コツ――。
静寂の中、足音が響く。
濃く立ち込める土煙の奥。
一つの人影が、ゆっくりと姿を現す。
その身体を包むのは、
炎。
水。
雷。
風。
岩。
砂。
六色の光。
互いに反発し合うはずの六属性が、一人の男の身体へ溶け込むように揺らめいていた。
ヴァルターは目を見開く。
「……馬鹿な。」
あり得ない。
《万象》エリアス・ノール。
彼が同時に扱える属性は、最大二つ。
それが王国の誰もが知る事実だった。
だが、目の前の光景は、その常識を根底から覆している。
六属性。
それも、同時に。
(そんなことが……。)
(可能なはずがない……。)
ヴァルターの頬を、一筋の汗が伝う。
卓越した演算能力を持つ彼の思考ですら、目の前の現象を理解できなかった。
やがて、エリアスが静かに歩みを進める。
六色の光が、その歩みに合わせてゆっくりと揺らめく。
その姿は、まるで人ではない。
ヴァルターは無意識に一歩、後退していた。
そして。
歯を食いしばりながら、思わずその言葉を吐き捨てる。
「……化け物めッ。」
エリアスは何も答えない。
ただ静かにヴァルターを見据え続ける。
その瞳には、揺らぎも驕りもなかった。
ただ、戦いを終わらせるという、静かな覚悟だけが宿っていた。
王城の回廊を、無数の斬撃と六属性が駆け巡る。
《転移》。
斬撃。
《転移》。
豪炎。
《転移》。
雷撃。
風刃が唸り、岩槍が床を突き破る。
激流が石壁を砕き、砂嵐が視界を覆う。
ヴァルターは無数の小石を操り、《転移》を繰り返す。
紙一重。
また紙一重。
頬を炎が掠める。
風刃が肩を裂き、鮮血が舞う。
岩の破片が腕を打ち据え、全身へ傷が刻まれていく。
それでもヴァルターは止まらない。
その瞳は、一瞬たりともエリアスから逸れることはなかった。
狙うのは、ただ一つ。
身体を属性へ変化させた際に、必ず一%だけ残る肉体。
その僅かな隙だけを狙い続ける。
《転移》。
刺突。
《転移》。
斬撃。
何度も。
何度も。
執拗なまでに、その一点へ剣を突き立てようとする。
しかし。
徐々に戦況は傾き始めていた。
六属性を同時に纏ったエリアスの猛攻は、あまりにも苛烈だった。
ヴァルターは少しずつ被弾を重ね、防戦へ追い込まれていく。
このままでは先に倒れるのは自分だ。
だが。
エリアスの動きにも、僅かな変化が現れ始めていた。
踏み込みが鈍る。
属性の切り替えに、ほんの一瞬の遅れが生じる。
六属性同時使用。
それは圧倒的な力と引き換えに、肉体へ凄まじい負荷を与える切り札。
長時間維持できる力ではない。
短期決戦のためだけに存在する奥の手。
ヴァルターはその変化を見逃さなかった。
(……まだだ。)
(この男は、ここで討たなければならない。)
もし生かしたまま王国の敵へ回れば。
その脅威は計り知れない。
王国にとって。
そして王にとって。
これ以上ない災厄となる。
ヴァルターは静かに息を吸う。
次の瞬間。
本体と二体の分身。
三人すべての身体が、淡い赤い光に包まれた。
エリアスはその光を見据え、静かに目を細める。
(強化魔法……。)
(オリジナルが施したか。)
赤い輝き。
あれは最大出力の身体強化。
そして分身にも、その恩恵が及んでいる。
直後。
三人のヴァルターが同時に姿を消した。
《転移》。
《転移》。
《転移》。
次の瞬間。
三人はエリアスの背後へ同時に現れる。
そして。
今回の戦闘において、最速の刺突が放たれた。
しかし。
見えている。
エリアスは振り向くことなく腕をかざす。
炎。
水。
雷。
風。
岩。
砂。
六属性が一つへ収束する。
次の瞬間。
エリアスの腕の先で、空間そのものが爆ぜた。
三人のヴァルターを巻き込みながら。
次の瞬間。
爆炎の中から、一つの影が飛び出した。
「――ッ!」
全身を黒く焼かれた人影。
その身体は勢いよく宙を舞い、エリアスの眼前へ迫る。
(ヴァルター……!)
エリアスが身構えた、その刹那。
違う。
その人影は微動だにしない。
黒焦げとなった分身だった。
エリアスが気付いた時には、既にその背後から一つの影が迫っていた。
ヴァルター・クロイツ。
残る分身を盾とし、自らはその背後へ身を潜めていたのだ。
(六属性の直撃……。)
(先頭は消滅した。)
(だが、最大出力の強化魔法で強化された二体目が、一瞬だけ爆発を耐えた……!)
