《転位》ヴァルター・クロイツ。
王に最も近き二人の側近の一人。
その実力は、王を除けば王国最強と称される。
《万象》エリアスと並び、王国最高戦力の一角を担う男だった。
ヴァルターは三人へ静かに視線を向ける。
「《雷帝》。」
レオナルドへ。
「《鉄拳》。」
続いてルイーゼへ。
そして最後に、エリアスを見据える。
「……《万象》。」
ほんの僅かな沈黙が流れた。
「あなたまでもが、そちら側へ立つとは。」
「これは……想定外でしたよ。」
エリアスは何も答えない。
ただ静かに一歩前へ出る。
その姿だけで十分だった。
ヴァルターは小さく息を吐く。
「残念です。」
「ここまで辿り着いてしまった以上、生かして帰すわけにはいきません。」
そう告げると、腰に佩いた剣へ静かに手を添える。
カチリ――。
剣が僅かに鞘から抜かれた、その瞬間。
地下研究施設を漂っていた魔力がざわめき始めた。
床に散らばる無数の小石が、音もなく宙へ浮かび上がる。
一つ。
二つ。
十。
二十。
その数は瞬く間に増え、ヴァルターの周囲をゆっくりと旋回し始めた。
まるで獲物を狙う猛禽の群れ。
静かでありながら、底知れぬ殺気を放っている。
エリアスは黙ってその光景を見据えていた。
右腕へ紅蓮の炎が宿る。
左腕には風が渦を巻き、その身を包み込む。
二属性同時使用。
《万象》エリアスが最も得意とする基本戦闘態勢。
熱気が地下研究施設を包み込み、風圧が二人の衣を激しく揺らす。
互いに動かない。
否――動けない。
先に踏み込んだ者が敗れる。
二人は長年の経験から、それを理解していた。
張り詰めた静寂。
その均衡を破ったのは、エリアスだった。
「……行け。」
その一言を合図に、レオナルドは迷うことなく右腕を天井へ向ける。
紫電が腕を駆け巡る。
次の瞬間、紫白の雷が天井を貫いた。
岩盤は耐え切れず砕け散り、地下研究施設全体が激しく揺れる。
崩れ落ちる土砂の向こうに、王城内部の回廊が姿を現した。
レオナルドはフィオナを抱きかかえ、一気に地を蹴る。
ルイーゼも迷うことなくその後へ続いた。
「……逃がしません。」
ヴァルターが静かに呟く。
その瞬間。
宙を漂っていた無数の小石が、一斉に開いた穴へ向かって射出された。
エリアスはその光景を見て静かに目を細める。
(やはり、そう来るか。)
かつて一度だけ目にしたことがある。
《転位》ヴァルター・クロイツの固有能力――《転移》。
自身が魔法によって干渉した物体と、自身の位置を瞬時に入れ替える能力。
ならば。
転移先そのものを消し去ればいい。
エリアスは静かに右手を掲げる。
次の瞬間。
開いた穴を塞ぐように、紅蓮の豪炎が天へと噴き上がった。
灼熱の炎壁。
飛び込んだ小石は次々と焼き尽くされ、灰となって崩れ落ちていく。
ヴァルターはその光景を見つめ、小さく目を細めた。
「……なるほど。」
「能力を見抜いていましたか。」
だが、その表情に焦りはない。
静かに指先を動かす。
床に散らばる瓦礫。
砕けた岩盤。
石片。
そのすべてが音もなく宙へ浮かび上がる。
一つ。
十。
五十。
百。
浮遊する石は瞬く間に増え、地下研究施設を埋め尽くしていく。
それを見たエリアスは、小さく息を吐いた。
「……これは、骨が折れるな。」
二人は再び構える。
次の瞬間。
ヴァルターの姿が音もなく消えた。
レオナルドはフィオナを抱えたまま、開いた穴を駆け抜けた。
王城内部の回廊へ着地する。
石造りの床へ足を着けると同時に振り返る。
地下からは、轟音と振動だけが伝わってきた。
「隊長……。」
思わず漏れた声。
だが立ち止まることはできない。
今、隊長が命を懸けて稼いでいるのは、
自分たちが逃げる時間なのだから。
「行くぞ。」
短く言い放ち、再び駆け出す。
