(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
ハドラーがバーンの手を取ってから、さらに数百年が過ぎていた。
少年だった魔族は、もはや少年ではない。
かつて荒野で「地上の魔王に俺はなる」と叫んだ若者は、幾度もの戦いを越え、幾度もの敗北と鍛錬を越え、今や魔界でも指折りの武人となっていた。
大柄な体躯。
鋭い眼光。
燃えるような闘気。
そして、かつてのようにただ前だけを見るのではなく、地図の端から端までを見渡すだけの思慮。
魔王ハドラー。
そう呼ばれるに足る男が、地上の地図を前に腕を組んでいた。
その傍らには、二人の配下が控えている。
一人はガンガディア。
特徴的な模様のような髭を持ち、筋骨隆々でありながら無駄のない体格をしたトロル族の男である。
眼鏡をかけ、袈裟めいた衣をまとった姿は、通常のトロル族からはかけ離れていた。
見た目だけなら僧侶か学者に近い。
だが、その肉体にはトロル族の膂力があり、その頭脳には軍師としての慧眼がある。
もう一人はキギロ。
魔の森を操り、広げ、潜ませ、育てることに長けた魔物である。
本人は「しぶとくコソコソ生き残る」を信条としているが、敵が自分の領域へ入れば真っ先に排除しにかかる。
臆病者を自称するくせに、行動だけ見ればひどく攻撃的だった。
その三者が立つのは、地上ではない。
まだ魔界だ。
ただし、彼らの視線はすでに地上へ向いていた。
「死の大地の地下工区、第七隔壁まで掘削完了や」
地図の横で、ジオウ衆のジョウが報告した。
土木の長である彼は、魔界の岩盤も、地上の地層も、同じように読んでしまう男だった。
粗野な口調とは裏腹に、その頭の中には地脈、水脈、岩盤強度、搬入路、重力制御術式のすべてが入っている。
「バーンパレスの基礎は?」
ハドラーが問う。
「問題なし。死の大地の地下は名前の割に安定しとる。上は荒れとるけど、下はええ岩盤や。隠すにも向いとるしな」
ジョウは地図の端に置かれた別図面を指で叩いた。
そこには、地上の死の大地の断面図が描かれている。
その地下深くに、巨大な構造物の骨格が刻まれていた。
バーンパレス。
まだ誰にも知られていない、バーンの空中宮殿。
今は地上の死の大地地下で、ジオウ衆によって秘密裡に組み上げられている。
表向きには、ただの荒れ果てた死の大地。
生命の気配も薄く、地上の諸国からも見向きされにくい不毛の地。
だが、その地下では、魔界の土木技術とバーンの魔力工学を結集した巨大宮殿が少しずつ形を得ていた。
「浮上機構は?」
「バーン様の魔力炉待ちやな。こっちの構造だけなら、いつでも積める。問題は隠蔽や。地上の連中に気づかれたら面倒やからな」
「気づかせるな」
「せやから死の大地なんや。誰も好き好んで調べに来ん」
ジョウは軽く肩をすくめた。
ハドラーは頷き、次に別の図面へ目を向けた。
巨大な城の設計図。
岩の巨人にも、要塞にも見える異形の構造物。
鬼岩城である。
「鬼岩城は、俺が使って良いのか」
ハドラーが問うと、ジョウはあっさり答えた。
「バーン様の許可は出てるよ。何処に配置するん。移動させとくで」
その軽さに、ガンガディアが眼鏡の奥で目を細めた。
「鬼岩城を“移動させとく”で済ませるあたり、ジオウ衆の感覚は時々恐ろしくなりますな」
「城は動かすために造るもんやろ」
「普通は守るために造るものです」
「守る場所が変わるなら動いた方が便利やん」
ジョウは当然のように言った。
キギロが低く笑う。
