(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
ギアガの大穴は、まだ開いていない。
それは大魔王バーンが魔界に光と水をもたらすために構想した、最大にして最後の神業である。
地上の大海に結界を張り、海底を抜き、海水と陽光を魔界へ導く。
魔界そのものの環境を変え、飢えと暗黒に支配された世界を根底から作り替える。
だが、そんなものを思いつきで実行できるはずがなかった。
大結界の設計。
海水の制御。
魔界側の受け皿となる巨大水路。
塩害対策。
農地造成。
地上の海に住む者たちの移住交渉。
開通後に起こりうる疫病、洪水、気候変動への備え。
準備すべきことは、山のようにあった。
ゆえに、バーンは待った。
数百年をかけて、魔界に一つの実験領を築いた。
そこは、魔界とは思えぬほど平和で豊かな土地であった。
無論、地上の王国のような青空はない。
太陽もない。
だが、黒い岩山の間には水路が通り、瘴気を抑えた畑が広がっている。
光苔が岩壁を照らし、地熱を利用した温室では魔界麦が育ち、塩と毒を抜かれた湿地には黒根菜が実っていた。
水は貴重だ。
だから一滴も無駄にしない。
地下水脈を掘り当て、凝結塔で霧を集め、岩盤を削って貯水池を造る。
雨のない魔界で、雨を待つのではなく、水を作り、水を守り、水を巡らせる。
それを成したのが、ジオウ衆であった。
ジョウは水路を引き、タイコは堤を築き、ロヒサは農地を測り、グッチは岩盤を削り、ヤモトは村と橋を造った。
そして、その土地に命を根づかせたのが、深緑の賢者ザボエラである。
かつて毒壺と死骸に囲まれた洞窟で震えていた若い研究者は、今や魔界生体研究院の長となっていた。
毒を薬に変え、瘴気を肥料に変え、魔界菌を作物の根に住まわせ、枯れ地を畑へ変える。
ザボエラは畑の畦にしゃがみこみ、黒麦の穂を指先で撫でた。
「ふむ。第三温室の系統より、こちらの方が瘴気耐性は強い。だが根が浅いのう。水路の端では育つが、岩盤畑では枯れる」
隣の若い研究員が板に記録する。
「改良は続行、でございますか」
「当然じゃ。ギアガが開く日は必ず来る。その時、魔界の土が急に地上の水を受け入れられると思うか? 準備しておかねば、恵みは災厄になる」
ザボエラは鼻を鳴らした。
「水が来てから考えるなど、愚か者のすることじゃ。水が来る前に、土を慣らす。菌を慣らす。作物を慣らす。魔族の腹も慣らす。そうして初めて、光と水は救いになる」
その声には、研究者としての誇りがあった。
彼はもう、成果を隠して値を吊り上げる小悪党ではない。
己の知識が魔界を支えていると知る者の顔をしていた。
だが、豊かな土地は平和を呼ぶと同時に、敵も呼ぶ。
バーン領は、魔界の中で異物だった。
飢えずに済む土地。
水が巡る土地。
弱い魔族や魔物でも暮らせる土地。
農地と工房と研究院があり、兵站を維持できる土地。
それは魔界の諸勢力にとって、喉から手が出るほど欲しい宝であった。
なかでも危険だったのは、竜族である。
冥竜ヴェルサー。
雷竜ボリクス。
いずれも強大な竜であり、いずれもバーン領を狙った。
ヴェルサーは死と瘴気の領域を広げるために。
ボリクスは雷と暴威によって豊かな土地を支配するために。
竜族にとって、バーン領はただの領土ではない。
魔界の未来を握る実験場であり、やがてギアガの大穴を受け止めるための中枢でもある。
奪えば、魔界の行く末を左右できる。
だからこそ、守りは厚かった。
城壁の上に立つ巨影が、遠くの稲妻を見ていた。
豪魔軍師ガルヴァス。
大柄で屈強な魔族であり、ハドラーの影として魔王軍を支えてきた軍略家である。
この世界のガルヴァスは、表舞台への野心を内乱に向けることを許されなかった。
バーンは彼に言った。
お前の野心は、余の領土を広げるために使え。
お前の知略は、魔界の未来を守るために使え。
味方の背を刺す暇があるなら、竜の喉笛を噛め。
以来、ガルヴァスはバーン領の盾となった。
彼のもとには六団長が置かれている。
不死将軍デスカール。
妖魔将軍メネロ。
氷炎将軍ブレーガン。
百獣将軍ザングレイ。
魔影将軍ダブルドーラ。
超竜将軍ベグロム。
いずれも善良な守護者ではない。
罠を張り、呪いを使い、敵を森へ誘い込み、必要とあらば魂すら縛る怪物たちである。
だが、この領土においては、彼らこそ平和の番人だった。
「ボリクスの雷雲が南へ動いた」
城壁の上で、斥候が報告した。
「ヴェルサーの眷属も西の瘴気谷に集まりつつあります」
ガルヴァスはしばし黙った。
正面から竜族二勢力を相手にすれば、いかにバーン領といえど損耗は避けられない。
畑が焼ける。
水路が砕ける。
研究院が狙われる。
村が逃げ惑う。
それは許されない。
戦とは、敵を殺せば終わりではない。
