(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
魔界の荒野に、少年の咆哮が響いていた。
「どけえっ!」
黒い岩盤を蹴り砕き、少年魔族が跳ぶ。
その身体はまだ若い。
角も、肩も、腕も、成長しきった魔族に比べれば細い。
だが、瞳だけは燃えていた。
飢えた獣の目ではない。
飢えを憎む者の目だった。
少年の名は、ハドラー。
彼の周囲には、数多の魔物たちが倒れていた。
牙を折られた獣。
爪を砕かれた鬼。
瘴気を吐く虫の群れ。
弱い者から奪い、強い者に媚び、さらに弱い者を踏みつける、魔界のありふれた捕食者たち。
その中心で、ハドラーは息を荒げながら立っていた。
全身に傷がある。
片頬は裂け、腕からは血が流れている。
それでも膝はつかない。
倒れた魔物の一匹が、呻くように言った。
「小僧……何をそんなに……」
ハドラーは踏みつけた。
「俺はここで朽ちる気はない」
低い声だった。
「こんな腐った世界で、喰うか喰われるかだけの毎日を送ってたまるか」
荒野に風が吹く。
乾いた風だ。
水の匂いはない。
草の匂いもない。
あるのは、血と瘴気と、ひび割れた土の匂いだけ。
ハドラーはそのすべてを憎んでいた。
「神々にすら見捨てられた腐った世界だ。ここは」
少年は空を睨んだ。
そこに太陽はない。
ただ暗い岩天井と、遠く揺らぐ瘴気の光があるだけだった。
「俺はここを出る」
ハドラーは拳を握った。
「豊かな地上へ行く。光があって、水があって、食い物が余っているという地上へ行く」
血に濡れた口元が、獰猛に吊り上がる。
「そして――地上の魔王に、俺はなる」
その宣言に、倒れていた魔物たちが震えた。
嘲笑ではない。
恐怖でもない。
あまりにも身の程知らずな言葉に、誰も声を出せなかったのだ。
その時だった。
「地上の魔王、か」
声がした。
低く、静かで、しかし世界そのものの奥から響くような声。
ハドラーは反射的に振り返った。
そこに、ひとりの魔族が立っていた。
白い肌。
老いた姿。
だが、老いという言葉では測れない威圧。
その身にまとった魔力は、山よりも重く、闇よりも深い。
ハドラーの背筋が凍った。
身体が勝手に膝をつこうとする。
だが、彼は奥歯を噛み締めた。
ここで膝をつけば、今まで倒してきた連中と同じだ。
強い者を見た瞬間、腹を見せるだけの弱者になる。
ハドラーは震える膝を、意地で押さえ込んだ。
「……誰だ、あんた」
周囲の魔物たちが青ざめた。
その名を知らぬのか。
その方を誰だと問うのか。
そんな空気が荒野に広がる。
だが、白き魔族は怒らなかった。
むしろ、わずかに笑ったように見えた。
「余はバーン」
その名が落ちた瞬間、倒れていた魔物たちが一斉に地面へ額を擦りつけた。
大魔王バーン。
魔界において、王であり、神に等しい存在。
ハドラーも名は知っていた。
だが、会ったことなどあるはずがない。
喉が乾く。
傷の痛みが、急に遠のいた。
バーンは倒れた魔物たちには目もくれず、ただハドラーを見ていた。
「ハドラーと言ったか」
「……そうだ」
「なぜ地上を望む」
ハドラーは睨み返した。
怖くないわけがない。
怖い。
逃げたい。
膝をつきたい。
だが、それ以上に、腹の底で燃えるものがあった。
「この世界には何もない」
ハドラーは言った。
「水もない。光もない。弱い奴は喰われる。強い奴は奪う。どいつもこいつも、明日を生きるために今日を殺してる」
拳が震える。
「そんな世界に、何の価値がある」
バーンは黙って聞いていた。
「神々だってこの世界を見捨てたんだろう。なら俺も見捨てる。俺は地上へ行く。地上を奪う。俺の国を作る。俺の玉座を作る。俺は、こんな泥の底で終わる男じゃない」
それは傲慢な言葉だった。
だが、バーンはその傲慢さを笑わなかった。
「なるほど」
大魔王は静かに言った。
「神々にすら見捨てられた腐った世界。だから捨てる、か」
「そうだ」
「ならば問う。ハドラー」
バーンの声が、わずかに重くなる。
「貴様が地上で魔王となった時、魔界はどうなる」
ハドラーは一瞬、言葉に詰まった。
「……知るか」
「知るか、か」
「俺は俺の力で這い上がる。他の連中のことなど知らん」
「それが魔王か」
ハドラーの眉が跳ねた。
「何?」
「貴様は地上の魔王になると言った。ならば聞く。魔王とは何だ」
「強い者だ」
「三流だな」
空気が凍った。
ハドラーの顔が怒りで歪む。
「なんだと……!」
「強いだけなら獣でよい。奪うだけなら盗賊でよい。玉座に座りたいだけなら、石でも積んでその上に腰かけていろ」