ルイーゼも無言で続いた。
レオナルドたちは王城内部の回廊を駆け抜ける。
その時だった。
音もなく、一人の男がレオとルイーゼの前へ降り立つ。
《韋駄天》クリフ・ノーランド。
王直属親衛隊の一人。
国家最高戦力集団、その一角を担う剣士だった。
「レオ!」
「ルイーゼ!」
「何があった!」
突然の再会に、二人は足を止める。
クリフの視線は、すぐにレオナルドの腕の中へ向けられた。
「……フィオナ?」
目を見開く。
「見つかったのか!」
安堵の色が浮かぶ。
「良かった……!」
しかし、その言葉は途中で止まる。
力なく垂れた腕。
閉じられた瞳。
血の気を失ったその姿が、すべてを物語っていた。
「……まさか。」
クリフの表情から笑みが消える。
「フィオナ……。」
その瞬間――。
床が爆ぜた。
雷と暴風が入り混じった衝撃が石畳を吹き飛ばし、三人の間に巨大な穴が穿たれる。
咄嗟にレオとルイーゼは後方へ跳び、クリフも反射的に距離を取る。
舞い上がる土煙。
その中から、二つの人影が激しく交錯しながら飛び出した。
レオとルイーゼの前へ着地したのは、《万象》エリアス・ノール。
そして、クリフの前へ静かに降り立ったのは、《転位》ヴァルター・クロイツだった。
クリフは目の前の光景を信じられなかった。
王の側近と。
王直属親衛隊隊長が。
互いに剣を交えている。
あり得ない。
そんなことが起こるはずがない。
混乱した視線がレオナルドへ向く。
その腕の中には、力なく横たわるフィオナ。
再びエリアスを見る。
その立ち位置は、自分ではなく。
レオとルイーゼを守るように前へ立っていた。
理解が追いつかない。
なぜ隊長がヴァルターと戦っているのか。
なぜレオとルイーゼを庇っているのか。
なぜフィオナは命を落としているのか。
「……レオ?」
「……ルイーゼ?」
そして。
最も尊敬する男へ視線を向ける。
「……隊長。」
「これは、一体……?」
張り詰めた静寂を破ったのは、ヴァルターだった。
「《韋駄天》。」
その声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「ちょうどいいところにいましたね。」
クリフは反射的にヴァルターへ向き直る。
ヴァルターは淡々と告げる。
「《万象》、《雷帝》、《鉄拳》の三名は、国家反逆罪により王国の敵となりました。」
「直ちに排除してください。」
クリフの思考が止まる。
「……え?」
クリフの表情から血の気が引いていく。
「い、いや……。」
震える声が漏れる。
「仲間じゃないですか……。」
「そんな……排除なんて……。」
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「二度も言わせないでください。」
「王がご不在の今、この場の最高指揮権は私にあります。」
「これは命令です。」
「《万象》、《雷帝》、《鉄拳》を排除してください。」
クリフは言葉を失う。
視線はレオナルドへ。
ルイーゼへ。
そしてエリアスへと揺れる。
誰もが昨日まで共に戦った仲間だった。
エリアスは静かに口を開く。
「レオ。」
「ルイーゼ。」
二人は隊長へ視線を向ける。
「ここは俺に任せろ。」
「……後で向かう。」
「隊長……。」
ルイーゼの声は震えていた。
エリアスは振り返らない。
ただ短く言い放つ。
「……早く行け!」
その一喝で、二人は覚悟を決める。
レオナルドはフィオナを抱き直し、ルイーゼと同時に地を蹴った。
目にも止まらぬ速度で王城の回廊を駆け抜ける。
「――《韋駄天》!!」
ヴァルターの鋭い声が響く。
「彼らを追ってください!!」
「っ……!」
クリフは反射的に足へ力を込める。
その瞬間だった。
轟ッ!!
