「だぁ、もう辞め! 辞めだ辞め! 腹減ったろ? なんか頼もうぜ」
重い空気を切り裂くように、リンは勢いよく立ち上がった。一度も口を付けなかった二人分のカップを流しに持って行く。中身はすっかりアイスココアだ。
表情を崩したリンとは裏腹に、シオンは真剣な眼差しを向ける。両手をきちんと膝に乗せて、自分の座るハイスツールをリンの居る方角へ回した。
「それって、最後の晩餐にするつもりじゃ無いでしょうね」
「ふっ、何言ってんだよ。まだ昼だぞ? 」
「私は本気で聞いてるの。貴女、死ぬつもりなんでしょう? 」
リンは答えず、ココアのカップを水道水で流す。スポンジを手に取って、二つのカップを洗い上げると水切り台に乗せた。それから水道を止めて、振り返らないままでやっと返事をする。
「だったら止めるのか? 」
シオンは何度か口を開閉させて、小さく言った。
「……分からないわ」
再び水道を出したリンは軽く手を洗って振り返る。
いつもの調子を意識しているように、明るい調子で「ほら、宅配でいいだろ? 何食べるか決めちまおうぜ」
自分のスマホを取って来たリンは、宅配アプリを開いてシオンに見せる。
「牛丼は? 」
「お肉の気分じゃ無いの」
「そ? なら、カツ丼」
「もっと嫌よ」
分かりやすくムッとするシオンを見て、リンが吹き出した。
「ふっはは、そりゃそうか。海鮮ならどうだ? 」
「塩分は摂りたく無いの」
「じゃあ何だったらいいんだよ! 」
痺れを切らしてシオンに画面を突きつける。
「これとか? 」
数回のスクロールの後にタップされたのは、カフェのアフタヌーンティーメニューだった。
「昼飯の話をしてるんだったよな? 」
数十分後のアイランドカウンターには、天丼とパンケーキが並んでいた。
「とんでもねぇ組み合わせだな」
割り箸を横割りしたリンは、隣からの甘い香りに眉を顰める。
「結局、さっき言ってなかった物にしたのね」
シオンは一緒に頼んだアイスカフェオレをストローで一口飲んだ。まだほんのり暖かいパンケーキに、別添えのバターを乗せる。
「お前、油っこいのは嫌う癖にバターは食べるんだな」
「バターはバターじゃない、何を言ってるの? 」
「なっ、お前と話してるとこっちが非常識みたいな気分になんだよなぁ」
その後、二人はほとんど会話せずにそれぞれの昼食を平らげた。
空になったプラ容器を片付け終えた頃、リンがぽろっと溢す。
「お前なら、魔女を殺せるよな」
「え、ええ。それはそうね」
何の事か分からない様子のシオンは曖昧に返す。
「やっぱ逃げてちゃダメだよな……腹も膨れた事だし」
リンはソファまで移動して、シオンに手招きする。
首を傾げたシオンは、リンの表情を見て素直に従った。
リンが座ったのはL字ソファと向かい合う、一人掛けのソファ。シオンはそのL字ソファに座るのかと思ったが、リンの隣の、もう一つの一人掛けへ腰掛けた。
「え、そっち? 」
「いけない? 」
ソファに横向きで正座して、リン側の肘掛けに両手を添えるシオン。
「いや……まぁ、いいけど」
リンは居心地悪そうに身震いして、咳払いもした。
「お前に……その」
すっかり調子を崩したリンの声が上擦っている。
「お前に、折入って頼みがあるんだ」
リンの横顔に、猫のようにソファで丸まったシオンの視線が刺さる。
「頼みって? 」
その内容は、あんまりな無理難題だった。
「私が魔女になったら、お前に殺して欲しい」
肘掛けに添えた手に顎を乗せるシオンは、二回瞬きをしてきちんと座り直した。
「やっぱり、っそんな事だと思ったわ」
「軽いな」
「貴女、私の命の恩人で良かったわね。そうじゃ無かったら今頃張り倒してるところよ」
シオンはジトっとリンを見てそう言うと、首を振って何も映っていないテレビの方へ視線を移す。
「私、最近楽しいの……ゆずかと出会えて、貴女と戦えて」
「そうかよ」
シオンはそっぽを向いたままで続ける。
