ふぁあ……
既にいつもの景色となりつつある通学路、学校帰りのゆずかは大欠伸をした。
「ゆずちゃん寝不足? 」
由香里がゆずかの顔を覗き込む。
「うん……昨日ちょっとね」
「朝からずぅっと眠そうだよね。ちゃんと寝ないと身長伸びないぞ」
「由香里ちゃんには言われたくないなぁ」
ゆずかより五センチ背の低い由香里は、ムッと頬を膨らませて爪先歩きした。
「そう言ってられるのも今のうちだよ? ゆずちゃんなんてすぐ抜かしちゃうんだから! 」
ちょこちょこと早歩きになってゆずかの前に振り返る。そこで由香里は目を丸くさせた。
「あ! あの子猫、前に見た子じゃない? 」
由香里の視線の先にゆずかも振り返ると、そこにはサビ柄の小さな子猫が居た。
春休み中、二人で遊んだ日に見かけた。ゆずかが自由帳に描いた子猫だ。前に見たのは駅の向こう側の公園で、ここからは少し距離がある。
「本当だ! こっちの方まで遊びに来るんだね」
「待ってぇ」
由香里は猫を脅かさないよう、そっと追いかける。ゆずかもその後を追った。
「もう、あんまり追い回しちゃだめだよ? 」
サビ猫は住宅街を右へ左へ、縫うように走る。途中、生垣に登ったり態々細い場所を通ったりしながらも、本気で逃げようとはしない。
やがて子猫は民家の狭間、細い路地の入り口で座った。
追いかける由香里も、その前で止まる。
「はぁ……やっと追いついたよ」
息を切らしたゆずかが由香里を見ると、その視線は猫よりももっと奥にあった。
「由香里ちゃん? 」
「……、……」
路地の奥を見つめて何か呟いている。瞳孔は震えていて、明らかに様子がおかしい。
ニャーン。
足元には子猫が擦り寄って来ていた。
ゆずかは由香里の異変に気付きつつも、猫を抱き抱えて笑ってみる。
「ねぇ、由香里ちゃん? 猫ちゃん捕まえちゃったよ? 」
しかし、反応の無い由香里はゆっくりと歩みを再開させた。路地の奥へ奥へと。
「ちょっと、そんな狭い所入ったら危ないよ? 」
荒い砂利が敷かれていて、使われなくなったトタンの板が立て掛けられている。
板で足元が狭くなっていて歩きづらそうだ。それでもふらつきながら進んでいく由香里を、ゆずかも追いかけた。
トタン板を乗り越えた先、室外機の生ぬるい風が脚に当たって気持ち悪い。ゆずかは捲れ上がる自分のスカートを押さえた。
「由香里ちゃん! スカート捲れちゃうよ! 」
いつもの由香里ならば大騒ぎでスカートを押さえ付ける筈だが、今はそれにも無反応でどんどん歩いて行く。
ゆずかの不安なんて知らない腕の中の子猫は、ゴロゴロと喉を鳴らして眠り始めた。
「ねぇ……由香里ちゃんってば」
由香里の肩に手を触れる。
それと同時、視界が歪んだ。足元がぐにゃりと曲がり、平衡感覚が狂ってしまう。
驚いて室外機の方を向くと、アイスクリームのように溶け始めていた。その溶けた隙間から、暗い筈の路地裏に青空が見え始める。
ドロドロの路地裏、もう真っ直ぐ立っていられない。
目眩がしたのかと思った。
何、これ、私の目、おかしい? いや、景色が……!
「きゃーー! 」
とうとう地面の感触が無くなったかと思うと、ゆずかは真っ逆さまに大空を落ちていた。
ぎゅっと目を閉じたが、数秒経っても想像した衝撃が来る事はなく、恐る恐る目を開ける。
まだ落ちている。痛いほどの色彩豊かな青空に、紙吹雪が鮮やかに舞って。それを追い越す速さでゆずかは落ち続けていた。
「ここ、何処⁉︎ なんなの……そうだ、由香里ちゃんは! 」
見渡すと、ゆずかの少し上に同じく落ちる由香里が見えた。
ゆずかは猫を抱いたまま残りの手足を広げ、空を泳いでなんとか由香里に近づこうとした。
にゃっ!