バーンは一歩進んだ。
ただそれだけで、ハドラーの全身が圧迫される。
だがハドラーは退かなかった。
「魔王とは、世界を背負う者だ」
バーンは言った。
「たとえ腐っていようとも、己の世界を見捨てぬ者だ」
ハドラーは息を呑んだ。
バーンの眼差しは冷たかった。
だが、その奥にあるものは侮蔑ではなかった。
怒りでもない。
決意だった。
「神々が見捨てようとも、余はこの世界を見捨てん」
その言葉は、荒野に落ちた。
「水がなければ、水を探す。光がなければ、光を導く。土が死んでいるなら、土を作り直す。魔族が奪い合うしかないなら、奪わずに生きる土地を作る」
ハドラーは呆然とした。
そんなことを考えたことはなかった。
魔界は腐っている。
だから出ていく。
それがハドラーの答えだった。
だが、この大魔王は違う。
腐った世界すら再生すると言っている。
捨てるのではなく、作り替えると言っている。
「……できるものか」
ハドラーは吐き捨てた。
「この魔界を変えるなど、神でもできなかった」
「ならば、神ではなく余がやる」
即答だった。
あまりにも当然のように、バーンは言った。
ハドラーは言葉を失った。
大言壮語ではない。
夢物語でもない。
この魔族は、本気でそう言っている。
そして、できるかもしれないと思わせるだけの力があった。
バーンはハドラーを見下ろす。
「若き魔族の子よ。我が元へ来い」
ハドラーの胸が跳ねた。
「……俺に、あんたの部下になれと?」
「ただの部下ではない」
バーンは言った。
「見よ。魔族が腐った世界すら再生する様を。飢えた土地に水路を通し、枯れた岩盤に畑を作り、弱き者が弱きまま喰われぬ秩序を築く様を」
バーンの背後に、幻のように魔力が広がる。
荒野が割れ、水路が走る。
黒い畑が広がる。
瘴気の中に灯がともり、魔族の子供が水辺で笑う。
それは魔界にはありえない光景だった。
ハドラーは息を忘れた。
「貴様は地上を欲したな」
「……ああ」
「ならば、地上を知れ。地上を奪うのではなく、地上と渡り合う術を学べ。剣を学べ。軍を学べ。国を学べ。民を食わせることを学べ」
バーンは告げた。
「そして、余に代わり地上に橋頭堡を築く武人となれ」
ハドラーの瞳が揺れた。
地上に行ける。
だが、逃げるためではない。
奪うためだけでもない。
魔界の未来を背負って。
バーンの名代として。
地上に拠点を築く武人となる。
「俺が……武人に?」
「そうだ」
「俺は魔王になる男だぞ」
「ならば、まず武人となれ」
バーンは静かに言った。
「己の力を誇るだけの小僧では、地上は獲れぬ。配下を使い捨てるだけの愚者では、国は保てぬ。弱い者を踏みつけるだけの王は、最後に誰からも支えられず倒れる」
ハドラーの拳が震える。
怒りではない。
悔しさだった。
言い返せない。
この大魔王の言葉は、腹の奥に刺さる。
「強くなれ、ハドラー」
バーンは言った。
「だが、ただ強いだけで終わるな。貴様の野心を、魔界を背負えるほどに鍛えよ」
長い沈黙があった。
荒野の風が、ハドラーの傷に染みる。
倒れた魔物たちは、いまだ地面に伏せたまま動かない。
ハドラーはバーンを見上げた。
怖い。
だが、目を逸らしたくなかった。
「……あんたの元へ行けば」
ハドラーは言った。
「俺は地上へ行けるのか」
「行ける」
「俺は強くなれるのか」
「なれる」
「俺は……魔界を出るだけの小物ではなくなるのか」
バーンの口元が、わずかに動いた。
「それは貴様次第だ」
ハドラーは歯を食いしばった。
そして、ゆっくりと膝をついた。
屈服ではない。
敗北でもない。
その膝は、より高く跳ぶために沈んだものだった。
「いいだろう」
少年魔族は頭を下げた。
「見てやる。あんたがこの腐った魔界をどう変えるのか。俺が納得できなければ、その時は俺が地上へ行って、俺のやり方で魔王になる」
周囲の魔物たちが凍りついた。
大魔王に向かって、なんという口を。
だが、バーンは笑った。
低く、深く、楽しげに。
「よい」
バーンは言った。
「その眼だ。その火を消すな、ハドラー」
大魔王は少年へ手を差し出した。
「余の元で燃えろ。野心を忠義へ、忠義を武へ、武を王器へと鍛え上げてみせよ」
ハドラーはその手を見た。
老いた白い手。
だが、そこには魔界そのものを握る力がある。
少年はその手を取った。
瞬間、彼の運命は変わった。
地上を奪うだけの魔王になるはずだった少年は、魔界を背負って地上へ向かう武人となる道を歩み始めた。
後に魔王ハドラーと呼ばれる男の、最初の忠誠。
それは平伏ではなく、野心をより大きな炎へくべる契約であった。