「あの日、貴女に助けてもらわなかったら私は、自分の叶えた願いの意味さえ知らないままだった。きっとあのまま魔女になっていたんだわ」
シオンは手に視線を落とし、逆剥けを弄り出した。続きがなさそうなのを見て、リンが問う。
「この話……受けてくれるのか? 」
「そうね……自殺教唆をするつもりはないけど……貴女が決めた事なら、私には止められない」
落ち着かない様子のシオンは足をソワソワ動かし、長毛ラグの毛並みを撫で付けた。
「私は、貴女の気持ちが分かっちゃうんだもの……私だって、死んだ方が良い人は居ると思うわ」
リンは一瞬、目を見開いてから笑った。
「やっぱりお前はアタシとは全然違うな。正反対だ」
「何よそれ、リンは何を考えているのか分からないわ」
冗談っぽく乏しい表情を不機嫌にしたシオンに、リンはヘラヘラと笑い返した。
「お前には敵わねぇよ」
˙˚°✰
次の日も、リンは学校を休んだ。その次の日も。
土曜日の朝は雨が降っていた。4月に入ってから初めての纏まった雨。
冷んやりと湿った空気で目を覚ましたシオンは、顔を洗っていつものように髪を結ぶとリンの部屋を訪ねた。
この二日の間、リンは普段なら学校に居る時間から魔女退治に出ていた。勿論シオンもそれについて行った。
一昨日も昨日も、リンの方からか誘いがあって一緒に出掛けたが、今日は何故だか部屋まで行ってみようと思った。
ドアノブに手を掛けて、開けるのをやめる。リンにノックくらいしろと言われたのを思い出した。
コンコンコン、三回鳴らして返事を待った。
しかし、いつまで経っても静かなまま。
まだ寝ているのかと思って、ドアを開けてみた。
ドアの隙間から中を覗くと、空のベッドが目に映る。想定外の光景にドアを開け広げると、普段通りの部屋があった。散乱したクリーニング戻りの服や、広げっぱなしの教科書。いつも通りの部屋に、リンだけが居なかった。
休日は昼まで寝るのが常の彼女が、何も告げずに朝から出掛けるなんて。
胸騒ぎがして、シオンは家を飛び出した。
バルコニーに出してある突っかけを適当に履いて、パジャマ姿のまま、傘も持たずに。
六階のバルコニーから飛び降りたって、魔法少女だからへっちゃらだった。
殺してくれと言われたあの日から、リンは普段通りの振る舞いをしていた。少なくともシオンにはそう見えた。
しかし、だからこそ、より一層気に掛けていた筈なのに、こんなところで取り逃してたまるものか。
この数日、リンがグリーフシードを使っているところを見ていない。彼女の精神状態を推し量ることは難しいが、連日の魔女退治だけでも相当消耗している筈だ。
シオンは心当たりを片っ端から回った。ひなみの魔女が長い期間を過ごした旧校舎裏、四日前にひなみの魔女を殺した図書館。そのどちらにもリンの姿はなかった。
図書館の駐輪場の屋根に入って息を整える。ずぶ濡れになった前髪から雫が落ちるのを見ながら、他にリンが行きそうな場所を考えた。
青いチェックのパジャマはすっかり水分を含んで、地肌に張り付いてくる。冷たい感触に嫌悪感を抱きつつ、次にどうするか思案した。
もしこのまま見つからなかったら。もし次に見つけた時、リンが人では無くなっていたら。最悪の場合ばかりが浮かんで来て頭が中々纏まらない。
身体が酷く震えて、じっとしていられない。
暫くして、なんとか息を整えたシオンは再び走り出した。
˙˚°✰
楽しかったあの頃の記憶が頭を巡って、それがもう何処にもないと言う現実に胸が押し潰されそうだった。
リンは雨粒の当たる感覚に意識を向ける。
重い雨粒が全身にぶつかって、体を濡らし雫が伝う。
その感覚が徐々に鈍っていった。
記憶の中は陽だまりみたいに暖かで、そこに居ると息が出来ないほど苦しい。
――あ、あの。東雲さん、だったよね? 隣のクラスの。
――やっぱりそうだ。実は私も、魔法少女なんだ!
ひなみの声がする。まるで今この瞬間、呼び掛けられているかのように鮮明に。
リンは、ぎゅっと瞼を閉じる。
――リンちゃん、大変! この子怪我してるの!
