翌朝、ゆずかは休まず登校したが気持ちは落ち込んだままだった。
上の空で授業を受けて、放課後。
「ゆずちゃん、今日は一旦帰ったらすぐお家に行っていい? 」
帰り支度を整えた由香里がゆずかの席までやって来た。
「え? えっと……ごめん、なんだっけ? 」
「ひどぉい! 昨日約束したじゃない! 」
つい上の空になってしまっていた。
由香里は演技っぽく自分の両肩を抱える。気分は悲劇のヒロインだろうか。
「あぁ、そっか、そうだったそうだった」
本当は由香里と遊ぶ気持ちになんてなれないが、約束を破る訳にもいかない。
段取りを話し合って、一度着替えの為にそれぞれの家に帰る事になった。まだゆずかの家の詳しい場所を知らない由香里の為に、準備を終えたら二人の通学路が合わさる十字路で再集合する算段だ。
帰り道、その十字路で由香里と一度別れたゆずかはチビの事を考えた。
誰にも気付かれないうちに、結界を抜け出していたりして……
ゆずかはチビの最期を見ていない。もう、あの子猫に会うことは出来ないと頭では理解していても、実感が湧かなかった。
民家の塀、車の下。無意識に猫を探していると、視界の端に小さな影が映った。
「ゆずか、何かを探しているのかい? 」
いつの間に現れたのか、さっき見た筈の塀にキュゥべえが居る。
「なんだ、キュゥべえか」
「心外だね、僕じゃ不満だったかい? 」
「そういう訳じゃないけど」
ゆずかが視線を外して歩き始めると、塀から飛び降りたキュゥべえはその横に付いて歩いた。
少し進んで、キュゥべえが言う。
「猫が殺されたらしいね」
「っ知ってたの? 」
「シオンから聞いたよ」
「やっぱり……駄目なんだ、チビちゃん」
時間を稼ぐように、なるべくゆっくり歩く。
「君が望むなら、生き返らせる事だって出来るんだよ? ゆずか」
キュゥべえの一言にゆずかは足を止めた。
数歩遅れて立ち止まったキュゥべえがゆずかの前に座る。逆光で顔が影になる。
「それって、私に契約しろって言ってるの? 」
自分でも驚くほど低い声が出た。キュゥべえに怒っても仕方がないのは分かっている。ただ、その淡白な物言いに腹の底が抉られる気がした。
「あくまでも、君が望めばの話だ」
声の調子を変えず、話したキュゥべえの尻尾が揺れる。
キュゥべえの赤く透き通る目が、何もかも見透かしているような気がして身動ぎすら躊躇ってしまう。
「……後にして」
一言、やっと絞り出して歩速を早めた。キュゥべえはそれ以上ついて来なかった。
帰宅したゆずかは、自室で着替えを済ませた。由香里を招待した事をすっかり忘れていたので、粗方の片付けもしておく。
ベッドを整え、脱ぎっぱなしのパジャマは押し入れに突っ込んだ。机の上は、このままで良いだろう。どうせ、土日はろくに勉強しなかった。
きちんと鍵を閉め直して元来た通学路を走る。
いけない、由香里ちゃんを待たせちゃってるかも。
最近ただでさえ付き合いの悪いゆずか。これで簡単な待ち合わせまで滞らせたら、流石の由香里でも怒らせてしまうだろう。
住宅街を真っ直ぐ行って、一度だけ曲がった場所。あっという間に、ついさっき由香里と別れた十字路に着いた。
しかし、ゆずかよりも待ち合わせ場所から家が近いはずの由香里はまだ待ち合わせに来ていなかった。
ゆずかが引っ越してから、この分かれ道で待ち合わせをする機会は前にもあった。二人とも慣れた合流方法だ。
電信柱に背を付けて暫く待ってみる。そこに張り付いた行方不明の張り紙を全て読み終えても、待てど暮らせど由香里は現れない。
