連日の酷暑。茹だるような夏。
蛆のように、次から次へと呪霊が湧く。
祓って、取り込む。その繰り返しだ。
誰も知らない呪霊の「味」
吐吐物を処理した雑巾を、そのまま丸めて飲み込むような、おぞましい味。
──非術師を、弱き者を守る。それが呪術師の大義だ。
自分にそう言い聞かせてきた。
しかし、そう思う反面、私の脳裏には、泥のような迷いが常に渦巻いていた。
日々、醜悪な感情を撒き散らす非術師たち。私は本当に、この者たちを守らねばならないのか。守るべきものの「価値」が、今の私にはもう、分からなくなっていた。
ジジジジジジジジ……と、高専の木々から響く蝉の声が、頭痛を催すほどに鼓動を急かす。
あまりの暑さに眩暈を覚えながら、私は任務の合間、太陽の光が届かない高専の薄暗い廊下の隅に、静かに蹲っていた。
冷たいコンクリートの床に背を預け、額に手を当てる。視界がかすみ、自分が何のために生きているのかすら、酷く曖昧に思えた。
「……あれぇ……? 夏油、そんなところでどうしたのぉ……?」
不意に、上からまどろんだ声が降ってきた。
見上げると、大きすぎる制服の袖を揺らした浅雛さんが、心配そうにトロンとした目で私を覗き込んでいた。
「……ああ、浅雛さんか。なんでもないよ。少し任務が続いて疲れているだけさ。気にしないで硝子のところへ──」
いつものように、笑って突っぱねようとした。
けれど、私の脳裏には自分の身を削り、記憶を融かしながらも、「一人にさせない」と叫んで悟を殴り飛ばした浅雛さんの姿がフラッシュバックした。
あんなに脆くて危うい彼女が、ボロボロになりながらも隣に立とうと必死に足掻いているのだ。
自分たちの隣に立つために、命を削って手を伸ばしてくれた、不器用で健気な……大切な友人。
(……彼女の前でまで、私はまだ、取り繕うとするのか)
彼女は、自らの記憶を差し出して特級へ至り、私や悟と共に並び立とうとしてくれる、対等な存在だ。彼女の濁りのない瞳を見つめていると、私の胸の奥に溜まった澱みが、堰を切ったように溢れ出してしまった。
「……浅雛さん……」
私は膝を抱えたまま、掠れた声で呟いた。
「……分からないんだ。自分が、何のためにこの泥を啜り続けているのか。守るべきものの価値が、もう私には見出せない……」
「夏油……ぉ……?」
「辛いんだ、浅雛さん。……あの呪霊玉は、本当に酷い味がする。何のためにこれを喰らい続けなければいけないのか、分からなくなってしまったんだ。……辛いな。本当に、辛いよ、浅雛さん」
いつもの私からは想像もつかない、あまりにも惨めな弱音。
浅雛さんは困惑したように小さく目を見開いた。彼女には、私のこの深い絶望を理解するのは難しかったかもしれない。それでも、彼女は私の「辛い」という言葉に、胸を痛めるように顔を曇らせた。
「ん……。夏油のその辛さ、わたしが代わりに全部食べてあげることは、できないけれど……。でも、半分こにして、減らしてあげることは、できるかもしれないよぉ……」
浅雛さんは床に膝をつき、私の目線に合わせると、私の掌の上にある、まだ取り込んでいない真っ黒な呪霊玉をじっと見つめた。
「わたしの新しい力……拡張術式【染黒】はね、物質の『性質』を書き換えられるの。……もしかしたら、その黒くて不味い呪霊玉の味の性質も、変えられるかもしれないよぉ……?」
「味を……変える?」
そう言うと、浅雛さんはゆっくりと、両目を完全に閉じた。──【触手遮限】
外界の情報を遮断し、私の掌の呪霊玉へと、その華奢な右手をそっと直接、重ね合わせてきた。
彼女の掌から、どく、と不気味な呪力の脈動が伝わり、真っ黒な球体が、さらに濃密な彼女の『黒』の呪力で包み込まれていく。
「……ん、できたぁ……! どうかなぁ……?」
彼女の黒が退いた後、夏油の手のひらにあったのは、禍々しい瘴気が完全に消え失せ、まるでガラス細工のように綺麗な、ほんのり青みがかった【ラムネ色】の玉だった。
私は半信半疑のまま、それを口元へと運び、いつもの地獄を覚悟しながら、喉の奥へと押し込んだ。
──その瞬間、私の目が見開かれた。
雑巾の味など、微塵もしない。
口の中に広がったのは、夏祭りの日に飲むような、爽やかでほんのり甘い、どこか懐かしいラムネの味だった。
