(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ…   作:ぶーく・ぶくぶく

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民を導け

 

 オトギリ姫が再びバーンの玉座の間へ召された時、そこにはすでに大きな地図が広げられていた。

 

 地上の地図である。

 

 大陸。

 海。

 海流。

 諸島。

 人間の王国。

 魔物の生息域。

 そして、海底に住む種族たちの集落。

 

 その細かさに、オトギリは息を呑んだ。

 

 海の女王である彼女ですら、これほど広範な地上海図を見たことはない。

 ウルス湾の周辺だけではない。

 深海の海溝、海底火山、マーマン族の古い集落、巨大海獣の回遊路まで記されている。

 

 バーンは玉座に座したまま、白い指で地図の一点を示した。

 

「オトギリ姫」

 

「はっ」

 

「この海域を見よ」

 

 そこは、地上の大海の一角だった。

 

 陸からは遠く、浅瀬も少なく、深い海溝が走っている。

 海中に住む者たちにとっては、豊かな漁場であり、同時に古い深海集落が点在する場所でもある。

 

「ここに魔界へ通じる大穴を通す」

 

 オトギリの瞳が揺れた。

 

 ギアガの大穴。

 

 バーンが魔界に光と水をもたらすために構想している、最大の神業。

 それがどこに開くのか、彼女は初めて具体的に示された。

 

 バーンの指が、地図上に円を描く。

 

 黒い魔力が滲み、海図の上に大きな円が浮かび上がった。

 

「海底を抜けば、海水は諸共魔界へ落ちる」

 

 静かな声だった。

 

 だが、その内容はあまりにも凄まじい。

 

「ただ穴を開ければ、地上の海は底抜けとなる。魔界は大洪水に呑まれ、地上は乾き死ぬ。ゆえに余は結界を張り、海を支える。必要な水と光だけを魔界へ導く」

 

 オトギリは地図上の円を見つめた。

 

 彼女は海の者である。

 

 だからこそ、その意味がわかる。

 

 穴が開く瞬間、この海域の水は激しく引かれる。

 海底の地形は崩れ、海流は狂い、周辺に住む者たちは大瀑布へ巻き込まれる。

 

 魔界へ落ちる水。

 

 海そのものが、底へ向かって崩れ落ちる光景。

 

 それは、海に生きる者にとって世界の終わりにも等しい。

 

「大瀑布に巻き込まれぬように」

 

 バーンは言った。

 

「この円の範囲内の者たちは移住させよ」

 

 オトギリは顔を上げた。

 

「私に、でございますか」

 

「うむ」

 

 バーンの答えは短い。

 

「海に住む者は、海の王に従う。余が命じれば恐怖で動く者もあろう。ハドラーが命じれば武力で従う者もあろう。だが、海底の民を本当に動かせるのは、海を知る者だけだ」

 

 オトギリは沈黙した。

 

 地図の円の内側には、いくつもの印がある。

 

 マーマン族の集落。

 貝殻都市。

 海底洞窟。

 深海魚を牧する一族。

 海蛇を神として祀る古い部族。

 地上の人間とは関わらず、海底で何百年も暮らしてきた者たち。

 

 彼らを移住させる。

 

 命令だけで済む話ではない。

 

 古い住処を捨てさせる。

 祖先の墓を移す。

 海流に慣れた民を別の海域へ移す。

 深海の圧力に適応した者たちを、安全な場所へ導く。

 移動できぬ卵や幼体、老いた者、海底に根を張る植物系の魔物まで考えねばならない。

 

 それは戦よりも難しい仕事だった。

 

「移住が完了したらば、余は結界を張る」

 

 バーンは続けた。

 

「それまでは穴を開けぬ」

 

 オトギリは思わず息を止めた。

 

 大魔王が待つと言った。

 

 海底の民の移住が終わるまで、世界を変える神業を保留すると。

 

 それは慈悲だけではないだろう。

 計画上、海中勢力の反発を避ける必要もある。

 大瀑布に巻き込まれた怨嗟が、後々の統治の毒になることも理解しているはずだ。

 

 だが、それでも。

 

 海の民を数としてではなく、移すべき者たちとして扱った。

 

 オトギリの胸に、奇妙な感情が灯る。

 

「バーン様」

 

「何だ」

 

「移住先は……」

 

「候補は用意してある」

 

 バーンが手をかざすと、別の海域にいくつもの光点が浮かんだ。

 

「浅海に適した者。深海に適した者。熱水域を好む者。暗き海溝を離れられぬ者。それぞれに移住先を分けよ。必要ならジオウ衆を使え。海底地形の補強、岩礁の造成、人工洞窟の建設も許す」

 

「ジオウ衆を、海底に?」

 

「彼らは岩盤を読む。水を読む。魔界の岩を削って水路を通した者たちだ。海底であろうと働けよう」

 

 バーンは当然のように言った。

 

「ザボエラにも協力させる。急な水質変化で病が出ぬよう、移住前に対策を打つ」

 

 オトギリは黙って地図を見た。

 

 これは破壊計画ではない。

 

 破壊を含んでいる。

 海底を抜く以上、確かに恐ろしい。

 

 だが、その裏には準備がある。

 移住がある。

 治水がある。

 生態への配慮がある。

 魔界へ光と水を導くために、地上の海の者たちをただ犠牲にするつもりではない。

 

 バーンは再び、ギアガ予定地を指した。

 

「そして、穴が通れば」

 

 その声が、わずかに低くなる。

 

「この付近の深海にも、太陽の光が届くようになる」

 

 オトギリの目が見開かれた。

 

「深海に……太陽の光を……」

 

「うむ」

 

 バーンは頷いた。

 

