(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
キルバーンは、悩んでいた。
いや、悩んでいるように見えるだけなら、まだよかった。
仮面はいつも通り笑っている。
声も軽い。
足取りも弾むようで、誰が見てもいつもの死神である。
だが、その内側で思考はぐるぐると回っていた。
大魔王バーンを暗殺する。
それが、冥竜王ヴェルザーより与えられた密命であった。
ただし命令は、こうだ。
機会があれば、殺せ。
つまり。
機会がなければ、殺さなくてよい。
キルバーンは、バーンパレスの長い回廊を歩きながら、そこで足を止めた。
「……そうだよねえ」
仮面の奥で、目が細くなる。
「機会があれば、だものねえ」
大魔王バーンは、もともと暗殺しにくい相手だった。
強すぎる。
疑り深い。
魔力が桁外れ。
側近も厄介。
ミストバーンなど、あれは護衛というより呪いのような存在だ。
だが、それだけならまだよい。
暗殺者とは、強者を殺すために存在する。
相手が強いから諦めるなど、職務放棄に等しい。
問題はギアガの大穴だった。
バーンが大結界で地上の海を支え、魔界の水没を防ぎ、二つの世界を繋ぎ止める。
その構造が完成すれば、バーンの死は世界の死になる。
バーンを殺せば、地上の海は魔界へ落ちる。
魔界は沈み、地上は渇く。
暗殺はできるかもしれない。
だが、暗殺した後に何も残らない。
それは、任務として成立しているのだろうか。
「してないよねえ」
キルバーンは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「だって、殺したら支配する魔界もなくなっちゃうんだから」
ヴェルザーは、バーンを排除したかった。
それはわかる。
だが、ヴェルザーが欲していたのは、灰になった魔界ではない。
水に沈んだ領土でもない。
地上の海が失われ、交易も侵攻も文明も壊れた世界でもない。
支配する価値のある魔界。
踏みにじる価値のある地上。
奪う価値のある世界。
その価値を、ギアガの大穴計画はむしろ高める。
魔界に水と光が入り、土地が豊かになり、地上との行き来が容易になる。
兵站も交易も拡大する。
竜族にとっても、魔族にとっても、人間にとってさえ無視できぬ大変革だ。
ならば、計画そのものを壊す理由はない。
問題は、計画の中心にバーンがいることだけだ。
「でも、そのバーン様を殺せないんだから、仕方ないよねえ」
キルバーンは軽く肩をすくめた。
仕方ない。
実に便利な言葉である。
積極的にヴェルザーを裏切るわけではない。
密命を暴露するわけでもない。
バーンに忠誠を誓い直すわけでもない。
ただ、機会がない。
暗殺可能な状況が存在しない。
存在しない機会は、利用できない。
したがって任務は凍結。
実に論理的である。
キルバーンは満足げに頷いた。
「うん。ボクは悪くない」
そう結論づけてから、彼は改めて周囲を見た。
バーンパレス。
白亜の不死鳥を象った、大魔王の居城。
美しい。
巨大。
威圧的。
そして、居心地が悪くない。
待遇は良い。
役割はある。
自由もある。
道化として振る舞う余地もある。
処刑人としての腕も評価されている。
無意味に一族だの血筋だので序列を押しつけられることもない。
バーンは残酷だ。
傲慢だ。
恐ろしく冷たい。
だが、能力と役割を見る。
少なくとも、使える者を使い、働きに報いる程度の器はある。
一方でヴェルザーはどうか。
強大な冥竜王。
確かに恐るべき存在だった。
だが、欲深い。
独占欲が強い。
自らの一族を重用し、支配すべきものを囲い込み、気に入らぬ者は力で黙らせる。
ヴェルザーの側は、居心地が良いとは言えなかった。
もちろん、口に出すつもりはない。
口に出した瞬間、裏切りになる。
だが、心の中で比べるだけなら自由だ。
しかも今、そのヴェルザーは封印されている。
竜の騎士バランと、天界の精霊たちによって。
ヴェルザーは封印された。
その竜の騎士を、バーンは手元に置いている。
キルバーンは、そこで小さく笑った。
「考えてみると、すごい話だよねえ」
ヴェルザーを封じた竜の騎士。
そのバランが、今はバーンパレスにいる。
妻子と共に保護され、大魔王の庇護下で暮らしている。
囚人ではない。
客人でもない。
臣下とも少し違う。
だが、バーンの盤上にいる。
ヴェルザーが恐れ、憎み、殺そうとした竜の騎士を、バーンは自分の城に置いている。
それは、力の差を示す光景だった。
単純な戦闘力ではない。
盤面の作り方。
敵の功績を認める度量。
地上の憎悪を利用し、魔界の利を作り、天界すら動けなくする政治。
バーンは、ただ強いだけではない。
そこが厄介であり、同時に魅力でもあった。
「ヴェルザー様には悪いけど」
キルバーンは、仮面の顎に指を当てた。
「今の職場、けっこう待遇いいんだよね」
言ってから、自分で少し笑う。
職場。
大魔王の側近という立場をそう呼ぶのは、いささか不敬かもしれない。
だが、キルバーンにとってはそれが一番しっくり来た。
仕事がある。
報酬がある。
立場がある。
面白いものが見られる。
そして何より、バーンの側にいれば、世界が変わるところを特等席で見られる。
ギアガの大穴。
魔界に光と海をもたらす計画。
それは美しかった。
それは、暗殺者としては余計な感情だった。
だが、キルバーンはその感情を否定しなかった。
面白いものは見たい。
それもまた、彼の本質である。
「積極的に裏切るわけじゃない」
キルバーンは自分に言い聞かせるように呟いた。
「ヴェルザー様のことを売るわけでもない。命令を忘れるわけでもない。ただ、機会がない。暗殺できる状況じゃない。だから待つ」
待つ。
それは実質的な凍結だった。
いつかバーンを殺しても世界が壊れない方法が見つかれば、その時また考えればいい。
いつかヴェルザーが復活し、具体的な新命令を下せば、その時また悩めばいい。
だが今は違う。
今は、バーンに仕える。
側近顔をして。
処刑人として。
道化として。
大魔王の城で、いつも通り笑って暮らす。
それが一番安全で、一番得で、一番面白い。
キルバーンは、仮面の奥で結論を出した。
これは裏切りではない。
消極的保留である。
任務遂行の機会が存在しないため、現場判断により待機する。
そういうことにしておこう。
「うん」
軽く頷く。
「ボクは忠実な部下だね」
誰に対して忠実なのかは、あえて考えない。
その時、回廊の向こうから悪魔の目玉が飛んできた。
『キルバーン様。バーン様がお呼びです』
「はいはい。今行くよ」
キルバーンは、いつもの調子で答えた。
声は軽い。
足取りも軽い。
仮面は笑っている。
だが、その笑みの意味は、少しだけ変わっていた。
冥竜王の暗殺者として潜り込んだ男は、今日この時、心の中で任務を棚上げにした。
ヴェルザーを積極的に裏切ったわけではない。
ただ、バーンを殺す機会がない。
そして機会がないまま、待遇の良い職場で暮らしているだけだ。
キルバーンは玉座の間へ向かう。
大魔王バーンの側近として。
道化の仮面を被ったまま。
「さてさて、今日のバーン様は何を見せてくれるのかな」
その声には、焦りよりも期待が勝っていた。
消極的な裏切りは、笑顔で始まった。