(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
オトギリ姫が大魔王バーンの城へ招かれたのは、ハドラーに敗れてから数日後のことであった。
海中の魔族をまとめる者。
ウルス湾の海底宮殿を治める女王。
亜麻色の髪を持つ美しい人魚。
そう紹介されて、彼女は玉座の間へ通された。
魔界の城は、海底宮殿とはまるで違う。
白珊瑚の柱もなければ、黒真珠の床もない。
あるのは、黒曜石めいた床と、闇に沈む高い柱、そして底知れぬ魔力を湛えた玉座である。
その玉座に座す者こそ、大魔王バーン。
ハドラーが主と仰ぐ、魔界の王。
オトギリ姫は、ゆっくりと膝を折った。
「ウルス湾のオトギリ、御前に」
声は静かだった。
だが、胸の内は穏やかではない。
ハドラーに敗れた。
真の姿を晒した。
そのうえで、殺されず、配下として生かされた。
屈辱はある。
悔しさもある。
だが、それよりも大きいのは、恐れだった。
この玉座の王もまた、自分の真の姿を知っているのだろうか。
深海の大魔獣。
同族からさえ恐れられたクイーンマーマン。
魔力で美しい人魚の姿をまとい、怒りに呑まれれば醜い本性を晒してしまう怪物。
ハドラーは気にしないと言った。
だが、それは彼が武人だからだ。
強さを見て、顔を見なかっただけだ。
では、この大魔王はどう見るのか。
値踏みするのか。
嘲るのか。
利用価値だけを認めるのか。
玉座の上から、バーンの声が降りた。
「面を上げよ。オトギリ姫」
姫。
その呼び方に、彼女の肩がわずかに震えた。
恐る恐る顔を上げる。
バーンは彼女を見ていた。
鋭く、深く、逃げ場のない眼差しで。
だが、そこに嫌悪はない。
「ハドラーより聞いておる」
バーンは言った。
「海の女王。クイーンマーマン。深海の大魔獣と呼ばれし者」
オトギリの喉が詰まる。
その名を、ここで聞きたくはなかった。
美しい人魚の姿をしていても、その奥の本性を見透かされる。
そう思った瞬間、指先が冷えた。
「……お聞き及びでしたか」
「うむ」
「ならば、私のことも……」
「知っておる」
バーンは静かに答えた。
「美しい人魚の姿は、魔力によるもの。怒りに満ちれば、真の姿へ戻る。己ではその姿を醜いと思うておる」
オトギリは唇を噛んだ。
玉座の間に控える魔族たちの気配が、急に遠くなる。
知られている。
やはり、すべて。
彼女は視線を落とした。
「……お見苦しいものを、ハドラー様にはお見せしました」
「見苦しい?」
バーンの声が、わずかに変わった。
低く、重く。
オトギリは思わず身を固くした。
「何故に己の真の姿を醜いと思う」
その問いは、叱責ではなかった。
だが、逃げ道を許さない響きがあった。
オトギリは答えられない。
なぜ、と問われても困る。
そう思ってきたからだ。
美しい人魚の姿は愛される。
優雅な髪、白い肌、細い腕、柔らかな声。
海辺の人間たちが歌にするような、人魚の姫の姿。
だが真の姿は違う。
深海の圧に耐えるための鱗。
獲物を裂くための爪。
海底の闇を見通すための眼。
同族をも震えさせる巨大な魔力と肉体。
それを見た者は恐れる。
恐れるから、醜いのだと思った。
愛されないから、醜いのだと思った。
「……誰もが恐れます」
オトギリは小さく言った。
「同族も、人間も、魔物でさえ。あの姿を見れば、深海の魔獣だと」
「それで?」
バーンは問う。
「恐れられるものは醜いのか」
オトギリは言葉に詰まった。
「牙は醜いか。爪は醜いか。鱗は醜いか。深海の闇に耐える肉体は、恥じるべきものか」
バーンは玉座から立ち上がった。
その瞬間、玉座の間の闇が深く沈む。
「答えよ、オトギリ姫」
彼女は震えた。
「私は……」
「己の真の姿を醜いなどと思う種族が、あるはずがない」
バーンの声が、玉座の間に広がった。
「己の鱗を恥じる魚があるか。己の翼を呪う鳥があるか。己の角を憎む魔族があるか。己の牙を切り落とし、人の歯を欲しがる獣があるか」
オトギリは顔を上げた。
バーンの眼差しには、怒りがあった。
だが、その怒りは彼女へ向けられていない。
「それは神々の呪いよ」
バーンは言った。
「神々の……呪い……?」
「そうだ」
バーンはゆっくりと玉座の階を降りる。
「地上の者を美しいものとする。人間の姿を良いものとする。光の下に生きるものを正しきものとし、闇に生きるもの、海底に潜むもの、魔の血を引くものを醜きものとする」
オトギリの胸がざわめいた。
そんなことを考えたことはなかった。
自分が醜いと思うのは、自分の問題だと思っていた。
真の姿が恐ろしいから。
自分が怪物だから。
誰にも愛されないから。
だが、バーンは違うと言う。
「地上に生きる魔のものに科せられた呪いだ」
バーンの声は冷たく、しかし深い。
「人間を美しいもの、良いものと憧れ、手を伸ばす。己の本性を隠し、己の肉体を恥じ、己の血を呪う。地上の光に焦がれ、その光に照らされた形だけを正しきものと思い込む」