――元気になって良かったね、チビちゃん。ん? この子の名前だよ、チビちゃんって呼ぶの。
そうか、そんな事もあったな。
ひなみがチビを連れてきた時の事を思い出す。魔法で傷を癒してやると、さっきまでが嘘のように元気になって、部屋に閉じ込められるのを嫌がった。
リンの家で面倒を見るという案はこの時に却下され、結果的にチビは野良猫生活を再開させたのだ。
――チビちゃん、今日も会えるかなぁ。私おやつ買って来たんだ。
――もう、危ないよ! 自分で降りられないのに、どうして木に登るの?
思えばチビがいたお陰で、ひなみとより一層仲を深める事が出来た。あの小さな子猫がいつも会話の中心にいて、クラスも違えば趣味も合わない二人の女子中学生にとって、最大といえる共通の話題となっていた。
――駄目、放って置いたら大変な事になっちゃうよ。リンちゃんお願い、一緒に戦って!
どうして断らなかったんだろう。あの時、引き摺ってでも結界から引き離していれば——
——リンちゃん……ごめん……みんなの事、お願いね。
みんなって何だよ、お前はどうなる?
他の誰が助かったって意味がない。アタシにはお前しか、ひなみしか居ないのに。そんな勝手な事言うなよ。
アンタを失いたくなくて、沢山人を巻き込んで、その挙句チビまで失って……アタシにはもう、何もない。
アタシは誰も救えない、誰かを傷付けてばかり。
アタシって本当バカだよな、ひなみ。
こんな奴、せめて魔女にでもならないと、釣り合いが取れない。お前もそう思うだろ?
˙˚°✰
走り出したシオンの、向かった先は公園。ゆずかと由香里が、ひなみの結界に巻き込まれた場所だ。
そこにリンが居た。傘もささずにベンチに座っている。
シオンはその姿に駆け寄った。ベンチの前まで来ると、力が抜けて膝に手を突く。
「こんなところで、何してるのよ……心配したじゃない」
荒い呼吸を誤魔化そうと、落ち着いた口調を意識する。
しかしリンは、無反応でただじっと座っているだけだった。雨で色の変わったスウェットズボンの上に両手を揃えて、状況にそぐわない綺麗な座り姿勢をしている。俯いて、垂れた前髪からは止めどなく雨が流れていた。いつものリンの姿とは程遠く、髪を下ろした姿が小さく頼りなく思えた。
シオンは続きの言葉を思い付けず、黙って呼吸を整えた。
「……早く終わらせたい」
雨音にかき消されそうな小さな声。
「え? 」
「しんどいんだ……お前と一緒に居るのも……普通に立って、普通に振る舞うのも。もう限界なんだ」
「リン……」
リンは思い出したように息を吐き出した。
「普通にしてるだけでも……お前に酷いこと言うんじゃないかって」
糸が切れたように上体を折る。両腕を肩に回して、震える身体を抱いた。
「バカ、バカ……リンのバカ! 」
シオンは、その小さな背中に覆い被さるように抱きしめた。地面に付いた膝が泥に染まっても、気にしない。
「私が、そんな事気にするとでも思った? 私には取り敢えず生きてみろとか調子のいい事言って、そんな理由で……そんなの、私は許さないわ」
「……んだよ……何なんだよ」
顔が見えなくても、リンが泣いているのが分かる。
シオンはそっとリンから身体を離して、続きを言った。
「それに、こんな所で貴女を一人にしていたら、私がひなみさんに祟り殺されちゃうわ」
上手く言えているか分からないが、シオンなりのいつもの軽口だった。
「ひなみは、そんなんじゃないよ」
リンは息の多い声で言った。今日初めて顔が見える。目元が真っ赤で、小さな子供のようだった。
「貴女がいつ死んだって構わないけど、今日は駄目。私は毎日そう言うわよ」
「そんな、屁理屈じゃねぇか」
二人ともびしょ濡れで、二人ともズタボロで、少しだけ笑った。
「良く見たらお前それ、パジャマじゃねぇか。こんなに濡れて……風邪引くぞ」
「魔法少女でも風邪を引くの? 」
シオンが膝立ちのまま首を傾げると、二つのお団子ヘアから雫が滴る。
「引くに決まってんだろ」
「知らなかったわ」
リンは晴れた目元を細める。
立ち上がって、申し訳程度に膝を払ったシオンが「帰りましょう。リンの方が風邪引いてるかも」と、手を差し出す。
リンはその手に、震える自分の手を重ねようとして、止まった。
「ぁ……駄目だ、もう……」
雨足は益々強くなった。