高専の夏は、いつも蝉の声と、どこか重苦しい呪力の気配に満ちていた。
医務室の窓から差し込む西日は、信じられないほど赤く、床に長い陰影を落としている。
私はいつものようにトロンとした目のまま、ソファに座って、膝の上で一冊の小さな【ポケットメモ帳】に、カチカチとシャーペンを走らせていた。
『呪術高専・特級・浅雛蒼空』
『五条悟、夏油傑、家入硝子、夜蛾先生』
『大事。絶対に忘れないこと』
知性はまだ、はっきりとしている。漢字だって間違えずに書ける。
だからこそ、私は恐怖していた。自分の脳に起きたあの「空白」が、一時的なものではないという現実に。
「……あ、蒼空。またそれ書いてんの?」
不意に上から声をかけられ、私はビクッと肩を揺らして、慌ててメモ帳をパタンと閉じた。
見上げると、白衣を着た硝子ちゃんが、手首をぶら下げたデジカメをこちらに向けていた。
パシャリ。
レンズのシャッター音と、軽いフラッシュが私の寝ぼけ眼を叩く。
「あぅ……。硝子ちゃん、またお写真撮るのぉ……?」
「いーじゃん。最近の私のマイブーム。ほら、蒼空、こっち向いて。もう一枚」
硝子ちゃんはいつものクールな調子で笑いながら、何度も何度も、私の他愛のない姿をファインダーに収めていく。
最近、硝子ちゃんがやたらと写真を撮るようになった理由は、わたしにも分かっていた。
私がいつか、あの日開いた領域の代償のせいで、今という大切な時間をすべて忘れてしまったとしても──その手元に、私たちが確かにここにいた証拠を、アルバムとして残してあげるために。
硝子ちゃんは何も言わないけれど、そのレンズの奥の瞳には、親友を繋ぎ止めようとする必死な祈りが透けて見えていた。
「ん……。硝子ちゃんが撮ってくれるの、すっごく嬉しいよぉ……」
私がブカブカの袖で顔を隠しながら微笑むと、教室の扉がガラリと開いた。
「よ、お疲れー」
「お疲れ様、硝子、浅雛さん」
入ってきたのは、任務帰りの五条と夏油だった。
2人の姿を見た瞬間、私の胸がトクンと跳ねる。……嬉しい、という感情のすぐ裏側に、冷たい焦燥感がへばりついていた。
「あ、2人とも、お帰りなさいだねぇ……!」
私はいつものように嬉しそうに手を振ったけれど──五条がサングラスを少しずらし、その『六眼』でこちらを見ようとした瞬間、私は無意識に、すっと視線を斜め下に逸らしてしまった。
領域を禁止され、戦うなと言われても、私は裏山で『染黒』の特訓を続けている。それに、日常の脳の空白が、あの日よりも広がって、霧がかかっていることなんて、五条に知られたら今度こそ本当に現場から引き剥がされてしまう。
五条は、私が露骨に視線を逸らしたことに、怪訝そうに眉をひそめた。いつもなら真っ先に距離を詰めて「おい、蒼空」と生意気に絡んでくるはずの彼が、何かを察したように、やたらと静かに私を観察している。その視線が、痛いほど怖かった。
そんな不穏な空気を察してか、夏油がいつもの穏やかな笑みで私の前に歩み寄ってきた。
「そうだ、浅雛さん。この前貸した『古典の呪術解釈』の本だけど、もう読んだかい? もし読み終わったなら、少し感想を聞かせてほしいなと思ってね。君の術式の参考になればいいのだけど」
「……え?」
夏油の言葉に、私の思考が完全に停止した。
本。……ほん? 夏油から、本を、借りた……?
