(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
ザボエラという若い魔族がいる。
そう聞いたのは、ギアガの大穴計画がまだ机上の怪物であった頃だった。
毒に詳しい。
魔物の身体構造に詳しい。
瘴気と病、寄生生物、腐敗、変異、薬草、魔界菌類の培養にまで手を出している。
報告を聞いた時、俺は思わず沈黙した。
ザボエラ。
その名には覚えがある。
原作では卑劣で、狡猾で、自己保身に長け、最後まで他者を踏み台にしようとした魔族。
だが同時に、研究者としての能力は疑いようがない。
超魔生物。
魔法生物の改造。
毒と肉体制御。
禁呪法への理解。
弱い身体でありながら、知恵と技術で強者に食らいつこうとした執念。
方向さえ間違えなければ、こいつは魔界改革に必要な人材だ。
魔界に地上の水を入れる。
光を入れる。
農地を作る。
他種族の移住を行う。
当然、病が出る。
水が変われば腹を壊す。
土が変われば菌が暴れる。
地上の病原と魔界の瘴気が混ざれば、未知の疫病も起こる。
新しい作物を育てるには、毒抜きも品種改良も必要になる。
土木だけでは足りない。
魔界には医者が要る。
毒を知る者が要る。
生命を研究する者が要る。
ならば、ザボエラは拾うべきだ。
ただし、育て方を誤れば原作通りになる。
弱さを憎み、他人を妬み、認められたい欲求をこじらせ、成果を誇るよりも報酬と保身に執着する。
あれは悪党としては見事だが、国家事業の主任研究者としては困る。
だから早めに会うことにした。
ザボエラがいたのは、魔界の外れにある湿った洞窟だった。
入口からして臭い。
腐った草。
乾いた血。
毒腺を抜かれた魔物の死骸。
壁に吊るされた菌糸の塊。
濁った液体の入った壺。
近づいただけで、普通の魔族なら鼻を押さえて逃げ出すだろう。
だが俺はバーン様である。
この程度の悪臭で怯んでは、大魔王の威厳に傷がつく。
内心では、少し帰りたかった。
「誰じゃ。わしの巣に勝手に――」
奥から出てきた若いザボエラは、そこで言葉を失った。
小柄な身体。
まだ老獪さよりも神経質さが勝っている顔。
目には怯えがあり、その奥に刺々しい反発がある。
彼はすぐに平伏しようとした。
だが、動きがぎこちない。
恐れている。
だが同時に、屈辱を感じている。
この若さで、すでにそういう顔をしていた。
俺はあえて、上から押さえつける声を使わなかった。
「ザボエラ」
「は、ははっ……! 大魔王バーン様が、このような場所に、いかなる御用で……?」
声が震えている。
だが目は必死にこちらを観察している。
自分が殺されるのか。
利用されるのか。
それとも奪われるのか。
そう計算している目だ。
俺は洞窟内を見回した。
「毒腺の分離。菌類の培養。魔物の再生力の比較。瘴気に強い臓器の保存実験」
ザボエラの顔が引きつった。
「わ、わしの研究を……?」
「見ればわかる」
実際には、半分は報告書で予習していた。
だが、ここは威厳で押す。
「毒や生物学に詳しいと聞く」
ザボエラの背がわずかに伸びた。
褒められると思っていなかったのだろう。
怯えの奥で、警戒と期待がぶつかっている。
「は……。い、いささか、心得がございます」
「いささかではない」
俺は言った。
「貴様の知識は、やがて魔界を導く光となろう」
ザボエラが固まった。
目が見開かれる。
毒。
腐敗。
菌。
臓物。
魔物の肉体。
おそらく彼の研究は、これまで嫌悪されてきたはずだ。
気味が悪い。
卑しい。
陰気だ。
戦場で役に立たなければ価値がない。
そう言われてきたのだろう。
だからザボエラは、力ある者に取り入り、成果を売り、己の価値を証明しようとする方向へ歪んでいく。
ならば、最初に与えるべきものは金ではない。
地位でもない。
承認だ。
この研究は必要だ。
お前は魔界に必要だ。
そう刻む。
「ま、魔界を導く光……でございますか、このわしの研究が」
「そうだ」
俺は一歩進んだ。
ザボエラは反射的に身を縮めたが、逃げなかった。
「魔界に水を入れる。光を入れる。土地を変える。種族を移す。そうなれば病が出る。毒が広がる。新たな作物には新たな害が生まれる。水路には虫が湧き、貯水池には菌が増え、地上の生き物と魔界の生き物が交われば、誰も知らぬ病が生じる」
ザボエラの表情が変わった。
恐怖ではない。
理解だ。
自分の研究が、巨大な計画の中でどこに置かれるのか。
それを悟った研究者の顔だった。
「……そこまで、お考えで」
「考えねばならぬ」
俺は言った。
「穴を開けるだけなら力で足りる。水を落とすだけなら魔力で足りる。だが、そこで生きる者を守るには知識が要る」
