(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
ギアガの大穴が開いた日から、地上の海は変わった。
遠い大海の中央に、巨大な円形の禁域が生まれた。
海面は不自然に沈み込み、周囲には常に渦が走る。
海鳥は近づかず、魚群も進路を変え、海の民ですらその中心へは寄らない。
だが、海は底抜けにならなかった。
本来ならば、地上の海水はすべて魔界へ落ちているはずだった。
そうならなかったのは、ただ一つの理由による。
大結界。
大魔王バーンが張った、海そのものを支える結界である。
ロモス王国の王都では、使者たちが集められていた。
ロモス王シナナの名を冠した公式使節団。
だが、その実質的な命令者は魔王ハドラーである。
地上各国へ向かう使者。
カール王国へ。
パプニカ王国へ。
ベンガーナ王国へ。
テランへ。
その他、海路と陸路で連絡のつくすべての国へ。
彼らが携える文書には、ロモス王の印と、ハドラーの署名が並んでいた。
人間の王の印。
魔王の署名。
それだけで、各国の宮廷はざわめくに違いない。
ハドラーは使者たちを前に立った。
その背後にはガンガディアが控え、横にはロモス王シナナが座している。
王は青ざめていたが、逃げてはいなかった。
これはロモスだけの問題ではない。
地上全ての問題であった。
「よく聞け」
ハドラーの声が広間に響いた。
「これよりお前たちは、地上の国々へ赴く。そこで伝えるべきことは一つだ」
使者たちは息を呑んだ。
ハドラーはゆっくりと告げる。
「魔界の冥竜王ウェルザーが、禁じられた黒の核晶を使用した」
その名に、魔王軍側の者たちですら顔を強張らせた。
黒の核晶。
魔界の悪人でさえ恐れる地獄の火種。
爆弾と呼ぶことすら生ぬるい、悪夢の兵器。
「ウェルザーは竜の騎士バランを葬るため、魔界の大陸一つを吹き飛ばした」
使者の一人が震えた。
大陸一つ。
それがどれほどの規模なのか、想像すらできない。
「その余波で、地上と魔界を隔てる岩盤が抜けた。地上の海底に、大穴が開いた」
ハドラーは卓上の地図を指した。
大海の中央に、黒い円が描かれている。
ギアガの大穴。
「本来ならば、その瞬間に地上の海はすべて魔界へ落ちた。魔界は大洪水で水没し、地上は一滴の水も残らず渇き死んだはずだ」
広間に重い沈黙が満ちた。
ロモス王シナナが、深く息を吐く。
ハドラーは続けた。
「だが、そうはならなかった。魔界の支配者である大魔王バーン様が、海に大結界を張られたからだ」
その声には、誇りがあった。
「バーン様は、地上の海を支えておられる。魔界に落ちる水を制御し、地上の海が消えぬよう、魔界が水に呑まれぬよう、世界の裂け目を押さえておられる」
使者の一人が、恐る恐る尋ねた。
「それを、各国に信じさせるのですか」
ハドラーはその使者を見た。
「信じるかどうかは、各国の自由だ」
声が冷たくなる。
「だが、事実は変わらん」
ガンガディアが一歩進み、補足する。
「海面の異常。ギアガ海域の渦。魔界側での大陸消滅。ウェルザーの黒の核晶使用。竜の騎士バランの行動。確認できる断片はいくつもあります。各国が調べれば、少なくとも異常が起きたことは否定できないでしょう」
「そして」
ハドラーが再び口を開いた。
「もっとも重要なことを伝えろ」
使者たちの背筋が伸びる。
「大魔王バーン様が落ちる時、海の大結界は消え去る」
その言葉は、広間の空気を凍らせた。
「その時、地上の海はギアガの大穴より魔界へ落ちる。魔界は海に呑まれて滅び、地上は海を失って渇死するだろう」
誰も声を出せなかった。
これは脅迫である。
だが、単なる脅迫ではない。
世界の構造そのものを人質に取った通告。
大魔王バーンを殺すことは、世界を殺すことに等しいという宣言。
ロモス王シナナが、重い声で言った。
「ハドラー殿」
「何だ」
「この通告は、各国を恐怖させる」
「当然だ」
「バーン様を討とうとする者も出るかもしれん。逆に、バーン様を神のように崇める者も出るかもしれん」
「それも当然だ」
ハドラーはロモス王を見た。
「だが、伝えねばならん。知らぬまま剣を振るわせるわけにはいかん」
