(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
ウルス湾の海底、そのさらに深く。
人の目には届かぬ蒼黒の水底に、ひとつの宮殿があった。
巨大な白珊瑚を柱とし、黒真珠を砕いて敷き詰めた床。
深海魚の燐光が天井に吊るされた水晶へ反射し、海中でありながら青白い月光のような輝きを宮殿内に落としている。
外壁のまわりでは、人面を思わせる甲殻の魔物、鋭い牙を持つ海蛇、半魚半人の兵たちが幾重にも巡回していた。
そこは海の王国。
そして同時に、海の魔窟でもあった。
玉座に座すのは、亜麻色の髪を持つ美しい人魚。
長い髪は海流に揺られ、真珠のような肌は淡い光を返す。
瞳は冷たく、唇は甘く、微笑めば男を溺れさせる類の美貌だった。
彼女は海を支配する者。
ウルス湾の女王。
マーマン族の中でも、とりわけ強大な血を引く存在。
クイーンマーマン。
だが今、海の者たちは彼女を別の名でも呼ぶ。
――深海の大魔獣。
それは畏怖の名であり、侮蔑の名でもあった。
彼女はゆるやかに頬杖をついた。
「……また駄目だったのね」
玉座の下にひれ伏す配下のマーマンが、震えながら答える。
「は、はい……。ウルス村の近くへ放った魔物は、また討たれました」
「で?」
「そ、その討伐者を、例の通りこちらへお連れしましたが……」
人魚の紅い唇が、わずかにつり上がる。
「結婚を拒んだ?」
「……はい」
次の瞬間、水流が爆ぜた。
ひれ伏していた配下の身体が数メートル吹き飛び、珊瑚の柱へ叩きつけられる。
悲鳴も上げられず、男はそのまま泡を吐いた。
宮殿内が静まり返る。
人魚は苛立ちを隠しもせず、長い髪をかき上げた。
「弱い男ばかり」
その声は美しい。
だが、その言葉には容赦がない。
「少しばかり魔物を倒せる程度で、私の伴侶になれると思ったのかしら。耐えられもしないくせに」
海底宮殿に侍る侍女たちも、誰一人として顔を上げなかった。
彼女は強い。
強すぎる。
同族の雄では、その力に耐えられない。
身体も、魔力も、気位も。
だから彼女は地上へ目を向けた。
この時代は戦乱の世だ。
魔物たちが地上の覇権を争う時代。
ならば、海を治める自分にふさわしいのは、地上を制するほどの強者でなければならない。
人間など論外だった。
脆く、弱く、短命で、海の中では溺れるしかない下等な種。
生かしておく価値すらない。
「下等な人間どもは、海辺でびくびく怯えながら生きていればいいのよ」
彼女は玉座から立ち上がった。
「この世界は、強いものが手にすべきもの。海も、陸も、空も。すべて私のものになる」
そう、信じていた。
だからこそ、ハドラーが来た時、彼女は笑った。
海中の魔族たちを掌握するため、魔王ハドラーがウルス湾へ現れたという報告を受けた時、彼女は嘲るように言ったのだ。
「魔王ハドラー? 地上で少し名を上げた程度の男でしょう?