「いいねえ。城が動くなら、森も動かしやすい。城の影に苗を隠して、夜のうちに根を伸ばす。楽しい仕事になりそうだ」
「お前の楽しいは、たいてい敵にとって悪夢だ」
ハドラーが言うと、キギロは肩をすくめた。
「俺は臆病だからね。敵が来る前に、敵の足場を森に変えておきたいだけさ」
「臆病者は敵地の地盤を侵食しない」
「生き残るためには必要だろう?」
ハドラーはそれ以上突っ込まなかった。
キギロはこういう男だ。
自分では後ろ向きな生存戦略のつもりで、実際にはかなり前のめりに敵の領域を食う。
その能力は、地上に橋頭堡を築く上で極めて有用だった。
ハドラーは卓上の地上地図を見つめた。
そこには大陸、海、山脈、河川、王国、未開地が細かく記されている。
地上は豊かだ。
水がある。
森がある。
光がある。
土がある。
かつて少年だったハドラーが、焦がれるように見上げた世界。
だが、今のハドラーはそれをただ奪いたいとは思わない。
バーンに教えられたからだ。
強い者が欲しいものを奪うだけでは、国は続かない。
支配とは、壊すことではない。
守り、育て、使い、残すことだ。
地上に橋頭堡を築く。
それは魔界の未来のためであり、やがて開くギアガの大穴を守るためでもある。
ハドラーは地図の一角に指を置いた。
「ラインリバー大陸を抑えようと思う」
ガンガディアが身を乗り出した。
「理由をお聞きしても?」
「まず水系だ」
ハドラーは大陸を横切る大河を指でなぞった。
「この大陸は河川が多い。内陸へ物資を運びやすい。水運を押さえれば、地上の諸国の動きも読みやすい」
ガンガディアは頷いた。
「兵站に優れますな」
「次に自然が豊かだ。森も湿地も多い。キギロの能力が活かしやすい」
キギロの目が細くなる。
「魔の森を広げろ、というわけだね」
「ただ広げるな。村を呑むな。街道を完全には塞ぐな。地上の者に、ただの異変と思わせろ」
「なるほど。怖がらせすぎると討伐軍が来る。気づかれない程度に根を張る。嫌いじゃない」
「お前向きだ」
キギロは嬉しそうに笑った。
ハドラーはさらに続ける。
「そして、ギアガの大穴が開けば、この大陸は守りやすい」
その言葉に、場の空気が少し重くなった。
ギアガの大穴。
まだ開いていない、バーンの大計画。
地上の大海に結界を張り、海底を抜き、魔界へ光と水を導く神業。
その実行には、地上側の防衛拠点が必ず必要になる。
穴を開けた瞬間から、地上の諸勢力は動く。
人間の王国も、竜族も、神の使徒も、海中の種族も。
混乱は避けられない。
その時、地上に信頼できる軍事拠点がなければ、ギアガの大穴は守れない。
「ラインリバー大陸を押さえれば、ギアガ周辺への補給線を組みやすい。鬼岩城は移動要塞として使える。魔の森は隠れた防壁になる。河川は兵站路になる」
ハドラーは指を止めた。
「それに、豊かな土地だ。壊すには惜しい」
ガンガディアがわずかに笑った。
「昔のハドラー様なら、まず焼き払って恐怖を示すと仰ったでしょうな」
「昔の俺ならな」
ハドラーは否定しなかった。
「だが、焼いた土地からは何も取れん。死んだ川は兵を運ばない。怯えきった民は、最初の反乱で敵に寝返る」
「では、支配ではなく浸透ですな」
「そうだ」
ハドラーの目が鋭くなる。
「鬼岩城は正面の威圧。キギロは森と裏道。ガンガディア、お前は現地勢力の分析だ。どの王が買える。どの貴族が脅せる。どの宗教勢力が邪魔になる。全部洗え」
「承知いたしました」
「ジョウ」
「はいはい」
「鬼岩城をラインリバー大陸東岸へ移せるか」
