞬間、こちらもギアガ予定地の核晶を起爆する」
ジョウが低く続ける。
「天界の目は、まずヴェルザーの方へ向く。黒の核晶の魔力反応、破壊の波、魔界の震動。そこに合わせて、こっちは結界内で爆破する」
「こちらの爆破も、ヴェルザーのものに見せかける」
オトギリ姫は理解した。
バーンはただ黒の核晶を使うのではない。
天界の監視を欺く。
ギアガの大穴など、神々から見れば世界構造への干渉そのものだ。
正面からやれば、天界の目は必ず向く。
だが、同じ時にヴェルザーが黒の核晶を使えばどうか。
魔界で悪名高い冥竜王。
実際に黒の核晶を使った前科を持つ怪物。
その大爆発に紛れて、海底の異変を重ねる。
天界には、ヴェルザーがまた何かをやったように見える。
「……恐ろしい策です」
オトギリ姫は呟いた。
「世界を変える爆破を、他者の愚行に紛れ込ませるなど」
「バーン様の策だ」
ハドラーは言った。
その声には、畏怖と誇りがあった。
「神々の目を欺き、ヴェルザーの悪名を利用し、黒の核晶という地獄の火種すら魔界救済の槌に変える」
彼は黒の核晶を見据えた。
「忌まわしい兵器だ。だが、使わねば抜けぬ壁がある」
オトギリ姫は海底の術式を見下ろした。
移住が終わる。
結界が張られる。
黒の核晶が起爆する。
海底が抜ける。
ギアガの大穴が開く。
そして魔界へ、光と水が落ちる。
深海にも、太陽の光が差す。
そのために、この悪夢の兵器を使う。
「ハドラー様」
「何だ」
「ヴェルザーは、自分が濡れ衣を着せられたと気づきますか」
「気づくかもしれん」
「その時は」
ハドラーの口元が獰猛に歪んだ。
「その時は、奴が地獄の火種を使った報いを受けるだけだ」
遠く魔界では、まだヴェルザーが動く時を待っている。
そして地上では、ロモスとの交易が続いていた。
ハドラーの統治下に入ったロモスは、周辺諸国の予想に反して孤立しなかった。
港町ソフィアには船が入り続けている。
海の魔物が護衛につき、風を起こす魔物が帆を押し、悪魔の目玉が嵐と海賊の情報を先に知らせる。
十日かかった航路が六日になった。
護衛費は下がり、積荷の損耗も減った。
ロモス経由の取引は、以前よりも便利になっていた。
商人たちは、恐怖より先に利益を見た。
「魔王軍は怖い。だが、ソフィア航路は儲かる」
「海の魔物に守られる船など気味が悪いが、海賊よりはましだ」
「風を買えるなら、急ぎの荷には使わない手はない」
王たちは困惑した。
魔王軍の支配を認めるわけにはいかない。
だが、ロモスとの交易を断てば、自国の商人が損をする。
隣国がその利益を拾う。
ロモスを救う名目で攻め込めば、逆に交易を乱す敵と見なされかねない。
恐怖と利益。
その二つの間で、地上の王たちは揺れ始めていた。
その様子を、人知れず見ていた者がいる。
竜の騎士バラン。
彼はソフィアの港を遠くから眺めていた。
人間の商人と魔物の水先案内が口論している。
海蛇が船を護衛し、風魔が帆を膨らませ、悪魔の目玉が港の荷捌きを管理している。
異様だ。
だが、無秩序ではない。
虐殺でもない。
人間が奴隷として引きずられているわけでもない。
魔王軍の支配下でありながら、ロモスは動いている。
バランは静かに目を細めた。
「……この程度なら、地上に手を出さなくてもよい」
裁くべきものがあるとすれば、ここではない。
魔界。
冥竜王ヴェルザー。
あの竜こそが、討つべき敵。
バランは背を向けた。
地上の者は知らない。
ロモスの商人も、王たちも、ハドラーでさえまだ知らない。
竜の騎士が、地上への裁きをいったん保留し、魔界へ向かおうとしていることを。
そしてその先で、ヴェルザーが黒の核晶を使う未来が待っていることを。
海底のギアガ予定地では、黒の核晶が沈黙していた。
まだ結界は張られていない。
まだ大穴も開いていない。
だが、その時は近づいている。
冥竜王が悪夢の兵器を使うその瞬間。
天界の目がそちらへ奪われるその瞬間。
大魔王バーンは、地獄の火種を世界再生の槌として振るう。
ヴェルザーが滅ぼしたように見せかけて。
魔界を救うために。