腕の中から子猫が抜け出した。青空の中、風に鍵尻尾を靡かせて大の字に広がったサビ柄が遠ざかって行く。
「ちょっと! 」
引き留めようと手を伸ばしたが、ゆずかよりずっと軽い子猫はあっという間に上空へ浮き上がる。そして、由香里の元まで飛んでたどり着いた。ブレザーに爪を立ててよじ登っている。
「……あと少し」
猫が離れたお陰で目一杯身体を伸ばせたゆずかも、なんとか由香里に手が届く所まで辿り着いた。やっと届いた右手で、足を掴んで引き寄せる。
「しっかりして! ねぇ、由香里ちゃん⁉︎ 起きてよ! 」
捕まえた由香里の身体は完全に脱力しており、意識がない。首元を見ると、何か黒い物が付いていた。シミのような、でも動いているような。目を凝らすとデザイン性のある刻印に見えて来た。
ゾクリと背中に嫌な感覚がする。
「何……これ……」
尚も落ち続ける二人と一匹。地面さえまだ見えて来ない。
強風の中、由香里を抱き締めると、間に入り込んだ子猫が顔を覗かせた。こんな時なのに呑気な子猫に、ゆずかは余計に不安を募らせた。
掴めるものは何も無い。
「なんなの、どうしてこんな……」
どうにかしなくちゃいけないのに、目頭が熱くなってさらに前が見えなくなる。
ごめんなさい、ごめんなさい。もっと良い子にするから……誰か助けて……
ゆずかは硬く目を瞑った。
――その時。
二人と一匹は一瞬にして何かに包まれる。
縄だ。
無造作に集まって来た革っぽく艶めく縄が、二人の周りを蠢いて絡まり合い、やがて網状になる。
しなやかな網が、二人を受け止めて摩擦でギシギシ音を立てる。体が引っ張られる感覚に、ゆずかは由香里と子猫を抱く手に力を込める。
やがて落下が止まると、袋状になっていたそれは生き物のように動いて平らになった。
視界が広がったゆずかは辺りを見渡す。そこはまだ、青空の真っ只中だった。
「はっ、間に合ったか……って、またお前らかよ」
背後からの声に、振り返る。
そこには眉を顰めた昨日の少女、東雲リンが居た。ゆずか達が乗っているのと同じ材質の足場に立っている。
彼女は相変わらず鋭い目付きで、見慣れない服装をしていた。
紺を基調としたハリのあるドレス。シアー素材のフリルからはかぼちゃパンツが見え隠れしている。そこにオレンジ色の装飾が散りばめられていて、星空みたいに綺麗だ。
しかし、とても日常生活で身につける格好には見えない。
ゆずかは由香里を抱きしめたまま、リンの服装を熟視する。二人の隙間から顔を覗かせる子猫は、リンに向かってゆっくり瞬きした。
「これって……魔法少女⁉︎ 魔法少女の衣装だよね⁉︎ 」
まだ涙の溜まった目を丸くするゆずかに、リンは面倒臭そうに額を抑えた。
そこへもう一人、影が降り立った。
「リン、何か問題? 」
リンのすぐ横へ矢のように真っ直ぐ着地して声を掛けたのは、黒と紫を基調とした衣装の少女だ。ゴスロリ風のそれはリンの物より数段布が多そうに見える。
膝上丈のスカートから、はみ出しそうなほどボリュームのあるパニエがフワフワ揺れている。
何より目を引くのは、刃先だけでも身長に届きそうな大きな鎌。細身の少女がそれを軽々抱えている。
髪は緩くウェーブがかって、ハーフアップツインお団子にしてある。ゆずかはその少女に見覚えがあった。
「あれ、シオンちゃん⁉︎ 」
「よっす」
ゆずかを見たシオンは、小さく手を挙げて軽過ぎる挨拶を返す。
「はぁ……ったく、めんどくせぇなぁ。おいシオン、さっさと片付けっぞ」
「ええ」
二人の魔法少女は、羽でも付いているかのように軽々飛び上がる。するとゆずか達を乗せている縄が再び動き、リン達の乗っていた足場と合体すると先ほどよりも頑丈そうな鳥カゴ型へ変形した。
ゆずかはカゴの隙間から外を覗く。
視界の上、広い青空の中に大きな鳥が見えた。
沢山の紙吹雪を撒き散らして飛ぶその鳥は、自身も色とりどりな紙に包まれていて工作品みたいに見える。
紙で出来た鳥が飛んでる?