ちょうどいいわ。強ければ夫にしてあげる。弱ければ、海の底で骨にしてあげる」
そして今。
そのハドラーが、宮殿の大広間に立っていた。
海中であるにもかかわらず、その姿には揺るぎがない。
魔力で水を裂き、闘気で海圧を退け、堂々と前を向いている。
大柄な体躯。
燃えるような眼。
荒々しさを残しながらも、ただの猛将ではない重みがあった。
かつて「地上の魔王に俺はなる」と叫んだ若者は、数百年の修練を経て、今や魔界の大計画を担う将となっている。
ハドラーは宮殿内を見回した。
「見事な宮殿だ」
第一声がそれだった。
人魚は眉を上げる。
「怖くはないの?」
「何がだ」
「ここは海の底。あなたのような地上の魔族が、好き勝手に振る舞える場所ではないわ」
「ならば、お前が俺を止めればいい」
ハドラーは平然と言った。
その態度に、人魚の口元が吊り上がる。
「面白い男」
彼女は玉座の階段を一段ずつ降りていった。
尾ひれが優雅に揺れる。
その美しさは、海底の闇に咲いた花のようだった。
「魔王ハドラー。私はこの海を治める者。あなたの支配になど入る気はないわ」
「支配しに来たつもりはない」
「では、何をしに来たの?」
「海中の諸勢力をまとめるためだ」
「同じことよ」
彼女は笑った。
「まとめる、なんて言葉で飾っても、要は私に頭を垂れろと言っているのでしょう?」
「違うな」
ハドラーの声は低い。
「お前に、より大きな戦の中で役目を果たせと言いに来た」
人魚の目が細くなる。
「戦?」
「いずれバーン様は、魔界と地上の運命を変える」
宮殿の水が、わずかに震えた。
「その時、海も無関係ではいられん。だから海の者どもには、今のうちに秩序を与えておく必要がある」
「……ずいぶん大きな口を利くのね」
「事実だ」
「なら、示してみせなさい」
彼女の笑みが、獲物を見つけた肉食獣のものに変わる。
「私より強いと」
次の瞬間、宮殿の床が弾けた。
幾条もの水流が槍のようにハドラーへ襲いかかる。
左右の柱の陰から、巨大な海蛇が飛び出す。
天井からは鋭い殻を持つ海魔物が降り注ぐ。
だが、ハドラーは動じない。
拳が一閃する。
水槍が砕け、海蛇の頭蓋が割れ、海魔物たちがまとめて吹き飛ぶ。
その一撃だけで、大広間の海水が渦を巻いた。
人魚の瞳が見開かれる。
「……っ!」
「小手調べか」
ハドラーは前へ進んだ。
「なら次だ。お前自身が来い」
侮辱だった。
女王の顔が歪む。
「なら望み通りに……!」
尾ひれが激しく波打つ。
広間全体の海流が彼女へ集まり、巨大な渦となってハドラーを飲み込む。
同時に彼女は歌うような声で呪文を紡ぎ、海底の岩盤すら裂く魔力を叩きつけた。
水圧、魔力、海流、呪詛。
海中で戦う者としては、まさしく王者の力である。
だが、ハドラーはそのすべてを真正面から受け止めた。
「ぬううっ……!」
闘気が噴き上がる。
海流が押し返される。
渦が裂ける。
魔力が砕け散る。
そして一気に距離を詰めた。
人魚が目を見開くより早く、ハドラーの掌が彼女の肩をとらえる。
そのまま海底の柱へ叩きつけた。
轟音。
白珊瑚の柱がひび割れ、宮殿が大きく揺れる。
「く……っ!」
彼女は叫び、怒りに顔を歪めた。
その瞬間だった。
美しかった輪郭が、ぐにゃりと崩れる。
亜麻色の髪の下から、禍々しい棘が伸びる。
細かった腕は節くれ立ち、爪は刃のように伸び、肌は深海の鱗に覆われていく。
顔立ちは裂け、巨大な牙がのぞく。
美しい人魚の姿は、魔力で整えられた仮面にすぎない。
その正体こそ、クイーンマーマン。
深海の大魔獣。
同族すら恐れる本来の姿であった。
侍女たちが悲鳴を上げる。
配下の兵たちも、思わず顔を伏せた。
「見るなっ!!」
女王の絶叫が海底を揺らした。
それは怒りであり、恥であり、長年抱えてきた劣等感の噴出だった。
「見るな、見るな、見るなっ!
