『箱入りの特級術師』浅雛蒼空   作:おいしいお塩

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『あるいは永眠のカウントダウン』

2006年、夏

 

 

あのひまわりが咲き誇る季節を境に、高専を包む空気は、ガラスに一本のヒビが入るように、決定的で、不可逆な変化を迎えていた。

 

五条が「最強」という世界の頂点へ至ったあの日。

 

あの日から、彼はたった一人でどんな困難な任務も片付けるようになり、それに呼応するように、夏油もまた、たった一人で呪霊を喰らい続ける孤独な泥濘へと沈んでいった。

 

かつて自習室の狭いソファに4人で並び、ド派手なハリウッド映画を観て、限定のお菓子をはんぶんこしては「美味しいねぇ」と笑い合っていた、あの瑞々しい放課後。

 

あの眩しい時間は、まるで指の隙間から滑り落ちていく砂のように、引き留める術もないまま、さらさらと零れ落ちていた。

 

(五条の背中が、もう私の手の届かない、ずっと高いところへ行ってしまう……)

 

(夏油の横顔が、影が差したみたいに、どんどん暗く、冷たくなっていく……)

 

自習室の隅で、私はメンズサイズのブカブカな制服の袖をぎゅっと握りしめ、胸が押し潰されそうなほどの焦燥感に身を焦がしていた。

 

(ダメだよ……。このままだと、みんながバラバラになっちゃう。4人の時間が、壊れちゃうよぉ……)

 

そんな底知れない恐怖の最中、私に下されたのは「産土神信仰の呪霊」の討伐任務だった。

 

本来なら、私のような者が駆り出される規模の任務ではなかった。対象は2級呪霊。同行する後輩の七海くんと灰原くんは、すでに私より上の階級である2級術師。

 

対して、私はいつまで経っても成果の出ない、ただの3級術師。

 

名目的には「先輩としての同行」だったが、その実態は、実力のある後輩2人に守られるための、ただの『付き添い』──実質的な足手まといに過ぎなかった。

 

(悔しいなぁ……。先輩なのに、2人の後ろをトボトボ付いていくことしかできないなんて)

 

己の無力さと劣等感。それが泥のように心に澱むなか、足を踏み入れた廃神社。

 

 

しかし、そこにあったのは、本来はあってはならない光景だった。

 

 

その空間には、まるで何者かの悪意によって捻じ曲げられたかのように、本来の2級呪霊の皮を被せられた【呪術規定を遥かに超える質量を持った呪霊】が、私たちを確実に圧し折るために、禍々しい呪いを発していた。

 

「──七海くん、灰原くん。走って……! 早く、結界の外へ……!」

 

どす黒い怨念と、肉を腐らせるような呪力が吹き荒れる社。

 

私は、大きすぎる制服の袖を己の生血で真っ赤に染めながら、2人の後輩の前に両腕を広げて立ち塞がっていた。

 

すでに七海くんは深く傷つき、灰原くんもそのあまりに巨大な呪力の圧に、蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなっている。

 

生真面目な七海くんが、血を吐きながら「先輩を置いていけるわけありません!」と絶叫する。

 

だが、私は、これまでにないほど鋭く見開き、押し寄せる呪いの奔流を視界の中心にロックオンした。

 

「いいから行ってぇ!! 2人は、死んじゃダメだよ……!!」

 

発動条件──『視界の捕捉』×『指先の描画』。

私は、恐怖でガタガタと震える人差し指を必死に突き出し、目の前の空間にクルリと、綺麗な「渦(螺旋)」を描いた。

 

『歪曲呪法』

 

ベキギギギ、ギギッ! と、空間そのものがへし折られるような、おぞましい破壊音が響き渡る。

 

押し寄せていた特級呪霊の無数の肉腕が、空間の因果ごとグニャリと歪み、雑巾のようにねじ切られた。

 

事象の「歪み」と「正しさ」を掌握する私の呪法。だが、相手は本物の特級。ねじ切っても、ねじ切っても、底無しの呪力が私の細い身体を、骨ごとすり潰そうと容赦なく襲いかかる。

 

「カハッ、……っ、げほっ……!」

 

何度も、何度も、「渦」を指先で描き続けた。

私の脳はとうに臨界点を突破していた。

 

頭の奥が、沸騰した泥のようにドクドクと熱く脈打つ。物理的に、脳細胞が一つずつパチパチと焼き切れ、神経回路がショートしていく凄まじい激痛。視界は自身の眼底出血で真っ赤に染まり、思考のメモリはオーバーヒートを起こして、次々と強制終了のアラートを上げていく。

 

(あつい……頭の中に、火を放たれたみたいに燃える……。でも、指を、止めちゃダメ……。指を止めたら、2人が死んじゃう……!)

