リンの自宅へ足を踏み入れると、フローラルの香りと共に広いリビングダイニングが目に入った。玄関から地続きで開けた大きな部屋になっている。
玄関との境界は外国製であろう大きなソファが担っており、対角線上には同じ柄の一人掛けソファが二台並んでいる。その間には毛足の長いラグにガラス製のローテーブルが設置されていて、透明な天板からは下に置かれたブランド製のアタッシュケースが見えていた。
「凄い……ここ、本当に人の家なの? 」
キョロキョロと部屋中を観察するゆずかに対し、リンは居心地悪そうに溜息を吐いた。
「案内するから、手洗いな」
リンは靴をほっぽり出して、ソファの背面から乱暴にスクールバッグを放り投げた。それからゆずかへ手招きして、リビングを通り過ぎた先に続く廊下を歩いて行く。
ゆずかは自分のスクールバッグを玄関先にチョコンと置いて、自分とリンの靴を揃えてから後を追った。
「ねぇ、あのテーブルの下の箱、中身が全部お札だったりしない? 」
「阿保か、んな訳ないだろ? 全部空だよ」
冷たい廊下を摺り足する音が二人分。通りかかった一つ目のドアが開いていて、洗面台が覗いているのにリンはその部屋に止まらなかった。
ゆずかは不思議に思って引き止める。
「あれ? 洗面所通り過ぎたよ」
「ん? あぁ、あれは父親のだよ。アタシ達はこっち」
リンは廊下の突き当たりにあるドアの向こうを指差して言う。
父親の? 専用の洗面台があるって事?
「待って! 家に水道は幾つあるの? 」
ゆずかは疑問に思った事をそのまま口に出す。勢い余って声が大きくなってしまった。
「急に何だよ騒がしいな。数えた事ないけど……三つか? キッチンのも入れたら五つだな」
「い、五つも……リンちゃんって凄いお嬢様なんだねぇ」
感嘆の色を含ませるゆずかに、リンは「いいからさっさと手を洗え」と促した。
更に興味が沸いて間取りを聞くと、お風呂が二つ洗面台が其々の脱衣所に一つと二つあるらしい。
アイランドキッチンに付けられたハイスツールに腰掛けたゆずかは、足をぶらつかせながら言った。
「そんなに広いんじゃ、お掃除も大変そうだね」
「週に二回ハウスキーパーが来るから別に大変ってこたないな」
「え、ハウスキーパー⁉︎ ってメイドさんみたいな? 凄い! 」
驚いたゆずかの前にココアが置かれる。
「ただの掃除サービスだよ、別に凄かない」
リンは用済みになったココアの袋に封をし直してキッチンの引き出しへしまった。
「んな事より、本題だよ」
アイランドユニットを挟んだ向かい側、リンは台に手をついた。
「魔法少女の秘密、教えてやるからよ」
そう続けたリンは、先程までの緩んだ空気を引き締めるような冷たい声色だった。
˙˚°✰
「呼んだかい? リン」
リンが大声で呼ぶと、直ぐに現れた白い獣。キュゥべえだ。
ところで、家の中は閉め切られている筈なのにどうやって入ったのだろうか。不思議に思ってゆずかは辺りを見渡すが、出入り出来そうな所は見つからなかった。
「やっぱり、居ると思った。ちょっと手伝えよ」
リンは彼の登場を微塵も不思議がらない。サッとその左手に嵌められた指輪を、卵形の宝石に変化させた。一瞬辺りが青白い灯りに包まれる。
「わぁ……綺麗」
見惚れるゆずかを見て、リンはハッとしたように言った。
「そういやソウルジェム、ちゃんと見せた事なかったっけ」
ほら、と台に置かれた魂の宝石。その名に相応しい輝きを放つライトブルーの石、表面は滑らかで細かな装飾の入った枠に包まれている。リンの魔法少女衣装にあるのと同じ、半円型の飾りがてっぺんにくっ付いているのが特徴的だ。
「これがアタシ達の本体だ。契約した時、魂をここに移される」
身を乗り出して、指でソウルジェムを突くリン。
ゆずかはそこまで言うなんて、ソウルジェムというのは魔法少女にとって相当大切な物なんだろうと思った。
「ついでだからこれも見しとくか」
リンが言うと、制服のポケットから何かを取り出す。