私をそんな目で見るなぁっ!!」
狂乱した彼女は、巨大な爪でハドラーを引き裂こうとする。
尾で薙ぎ払い、咆哮で海流を狂わせ、怒りのままに暴れた。
だが、それでも。
ハドラーは退かなかった。
拳で受け、腕でいなし、踏み込み、そして正面から打ち据える。
修羅場を潜った武人の動きだった。
バーンの元で鍛えられた男の力だった。
「ぐ、あ……っ!」
最後に放たれた一撃が、クイーンマーマンの巨体を玉座の足元まで吹き飛ばす。
彼女は崩れ落ちた。
海水に血がにじむ。
尾ひれが痙攣し、長い髪が乱れる。
立てなかった。
敗北。
それは明白だった。
ハドラーはゆっくりと近づいた。
女王は顔を伏せたまま震えている。
怒りのためではない。
恐怖でもない。
見られたからだ。
自分の本当の姿を。
醜いと思い込み、隠し続けてきた怪物の顔を。
彼女は小さく呟いた。
「……殺しなさい」
ハドラーは眉をひそめた。
「何だと?」
「見たのでしょう……私の、本当の姿を……」
声が震えている。
「美しい人魚など、所詮は作り物よ。私は深海の大魔獣。化け物。
同族ですら恐れた怪物。……そんなものを妻にしようなんて、思うわけないじゃない」
ハドラーはしばらく黙っていた。
そして、鼻で笑った。
「くだらん」
女王がはっと顔を上げる。
「……え?」
「俺は強い者を見に来た。お前の顔を見に来たわけではない」
ハドラーは言った。
「真の姿がどうした。力があるならそれでいい。海を治める器があるなら、それで十分だ」
彼女は呆然とした。
そういう言葉を、想像したことがなかったのだろう。
誰もが美しい姿に見惚れ、怪物の姿を恐れた。
強さを欲しながら、真の姿には目を背けた。
だが、目の前の男は違う。
その強さを真正面から見て、なお価値を認めている。
「お前は俺に負けた」
ハドラーは告げた。
「だが、弱くはない。海の魔族を率いる力もある。ならば俺のもとで働け」
「……軍門に、降れと?」
「そうだ」
女王の唇がかすかに震える。
「もし……従えば」
「海はお前に任せる」
ハドラーの答えは簡潔だった。
「バーン様の大計画において、海の統治は重要だ。海に住む者、海底に住む者、深海に潜む者。そのすべてをまとめろ。いずれ必要になる」
彼女はしばらく、何も言えなかった。
その胸の内には敗北の悔しさもあっただろう。
誇りを折られた苦しさもあっただろう。
だが、それ以上に。
目の前の男の強さが焼き付いていた。
暴力としての強さ。
武人としての強さ。
そして、自分の本質を見ても退かない強さ。
彼女はゆっくりと頭を垂れた。
「……わかりました」
その声は、先ほどまでの女王の尊大さを失っていた。
「この海の勢力、あなたに従いましょう。魔王ハドラー」
ハドラーは頷く。
「よし」
だが彼女は顔を上げきれなかった。
真の姿のままでは、どうしても目を合わせられない。
醜いと思われたくない。
嫌われたくない。
そんな感情が、じわじわと胸を満たしていく。
やがて彼女は、おそるおそる魔力を練り、再び美しい人魚の姿へ戻った。
けれど、その態度はもう先ほどまでと同じではなかった。
「え、ええと……」
もじもじと指を絡める。
「さ、先ほどの……その……無様な姿は……できれば、その……忘れていただけると……」
ハドラーは怪訝そうに見た。
「別に構わん」
「そ、そう……ですか……」
「お前の真の姿だろう。隠す必要があるのか」
「そ、それは……」
彼女は耳まで赤くした。
「あなたの前では……あまり、その……見られたく、ないの」
ハドラーはしばし沈黙した。
海の魔物たちも、宮殿の侍女たちも、揃って黙り込む。
さっきまで人間を虫けらのように殺す冷酷な海の女王だった者が、今や頬を染めておどおどしている。
落差が激しすぎた。
やがてハドラーは、どこか困ったように言った。
「……好きにしろ」
その返事だけで、彼女の胸は妙に高鳴った。
ああ、この人は強い。
そして、自分の醜さを見てもなお、価値を失わないと言った。
その事実が、海底より深く心へ沈んでいく。
かくして、ウルス湾の海底宮殿を治める女王は、ハドラーの軍門に降った。
海の魔族を掌握するための大きな一歩であり、同時に、海の女王にとっては人生で初めて本当に惚れた相手との出会いでもあった。
もっとも、その後しばらくのあいだ、彼女はハドラーの前に出るたびに姿勢を正し、髪を整え、真の姿が出そうになると必死で魔力を抑え、おどおどと視線を泳がせることになるのだが。
その様子を見たガンガディアが後日、眼鏡を押し上げながらこう評したという。
「海の女王とは、ずいぶん難儀な生き物ですな」
そしてキギロは、楽しそうに笑って言った。
「いいじゃないか。強い女が一人増えた。しかもハドラー様の前じゃ借りてきた魚みたいになる。見てて飽きないよ」