とても現実とは思えない光景に、ゆずかの心臓が煩いくらいに高鳴った。何が起こっているのか分からない恐怖と、それに負けないくらいの興奮で手が震える。
大鳥は激しい紙音を立てながらこちらに堕ちてくる。
ゆずかの元に辿り着く直前、一緒に落ちて来たシオンが鳥の頭に両足で蹴りを入れた。ぐわりと振れた頭に持って行かれて鳥の身体は大きく左に逸れる。
それに怒ったのか一層暴れ出した大鳥の首に、リンの伸ばした鞭が伸びる。
それを振り子のようにしてリンが大鳥に飛び乗った。次に、落下するシオンへも鞭を伸ばすと鳥の背に引き寄せる。
「これって……」
ゆずかはリンの鞭と自分達を包んでいる縄が同じ物だと気が付いた。
よく見ると艶のある細い糸が幾重にも織り込まれて出来ているのが分かる。
リンちゃんって、本当は怖くない子なのかも。
さっきまでの恐怖なんてすっかり忘れて、二人の戦いに見入ってしまう。
リンが鞭をグッと引くと、暴れ狂う鳥の長い首に巻き付いた鞭が蛇のように這って、段々と全身を覆った。
簀巻きになった鳥は二人を乗せたままどんどん堕ちて行く。
ゆずかはその様子から目が離せなかった。手に汗をかいて、猫の毛が湿ってしまう。
どんどん下へ堕ちて行くというのに二人は慌てる様子がない。
シオンが首の付け根に立つと、ゆっくりと鎌を持ち上げる。鋭い刃先が頭の上までくると、重力に任せて一気に鎌を振りかぶった。
鳥の首が飛ぶ。自由になった頭だけが飛び上がってゆずかの目の前で浮遊する。力なく開いた嘴から、鋸状の歯が見えた。切り口から順番に、逆立った紙の羽がパラパラほぐれて、花が散るように消えて行った。
――縺ゥ縺�@縺ヲ縲√Μ繝ウ縺。繧�s
この世の物とは思えない異音。
青空が歪んで、辺りが暗くなる。
ゆずかは気持ち悪くなって何度も瞬きすると、いつの間にかまた子猫が手元を抜け出して行っていた。
「戻った、の? 」
座り込んで手を付いたアスファルトに一枚、紙吹雪が落ちて本当の雪みたいに溶けて消える。
「気ぃつけろよな。アンタも魔法少女候補なら見えてんだろ? 魔女の口付けくらい」
しゃがみ込んだ視線に青いブーツが見えて、上を向くとリンが立っていた。背後からはシオンも覗いている。
「魔女の口付け……? 」
「ここん所に、あったろ? 」
リンが自分の首筋に指を当てた。
二人の魔法少女が光に包まれて、瞬時に服装を変化させる。シオンは黒いパーカーへ、リンは瑞学の制服へ。
「凄い……凄いよ! 二人とも! ね、ね、今のどうやったの? 」
恐怖と興奮で立ち上がる事も忘れて、リンの足元に縋り付くゆずか。
「だぁっ! ほらな! 面倒臭い」
リンはゆずかを振り払いながら、シオンに振り返って親指で足元を指した。
「ゆずか、変態なの? 」
頷いたシオンは、ジトっとゆずかを見下ろす。
ふと、子猫がリンの足元に擦り寄った。ゴロゴロと喉を鳴らしてローファーの足の間に寝転がる。
「あーはいはい、チビ。お前も気ぃ付けろっての」
リンは子猫を慣れた手つきで抱き上げた。
˙˚°✰
由香里が目を覚ますまで、近くの公園で休む事になった。
移動すると、リンがおぶっていた由香里をベンチに寝かせる。先に座ったゆずかはそれを受け止めて、膝に頭を乗せた。少しだけ唸り声を上げたが表情は穏やかで、ただ眠り続けている。
「由香里ちゃん、大丈夫なんだよね? 」
「さっきも言ったろ? すぐ目ぇ覚ますって」
「うん……」
俯いたゆずかは、規則的な寝息を立てる由香里の前髪を撫でた。それを見たリンが頭を掻く。ポニーテールが崩れないよう、指一本で。
「あんま気にすんなよ。魔女の口付けの事だって知らなかったんだろ? アイツ、どんだけ適当な勧誘してんだよ……」
「うん……あいつってキュゥべえの事、だよね。二人はキュゥべえと契約してるの? 」
「そうよ。願いを叶えて貰って、魔法少女になったの」
シオンは背中で手を組んで、重心を左に傾ける。肩から髪が落ちてサラサラ揺れる。
「あの……差し支えなければ、願い事って……」
恐らくデリケートな話であろう事はゆずかにも想像出来る。その上で聞いてみたいと思ったのだ。あの魔女と呼ばれる怪物と戦ってまで叶えたかった願い事を。
「そんなもじもじすんなって。アタシの願いは自由になる事。クソ両親からの監視を逃れる為に、魔法少女になったんだ」
リンはなんて事ないように答えた。
「そんな理由で? ……リンちゃんのお家、大変なんだね」
「ふっ、別に」
リンは神妙な表情のゆずかと、目を合わさずに小石を蹴飛ばした。
「あの、シオンちゃんは? 」