「地上の海面からでは届かぬ光が、海底の大穴を通じて下より差す。魔界へ落ちる光の一部は、海底側にも漏れる。結界の調整次第では、深海に光の帯を作れる」

 

 オトギリは言葉を失った。

 

 深海。

 

 そこは闇の世界だ。

 

 光を知らぬ種族がいる。

 光に耐えられぬ者もいる。

 闇に適応した目、皮膚、鱗、暮らし。

 

 太陽の光は、すべての者にとって救いではない。

 

 バーンもそれを理解しているのだろう。

 

「生きるものによっては苦しかろう」

 

 彼は言った。

 

「光を毒とする者もいる。闇を好む者もいる。故郷を変えられることを恨む者もあろう」

 

 オトギリは静かに頷いた。

 

 海の女王として、それはよくわかる。

 

 だが、バーンの声はそこで終わらない。

 

「だが、光に憧れる魔の者にとっては、住みやすい環境になろう」

 

 オトギリの胸が震えた。

 

 光に憧れる魔の者。

 

 それは、かつての自分でもあった。

 

 人間の姿に憧れ、地上の美に憧れ、己の真の姿を醜いと思い込んだ自分。

 神々の呪いだと、バーンに言われた自分。

 

 深海の者たちの中にも、いるかもしれない。

 

 闇の中で生まれながら、光を見たいと願う者が。

 海底に住みながら、太陽というものを一度でいいから浴びたいと夢見る者が。

 

 ギアガの大穴は、魔界だけでなく、深海にも新しい世界を開くのだ。

 

「……バーン様」

 

 オトギリは、地図から目を離せなかった。

 

「この計画は、海の形を変えます」

 

「そうだ」

 

「海底の民は恐れるでしょう。怒る者もいる。移住を拒む者も、私を裏切り者と呼ぶ者も出ましょう」

 

「であろうな」

 

「それでも、私に任せるのですか」

 

「任せる」

 

 即答だった。

 

 オトギリは顔を上げた。

 

 バーンは彼女を見ている。

 

「貴様は己の真の姿を恥じることをやめようとしている。ならば、今度は海の民にも選ばせよ」

 

「選ばせる……」

 

「闇に残る者。光の届く新海域へ移る者。魔界側の水域へ下る者。地上の別の海へ移る者」

 

 バーンは言った。

 

「余は道を作る。貴様は、海の民にその道を示せ」

 

 オトギリは深く息を吸った。

 

 玉座の間に海はない。

 けれど彼女の耳には、遠い潮騒が聞こえる気がした。

 

 これは、支配ではない。

 

 いや、支配でもある。

 

 バーンは大魔王だ。

 彼の計画は世界を揺るがす。

 逆らえる者などほとんどいない。

 

 だが、その中に選択の余地を作ろうとしている。

 海の民を、ただ押し流される存在にしないために。

 

 ならば、自分がやるべきだ。

 

 クイーンマーマンとして。

 ウルス湾の女王として。

 そして、神々の呪いに抗う海の魔として。

 

 オトギリは静かに膝をついた。

 

「承りました」

 

 彼女の声は、以前よりも落ち着いていた。

 

「この円の内に住む者たちを調べ上げ、移住先を定め、説得し、従わぬ者には力を示しましょう。深海の卵も、老いた者も、根を張る者も、可能な限り大瀑布の外へ逃がします」

 

「うむ」

 

「ただし、お願いがございます」

 

「申せ」

 

「移住先の一つに、光の届く海域をお作りください」

 

 バーンの目がわずかに細くなる。

 

「ほう」

 

「すべての者が望むわけではありません。けれど、深海に生まれながら光に憧れる者は必ずおります。その者たちが、己を呪わずに光を選べる場所を」

 

 オトギリは頭を垂れた。

 

「それを、私に治めさせてください」

 

 長い沈黙があった。

 

 やがて、バーンは低く笑った。

 

「よかろう」

 

 オトギリの胸が熱くなる。

 

「ギアガ開通後、予定地周辺の深海に光の帯を設ける。光を好む者のための新海域。貴様が治めよ」

 

「はっ」

 

「名も考えておけ」

 

 オトギリは一瞬、目を見開いた。

 

「名、でございますか」

 

「国を作るなら名がいる」

 

 その言葉に、彼女の心が震えた。

 

 国。

 

 ただの移住地ではない。

 避難先でもない。

 

 深海の魔の者が、自らの意思で光を選び、生きるための新しい国。

 

 オトギリは地図上の黒い円を見つめた。

 

 そこはこれから、世界を変える傷口になる。

 恐ろしく、危うく、無数の命を動かす場所になる。

 

 だが同時に、深海へ太陽の光を通す孔にもなる。

 

「深海に太陽の光を……」

 

 彼女はもう一度、呟いた。

 

「うむ」

 

 バーンは静かに答えた。

 

「魔界にも、深海にも、光を望む者はおる。ならば余は、その道を開く」

 

 オトギリは深く頭を下げた。

 

「この命に代えても、海の民を導きます」

 

「命に代えるな」

 

 バーンの声が即座に返ってきた。

 

 オトギリは思わず顔を上げる。

 

「生きて導け。貴様が死ねば、海の民はまた闇に迷う」

 

 その言葉に、オトギリはしばらく何も言えなかった。

 

 やがて、静かに微笑む。

 

「……はい。大魔王バーン様」

 

 その日、オトギリ姫はギアガ海域移住計画の総責任者となった。

 

 海の民を逃がすために。

 深海に光を通すために。

 そして、己の姿を呪わずに生きられる者たちの国を作るために。

 

 ギアガの大穴は、まだ開いていない。

 

 だが、その周囲に住む者たちの運命は、すでに静かに動き始めていた。

 

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