元々由香里は準備に時間が掛かる方ではないし、ここから由香里の家までどんなにゆっくり歩いても十分もかからない。
ゆずかは嫌な胸騒ぎを覚えた。
気のせいかも知れない。思い過ごしかも。自分に言い聞かせて、もう暫く待った。
電信柱を回ってみたり、『止まれ』の文字を足でなぞったり。それでも一度抱いた不安は上手く収まってはくれず。結局、由香里の家を目指して歩き始めた。
きっと途中で出会えるはず。そう思って、道のりを確かめるようにゆっくり歩く。すっかり散って、ほとんど葉っぱになった桜の木。数年前からずっと穴が空いたままの空き地のフェンス。散歩するようにトロトロ進んだのに、最終的には由香里の住むアパートの前まで来てしまった。
由香里ちゃんったら、まだ家の中に居るのかも。
大丈夫、きっと途中で会える。
ゆずかはアパートの外階段を登る。塗装が剥がれて錆の見える手摺り、階段の隅で死んでいる蛾。どうでも良い物を全部観察してゆっくり登った筈なのに、気が付くと『205永見』と書かれた表札の前に居た。
ここまで来たら仕方がない。
そっと手を伸ばし、呼び鈴を押す。
ビー。短い呼び出し音。
永見家は共働きの自営業なので、中に居るのなら由香里だけの筈。
数拍待ったが、返事は無し。
ゆずかは祈るような気持ちで、二度目の呼び鈴を長めに鳴らす。
ビーー。
やはり、返事は無かった。
どうしよう、由香里ちゃん。どこに行っちゃったんだろう……
由香里に限って約束をすっぽかすなんてあり得ない。悪い想像ばかりが浮かんで来て、ゆずかの視界が狭まっていく。通い慣れた筈の狭いアパートの廊下が、威圧的に思えた。
「ゆずか! 」
近くで呼ぶ声がした。
声の主は、走ってきた素振りのキュゥべえだった。彼は珍しく慌てた声色で続ける。
「大変なんだ! 由香里が魔女の結界に取り込まれた! 」
˙˚°✰
ゆずかは走った。案内役のキュゥべえはゆずかの肩で振り落とされぬよう、首に尻尾を回している。
足がもつれて、心臓が痛くなるほど走って、やっと辿り着いたのは公園。以前、魔女結界に巻き込まれた時も来た場所だった。
「こ……ここに……」
「こっちだよ、ゆずか」
息も絶え絶えのゆずかの肩から降りたキュゥべえが付いて来るよう促す。
その先にあった公衆トイレ。裏側の外壁にめり込むようにして、魔女結界の入り口が出来ていた。
「ここだよ」
キュゥべえはぴょんと跳ねて、結界前に座る。これ以上付いてくる気はないようだ。
「……うん」
昨日の出来事なんて考える間もなく、ゆずかは結界に足を踏み入れた。結界の響めきと木漏れ日が混ざり合って、眩暈がするほど揺れていた。
歪む視界も、眩しい青も、もう三度目。怖くなんてない。
やがて訪れた浮遊感に身を委ね、ゆずかはしっかり目を開ける。
由香里ちゃんは何処?
落下風に目を凝らし、紙吹雪を掻き分ける。
先に見つけたのは魔女だった。特別華やかな装飾に、大きな身体。これは、昨日リンの学校で見た魔女だ。
まだゆずかに気が付いていないのか優雅に翼を広げて滑空しているが、よく見ると左の翼の付け根に穴が空いていた。その穴からはドロドロと茶色の液体が垂れ流されている。ただの茶色ではなく、いろんな色を混ぜた後の、筆を洗った水のように見えた。
あんなのに由香里が捕まったら大変だ。ゆずかはチビを思い出しそうになって、首を振った。
由香里ちゃんをそんな目には遭わせない!