「私は……パパを消したの」
「け、消した? って? 」
ゆずかは言っている意味が分からず、声を裏返しながら聞き返した。
「初めから居なかった事にしたのよ」
相変わらず抑揚無く言うシオンの肩に腕を回して、リンが茶化すように付け足す。
「コイツ、父親ん事スッゲー恨んでんだよ」
「恨んでるんじゃないわ、恨んでいたのよ」
「同じじゃねーか」
不機嫌顔で返すシオンに突っ込むリン。二人にとってはごく普通の会話なのだろう。しかし、ゆずかはそこにどうしようもなく違和感を感じた。
「消したって、本当の本当に消しちゃったの? 最初から、産まれなかった事になっちゃったって事? それじゃ……今ここにいる、シオンちゃんは? 」
「ええ。キュゥべえが言うには、親殺しのパパラッチ? を防ぐ為……だとかって」
「おい、親殺しのパラドックスだろ? コイツの願いがなければ、父親が産まれる。父親が産まれればコイツも産まれて願いを叶える。すると、父親は産まれなくなって……ってその無限ループを断ち切る為に、シオンは何処にも属さない形で世界に取り残されてるって訳らしい」
一度に色んな情報が出て来てゆずかは目を回しそうになる。
一生に一度の願い事をそんな事に使うなんて。そもそも父親の存在を消してしまおうだなんて、どうしてそんな考えに至ったというのだろうか。
「え、えと、じゃあ、詰まりは……シオンちゃんはここに居るのに、産まれてはない……で合ってる? 」
「ピンポーン」
シオンが人差し指を立てて効果音を出した。
「はぁ……お前はいちいち軽すぎんだよ。契約、止めてぇんだよな? 」
リンは眉を顰めてシオンの肩を小突く。「説得ってのはこうすんだ」とゆずかの隣、ベンチの横にしゃがんだ。
口調とチグハグな丁寧なしゃがみ姿勢で。眼差しはまるで、子供を諭すように。
ずっと大人しく側で座っていた子猫が、リンの膝に飛び乗った。
「あんなぁ、今回はちょっと運が良かったってだけでアタシらが見つけてなきゃ、秒でお陀仏だったんだ。コイツも、あんたも」
言って、リンは由香里とゆずかを順に指差す。
ゆずかはドキッとする。目の前で起こっているファンタジーな展開に目を奪われるがあまり、未だに意識のない親友の事をちゃんと見てあげられていなかったかも知れない。
由香里はただ気を失っただけ。ほんのちょっと不思議な空間に迷い込んだだけだと、楽観視していた自分に気付く。
リンはゆずかの表情を見て、更に続ける。
「一般人に魔女は見えねぇ。でもな、魔女は口付けで誘導して自分の結界に取り込んじまうんだ。そして、殺す。喰っちまう」
由香里が、自分が、今こうしていられる事は当たり前じゃない。
心臓の奥が冷やされたような感覚がした。
リンは立ち上がりながら更に続けた。子猫が膝から飛び退く。
「魔法少女ってのはそういうのと戦ってんだよ。たった一つ、願いを叶えたってだけで一生戦い続ける羽目になる」
「待って……」
ゆずかは、ベンチに背を向けて歩いて行こうとするリンを引き留める。
「なんだ? それでもやるってのか? 」
振り返ったリンは、さっきまでの親しみのある顔ではない。化け物を殺す、冷徹さに満ちた表情をしていた。
言い返す言葉が思い付かなかった。
「アイツが起きる前にずらかるぞ、シオン」リンは背中でシオンを呼び、公園を出ていく。
残されたシオンは、ゆずかに小さく手を振ってそれに着いて行った。
˙˚°✰
うぅん……
ゆずかが2人の行った方を眺めて何も出来ないでいると、膝元から声がした。
いつの間にか子猫もいなくなっている。
「由香里ちゃん? 大丈夫? 」
いっぺんに現実に引き戻ったゆずかは由香里に声をかける。
「ゆずちゃん……? 私、何してたんだっけ」
まだ寝ぼけているのか、微睡んだ顔をして由香里が起き上がろうとする。
ゆずかはそれに手を添えて「子猫と遊んでたら、眠っちゃったんだよ」と咄嗟に嘘をついた。
魔女の見えない由香里に、先ほどまでの出来事を説明するのは憚られた。
「えぇ、そうだっけぇ……」
まだ眠そうに目を擦る由香里。
「あ、そうだ。由香里ちゃん」
ゆずかは、そっと由香里に耳打ちした。
「今日はくまさんおパンツなんだね」
耳から離れると、寝ぼけ顔を真っ赤にした由香里がパッとゆずかへ顔を向ける。
「な、な、なんで……なんで知ってるのぉ! ゆずちゃんのエッチ! 変態! 」
一日に二度も変態呼ばわりされたのは不服だが、由香里がすっかり元に戻った事は確認出来た。
ゆずかは複雑な笑みを湛えて、ポカポカと肩を叩く由香里を宥めた。