其二十三 ビフォア・サンライズ
―― 現世 空座町 ――
日もとっぷりと暮れ、家々に明かりが灯る頃。
背の高いビルからビルへ。屋根から電信柱へ。
人影が、夜の街を飛び回っていた。
下を歩く人々の装いからすれば、時代錯誤とも言うべき黒染めの着物と袴姿。足袋を履き、腰には一振りの刀を差している。
だが、その異様な姿を指摘する者はいない。
人影――着物姿の少女は、誰の目にも映らない。
死神。
現世の人間には、まず知覚すら出来ない高次の霊子体。
着物と同じ鴉の濡れ羽色をした髪に、年若い少女の様な容姿をしたその死神は、名を朽木ルキアと言った。
「ここが空座町……清音殿は以前、一緒に来たと言っていたが……」
風に乗った呟きも、姿と同じく誰の耳にも届かない。
「やっぱり記憶にないぞ……一体どういう事だ?」
ルキアの脳裏に、この駐在任務を拝命した時のことが蘇る。
有難いことに十三番隊第六席を賜り、敬愛する隊長の隣に立てるよう、日々の業務と鍛錬に励んでいた。
そんな折に下されたのが、今回の異動命令だった。
席官が現世に赴き、一か月もの間、駐在任務に就く。
それは長年にわたって隊長職を務めている上司――浮竹十四郎をして「珍しい」と呟かせるほどの、異例とも言える人事だった。
加えて不思議な事に、どうもルキア本人と周囲の人間で記憶に齟齬があるらしく、彼女は十三番隊に入隊した直後辺りで、四席である虎徹清音と共に一度この空座町に来た事があるようだった。
……ようだった、と言うのは言葉通りで、ルキア自身はこの辺りがどうにも不明瞭で上手く思い出せないのだ。
「デジャビュ、という言葉があるらしいが……それの反対だな……逆デジャビュか?」
拝命してから今に至るまで、どうにも奥歯に物が挟まったような、何とも言えない座りの悪さが付きまとっている。
そのことが頭を悩ませ、誰に聞かれるでもないしょうもない独り言をこぼす。
そして直後、自嘲するように小さく溜息を吐いた。
しかし――
次の瞬間には、その口元がきつく結ばれた。
ルキアが、空中でぴたりと立ち止まる。
「
一点を見つめ険しさを増す眼差しには、先程までの迷いの色は既に無い。
ルキアは左手を鞘に添えると短く息を吐き……
今度こそ誰の目にも映らないであろう速度で、その場から掻き消えた。
◇◇◇◆◆◆◇◇◇◆◆◆
「――これを以って四番隊第四席、吉良イヅルを十番隊副隊長に任ずるものとする」
任官状を前に、向かい合わせる様に膝を突き合わせる雛森桃と吉良イヅル。
「謹んでお受けいたします、雛森副隊長」
恭しく頭を垂れ、僅かな緊張を滲ませた声で吉良が答える。
深く下げた顔を中々上げようとしない彼の耳に、雛森の鈴を転がすような笑い声が届いた。
「おめでとう、吉良君」
「ありがとう、雛森君」
吉良が顔を上げる。
その表情が破顔一笑したことで、ようやく場に和やかな空気が満ちていった。
「虎徹副隊長も、ありがとうございました」
彼は雛森の後方に坐していた四番隊副隊長、虎徹勇音に向き直ると同じく座礼を取った。
「いえ、私は何も……吉良さん――いえ、吉良副隊長の努力の賜物ですよ」
「しっかし、良かったじゃねえか。これで俺たち同期四人の内、三人が副隊長になったんだぜ?」
苦笑する勇音とは反対方向から、先日六番隊副隊長に任ぜられた阿散井恋次の明るい声が響く。
「ああっ、酷いよ阿散井君!朽木さんだってもう辞令は下りてるんだから!」
「本当にルキアも間の悪い奴だよなあ。こんな時に現世の駐在任務なんてよ」
「まあまあ、ひと月なんてあっという間さ」
「ふふ、じゃあその時は四人でお祝いしなきゃね。あ、そうだ虎徹副隊長。先月女性死神協会で行ったお店、割引券もらってましたよね?」
「ああ、それなら私が持ってますよ」
「なんだあ?お前らそんな集まりやってんのかよ?」
「ふむ……ここは男性死神も対抗して協会を作るべきかも……」
賑やかな笑い声が、部屋の中に響き渡る。
そこにいるのは、これから尸魂界を担っていくことになる、次代の副隊長たち。
しかし――
そのひと月後に起こる騒動を、この時の彼らは知る由もなかった。
それが、後に
◇◇◇◆◆◆◇◇◇◆◆◆
「しっかし……一向に死神の力が戻らんではないか……」
引き戸の隙間から差し込む朝日に照らされ、目を覚ましたルキアは、今日こそはと期待を込めて霊力を引き出そうとする。