黒い球体に串が刺さったように見える、ソウルジェムよりも少し小さい装飾品だ。よく見ると、ソウルジェムと同じように細やかな模様が刻まれている。
「コイツはグリーフシードってんだ。魔女を倒すとたまに落とす。アタシのソウルジェム、端が濁ってるの見えるか? 」
「あ、本当だ」
身を乗り出して近くで見ると、確かに宝石の左下だけ色が違っている。他の部分より透明感が無く、黒っぽく汚れているようだ。
「魔力を使うとこうやって濁るんだよ。それに、コイツを当ててやると……」
リンがグリーフシードを台の上のソウルジェムに触れ合わせる。すると、ソウルジェムの黒く濁った部分がみるみるうちにグリーフシードに吸われていった。
「凄い! 綺麗になった」
「だろ? これで魔力がまた使えるんだ。普通に生活するだけでも多少濁ってくんだけど、もしソウルジェムが濁りきっちまうと大変な事になるからな。だからまぁ、アタシらが戦うのは単に街の平和の為とかじゃ無く、延命のためって方がデカいな」
ゆずかがそのまま淡く輝く宝石を見つめていると、それはひょいと持ち上げられた。
「キュゥべえ、これを持って家から百メートル以上離れた場所まで行ってくんない? それから直ぐ戻って来て欲しいんだけど」
「へ、え? 大事な物なのにいいの? 」
ゆずかが聞くと、リンは不敵に笑った。
「大事な物だってところを見せてやるんだよ。頼んだよ、キュゥべえ」
「僕は構わないけど、君にそこまで信用されていたとは意外だ」
「何だよ、お前だって命を粗末にはしないだろ? 」
キュゥべえは自身の目の前に置かれた宝石を咥えると、開かれたバルコニーから外へ出て行った。
しばらくは何も起きず、リンはゆずかの隣に腰掛けて自分用のココアを飲んでいた。
「あの、リンちゃん。キュゥべえ、あのままでいいの?これから何か起こるの? 」
リンがあんまり落ち着いているので、ゆずかの方がソワソワして来て先程からずっと足を宙で彷徨わせている。
「んー、まぁそろそろだな」
言うと、リンはすっかり温くなったココアを飲み干してソファの方へ移動した。それから、一人掛けのソファの前に立つと両手を緩く広げる。
「リンちゃん? 何するの? 」
ゆずかはリンの行動の意図が分からず、小首を傾げた。
そんなゆずかに、リンが「先に言っとくけど、救急車とか呼ぶなよ」と付け足したその時――
リンの膝がガクッと脱力してそのままソファへ倒れ込んだ。少しの躊躇いもなく、身体のどこにも力が入っていないように。
勢いでソファの低い背もたれに後頭部を打ち付けたが、反応しない。
「え……リンちゃん……? 」
突然の事で何が起こったか分からないゆずかは恐る恐るリンの肩に触れる。
「ねぇリンちゃん、急にどうしちゃったの? ねぇってば」
どんなに揺さぶってもリンが起きる事はなく、瞳孔が開ききった瞳が空を見つめるのみ。
昨日、由香里が気を失った時とは違う。上手く説明はできないが、確かに違和感があった。
そっと、リンの鼻の前へ掌を翳してみる。しかし、そこに感じるはずの風が来ない。
「……息、してない」
保健体育の授業で習ったように脈も測ってみたが、拍動はなし。念の為自分の脈と比べてみても、やはり脈打つはずの箇所が動いていない。
「どうしよう……リンちゃんが……死んじゃった」
ポロポロと、瞬きさえ忘れた目元から大粒の涙が溢れて止まらない。そんな場合ではないのに、止まらなくて、止められなくて、視界がぼやけていってしまう。
「リンちゃん……リンちゃん……」
顔を歪ませてきちんと言葉を紡げない。それでもゆずかにはリンの名前を呼び続けるしか出来なかった。
出来たばかりの友達が死んでしまった。その事実は悲しみではなく、恐怖と衝撃としてゆずかに焼き付く。幼いゆずかに助けを呼ぶ考えは巡らなかった。
そうしてまだ暖かく柔らかい友達の身体に項垂れていると、ハッと息を吸い込む音が聞こえた。
「……リン、ちゃん? 」
