(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
カール王国の朝は、重かった。
城の尖塔には白い旗が揺れ、庭園には露を含んだ花が咲いている。
だが、城内を流れる空気は穏やかではない。
ロモス王国陥落。
その報は、カール王国にも届いていた。
魔王ハドラーがロモスを制圧した。
しかし王都は焼かれていない。
ロモス王シナナは処刑されず、なお王として布告を出している。
村々には悪魔の目玉が配置され、行政と通信を担っている。
交易船は止まらず、むしろ海の魔物に護衛されているという。
それは、あまりにも奇妙な報告だった。
魔王軍が国を落とした。
ならば、そこには炎と悲鳴と死体があるはずだった。
だが届く話は違う。
魔物が港で荷を運んでいる。
悪魔の目玉が役所の連絡を取り次いでいる。
ロモス王が民に抵抗を禁じ、同時に困りごとを王都へ報告せよと告げている。
魔界の開拓番組なるものが流され、ロモスの民がそれを見ている。
混乱は当然だった。
カールの重臣たちは議場で声を荒らげた。
「罠に決まっております!」
「ロモス王は操られているのです!」
「魔王軍に国を任せるなどあり得ぬ!」
「だが、ロモスからの交易は止まっておらぬ。商人どもはむしろ航路が安全になったとまで言っている」
「それも懐柔だ!」
「では、ロモスの民が本当に虐げられている証拠はあるのか?」
答えは出なかった。
攻めるには遠い。
無視するには大きすぎる。
信じるには不気味すぎる。
その混乱の中で、フローラ姫はアバンを呼んだ。
城の奥、庭園に面した小さな書斎。
そこには地図が広げられていた。
カール、ロモス、パプニカ、ベンガーナ、テラン。
そして、海の向こうに浮かぶ死の大地。
アバンは扉の前で一礼した。
「お呼びでしょうか、フローラ姫」
フローラは地図から顔を上げた。
若き姫君の顔には疲れがあった。
しかし、その目は鈍っていない。
「アバン。あなたにロモスへ行ってもらいたいのです」
アバンは一瞬だけ目を細めた。
それから、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「ロモスへ、ですか。なかなか刺激的な旅になりそうですね」
「茶化さないでください」
「すみません。少し怖かったものですから」
フローラは小さく息を吐いた。
アバンの軽口が、本当に軽いだけではないことを彼女は知っている。
彼は恐怖を笑いに変える。
その上で、必要ならば危険な場所へ歩いていく。
「あなたを討伐に向かわせるわけではありません」
「ええ。私一人で魔王討伐など、少々荷が重いですからね」
「アバン」
今度は、フローラの声が少し強くなった。
アバンは笑みを薄める。
「失礼しました」
フローラは地図の上、ロモスの位置へ指を置いた。
「見てきてほしいのです。ロモスで何が起きているのか」
「魔王軍の統治を、ですか」
「はい」
フローラは頷いた。
「ハドラーはロモスを滅ぼしていない。王を殺していない。港も畑も焼いていない。ならば、彼は何をしているのか」
「恐怖支配ではない可能性がある、と?」
「恐怖はあるでしょう」
フローラは即座に言った。
「魔王軍に制圧された国です。民が恐れていないはずはありません。けれど、恐怖だけでは説明できない報告が多すぎます」
アバンは黙って聞いていた。
「魔物が人間と共に働いている。悪魔の目玉が行政に使われている。ロモス王は生きている。交易も続いている。もしそれが全て偽りなら、見破らねばなりません」
「もし偽りでなければ?」
フローラは少しだけ沈黙した。
窓の外では、庭園の花が風に揺れていた。
「その時は、もっと難しいことになります」
彼女は静かに言った。
「魔王軍がただの破壊者であれば、話は簡単です。倒すべき敵として扱えばいい。ですが、彼らが秩序を作り、民を守り、国を運営しているなら……私たちは、それをどう受け止めるべきなのか考えなければなりません」
アバンは少しだけ目を伏せた。
「魔のものが光の下で生きる国」
「その言葉も届いています」
フローラは言った。
「ハドラーはそう語ったそうですね」
「もし本気なら、大変な理想です」