紅蓮の火柱が、二人の間へ突き上がる。
クリフは咄嗟に身体を捻り、紙一重で回避すると大きく後方へ跳んだ。
燃え盛る炎の向こう。
エリアスが静かに立っていた。
その瞳は、かつて部下へ向けていた優しさではなく、覚悟を決めた戦士の眼だった。
クリフは息を呑んだ。
目の前に立つのは、敵ではない。
誰よりも尊敬し、背中を追い続けてきた男。
王直属親衛隊隊長。
《万象》エリアス・ノール。
「……隊長。」
震える声が漏れる。
「本当に……王を裏切られたのですか。」
返事はない。
エリアスはただ静かにクリフを見据えていた。
その沈黙だけで十分だった。
クリフは首を横に振る。
「違いますよね……?」
「何か理由があるんですよね……?」
「隊長が、そんなことをするはずが……。」
エリアスはゆっくりと息を吐く。
そして短く告げた。
「……ある。」
クリフの表情に僅かな希望が宿る。
しかし、その希望は次の一言で打ち砕かれた。
「だが。」
「俺は、もう戻れない。」
静寂が流れる。
クリフは剣を握ることすらできなかった。
目の前にいるのは、国家反逆者ではない。
今もなお、自分にとっては敬愛する隊長だった。
その時だった。
ヴァルターから、重く粘りつくような魔力が静かに溢れ出す。
空気が一変する。
地下研究施設でエリアスと対峙していた時とは比較にならないほどの威圧感が、回廊全体を支配した。
ヴァルターはクリフから一瞬たりとも視線を逸らさない。
「《韋駄天》。」
静かな声だった。
だが、その一言には有無を言わせぬ圧があった。
「王がご不在の現在、この場の最高指揮権は私にあります。」
「命令です。」
「任務を遂行してください。」
「っ……!」
クリフの身体が強張る。
王直属親衛隊。
その剣は王へ忠誠を誓った証。
命令は絶対。
その教えは、長い年月をかけて身体へ刻み込まれていた。
仲間を斬ることなどできない。
隊長を斬ることなど、なおさらだ。
だが、命令に背くこともまた、クリフにはできなかった。
震える右手が、ゆっくりと腰へ伸びる。
金属音とともに抜き放たれたのは、二振り一対の細剣。
神速剣《メルクリウス》。
古の名工ダイダロスが生涯をかけて生み出した、特殊な能力を宿す武具。
その作品群は『ダイダロスの遺産』と呼ばれ、世界中の強者たちが求める至高の武器として語り継がれている。
《メルクリウス》もまた、その一振り。
飛ぶ斬撃を放ち、その斬撃を空中で自在に分裂・増殖させる能力を持つ。
そして、クリフ・ノーランドが持つ固有能力――《高速移動》。
その能力と《神速剣メルクリウス》を組み合わせた戦闘は、親衛隊最速、《韋駄天》と称される所以だった。
しかし。
その剣先は、小さく震えていた。
目の前に立つ男は敵ではない。
幼い頃から憧れ、誰よりも尊敬し、その背中を追い続けてきた隊長。
その男へ刃を向けることなど、本来できるはずがなかった。
「……クリフ。」
エリアスが静かに口を開く。
「もういい。」
「お前は戦わなくていい。」
その言葉に、クリフの瞳が大きく揺れた。
「隊長……。」
迷い。
葛藤。
様々な感情が胸の内で渦を巻く。
今にも剣を手放してしまいそうだった。
しかし。
ヴァルターは、その時間すら与えなかった。
「甘いですね。」
その姿が掻き消える。
「――っ!」
クリフの身体が反射的に動く。
長年、王直属親衛隊として叩き込まれた戦闘の習慣。
思考より先に、身体が命令へ従っていた。
固有能力《高速移動》。
一瞬で間合いを詰め、神速剣《メルクリウス》が閃く。
その切っ先が向かう先は――
敬愛し続けた隊長。
《万象》エリアス・ノール。
だが。
その剣に迷いは隠せなかった。
隊長を斬る覚悟。
仲間を斬る覚悟。
どちらも持ててはいない。
迷い、動揺、混乱。
あらゆる感情が、その速度を鈍らせる。
親衛隊最速、《韋駄天》。
そう称された男の踏み込みとしては――
あまりにも、お粗末だった。