ゆずかが顔を上げると、リンが何ともないような顔をしてゆずかを見下げていた。
「あー痛、頭打ったか。やっぱり座っときゃ良かったな……」
後頭部を押さえて気怠げにに独りごつリンに、思わずゆずかは抱き付いた。
「リンぢゃーーん! 」
「ちょ、何だよ、近いな。ってスゲェ泣いてんじゃん、もう……」
リンは戸惑いながらも抗わず、ゆずかの頭に手を置いた。
「これで分かったろ? 魔法少女がどういう存在か。憧れるようなモンじゃない。アタシらは魂を抜かれて、身体をラジコンみたいに動かすだけのゾンビなんだよ。それに、アタシはもう一年くらい魔法少女やってるけどさ、何年もずっと魔法少女をやり続けてるって奴を知らない。どういう事か分かるだろ? そんくらい、寿命の短いイキモンなんだよ、アタシ達は」
髪型が崩れないよう毛流れに沿って滑らされるリンの手が暖かい。口調も暖かいのに、伝えられる内容は酷く残酷だった。
「うん……リンちゃんごめんね」
ゆずかは泣いて腫れぼったくなった顔を見られたくなくてリンの膝に顔を埋めたままで言った。
「謝んなよ、アンタは何も悪くないだろ……後、そろそろ離れてくんない? 足痺れて来た」
「あ、ごめん! 」
ゆずかが素早く顔を上げると、リンの制服のスカートとゆずかの鼻が鼻水で繋がっていた。
「ああ! ごめんなさい! 」
「お前マジかよ! 冬服一着しか持ってないんだぞ!」
「本当にごべんなさいぃ」
収まったはずの涙が恥ずかしさと申し訳なさに押されてまた溢れてくる。ゆずかは咄嗟にスカートについた鼻水を拭おうとする。
「分かったから泣くな! 塗り広げるな! 」
そんなやり取りをバルコニーからスルッと侵入したキュゥべえが見ていた。
「楽しそうだね、話し合いは上手くいったのかい? 」
ガラスのローテーブルに飛び乗ると、リンの命をそこに置く。
「いや、今はそれどころじゃなくてさ」
立ち上がったリンはソウルジェムを手に取って、奥にある自室に向かった。
「着替えてくっから、アンタは顔洗えよ」
˙˚°✰
「落ち着いたか? 」
「うん、ありがとうリンちゃん」
スウェットに着替えたリンはゆずかに二杯目のココアを振る舞っていた。
二杯目でも飽きない、優しい甘さにゆずかの涙もすっかり止まった。
「ココアしかなくてワリぃな」
「ううん、ココア好きだよ」
「そうか? これだけはストックがあんだよ、シオンが飲むからさ」
「シオンちゃんが? 」
ここでその名が出るとは思わず少し驚いたが、以前からの妙な距離の近さを思い出して合点がいった。
「そういえば! 聞きたかったの、シオンちゃんとリンちゃんの関係! 」
スツールを九十度回転させたゆずかに、リンはヘラヘラ笑う。
「んだよ、何もねぇぞ。何期待してんだ? アイツとはただの共闘関係だよ」
「え、えーだって、シオンちゃんの髪からリンちゃんと同じ匂いがしたし……」
「なんだそんな事か……言ってたろ? アイツ、家が無いんだ。だから願いの力もあって、自由の効くアタシの家を寝ぐらに使ってるってだけだよ」
「そっか……そうだよね」
考えてみれば当然である。年頃の少女が毎日野宿しているとは考え難いし、シオンからは会う度にシャンプーの良い香りがしていた。他人から認識される事のないシオンが人並みの衛生管理をするには同じ魔法少女の手助けが必要不可欠なのだ。
すっかり日が落ちてしまい、ゆずかは帰路に着いていた。リンが近くまで送ると申し出てくれたが、断った。
偽りの温もりを貼り付けたような、大きな建物が遠ざかって行く。スウェット姿で手を振るリンも小さくなって、角を曲がると見えなくなった。
4月の風はまだ冷たくて、曇天の空はいつもに増して暗かった。どうせ急ぐ理由もない。ゆるゆると歩を進めた。
なんだか私、蚊帳の外だな。
魔法少女は魂を抜かれたゾンビ。取り返しのつかない契約を交わしてしまった者同士、シオンとリンは助け合っていてお互いに代えの効かない関係なのだろう。