しかし、やはり今朝も――己の内に感じる霊圧に、回復の兆しはなかった。
するりと戸を引き、部屋の様子を覗き込む。
窓側に置かれた大きめのベッドでは、オレンジ頭の少年が静かな寝息を立てていた。
少年の名は黒崎一護。
ルキアは一護と出会った日の事を思い出す。
死神の姿を視ることができ、縛道を自力で解くほどの巨大な霊圧を持った人間。
そんな霊的濃度の高い彼を追って現れた虚から、一護は家族を守ろうと、生身の身体で立ち向かった。
そして――
あの時は、咄嗟に体が動いた。
反撃や防御などを考える暇もなく、ルキアは少年と虚の間に割って入り、敵を前にして重傷を負うと言う失態を犯した。
そして重罪とは知りつつも、目の前の脅威から彼を助けたいという一心で死神の力を譲渡した。
その選択に後悔はない。
寧ろあの時立てた誓いを守り、臆することなく動けたことに、安堵すら覚えていた。
だが――死神の力を全て奪い取られ、その回復にこれほど手間取ることになるとは、さすがに予想外だった。
そのせいで、黒崎一護という、まだ十五歳の少年に死神代行の責を負わせることになってしまった。
(そう言えば、一護の奴、妙な事を言っておったな……)
目の前の寝顔と、先日の彼の神妙な様子が重なる。
『石田が言ってたんだけどよ……
『何だその話は?そんな人物聞いた事も無いぞ?』
滅却師は昔、松本乱菊が提案した保護法で守られている種族のはず。
厳重な監視体制も敷かれている。
その目を掻い潜って――ましてや死神が滅却師を殺して回るなど、到底考えられないことだった。
ただ……
勘違いで済ませるには、どうにも釈然としない。
何かが胸に引っ掛かっている。
そんな感覚が残っているのも、また事実だった。
(いや……仮にそんな者がいたとして、大罪人の私がどの面下げて断罪する事ができよう……)
「後悔はない」と言ったそばから浮かんだ自嘲に、ルキアは鼻で笑った。
「早くお前を元の生活に戻してやりたいのだがな……」
ぽつりと漏らした呟きは朝の静けさの中へ溶けるように消えていった。
予感はあった。
一護が
大虚など滅多に現れるものではない。
それが空座町の虚大発生に呼応して、突如、現世に現れたのだ。
尸魂界側が事態を把握していないはずがない……
遠く――少しでも遠くへ。
これ以上、一護に迷惑は掛けられない。
万が一に備え、現世の暗号を施した書置きも残してきた。
自分が黒崎家から離れ、追手にその存在を気取られないように出来れば、一護が目を付けられることはない。
そう信じて、ルキアは夜の街を走っていた。
「ねえ、もういいんじゃない、ルキア?」
不意に耳朶を打った懐かしい声に、ルキアは思わず足を止めた。
声が聞こえてきた方向へ顔を上げる。
電柱の天辺――
満月を背負い、ひとつ結びにした金色の髪を夜風になびかせながら、一人の死神が立っていた。
「乱菊、殿……追手は貴女だったのですか……」
再会の喜びと、それから恐怖に、ルキアの顔が歪む。
「最初は六番隊に声が掛かったんだけどね。白哉は貴女に下された極刑の減刑を求めて中央四十六室に嘆願中だったの」
「極刑……!?」
淡々と告げられた刑罰に目を見開く。
「ええ……勿論、霊力の無断貸与程度の罪で、こんな判決なんて聞いたこともないわ。何かの間違い……私もそう思ってる」
茫然と立ち尽くすルキアの傍に乱菊が音も無く降り立つ。
「だから、ひとまずは大人しく着いて来てくれない?貴女が庇おうとしている人間の為にも……」
「乱菊殿……」
乱菊の説得に、ルキアが頷こうとした――その瞬間。
半身を引いた乱菊の脇を、一筋の青白い霊矢が疾駆した。
「目の前でクラスメイトが死刑台に連れていかれるのは、あまり気分の良いものじゃないね」
右手に霊弓を実体化させた石田雨竜が、同時に左手のビニール袋を掲げる。
「ああ、気にしないでくれ朽木ルキア。僕は偶々、深夜に買い物がしたかっただけなんだ。別に死神の霊気を感じたから気になって飛び出してきたわけじゃない」
「……」
「……ふふっ」
ドン引きするルキアの隣で、乱菊が堪えきれず吹き出した。
「しばらく会わない間に大きくなったかと思ったら、相変わらず可愛いわね、雨竜」
「――なっ?!石田と知り合いなのですか、乱菊殿!?」
今度は驚きに目を丸くし、ルキアが横を見る。
「昔、彼がうんと小さい頃に一度だけ、ね」
「そう……そして僕は見た……お前が滅却師を殺した所をな……!」