バーンはオトギリの前に立った。
彼女は思わず顔を伏せそうになる。
だが、バーンの声がそれを止めた。
「顔を上げよ」
命令だった。
オトギリは逆らえず、顔を上げる。
バーンは彼女を見下ろしていた。
「余は姫の心を弄んだ神々を許さぬ」
その言葉が、深く刺さった。
許さぬ。
自分をではない。
自分の姿をでもない。
自分に、己を醜いと思わせたものを。
オトギリの喉が震えた。
「ですが……私は、人の姿に憧れました」
「それもまた呪いだ」
「美しくありたいと思いました」
「美を望むことは罪ではない。だが、己を否定せねば得られぬ美など、呪いにすぎぬ」
「私は……ハドラー様に、醜いと思われたくなくて……」
「ハドラーは貴様の強さを見た」
バーンは静かに言った。
「余は、貴様の在り方を見る」
その声には、不思議な重さがあった。
「オトギリ姫。貴様は海の王者だ。深海の圧に耐える肉体を持ち、海底の闇を見通す眼を持ち、同族を従える魔力を持つ。人魚の美貌もよかろう。だが、それは貴様の一面にすぎぬ」
バーンはわずかに目を細めた。
「真の姿を恥じるな」
オトギリの胸の奥で、何かが崩れかけた。
ずっと隠していたもの。
自分で自分を傷つけるために握りしめていた刃。
醜い。
恐ろしい。
愛されない。
見られてはならない。
その言葉が、ひとつずつ剥がされていく。
「余の前で、偽る必要はない」
バーンは告げた。
「貴様が人魚の姿を選ぶなら、それもよい。女王としての装いであろう。外交の仮面としても有用だ。だが、己の真の姿を憎むためにその姿をまとうならば、余は許さぬ」
オトギリの指先が震えた。
「……私は」
声が出ない。
玉座の間の空気が重い。
けれど、その重さは責めではなかった。
まるで深海そのものが、彼女の本来の姿を受け入れるために沈黙しているかのようだった。
オトギリは目を閉じた。
魔力で整えた輪郭が揺らぐ。
亜麻色の髪が波打つ。
白い腕に鱗が浮かび、細い指が鋭い爪へ変わる。
人魚の優美な尾が、深海の大魔獣の尾へと姿を変える。
眼は大きく、牙は長く、肉体は海の底の圧力に耐えるための強靭なものへ戻っていく。
侍従たちが息を呑む気配がした。
だが、バーンは動かない。
眉ひとつ動かさない。
オトギリは恐る恐る目を開いた。
大魔王は、変わらぬ眼で彼女を見ていた。
「それが、海の女王の姿か」
バーンは言った。
オトギリは震えながら答える。
「……はい」
「よい姿だ」
その一言で、彼女の心は完全に揺らいだ。
よい姿。
美しい、ではない。
慰めでもない。
可憐だとも、愛らしいとも言わない。
だが、その言葉は何より深く届いた。
海に生きるものとして。
強きものとして。
女王として。
自分の姿を、正しく見られた気がした。
「牙は海を裂くためにある。爪は敵を退けるためにある。鱗は深海を生きるためにある。その身は、貴様が貴様として生きるために与えられたものだ」
バーンの声が、静かに響く。
「神々がそれを醜いと呼ぶなら、神々の目が曇っておる」
オトギリは膝をついた。
今度の膝は、恐怖によるものではなかった。
涙のような泡が、彼女の口元からこぼれる。
「……私は」
声が震える。
「私は、この姿で……生きてよいのですか」
「当然だ」
バーンは即答した。
「己の姿で生きられぬ王に、海は任せられぬ」
オトギリは頭を垂れた。
深海の大魔獣と恐れられた女王が、玉座の前で静かに身を伏せる。
「大魔王バーン様」
「何だ」
「この身、この海、この魔力。すべて、御身の大計画にお使いください」
バーンは見下ろした。
「ハドラーに従うだけでは足りぬか」
「ハドラー様には、私の強さを認められました」
オトギリは言った。
「ですが、バーン様には……私の姿を、私自身を、許された気がいたします」
バーンは少しだけ沈黙した。
「許すも何もない」
やがて、そう言った。
「貴様は最初から、貴様であっただけだ」
オトギリはさらに深く頭を下げた。
その日、ウルス湾の女王は大魔王バーンに臣従した。
海を支配するためだけではない。
いつの日か、ギアガの大穴が開き、地上の海と魔界が結ばれる時。
海に生きるものたちが、新たな時代へ移る時。
その先頭に立つために。
そして何より、神々の呪いに弄ばれた己の心を、二度と誰にも踏みにじらせぬために。
玉座の間を辞す時、オトギリはまだ真の姿のままだった。
恐れは残っている。
恥じらいも残っている。
ハドラーの前に出れば、また慌てて人魚の姿へ戻ってしまうかもしれない。
それでも。
彼女は初めて、自分の爪を見て、嫌悪ではない感情を抱いた。
これは醜さではない。
海を生き抜くための形だ。
そう思えた。
玉座の上で、バーンは静かに彼女の背を見送っていた。
「神々め」
誰にも聞こえぬほど小さく、大魔王は呟く。
「魔のものに己を呪わせるとは、悪趣味にも程がある」
その声には、冷たい怒りがあった。
地上を滅ぼすための怒りではない。
魔界を救うための怒りだった。