ジョウは地図を覗き込み、顎に手を当てた。
「東岸か。海沿いやな。地盤は少し柔らかいけど、補強すればいける。最初から完全展開せん方がええな。半埋没で隠して、必要になったら起こす形がええ」
「起こす?」
「せや。山か岩山に見えるよう寝かせといて、戦時に立ち上げる。鬼岩城やし、それくらいの方が絵になるやろ」
ガンガディアが小さく咳払いした。
「絵になるかどうかはともかく、奇襲性は高いですな」
「敵が城やと思ってへんもんが、いきなり城になったら驚くやろ」
「それは確かに」
ハドラーは地図を見つめたまま、低く笑った。
鬼岩城。
魔の森。
河川。
死の大地地下のバーンパレス。
そして、まだ見ぬギアガの大穴。
すべてがつながり始めている。
かつてハドラーは、地上に出て魔王になることだけを夢見ていた。
だが今は違う。
地上を踏むことは目的ではない。
地上に橋頭堡を築き、魔界の未来を支えることこそが目的だった。
「バーン様は、この配置をどう見られるかな」
ガンガディアが問う。
ハドラーは少しだけ黙った。
あの大魔王なら、すでにもっと遠くを見ているだろう。
地上の王国だけではない。
竜族。
神々。
海中種族。
魔界諸勢力。
そして、バーン自身が死ねば世界が滅ぶ大結界の未来まで。
だが、それでもハドラーにはハドラーの役目がある。
「見せる価値のある布陣にする」
ハドラーは言った。
「俺はバーン様に拾われた。腐った世界を捨てるなと教えられた。ならば、俺が地上で作る橋頭堡も、ただの侵略拠点では駄目だ」
彼は地図上のラインリバー大陸を強く押さえた。
「ここを、魔界が地上と渡り合うための最初の楔にする」
キギロが笑う。
「楔には根を絡めておくよ。抜こうとした奴の足も、一緒に絡め取れるようにね」
ガンガディアが眼鏡を直す。
「では私は、楔を抜きに来る者たちの名簿を作りましょう。脅す者、懐柔する者、殺す者、利用する者。分類しておきます」
ジョウが図面を丸める。
「ほな、鬼岩城は東岸半埋没案で進めるわ。バーンパレスの方もあるし、こっちも忙しなるで」
ハドラーは頷いた。
「頼む」
その言葉に、ジョウが少しだけ目を丸くした。
「ハドラー様も変わったなあ」
「何がだ」
「昔なら、頼む、やなくて、やれ、やったんちゃう?」
ハドラーは鼻を鳴らした。
「やれ」
「はいはい。そういうことにしとこ」
ジョウは笑いながら去っていった。
残されたハドラーは、再び地図を見る。
ラインリバー大陸。
地上の豊かな土地。
かつて少年だった自分が、ただ奪いたいと願った世界。
今、その地は別の意味を持っている。
魔界の未来を守るための橋頭堡。
ギアガの大穴を守るための外郭。
バーンの大計画を地上から支える牙。
ハドラーは静かに拳を握った。
「地上の魔王に俺はなる、か」
昔の自分の言葉を、低く呟く。
ガンガディアもキギロも、何も言わなかった。
ハドラーは続けた。
「今なら、少し違うな」
彼の目に、若き日の炎が戻る。
だがそれは、ただ燃え広がる野火ではない。
炉の中で鍛えられ、剣を打つための火だった。
「地上に、魔界の未来を築く」
その日、ラインリバー大陸への進出計画が始まった。
まだ地上の者は知らない。
死の大地の地下でバーンパレスが眠っていることを。
鬼岩城がやがて山のように立ち上がることを。
魔の森の根が、少しずつ地上の土を探り始めることを。
そして、かつて地上を夢見た少年魔族が、今や大魔王バーンの名代として地上に橋頭堡を築こうとしていることを。
ジオウとは時王と書いてジオウ。
なんでやろ。