魔女から視線を外して、紙吹雪の隙間に目を凝らす。
見つけた。制服姿で落ち続けている、由香里だ。
「由香里ちゃーーん! 」
出来る限りの大声で呼び掛けるが、反応は無い。
ゆずかは必死に空を泳いで由香里を捕まえに行こうとした。しかし、いくら手を動かしても少しも進まない。
駄目だ、届かない。やっぱり私じゃ助けられないのかな……
ずっと忘れていた涙が溢れそうになる。
そもそも、どうしてこんな場所に足を踏み入れてしまったんだろう。魔法少女でもない自分には、何も出来ない事くらい最初から分かっていたのに。
リンちゃんやシオンちゃんを探しに行けばよかった。時間がかかってしまっても、二人に来てもらった方が確実だったのに。
遂に溢れた涙は止まってくれないのに、頭の中はやけに冷静で自分の愚かさが後から後から追いかけて来る。
――突然、ゆずかは何か掴まれた。
これは、リンの鞭だ。
「リンちゃん⁈ 」
「テメェは何度巻き込まれたら気が済むんだ、よ! 」
言いながら引かれた鞭で、ゆずかはリンの胸に抱き止められた。
「ごめんなさい、キュゥべえが、いや、それより由香里ちゃんが! 」
「ごちゃごちゃうるせぇよ! 向こうにはシオンが行ってる、アタシらもズラかるぞ! 」
リンは鞭を伸ばし、その場に足場を形成させる。それを幾度か繰り返し、結界の外へと抜け出した。
「リンちゃん、また助けてくれてありがとう。あと……ごめんなさい」
やってしまったと思った。昨日チビを亡くしたばかりだというのに、また結界に飛び込んだ。言い訳のしようもない。
「はぁ……ったく、謝んなって。どうせキュゥべえの奴が呼んだんだろ? それよか、由香里、だっけ? アイツの事ちゃんと見とけよな。魔女は心の隙に入り込むんだから」
変身を解き、制服姿になったリンは面倒そうに言う。
やっぱり優しいな、リンちゃんは。
自分だけでなく由香里についても咎められ、ゆずかはリンの顔を見られなくなった。
数分遅れで、シオンも結界から出て来た。腕には意識のない由香里が抱かれている。
結界は消えない。まだ魔女を倒していないのだ。
「ゆずか、この子の事お願いね。戻りましょう」
シオンはゆずかの側に意識のない由香里を寝かせ、リンに目配せする。変身を解く気はないようだ。
「いや……今日はいいだろ」
リンは言葉を選ぶように言った。
「どうして? 」
既に結界のすぐ前まで戻っていたシオンが首を傾げる。
「二人も無事助けたし、もう帰ろう」
「あの魔女はチビを殺したのよ? それに、今回も危ないところだった。次の被害が出る前に倒すべきだわ」
シオンの言う通りだ。リンもそう考えるはずだと思っていた。ゆずかは二人を交互に見上げ、口を挟まずに聞いていた。
「……分かってる」
リンが拳を握りしめているのが見える。
「それじゃあ――」「分かってるけど駄目なんだ! 」
言いかけたシオンにリンが声を張り上げる。
ゆずかはぴくりと肩を震わせ、由香里を抱き寄せた。
眉根を寄せたシオンが、リンに一歩近寄る。
「どうして、何も話してくれないの? 今までだって同じ魔女を何度も倒して来たじゃない……あの魔女に、何かあるの? 」
いつもと変わらぬ声色が、ほんの少しだけ揺れている。
暫しの沈黙。段々と西陽が強くなって、赤いスポットライトが二人を照らすように差し込んで来た。
俯いて押し黙っていたリンが、ゆっくりと口を開く。
「アイツは……あの魔女は、今まで倒して来た魔女の大元だ」
「だったら、尚更倒すべきじゃないの? 」
「はっ、よく言うよな、いつから正義の味方になったんだ? ゆずかに本当の事も言えない癖によ! 」
顔を上げたリンは、怒っているのか悲しんでいるのか分からない表情をしていた。
シオンは息を飲み込んで呟くように答える。
「話をすり替えないで」
「本当の事……? 」
それはゆずかの呟きだった。自然と声に出た疑問が二人の視線を集めた事に気が付いて、口を押さえる。
リンはシオンを指差して、ゆずかに言い付けるように言った。
「コイツはな、願いで自分の父親を消しただけじゃない。そのせいで、お前の母親は死んだんだぞ? 」
「え、」
シオンのせいで自分の母親が死んだ。にわかには信じられない事だった。ゆずかの母親の死因は交通事故の筈だ。
シオンちゃんが事故に関わってる?
思考回路の止まったゆずかの頭にシオンの声が届く。
「誤解があるわ! 」
「何がだ? アタシはただお前に聞いた通りの事を言っただけだ」
威圧するように、リンが一歩距離を詰める。シオンが答える間もなく、次の言葉を吐き出した。
「そんなに正義の味方をやりたいんなら、ゆずかに言ってやりゃ良いんだ! 『お前は私が居なければ産まれてすら来なかった』ってな! せいぜい感謝されりゃあいいさ」
ゆずかは何も言えなかった。リンは優しい良い子。嘘をついているとは思いたくない。でも、これが本当の事だとしたら、シオンはいったい何をしたというのだろうか。
眠り続ける由香里の服を、無意識に握り締めてしまっていた。