ザボエラの喉が鳴った。
この若い魔族は、武力で名を上げることは難しい。
肉体で強者に勝つことも難しい。
だからこそ、知識にしがみついている。
ならば、その知識を卑屈な武器にさせてはならない。
誇りにしなければならない。
「ザボエラ。余の元で研究せよ」
洞窟の空気が止まった。
「望む設備を与える。助手も与える。検体も、記録係も、実験場も用意する。ただし、条件がある」
「じょ、条件……?」
ザボエラの目に、また警戒が戻る。
俺は彼を見下ろした。
「成果を隠すな」
ザボエラの肩が跳ねた。
「研究を己の小銭稼ぎに貶めるな。知識を人質にして、味方の足元を見るな。貴様の知恵は、取引台に並べる珍品ではない」
少し強く言いすぎたか。
だが、ここは必要だ。
原作のザボエラを作る根は、ここにある。
自分の知識を信じているのに、自分自身の価値を信じられない。
だから知識を隠す。
成果を売る。
誰かに認められる前に、まず値段をつけようとする。
それを潰す。
ただし、本人を潰してはならない。
「貴様の研究は、魔界の財となる」
俺は声を落とした。
「そして貴様自身もまた、魔界の財だ」
ザボエラの顔が、今度こそ完全に止まった。
醜い洞窟。
毒の匂い。
腐敗した検体。
湿った石床。
その真ん中で、若い研究者は初めて自分が値踏みではなく評価されたという顔をした。
「わし、が……財……」
「そうだ」
「このような、毒と死骸ばかりいじる者が……?」
「毒を知らぬ者に薬は作れぬ。死を見ぬ者に生は守れぬ。腐敗を嫌うだけの者に、保存はできぬ」
ザボエラの手が震えていた。
喜びか。
恐怖か。
あるいは、今まで受けたことのない言葉に戸惑っているのか。
俺は続けた。
「貴様は弱い」
ザボエラの顔がこわばる。
「だが、弱さは罪ではない」
その目が揺れた。
「弱さを理由に才を腐らせることが罪だ。弱いからといって他者を妬み、強い者の陰に隠れ、己の知恵を卑しい商いに落とすならば、余は貴様を許さぬ」
ザボエラは何も言えなかった。
「だが、己の弱さを知り、その弱さゆえに弱き者を強くする研究をするならば」
俺は彼を見据えた。
「余は貴様を重く用いる」
長い沈黙があった。
洞窟の奥で、壺の中の液体がぼこりと泡を立てる。
ザボエラはゆっくりと膝をついた。
それは恐怖による平伏ではなかった。
まだ完全な忠誠でもない。
だが、少なくとも計算だけではない何かが混じっていた。
「……このザボエラに、研究の場をお与えくださるのであれば」
若い魔族は、震える声で言った。
「必ずや、成果をお見せいたします。毒も、薬も、病も、肉体の秘密も……すべて、バーン様の御前に」
「違う」
俺は即座に訂正した。
ザボエラがびくりとする。
「余のためだけではない」
俺は告げた。
「魔界のためだ」
ザボエラは顔を上げた。
「魔界……」
「貴様の研究で、飢えに耐える作物を作れ。毒の水を飲める水に変えろ。瘴気に侵された子供を救え。弱い魔族が、強い魔族に喰われずに済む身体を得る道を探せ」
ザボエラの瞳に、暗い火が灯った。
野心ではある。
だが、少し違う。
己の価値を証明したいという欲求。
それは消す必要はない。
向きを変えればいい。
「わしの研究で……弱い者を」
「そうだ」
俺は頷いた。
「弱い者を強くする。それが貴様の仕事だ」
ザボエラは深く頭を垂れた。
「御意」
その声には、まだ若さがあった。
卑屈さもある。
承認への飢えもある。
放っておけば腐る芽も、確かに残っている。
だが、それでいい。
育成とは、一度褒めて終わるものではない。
成果を認める。
だが、功を焦らせない。
報酬は与える。
だが、知識を売り物にする癖はつけさせない。
失敗は叱る。
だが、人格を踏みにじらない。
難しい。
正直、世界を支える結界より面倒かもしれない。
しかし、やる価値はある。
ザボエラは有能だ。
その有能さを、卑劣さの証明に使わせるのではなく、魔界を救う技術に変える。
俺は洞窟の外へ向かった。
「ザボエラ」
「はっ」
「三日後、城へ来い。側衆に研究棟の設計を命じておく。必要なものを列挙せよ。ただし」
俺は振り返らずに言った。
「予算を誤魔化せば、余はすぐにわかる」
背後でザボエラが変な声を出した。
「め、滅相もございませぬ!」
嘘だ。
絶対に一度は誤魔化そうとする。
まあいい。
その時は叱ればいい。
叱り潰すのではなく、軌道修正する。
そうして育てる。
後に魔界生体研究院の初代院長となるザボエラは、この日、まだ毒壺と死骸に囲まれた小さな洞窟で震えていた。
だが、彼の知識は確かに魔界を導く光になる。
俺はそう決めた。
決めた以上、そうしてみせる。
大魔王バーンの名において。