「ほ、本当なのですか……乱菊殿?」
「……その事、宗弦さんや竜弦から詳しく聞いてないの?」
「貴様が脅していた相手から正しい情報が出てくるとは思えなくてね」
雨竜の放った言葉に、乱菊は一度天を仰いだ。
そして、そのまま頭を抱える。
「えーーーっと……ごめん、その話詳しく話してあげたいんだけど、本当にごめん、今はルキアの方優先でもいい?次に会った時に話すから……イヤ、ホントにごめんなさい」
「その必要はないさ……」
乱菊の言葉を一笑に付し、雨竜は弓を構える。
「次なんてないからな!」
◇◇◇◆◆◆◇◇◇◆◆◆
黒崎一護。
死神・朽木ルキアに命を救われ、同時に大切なものを護る力を与えられた少年。
彼女に報いるため。
そして、自身が抱く「できるだけ多くの人を守りたい」という願いを叶えるために、死神代行となった。
そんな彼が、恩人の窮地を知って黙っていられるはずがなかった。
一護の振り下ろした斬魄刀が、アスファルトを叩き割る。
「く、黒崎……」
その背中に、四肢を五本の鉄柱で地面に縫い留められた石田雨竜が声を掛けた。
「よお、石田、なんて格好だよ」
「うるさい!それより油断するな。この前の大虚が可愛く思えるくらいの化け物だぞ……」
雨竜に言われるまでもない。
目の前の女が放つ威圧感に、一護は刀を握る手へさらに力を込めた。
「へっ……あんたみたいな人もいるんだな。死神ってのは、もっと辛気臭い集団かと思ってたぜ」
「おい!それは私の事を指しているんじゃないだろうな!?」
「こちとらお前以外の死神知らねーんだよ!」
軽口を飛ばしあう二人を尻目に、乱菊が誰に聞こえるでもない声で、「やっぱりこうなったか……」と呟く。
「ねえ。察するに君が、ルキアが死神の力を与えた子よね?」
「ああ、黒崎一護だ」
「ルキアはこれから尸魂界に戻って、その刑罰を受けなきゃいけないんだけど……」
「騙されるな黒崎……」
雨竜が割って入る。
「罰なんて生易しいもんじゃない。そいつは彼女を死刑にすると言ったんだ」
その言葉に、一護の表情が険しくなる。
「……だったら、はい、そーですかって訳にもいかなくなったな!」
斬魄刀を構え、切っ先を僅かなブレもなく乱菊へ突き付ける。
対する乱菊は、深い溜め息を一つ吐いただけだった。
構えることすらせず、自然体のまま一護を見据えている。
「どうした?かかって来いよ……!」
「……そっちこそ。始解しないの?解号くらいは待ってあげるわよ」
「しか……なんだって?」
「まあ、そうよね……」
「ま、待って下さい、乱菊殿!一護の奴は――」
ルキアが縋りつくように、乱菊と呼ばれた金髪の女死神を止めようとする。
その姿が、一護の視界の端に映った。
「あ?」
その視界を胸から突き出た白刃が遮る。
「なん――」
自分の中から何かが急速に失われていく。
そんな感覚を覚えた次の瞬間、一護の意識は闇に染まった。
「返してもらうわよ、彼女の力」
突如、頭上から降ってきた声に、雨竜が慌てて顔を上げる。
確かに一瞬前までルキアの隣にいたはずの乱菊が、いつの間にか手にした刀で、一護を背後から貫いていた。
「黒崎……!?」
「早とちりしないの。肉体には傷一つ付けちゃいないわ」
乱菊が音もなく刃を引き抜くと、一護が崩れ落ちる。
その身体には確かに傷口ひとつなく、出血もない。
だが、その身体には確かに傷口一つなく、出血もない。
唖然とする雨竜。
そんな彼の前へ、乱菊が腰を屈める。
自分の顔を覗き込まれていることに気づいた雨竜は、再び眉間に皺を寄せた。
その様子に乱菊は苦笑を漏らすと、指先で雨竜の額を軽く小突き、そのまま立ち上がった。
「さあ、行くわよ、ルキア」
乱菊はそのまま斬魄刀を抜き、穿界門を開く。
ルキアを促し、自らもその後に続いた。
門が閉じる直前――乱菊がふと振り向く。
そして、もう一度だけ雨竜と目が合った。
「じゃあ、またね。雨竜」
穿界門が閉じる。
それと同時に、あれほど存在感を放っていた霊圧も消え去った。
再び、夜が静寂を取り戻す。
いつの間にか雨竜の両手足を拘束していた鬼道も消えていた。
立ち上がった雨竜の頬に、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちる。
雨脚は、しだいに勢いを増していき――
その音に混じって、カラリ、カラリと高く響く、下駄の音が聞こえていた。