産土神信仰の呪霊との死闘から、数日後
高専の教室に集められた4人の前に、夜蛾先生は一枚の異様な報告書を落とした。
「浅雛蒼空。──上層部より、お前を本日付で『特級呪術師』に認定するとの通達があった」
その言葉に、教室内が一瞬、水を打ったように静まり返る。
3級から特級への、前代未聞の跳ね上がり。だが、報告書に記された現場の記録を見れば、誰もそれが間違いだとは言えなかった。
尋常ではない呪力量と、空間そのものをへし折る術式の出力。何より異様だったのは、推定特級と思われる呪霊を祓った痕跡が、残穢も含めて、文字通り『何も残っていなかった』こと。
あの日、神社の境内にあったはずのあらゆる呪いが、最初からこの世界に存在しなかったかのように綺麗に消去されていた。その痕跡の無さこそが、浅雛蒼空の持つ術式の、不気味で歪なまでの脅威を示していた。
「……おめでとう、蒼空。だが……」
夜蛾先生は、トレードマークのサングラスの奥の目を、痛ましげに細めてわたしを見つめた。
「その力が本物だとしても、お前の体調が万全には見えん。……硝子、蒼空の様子をよく見てやってくれ。私はまだ、上層部への手続きが残っている」
そう言って、夜蛾先生は引き止めるような重い足取りで、教室を後にした。
先生がいなくなった途端、私はブカブカの萌え袖を嬉しそうに振って、いつものトロンとした目で微笑んだ。
「えへへ……わたし、特級になっちゃったぁ……! これでこれからも、任務いっぱい頑張れるよぉ。五条、すぐに隣に並んでみせるからねぇ。夏油、これでもう……一人で寂しく戦わなくても、大丈夫だねぇ……!」
その言葉に、真っ先に反応したのは硝子ちゃんだった。
「ちょっと蒼空、急に特級とかびっくりさせないでよ」
硝子ちゃんは呆れたように息を吐きながらも、その綺麗な瞳には、隠しきれない安堵の光が浮かんでいた。
「……死にかけたって聞いたときは心臓が止まるかと思った。でも、あんたが毎日グラウンドで、吐くまで空間歪ませて特級(ここ)を目指してたの、私が一番近くで見てたからさ。……大変だったね。よく頑張ったよ、蒼空」
心配を上回るほどの、親友が報われたことへの純粋な喜び。硝子ちゃんの手が、優しくわたしの頭を撫でてくれる。
その横で、夏油はどこか心ここにあらずといった様子で、自分の前髪を弄っていた。
いつもなら真っ先に優しい言葉をくれる彼が、どこか遠い目をしている。それでも、わたしのひたむきな努力を知っているからこそ、ふっといつもの穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「……おめでとう、浅雛さん。君がどれほどの覚悟でその力を手に入れたか、私にもよく伝っているよ。本当に、素晴らしいね」
みんながわたしの特級認定を祝い、空気が和らごうとした、その時だった。
「──おい。惚けてんじゃねえよ、蒼空」
教室内が、凍りついた。
声の主は、五条だった。彼はいつものようにふざけることもなく、サングラスをポケットに突っ込んだまま、尋常ではない冷たさを孕んだ瞳で、じっとわたしを睨みつけていた。やたらと静かなその佇まいは、むしろ激しい怒りよりも恐ろしかった。
「あれぇ……? 五条、どうしたのぉ……?」
「どうしたの、じゃねえよ。お前、何か隠してんだろ」
「隠すって……なんのことぉ……?」
私がいつも通り首を傾げると、五条の堪忍袋の緒が、ぶちりと音を立てて弾けた。
「惚けるなって言ってんだよ!!」
ガッ!! と、五条が目の前の椅子を激しく蹴り飛ばした。椅子が壁に激突し、凄まじい破壊音が教室中に響き渡る。
五条がこんな感情の剥き出しにし方をするなんて、普通じゃない。
「おい、悟! 落ち着けよ、急に何怒って──」
「そうだよ、五条。蒼空に八つ当たりはやめなさい」
夏油と硝子ちゃんが血相を変えて五条を止めようと間に入るが、五条の鋭い『六眼』は、2人を弾き飛ばすような視線のまま、わたしの脳(ナカ)を冷酷に暴き立てた。
「邪魔すんな傑、硝子! ……おい、蒼空。お前のその頭の中、今どうなってんのか、俺の目で視えねえとでも思ったか?」
五条の声が、怒りと、それを上回るほどの激しい困惑で震え始める。
「お前の脳の一部……『記憶の領域』が、不自然に真っ白に擦り切れてんだよ。それだけじゃねぇ、その白が、今も少しずつ広がっていってやがる。……なぁ、お前、あの神社で何した? このままお前が領域を使い続けたら、お前の頭、マジで完全に空っぽになっちまうぞ……!!」