二人と仲良くなれたと、同じ仲間になれると思っていたゆずかは自分が恥ずかしくなってしまった。
その上、今日はリンにみっともない姿を見せてしまった。
やっぱり私に魔法少女は無理なのかも。命を投げ打ってまで、人生を捨ててまで叶えたい願いって何なんだろう。
散々考えたと思っていた願いについての事が、頭の中を反芻する。
遂に雨まで降り出して、傷心の小さな背中をずぶ濡れにした。
「ただいま」
やっと辿り着いた我が家の玄関を潜ると、暗く静かな部屋が待っていた。そこで思い出す。浩一郎は今日から、一泊二日で出張に出掛けていたという事を。
一人になって気の抜けたゆずかは、大きく息を吐いて鞄を下ろした。
手を洗い、リビングの電気を付けると仏壇の前で微笑む母の遺影が目に入る。
あれは最後に家族で遊園地に行った時の写真だ。楽しかった思い出と共に、当時のまま止まってしまった笑顔が写っている。
「……ただいま、お母さん」
酷く掠れた声が出て、色んなものがいっぺんに溢れ返って来た。ゆずかの頬を雫が伝う。それが暖かかったので、涙だと分かった。
自室に帰るのも億劫で、かといってリビングに入る気にもなれず。ドアの下枠に蹲み込んで静かに泣いた。
母親に会いたいと願いながら、その為に自分を犠牲にする勇気もない自分が憎らしかった。
「ごめん、なさい……私、意気地無しだよね……」
遠い仏壇が霞んで、更に遠く見えた。
˙˚°✰
それからどれだけ経ったか分からない。すっかり泣き疲れていつの間にか眠ってしまっていたゆずかは、部屋の寒さで目を覚ました。
雨に濡れたままで居たのだから当然だ。
一度眠った事で思考がリセットされたゆずかは、鼻詰まりでぼんやりした頭をゆっくりと起こした。今日は金曜日、明日の予定もないので焦る必要はない。
寝ている間に乾いた制服を脱いで、シャワーを浴びた。冷え切った身体に、いつもと同じ温度のお湯が痛く感じる。
髪を乾かさずにリビングに入ると、麦茶を煽った。冷たい感覚が喉から胸に流れて行く。もう、仏壇の遺影を見ても泣かずにいられた。
凄く面倒くさくて迷ったが、髪をちゃんと乾かしてから自室に上がった。
ヘトヘトなゆずかは電気も付けずに部屋に入ると、手探りでベッドにダイブした。
――と、なんだか慣れない感触がある。
まだ暗闇に慣れない目を瞬かせながら、手に当たる感触を確かめた。
暖かくて柔らかい布越しの何かと、指に反発して元の形に戻ろうとする……うねった、髪?
一気に正気を取り戻したゆずかはベッドから跳ね起きると、部屋の電気を付けた。
自分だけの砦、ベッドに眠っているのは既に見知った顔。シオンだった。
「し……シオンちゃん? 」
突然明るくなったのに動じる事もなく無防備な寝姿を見せるシオンに、今日のリンの姿を重ねてしまう。
心臓がチクリとなって、シオンの顔に手を翳した。大丈夫、呼吸はある。どうやら本当に眠っているだけのようだ。
どうしたらいいか分からずに暫く様子を眺めていると、穏やかな寝息を立てているのが分かる。
人のベッドで、人の布団を被って。
しかし、今のゆずかにそんな様子を咎める元気は残っていなかった。
「はぁ……」
大きく態とっぽく溜息を吐いて、シオンを起こさぬ様にそっとベッドへ潜り込んだ。
途端に近くなるシオンの寝顔。こんなにマジマジと顔を見たのは初めてだった。
意外と美人だよね。ちょっとうちのお母さんみたい。
父親似のゆずかは、そのことを思い悩んだ事は無い。それでも、整った顔立ちの母親に憧れを感じる事はあった。
同じく顔立ちの良いシオンに、何故だかその面影を感じる。不思議で、恥ずかしくて、細く通ったシオンの鼻先を指で突いた。
シオンは鼻をムズムズさせて寝返りを打ったが、起きてはいなさそう。
まだ腫れぼったい瞼を下ろすと、室内の明るさを透かした赤色の視界が広がる。
ただ眼を休ませるだけのつもりだったのに、ゆずかはそのまま意識を手放してしまった。
煌々とした白色灯の下、二人の少女の寝息が重なって聞こえた。