 

だが、無情にも特級呪霊の、真の力が解放される。

 

神社の境内一帯が、粘膜のような禍々しい血の色彩によって瞬時に塗りつぶされていく。──呪霊による『領域展開』。

 

必中必殺の術式が空間に構築されたその瞬間、私は自らに訪れる「死」を、冷徹なまでの確信として悟った。

 

3級の私では、特級の領域を防ぐことは絶対に不可能。あと数秒もすれば、私の肉体は細胞のひとかけらすら残らず、消し炭になる。

 

 

(あぁ……私、ここで死ぬんだ……)

 

 

冷たい死線が首筋に触れたそのとき、私の脳裏を過ったのは、走馬灯のような美しい景色ではなかった。

 

それは、あまりにも恐ろしい「拒絶」の感情だった。

 

(五条……夏油……硝子ちゃん……。みんなと離れ離れのまま、私、ここで一人で終わっちゃうんだな……)

 

(嫌だ。そんなの、絶対に嫌。死にたくない……! みんなと、もっと一緒にいたい。もっとたくさん、お菓子をはんぶんこしたい。……2人の後輩を、絶対に死なせたくない……!!)

 

「みんなを守りたい」「バラバラになりたくない」という狂気的なまでの執念が、限界を迎えていた脳のリミッターを、内側から完全にぶち壊した。

 

足りない。圧倒的に、脳の演算容量が足りない。

 

私は自らの意志で、自らの精神の深淵へと手を伸ばした。そして、自分の脳内にある『記憶』を、乱暴に掴み、白紙の炎の中へと放り込み始めた。

 

幼い頃に見上げた空の青さ。優しかった人の声。覚えたはずの言葉、知識、意味の数々──

 

脳のメモリを、自らむしり取るようにして、強制的に「白紙」の空白へと変えていく。

 

脳みそがドロドロに融けていくような、魂を削り取られる凄まじい激痛。それと引き換えに、私の精神は、不気味なほどの絶対的な静寂と、神の領域に近い『演算能力』へと到達していく。

 

(消えていい。みんなの笑顔と、あの映画鑑賞会の想い出さえ……それだけさえ残れば──私の過去なんて、記憶なんて、全部、この白に溶けて消えちゃっていい……!)

 

 

脳の容量が足りないのなら、作ればいい。

 

 

世界からすべての色彩が失われ、クリアで、残酷なほどのモノクロームへと変貌する。

 

領域に呑み込まれ、私の指先が崩壊を始めるその直前──私は、大きすぎる袖に隠れた両手を、胸の前でふんわりと合わせた。

 

左右の人差し指と親指で菱形を作り、残りの指を複雑に重ね合わせる。

 

──覗いた先の世界の因果を、すべて「白紙」の無へと戻す、固有の【印】。

 

私は、胸の前にふんわりと結んだ【狐の窓】の小さな隙間から、色彩を失って静止した特級呪霊を、冷ややかに覗き込んだ。

 

その口から、感情の一切が剥ぎ取られた、冷徹なまでに知性的な祝詞が、静かに、低く響く。

 

 

「──歪なる因果を平らにならし」

 

「白夜の底に、理を還す──」

 

 

ドクン、と世界が大きく脈打った。

 

呪霊の放った禍々しい血の領域が、その内側から、底の抜けたような「真っ白な光」によって強引に、暴力的に塗りつぶされていく。

 

 

「領域展開──『白夜歪獄』」

 

 

その光景は、美しいという表現を置き去りにするほどに、おぞましく、圧倒的だった。

 

上もなければ下もない。右も左も、距離感すらも存在しない。地平線も、空間の境界線もすべてが失われた、狂気的なまでに眩しい、剥き出しの純白の空間。

 

五条の『無量空処』が脳内に無限の情報を流し込んで人間を廃人にするものなら、私の領域はその真逆──すべての情報をゼロにする「存在の白紙化」

 

領域に巻き込まれた特級呪霊は、自分が世界に存在しているという『境界線』そのものをグニャリと歪められ、周囲の「白」へと溶け出し始めた。

 

そこには、肉体を切り裂かれる痛みすらもない。

 

ただ、抗えないほどに心地よい、深い眠気。

 

呪霊の放つ呪力も、怨念も、五感も、記憶も、そして肉体を構成する呪肉そのものが、最初からこの世界に「存在していなかった」かのように、さらさらと、白のなかに溶けて消えていく。世界のバグを無理やりデバッグして、最初からなかったことにするような、絶対的な消去の空間。

 

やがて、呪いの存在が完全にゼロになったとき──

 

「あ……、あ……」

 

眩しいほどの純白がゆっくりと霧のように解け、崩壊した神社の境内に、元の色彩が戻っていく。

 

