かつて信じた「弱き者を守る」という大義は、とうの昔に色褪せていた。
吐吐物を処理した雑巾を丸めて飲み込むような、あの呪霊玉の泥の味を思い出すたび、非術師という存在への嫌悪が、首筋にまとわりつく熱気のように私を苛む。彼らには、命を懸けて守る価値など、もうどこにも見出せなかった。
それでも私がこの高専に踏みとどまり、呪術師として生きることにしたのは──あの薄暗い廊下で、寝ぼけ眼を精一杯に開いて私の手を握りしめてくれた、浅雛蒼空との約束があったからだ。
『これからは、わたしのことを守ってほしいなぁ』
あの日、私の掌の中で爽やかなラムネの味に変わった、あの幻のような温もり。
もはや、私が守るべきものは「弱者」などではない。浅雛さん、君だけだ。君が私の存在を求め、私が君の辛さを半分こにする。それだけが、私の新しい、たった一つの大義だった。
──そう、信じていた。あの村に、足を踏み入れるまでは
茹だるような夏の陽炎の向こう、排他的な悪意に満ちたその集落で、私は牢に入れられた二人の幼い呪術師の少女を見かけた。
身体中を傷つけられ、恐怖に怯えるその幼子たちを囲み、群がる非術師たちが私に向かって何かを喚き散らしている。
「これはなんですか?」
醜い顔を歪め、口々に責任を擦り付け合い、身勝手な恐怖を怒声に変えて叫ぶ猿ども。
だけど、不思議なほど、彼らの声は私の耳には届かなかった。
ジジジジ、と五月蝿かったはずの蝉の声も、猿どもの喚き声も、あたりの雑音のすべてがすっと遠のいて消えていく。私の頭の中は、冷徹なひとつの事実だけで、急速に埋め尽くされていった。
(……あぁ、そうか。こういう奴らだ。こういう、醜く愚かな生き物のために──)
脳裏に浮かぶのは、小さなポケットメモ帳に必死に『忘れない、忘れない』と書き殴っていた浅雛さんの姿。
映画の記憶を融かされ、日常を奪われ、悟の視線から逃れるように怯えていた、あの愛おしい少女の姿。
(こんな、守る価値もない猿共のために、浅雛さんは自分を犠牲にしている。そのせいで、彼女の脳は毎日削り取られ、大切な思い出さえ融かされているというのか──)
内側から湧き出たのは、非術師という種そのものへの、底知れない、圧倒的な憎悪だった。
浅雛さんを救いたい。彼女を守りたい。
そのためには、彼女が自らを犠牲にする必要のない世界を作らねばならない。
世界の歪みの原因は、すべてこの猿どもだ。彼らが呪霊を漏らし、彼らのために浅雛さんがすり潰されていく。
ならば──この歪みを正すこと。すなわち、術師だけの世界を作ることこそが、本当の正義。そしてそれこそが、あの日彼女と交わした「浅雛さんを守る」という約束を果たす、唯一の道ではないか。
それが、私の『大義』だ
──それだけが君との約束だ
「……あはは」
乾いた笑いが、私の口から零れる。
迷いは消えた。もう、泥を啜る必要もない。
私には、もう迷いも、哀しみもない。
ただ、浅雛蒼空という少女の尊厳を汚し続けた世界への、底の知れない『憎悪』と『殺意』だ。
「──非術師(さる)め」
その夜、村の非術師、112名が死亡した。
【呪術高専・内部報告書(特秘)】
通達日時: 198X年 9月X日
報告者: 補助監督・高専調査班
対象: 特級術師・夏油 傑
【概要】
同月X日、任務地であるXX県XX村において、派遣中であった特級術師・夏油傑が、当該集落の非術師住民に対し、術式(呪霊操術)を用いた無差別大量殺害を敢行したことを報告する。
【被害状況】
集落内に居住していた非術師、計112名。
発見当時、全員が呪霊によるものとみられる圧殺、および物理的損壊により死亡。生存者は皆無。また、同村に監禁されていたとみられる未登録の呪術師(幼女2名)の身柄が消失しており、夏油が連れ出したものと推測される。
【現状と対応】
本件を以て、夏油 傑を呪術規定第X条に基づき「呪詛師」に認定。
直ちに死刑対象とし、現時刻より高専全術師による全国指名手配、および即時死刑執行の体制に移行する。
なお、当該特級術師の反逆は、高専内の他術師への精神的影響が極めて大きい。特に、同級生である五条悟、家入硝子、および浅雛蒼空への情報開示の順序、および接触の制限については、上層部の直接の指示を仰ぐものとする──
読んでいただきありがとうございます
よろしければ感想もお待ちしております