必死に脳の引き出しをひっくり返す。知性はある。漢字も読める。けれど、そこにあるのは、からっぽの真っ白な空間だけだった。いつ借りたのか、どんな表紙だったのか、何一つ思い出せない。脳のシステムが、バグを起こしたように処理を拒絶している。
「あ……。えっと、あの、ねぇ……」
私のトロンとした目が、泳ぐ。明らかに動揺している私を見て、夏油の細い目が、ぴくりと微かに見開かれた。
「浅雛さん……? もしかして、忘れて──」
「う、ううん! 忘れてないよぉ……! 約束もちゃんと覚えてるし!」
わたしは慌てて夏油の言葉を遮り、立ち上がった。
「ちょっとね、まどろんでて、お部屋に置いたままだっただけなのぉ! 明日までに、明日までに絶対全部読むからねぇ……! わたし、ちょっとお部屋に取ってくる!」
そう言って、私はポケットのメモ帳をぎゅっと握りしめたまま、逃げるように医務室の出口へと走った。
背後で、夏油が「あ、浅雛さん、別に急がなくても……」と引き止める声が聞こえたけれど、今の私には、自分の脳の欠落を突きつけられる空間が、耐えられなかった。
バタン、と勢いよく扉を閉めて、廊下に飛び出す。
心臓がバクバクと五月蝿く鳴っていた。私はすぐに壁に背中を預け、震える手でメモ帳を開き、新しいページにしっかりとした字で、必死に書き殴った。
『夏油から本(古典の呪術解釈)を借りている。明日までに必ず読むこと。忘れない。忘れない』
──日常の忘却。『記憶の融解』
それは確かな知性の裏側で、確実にわたしの脳を削り取っていた。
その日の夜。
昼間の気まずさを誤魔化すように、私は高専のラウンジにみんなを集めて、一台のテレビの前に座らせていた。
「ねぇねぇ、みんなぁ。これから、映画見ようよぉ……!」
私がブカブカの袖から古いDVDを掲げると、ソファに寝そべっていた五条が、気怠げに声を上げた。
「あ? お前、それこの前も4人で見ただろ。なんでまた同じやつなんだよ」
「え、えへへ……。あのね、すっごく気に入っちゃったから、もう1回見たいなぁって思って。それに、この前は五条も夏油も、途中で寝ちゃってたからぁ……!」
私はトロンとした目で、いつものように無邪気に笑って誤魔化してみせた。
嘘だった。2人は寝てなんていなかった。最後まで真剣に見ていた。
──私の脳には、「4人で楽しく映画を観た」という、あの胸がぽかぽかするような愛おしい思い出の『感情』だけは、鮮烈に残っている。それは、何があっても消したくない、わたしの宝物。
だけど……その映画のタイトルが何だったのか。どんなストーリーで、どんな結末だったのか。そのディテールが、私の脳からさらさらと融け落ちて、真っ白な余白になってしまっていた。
思い出せないのが、悲しくて、悔しくて、怖くて。だから、もう一度みんなとそれを見て、脳の空白を埋めたかったのだ。
部屋の明かりが消され、テレビの画面から青白い光が私たちの顔を照らし出す。
「……浅雛さん」
私の隣に座った夏油が、画面を見つめたまま、低く、静かな声で呟いた。
「本当に、私と悟は、この前寝ていたかい……?」
「……っ」
私の身体が、一瞬で硬直する。
夏油の横顔は、テレビの光に照らされてどこか哀しげだった。彼は昼間の本の件も含めて、私の脳に起きている『白夜の侵食』の恐ろしさを、その聡明さで察し始めていた。私のつたない嘘も、全部お見通しだったのだ。
それでも、夏油はそれ以上私を追及しなかった。ただ、自らの胸の奥に広がる黒い孤独を、わたしの消えゆく記憶の儚さに重ね合わせるように、静かに、優しく、私の小さな手をそっと包み込んでくれた。
(これほど大切な想い出さえ、君の脳は融かしてしまうというのか……)
夏油の瞳の奥で、私への痛切な愛惜の光が揺れている。
その少し離れた場所で、五条は特等席のソファに座りながら、一切映画を見ていなかった。
彼はトレードマークのサングラスを少し下げ、テレビの青白い光のなかで、じっと私の姿を──その脳内に広がる『白い侵食』の速度を、その『六眼』で冷酷に、傷ましげに、そして狂いそうなほどの焦燥感を持って見つめ続けていた。
(クソが。……ふざけんな。領域を禁止したって、進行が止まってねえじゃねえか。蒼空、お前、このまま全部忘れて、どこに行っちまうつもりだよ……)
五条の拳が、ズボンのポケットの中で白くなるほど固く握りしめられているのを、私は気づかないフリをした。
テレビからは、楽しげな映画の音が流れている。
硝子ちゃんは、そんな3人の空気をすべて包み込むように、暗闇のなかでそっとデジカメを構え、テレビの光に照らされる私たちの横顔を、何度も、何度も、静かに写真に収めていた。
映画の内容は、やっぱり私の脳には上手く入ってこなかった。
それでも、隣にある夏油の手の温もりと、硝子ちゃんのシャッター音と、背後から突き刺さる五条の不器用な視線の熱さだけは、わたしの魂にしっかりと刻まれていた。
「みんなで映画、たのしいねぇ……」
私がポツリと呟いた言葉は、夏の終わりの夜風に、静かに融けて消えていった──