固有結縛『まどろみの代償』。そして、今も脳を蝕み続ける『白夜の侵食』の真実。
それを聞いた瞬間、硝子ちゃんと夏油の2人は、言葉を失って完全に絶句した。
「……え? 蒼空、それ……どういう……?」
硝子ちゃんの手が、私の肩の上でガタガタと震えだす。
私は、2人の視線から逃げるように、困ったように少しだけ笑ってみせた。
「あはは……。ちょっとね、忘れん坊さんになっちゃっただけだよぉ……」
「笑ってんじゃねえ!!」
五条が私の胸ぐらを掴むかのように距離を詰め、その綺麗な顔を鬼のように歪めて詰め寄ってきた。
「約束しろ。あの『白の領域』は、二度と使うな。上層部には、俺から言っとく。お前の領域は『無差別の完全自滅技だから実戦投入は不可能』だってな。適当に理由つけて、使用禁止に縛りつけてやる」
「……っ、そんなのダメだよぉ……!」
わたしは初めて、五条の言葉に反対しようと声を震わせた。
せっかく、せっかく2人に追いつけるかもしれない力を手に入れたのに。禁止にされたら、またわたしは置いていかれちゃう。
「だって、わたし、みんなの隣に……」
「蒼空、やめて」
遮ったのは、青い顔をした硝子ちゃんだった。
「頼むから、五条の言う通りにして。……そんな、自分が消えちゃうような力、私が絶対に許さないから。お願いだから……領域は使わないで」
泣きそうな硝子ちゃんの言葉に、わたしはそれ以上、何も言えなくなって、小さく俯いて禁止を受け入れるししかかなかった。
私の沈黙を確認すると、五条は大きく息を吐き、吐き捨てるように冷たく言い放った。
「──お前、あの戦いで、術式を反転させた【正緋】で他人の因果を平らにする、他者治療の力までモノにしたんだろ。だったら、もうこれ以上現場に出る必要はねえ。硝子と一緒に高専に籠もってろ。お前は戦わなくていい。……大人しく、俺たちに守られる『箱入り娘』になってろ」
箱入り娘。戦うな。守られていろ。
その言葉が、わたしの胸の奥にある、あの日焼き切ったはずの魂の芯を、激しく揺さぶった。
その瞬間──
私のいつもの眠たげな寝ぼけ眼が、カチリと音を立てて、これまでにないほど鋭く、正しく、見開かれた。
私はブカブカの袖を固く握りしめ、まっすぐに五条の目を射抜いた。
「──嫌だよ」
凛とした、まどろみの一切ない声が、教室の空気を震わせる。
「守られてるだけなんて、絶対に嫌。……わたしはね、五条。五条をひとりにしないために、夏油を寂しくさせないために、みんなを守るために強くなったんだよ。箱入り娘になって、高専の奥でぬくぬく守られるために、記憶を融かしたわけじゃないのぉ……!」
私の真っ直ぐな、一歩も引かない瞳。
私は五条を真っ正面から見据えたまま、魂に刻み込むように力強く誓った。
「領域には、もう頼らない。使わないって約束する。……だけど、現場には行くよ。領域を使わなくたって、わたしは『特級』として、みんなの隣で、みんなを守って戦ってみせるから……!」
その強い眼差しに、五条は一瞬だけ気圧されたように目を見張った。だが、すぐにフンと顔を背け、ちっと舌打ちをする。
「……チッ。……勝手にしやがれ」
口ではそう悪態をつきながらも、五条はそれ以上、戦うなとは言わなかった。
硝子ちゃんは、こうなった時のわたしが絶対に譲らない頑固者であることを、誰よりも知っていた。
だからこそ、諦めたように、でも真剣な目で私の目を覗き込んできた。
「……はぁ。分かったよ、現場に行くのは止めない。その代わり、領域だけは絶対に、何があっても使わないって、もう一度ここで私に約束しなさい。いい?」
「うん……! 約束するよぉ、硝子ちゃん」
2人のやり取りを見つめながら、夏油はただ、静かに立ち尽くしていた。
呪霊を喰らい続け、非術師への不信感と孤独で、暗く曇りかけていた彼の瞳。その瞳の奥に、自らを犠牲にしてまで、「隣にいたい」「君を一人にしない」と叫ぶわたしの真っ直ぐな光が、痛いほどの眩しさで差し込んでいた。
(浅雛さん……。君はそこまでして、私の隣を歩こうとしてくれるのか──)
五条の苛立ちと、硝子ちゃんの祈りと、夏油の胸に灯ったかすかな光。
それぞれの想いを乗せて、わたしの『まどろみ』の、危うくて不器用な『箱入りの特級』としての日常が、ここから静かに始まろうとしていた──