シナナ王は黙った。
しばらくして、小さく頷いた。
「そうじゃな。知らぬまま世界を滅ぼすよりは、恐れてでも知る方がよい」
ハドラーは使者たちへ向き直った。
「各国にはこう告げろ」
彼は一語ずつ刻むように言った。
「ロモス国は、ギアガの大穴周辺の安定維持に協力する。海路の安全確保、避難海域の設定、魔界側の水害対策、地上側の海流調査、すべて必要ならば協議に応じる」
それは、魔王軍からの一方的な支配宣言ではなかった。
交渉の余地を示す言葉でもあった。
「ただし」
ハドラーの目が鋭くなる。
「ギアガの大穴、海の大結界、そして大魔王バーン様の御身に害をなそうとする者は、地上と魔界双方の敵と見なす」
使者たちは深く頭を下げた。
やがて、彼らは各地へ旅立った。
カール王国では、宮廷が騒然となった。
「魔王軍の虚言だ!」
そう叫ぶ者がいた。
「だが、海の異変は事実です」
そう反論する者がいた。
「もし本当なら、バーンを討てば地上も滅びるということになる」
「馬鹿な。大魔王を生かせというのか」
「では殺して海を失うか?」
議論は紛糾した。
パプニカでは、賢者たちが文書を読み、沈黙した。
ギアガ海域の異常。
海流の変化。
魔界側で観測された魔力震動。
そして黒の核晶という伝説の兵器。
どれも、無視できるものではなかった。
ベンガーナでは、商人たちが先に動いた。
「ギアガ周辺の航路は危険だ。だがロモスは海の魔物による護衛路を持っている」
「ならばロモスと協定を結ぶべきだ」
「魔王軍と協定を?」
「海がなくなれば商売どころではない」
王たちは恐れた。
だが同時に、自国の利益を考えた。
バーンを敵と断じて討伐を叫ぶのは簡単だ。
しかし、そのバーンが本当に海を支えているならば、討伐は世界滅亡の引き金になる。
ならばどうする。
監視するのか。
交渉するのか。
ロモスを通じて情報を得るのか。
魔王軍を利用するのか。
それとも、信じずに軍を動かすのか。
各国の王たちは、初めて理解した。
魔王ハドラーはロモスを奪った。
だが、大魔王バーンはそれより遥かに大きなものを握っている。
地上の海。
魔界の存続。
世界そのものの均衡。
一方、ロモス城では、アバンがその布告文の写しを読んでいた。
彼はまだ勇者ではない。
だが、その顔からいつもの軽い笑みは消えていた。
「……これは、厄介どころではありませんね」
隣にいたロモス王シナナが尋ねる。
「アバン殿は、これを信じるか」
「少なくとも、すべてが嘘とは思えません」
アバンは文書を閉じた。
「海の異変は事実。魔界で大規模な破壊があったことも、おそらく事実。黒の核晶の話も、伝承と一致する」
「では、バーン様が海を支えているというのも」
「確認が必要です」
アバンは静かに言った。
「ですが、もし本当なら……」
そこで言葉が止まる。
もし本当なら。
大魔王バーンを倒すことは、世界を救うことではない。
世界を壊すことになる。
その事実は、あまりにも重かった。
アバンは窓の外を見た。
ロモスの城下町では、人間と魔物が並んで歩いている。
オークが荷車を引き、スライムが水を濾過し、悪魔の目玉が村々の報告をつないでいる。
そこには、すでに新しい秩序が生まれつつあった。
そして今、その秩序はロモスだけでなく、世界全体の問題へ広がろうとしている。
アバンは小さく呟いた。
「剣だけでは、どうにもならない話になってきましたね」
その頃、魔界では。
ギアガの大穴から落ちる海水が、ヴェルザーの大陸跡に巨大な滝となって降り注いでいた。
大魔王バーンは玉座の上で、片手を上げたまま大結界を維持している。
地上の海は落ちない。
魔界は沈まない。
だが、それはバーンが生きている限りの話である。
世界は、その日から一つの真実を抱えることになった。
大魔王は世界の敵か。
それとも、世界を支える柱か。
地上の王たちは恐れ、商人は利益を計算し、賢者は真実を探り、アバンは答えのない問いを抱えた。
そしてハドラーは、ロモス国の名でさらに次の布告を準備していた。
魔のものが光の元で生きる国。
その建国はもはや、ロモス一国の問題ではなかった。
地上と魔界、二つの世界の生存をめぐる政治となったのである。