その一瞬で十分だった。
ヴァルターは黒焦げとなった分身を掴み、前方へ投げ捨てる。
役目を終えた分身は、そのまま光の粒となって消滅した。
ヴァルター自身も満身創痍だった。
純白の外套は焼け焦げ、全身の至る所から血が流れ落ちている。
それでも、その瞳だけは鋭くエリアスを捉えていた。
左手の剣が一直線に突き出される。
エリアスは身体を属性へ変化させ、躱そうとする。
――その瞬間。
ヴァルターの左手から細剣が消えた。
《転移》。
代わって握られていたのは、一振りの純白の槍だった。
エリアスの瞳が、大きく見開かれる。
「……っ!」
ヴァルターの固有能力、《転移》。
それは、自身の魔力を帯びた物体同士を、自身を含め瞬時に入れ替える能力。
通常、転移できる対象は自身を中心とした半径五十メートル以内に存在し、なおかつヴァルター自身が認識しているものに限られる。
しかし、一日に一度だけ。
その制約を超越し、あらかじめ魔力を帯びさせておいた物体であれば、距離という概念を無視して《転移》することができる。
ヴァルターがその手に握る純白の槍。
それは王より「来るべき時まで決して使うな」と託されていた一本。
ダイダロスの遺産。
その最高傑作の一つ。
《天命槍アキレウス》。
古の名工ダイダロスが、とある伝説の武器を目指して造り上げた至高の槍。
その能力は、ただ一つ。
光の槍を放つこと。
放たれた光は、生物、魔法、そして他のダイダロスの遺産すら例外なく消滅させる。
だが、その力にも欠点は存在した。
射程は七十メートル。
攻撃範囲も人一人を飲み込めるほどの円に過ぎない。
ゆえに、この槍には絶対の命中精度が求められる。
槍身には十個の小さな宝石が埋め込まれている。
光の槍を放つたび、そのうち一つが輝きを失う。
すべての宝石が光を失った時、《アキレウス》はただの硬質な槍となる。
これまで四度、その力は振るわれていた。
ヴァルターは静かに《アキレウス》を突き出す。
純白の穂先が眩く輝いた。
次の瞬間。
一本の光が世界を貫く。
そして――
五つ目の宝石が、静かにその輝きを失った。
純白の光が、世界を貫いた。
速い。
否。
その光は、速さという概念すら置き去りにしていた。
エリアスは咄嗟に六属性を纏い、身体を属性へ変化させる。
しかし――間に合わない。
光は六属性を容易く貫き、その身を呑み込んだ。
静寂。
眩い閃光が消え去る。
舞い上がった土煙が、ゆっくりと晴れていく。
そこに立っていたのは――
エリアスの下半身だけだった。
胸部から上。
両腕。
頭部。
そのすべては、純白の光によって跡形もなく消滅していた。
力を失った身体が、その場へ崩れ落ちる。
鈍い音が、静まり返った回廊に響いた。
王直属親衛隊隊長。
《万象》エリアス・ノール。
王国最高峰と謳われた男は、この瞬間、その生涯に幕を下ろした。
そして静寂だけが、王城を支配していた。
ヴァルターはその場へ片膝をつく。
「……はぁ……はぁ……。」
荒い呼吸が、静かな回廊へ響く。
全身を襲う激痛。
焼け焦げた外套。
流れ続ける鮮血。
それでもヴァルターは静かにエリアスの亡骸を見つめた。
(……見事でした。)
《万象》エリアス・ノール。
間違いなく王国最高峰。
この私に《天命槍アキレウス》を使わせた、初めての男。
ゆっくりと立ち上がる。
視線を王城の奥へ向けた。
(《雷帝》。)
(《鉄拳》。)
(《万象》。)
王国最高戦力たる三名が離反。
そして。
《万象》エリアス・ノール。
《韋駄天》クリフ・ノーランド。
二人は死亡。
王直属親衛隊七名のうち、四名を一度に失ったことになる。
(……まずい。)
王国にとって、これ以上ない損失。
それだけではない。
ヴァルターは静かに《アキレウス》へ目を落とす。
(使ってしまった……。)
王より。
「来るべき時まで決して使うな。」
そう命じられていた切り札。
王命に背いたことに変わりはない。
(いかなる処分も受け入れましょう。)
そう呟き、ヴァルターはゆっくりと歩き出す。
右手の《幻想剣ミラージュ》を腰の鞘へ納める。
そして。
床へ転がる一振りの細剣を拾い上げた。
《神速剣メルクリウス》。
かつて《韋駄天》クリフ・ノーランドが振るっていたダイダロスの遺産。
ヴァルターは周囲へ視線を向ける。
「……七人ですか。」
戦闘の音を聞きつけた王国騎士団。
いつの間にか回廊の入口には七人の騎士が立ち尽くしていた。
彼らは目の前の惨状に言葉を失っている。
ヴァルターは何も言わない。
ただ静かに《メルクリウス》を構えた。
一閃。
放たれた斬撃は空中で幾重にも分裂する。
次の瞬間。
七人の騎士は、一人残らず両断されていた。
血飛沫だけが静かに舞う。
ヴァルターは目を閉じ、小さく息を吐く。
「……申し訳ありません。」
その声は、誰へ向けたものだったのか。
倒れた騎士たちへか。
それとも。
既に息絶えた《万象》エリアス・ノールへか。
答える者はいない。
《天命槍アキレウス》。
王より託された、王国最高機密。
その存在を知ることを許された者は、国王と、もう一人の王直属側近のみ。
万象すら滅ぼすその力。
それを目にした者を、生かして帰すことは許されない。
それが。
王直属側近、ヴァルター・クロイツに課せられた使命だった。