特級呪霊は塵一つ、呪力の残滓一つ残さず消滅し、結界の際では、私が身を挺して守り抜いた後輩、七海くんと灰原くんが、何が起きたのかすら分からず呆然と立ち尽くしていた。

 

その世界の中心で、私は、よろりと地面に膝をつく。

 

そして、私の中の『何か』さらさらと音を立てて零れ落ち、完全な「空白」へと書き換えられていた。

 

「浅雛……先輩……!? 無事ですか!?」

 

血相を変えて、涙を流しながら駆け寄ってくる七海くんと灰原くん。だが、2人に両肩を抱きかかえられた私の瞳は、ひどくトロンとしていて、焦点が合っていない。

 

「あれ……? 七海くん、灰原くん……? 私たち、これから……任務に、行くところだっけ……?」

 

「え……?」

 

2人が、静かに息を呑む。

 

私の脳内は、別の任務に向かうために高専の正門を出発する、あの「五条と夏油を見送った直後」の記憶まで、完全に巻き戻っていた。

 

自分がたった今、特級呪霊を相手に死闘を繰り広げたことも、禁忌の領域を展開してそれを消滅させたことも、私の「脳」からは完全に消去され、何も覚えていない。

 

ただ、激痛の残滓が頭の奥で火傷のように燻るなか、カチリ、と「魂」のネジが回る。

 

記憶は消えた。自分が何をしたかも分からない。けれど、私の魂の底には、空間の事象を完全に掌握したという【呪力の核心】が、決して消えない傷痕のように深く、深く刻み込まれていた。

 

(あれ……歪みを平らにする『術式反転・正緋』?……『領域展開』も、でき…る……?)

 

そんな確信だけが、言葉の代わりに魂に融けている。

 

「蒼空ーーーーっ!!」

 

そのとき、凄まじい呪力と共に、五条が現場に滑り込んできた。

 

彼が見たのは、更地になった神社と、無傷の後輩二人。そして、血塗れの萌え袖を着て、完全に様子がおかなくなっている愛おしい同級生の姿だった。

 

「五条……? お帰りなさい……。あのね、私、ちょっと頭がポカポカして、眠いんだぁ……」

 

いつもよりずっと深い、濃霧のようなまどろみの底から、私はトロンと微笑んで五条に手を振った。

 

五条の『六眼』は瞬時に見抜いた。彼女の脳の記憶領域が、不可逆の力で白紙に擦り切れていることを。その魂に、自分たちと並び立つほどの「特級」の呪力が刻まれたことを。

 

「……何、これ……。蒼空、お前、何したんだよ……!」

 

五条の声が、生まれて初めて、狂ったように激しく震えていた。

 

「私のちからで……みんなを、半分こ、しなきゃ……」

 

そう呟いて、私は五条の胸の中にすとんと倒れ込み、深い、深い、終わらないまどろみの眠りへと落ちていった。

 

 

それは、すべてを白紙へと還す、禁忌の術。

浅雛蒼空が展開した領域『白夜歪獄』に伴う固有結縛──『まどろみの代償』

 

浅雛蒼空が展開する領域『白夜歪獄』に課された、自らの生命と存在を等価交換の生贄(供犠)とする、逃れられぬ宿命の全貌である。

 

彼女がすべてを白紙に消滅させる術式を行使したその瞬間から、その代償として、自らの脳──すなわち「記憶」と「意識」の境界線が、領域の白へと差し出され、三つの呪縛となって彼女の心身を縛りつける。

 

 

一、記憶の融解

 

領域を解除したその瞬間、彼女の脳から直近数日間の日常の記憶が完全に白紙化され、忘却の彼方へと消し去られる。誰と何を話し、誰の命を救い、誰と笑い合ったのか。その愛おしい絆の軌跡は、領域の光のなかに文字通りドロドロと融け落ち、二度と彼女の脳に戻ることはない。

 

 

二、混濁の檻

 

記憶の連続性を力尽くで毟り取られ、融かされ続けた脳は、修復不可能な傷を負う。それにより、彼女の意識は「眠りから覚めた直後の、夢と現の境界が曖昧な混濁した状態」から永遠に抜け出せなくなる。

 

 

三、白夜の侵食

この領域を開いたことを引き金に、彼女の脳の白紙化は、領域を閉じた日常の裏側でも止まることはない。あの狂気的な「白」は、日常を過ごすなかで『少しずつ、確実に』彼女の脳の奥深く、魂の根幹へと染み込み、侵食を続けていく。

人格、言葉、そして大切な人たちの名前。それらが日常のなかでサラサラと摩耗していき、脳の演算メモリが完全にゼロになったその時──彼女は一切の意識を失い、二度と目覚めることのない、永い永い「永眠」の底へと叩き落とされる。

 

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