「ええ。危険な理想でもあります」
フローラの声には苦さがあった。
「魔のものが光の下で生きる。それ自体は、否定すべきではないのかもしれません。けれど、それが人間を従わせる形で作られるなら、見過ごすことはできない」
「つまり私は、魔王ハドラーの理想と危険を見てくればいいわけですね」
「あなたなら見られると思っています」
アバンは少し驚いたようにフローラを見た。
「私を随分と買ってくださっていますね」
「剣だけの者なら送れません。魔王を見れば斬ろうとするでしょう。学者だけでも送れません。危険を前に足が止まるかもしれない」
フローラはアバンを見つめた。
「あなたは剣を持っています。知識もあります。そして、相手を一度は理解しようとする」
「それは褒め言葉でしょうか」
「今はそう受け取ってください」
アバンは苦笑した。
「では、私は何を持っていけば?」
「カール王国の使者としての身分。ロモスへの通行許可状。こちらからの正式な質問状。そして」
フローラは机の上に置かれた細い封筒を手に取った。
「これは、あなた個人へのものです」
「私に?」
「ロモスで見たもの、聞いたもの、感じたものを、できるだけ正直に書き留めてください。公式報告ではなく、あなた自身の目で見た記録が欲しいのです」
アバンは封筒を受け取った。
中には白紙の手帳が入っていた。
良質だが、華美ではない。
旅に持っていきやすいよう、丈夫な革で綴じられている。
「これはまた、宿題ですね」
「あなたは宿題から逃げる癖がありますから」
「痛いところを突かれました」
フローラは少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
「アバン」
「はい」
「あなたに、魔王を倒してこいとは言いません」
「ええ」
「ですが、もしロモスで人々が虐げられているなら。もしハドラーが民を盾にしているだけなら。もし魔王軍の統治が、形を変えた暴力でしかないなら」
フローラの目が強くなる。
「その時は、カールは動かなければなりません」
アバンは静かに頷いた。
「わかっています」
「そして逆に」
フローラは言葉を選ぶように続けた。
「もしロモスで、人間と魔物が本当に共に暮らし始めているなら。恐怖だけでなく、生活があり、秩序があり、民が生きているなら」
彼女は小さく息を吸った。
「私たちは、簡単に剣を抜いてはいけない」
アバンはフローラを見た。
姫君の顔は、迷いを隠していなかった。
だからこそ、強い。
最初から答えを決めている者の強さではない。
答えがわからないことを認め、それでも見極めようとする者の強さだった。
「フローラ姫」
「何でしょう」
「私は、剣を抜くべきかどうか見に行けばよいのですね」
「はい」
アバンは手帳を懐に入れた。
「では、そうしましょう」
いつもの軽い調子だった。
だが、その声には芯があった。
「魔王ハドラーが何を作ろうとしているのか。ロモスの民が何を見て、何を恐れ、何に慣れ始めているのか。魔のものが光の下で生きる国というものが、本当にあり得るのか」
アバンは静かに笑った。
「見てきます」
フローラは頷いた。
「気をつけて」
「危なくなったら逃げます」
「あなたは、危ないとわかってから逃げるまでが少し遅い」
「信頼されていますね」
「心配しているのです」
その言葉に、アバンは一瞬だけ黙った。
そして、いつものように頭を下げる。
「必ず戻ります」
フローラは答えなかった。
ただ、机の上の地図へ視線を落とした。
ロモスの位置に置かれた小さな駒。
黒い駒ではない。
赤でも白でもない。
まだ色の定まらない駒だった。
アバンが部屋を出た後、フローラはしばらくその駒を見つめていた。
魔王ハドラー。
ロモス王シナナ。
悪魔の目玉。
魔のものが光の下で生きる国。
それは罠かもしれない。
だが、罠でないなら。
世界は、これまでの善悪だけでは測れない場所へ進み始めているのかもしれない。
翌朝、アバンはカール王国を発った。
使者として。
剣士として。
学者として。
そして、まだ勇者ではない一人の青年として。
彼はロモスへ向かう。
剣を抜くためではない。
剣を抜くべきかどうか、見極めるために。