「っ……!? 味、が……本当に、変わって……」
「本当ぉ!? えへへ、やったぁ……! ラムネ味になったかなぁ……?」
子供のように両手を叩いて喜ぶ浅雛さん。私の口内には、確かにこの茹だるような夏に相応しい、清涼な甘さが広がっていた。一瞬、救われたような気がした。
だが、直後──私は自分の内側に起きた『異変』に気づいた。
「……あ」
「夏油……どうしたのぉ……?」
「……使役、できない」
胃の中に落ちたはずの呪霊の因果。だが、私の呪力の一部として定着するはずの感覚が、どこにもなかった。ただの澱みとして、霧のように霧散していく。
「味の性質を変化させてしまったせいで……呪霊としての構造が変わってしまったみたいだ。味は改善されるけれど……これでは、呪霊を取り込んで使役することができない……」
今取り込んだはずの呪霊の感覚が一切繋がらない。
それどころか、ラムネ味になった呪霊玉のエネルギーはただの「無害な呪力の残滓」として、体内でサラサラと霧のように霧散して消えてしまった。
浅雛さんの『染黒』は、不味さという性質だけでなく、その呪霊が呪霊であるという「本質」まで黒で塗りつぶしてしまった。味は美味しくなったけれど、それはもう「呪霊玉」ではなく、ただのラムネ味の呪力の塊だった。
浅雛さんはハッと息を呑み、ブカブカの袖のなかで手を固く握りしめた。
「ご、ごめんなさい……! わたしのせいで、夏油の大事な呪霊を無駄にしちゃったぁ……。力になれるって思ったのに……わたし、やっぱりまだダメだねぇ……」
涙目になりながら、消え入りそうな声で謝る浅雛さん。
だが、私の胸を満たしたのは、怒りなどでは断じてなかった。
「……謝らないでくれ、浅雛さん」
私は床についた彼女の小さな手を、そっと包み込むように握り返した。
「無駄になどなっていないさ。使役はできなくても……君が私のために、その大切な力を尽くしてくれた。その事実だけで……私は、救われたんだ。ありがとう」
本当に、呪霊玉の味そのものを変えることはできなかった。
けれど、彼女が私のために必死になってくれたその温かさが、私の冷え切った心を、確かに変えようとしていた。
浅雛さんは、私の言葉に救われたように、そのいつもの眠たげな寝ぼけ眼を、今だけは精一杯に、真っ直ぐに見開いた。
そして、握り合っていた私の手を、細い指でキュッと力強く握りしめ、私の目を真っ正面から見つめて言ったのだ。
「──夏油がね、守るべきものの価値が分からなくなっちゃったなら……。これからは、わたしのことを守ってほしいなぁ」
「え……?」
「わたしもね、夏油が辛いときは、絶対に守ってあげる。半分こしてあげるって、約束するよぉ。だから……だから、一人でそんなに悲しいお顔をしないでねぇ……?」
トロンとした目の奥にある、どこまでも純粋で、濁りのない、私を求める光。
世界を守る大義など、今の私にはどうでもよかった。だが──目の前で私を必死に引き止め、私の存在に価値を与えてくれるこの少女を、私はどうしても失いたくないと、魂の底から激しく突き動かされた。
(浅雛さん……。君が私を必要としてくれるなら──君が私に、守ってほしいと願うなら──)
私の暗い胸の奥に、眩いほどの光が灯る。
大義の迷いは消えていない。呪霊玉の味も、明日からまた不味い雑巾のままだろう。
けれど、私の手を握る彼女の優しさは、私の凍りついた心に、確かな熱を吹き込んでくれた。
「……ずるいな、君は」
私はふっと、本当に久しぶりに、心からの穏やかな笑みを浮かべた。
彼女の手の温もりを噛み締めながら、私はゆっくりと立ち上がる。
「分かったよ、浅雛さん。……君との約束だ。君のことは、私が、何があってもこの命に代えても守り抜く。……だから、安心するといい」
五月蝿かった蝉の声が、今は少しだけ、遠くに聞こえた。
浅雛さんのために。私を一人にしないと言ってくれた、この愛おしい少女のために──私は、もう少しだけ、この茹だるような夏の泥のなかで、頑張ってみようと思えたのだ──
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佳境ですね