守るべきものを傷つけずに済ませてこそ勝利である。
「デスカール」
ガルヴァスが呼ぶと、黒衣のアンデッド僧が影から現れた。
「西の瘴気谷に、ヴェルサーの眷属が好む死臭を撒け。ただし、谷の出口は北へ開けておけ」
「承知いたしました」
「メネロ」
緑髪の妖艶な女が茨の鞭を揺らしながら笑った。
「何かしら、軍師様」
「南の森にボリクス配下の偵察隊を誘い込め。殺すな。逃がせ。ただし、逃げる先は西だ」
「ふふ。つまり、雷竜の子分に冥竜の匂いを嗅がせるのね」
「そうだ」
ガルヴァスは薄く笑った。
「ボリクスは短気だ。己の進路にヴェルサーの眷属がいると知れば、まず焼く」
「ヴェルサーも黙ってはいないわね」
「竜族同士で噛み合えばよい」
ブレーガンが三節棍を肩に担ぎ、退屈そうに言った。
「俺たちは戦わんのか?」
「戦う」
ガルヴァスは答えた。
「だが、主戦場は我らの畑ではない。奴ら自身の縄張りだ」
ザングレイが低く唸る。
「水路には近づけさせん」
「当然だ。ザングレイ、お前は第五水門を守れ。ダブルドーラは研究院の外壁。ベグロムは上空監視だ。ワイバーンを無駄死にさせるな」
ベグロムが少し不満そうに翼獣の首を撫でる。
「俺も竜族相手に一手柄を……」
「お前は超竜将軍を名乗っているが、竜そのものと真正面から殴り合えるとは思うな」
「ぐっ」
「偵察と連絡を誤るな。それができれば十分な手柄だ」
ベグロムは不満げながらも頭を下げた。
六団長が散っていく。
その背を見送りながら、ザボエラが城壁に上がってきた。
「また竜どもか」
「豊かになれば狙われる」
ガルヴァスは言った。
「何もない荒野なら、誰も奪いに来ん」
「まったく、迷惑な話じゃ。こちらはまだ準備中だというのに」
ザボエラは遠くの畑を見た。
光苔に照らされた黒麦。
瘴気に耐える薬草。
岩盤温室の中で育つ実験作物。
水路脇で働く魔物たち。
これは完成形ではない。
ギアガの大穴が開いた時、魔界全体へ広げるための試作だ。
小さな未来の模型だ。
だから失えない。
「ガルヴァス」
「何だ、深緑の賢者」
「第七実験区には近づけるな。あそこには新しい土壌菌がある。竜の雷で焼かれれば、再培養に三十年かかる」
「畑より高価な菌か」
「当たり前じゃ。あれはバーン様の御計画に必要な菌じゃぞ」
ガルヴァスは低く笑った。
「ならば守ろう。竜の牙からも、雷からも、冥府の瘴気からもな」
その時、遠くの空が紫に光った。
雷竜ボリクスの稲妻である。
続いて、西の谷から黒い霧が立ち上った。
冥竜ヴェルサーの眷属が動いたのだ。
ふたつの力は、バーン領を挟むように蠢いていた。
だが、ガルヴァスの目は揺れない。
彼らを真正面から迎え撃つ必要はない。
竜は誇り高く、貪欲で、互いを信用しない。
ならば、その性質を使えばよい。
雷竜には、冥竜が自分の獲物を横取りしようとしているように見せる。
冥竜には、雷竜が瘴気谷を焼き払おうとしているように見せる。
竜族同士の抗争へ導く。
その間に、バーン領は水路を閉じ、村を退避させ、畑を守り、必要ならば傷ついた竜の眷属を個別に狩る。
敵に塩を送る必要はない。
だが、敵同士に牙を向けさせることはできる。
「始めろ」
ガルヴァスが命じた。
闇の中で、バーン領の守り手たちが動き出す。
デスカールの瘴気結界が谷を包む。
メネロの茨が偵察兵を誘導する。
ブレーガンの氷炎が偽の戦痕を刻み、ザングレイが水門を守り、ダブルドーラが研究院の門前で無言の壁となる。
ベグロムのワイバーンが低空を飛び、竜族の進路を報せる。
やがて、南の空で雷が落ちた。
それに応じるように、西の瘴気谷から冥府の黒霧が噴き上がる。
竜と竜が、互いの存在を敵として認識した。
轟音。
咆哮。
稲妻。
瘴気。
バーン領の外縁で、竜族同士の戦いが始まった。
城壁の上で、ザボエラが耳を塞ぐ。
「まったく、畑の近くで騒々しい」
「安心しろ。主戦場は外へ逸らした」
「ならよい。明日の朝には灌漑弁を開ける。水路に死骸を落とすでないぞ」
「注文の多い賢者だ」
「わしの作物を食う兵を守っておるのは誰じゃと思っておる」
ガルヴァスは笑った。
その背後には、灯りのともる村があった。
眠る子供たちがいた。
明日の収穫を待つ畑があった。
ギアガの大穴が開く日を待つ、未完成の未来があった。
バーン領は平和である。
だが、その平和は柔らかな祈りだけで守られているのではない。
六団長の牙。
ガルヴァスの謀略。
ザボエラの研究。
ジオウ衆の水路。
そして、大魔王バーンの名。
それらすべてによって、魔界の片隅に生まれた豊かな土地は、今日も守られていた。
ギアガの大穴は、まだ開いていない。
けれど、その日が来るまでに魔界が滅びては意味がない。
だから怪物たちは守る。
まだ夜明け前の、魔界の未来を。