2007年、9月 新宿
茹だるような残暑の雑踏の中なかに、硝子は、見違えるほど窶れ、されど悍ましいほどに澄んだ瞳をしたその男を見つけた。
「──夏油」
声をかけると、夏油はゆっくりと振り返った。その表情は驚くほど穏やかで、まるで長い悪夢から目覚めたばかりのような顔をしていた。
「本当に呪詛師になっちゃったんだね、夏油」
「……ああ、硝子か。久しぶりだね」
硝子はポケットの中で五条への連絡ボタンを押し込み、いつもなら煙草を咥えるはずの指先を微かに震わせながら、淡々とした口調の裏にある焦燥を隠さずに真っ先に問いかけた。
「あんた、蒼空のことはどうすんのさ。あいつがどれだけギリギリのところで生きてるか、自分の記憶を融かしながら高専(うち)を支えてるか、分かっててこんなことしてんの」
「分かっているさ、硝子。誰よりもね」
夏油は静かに微笑む。その笑顔が、硝子には酷く不気味に映った。
「分かってて、なんで消えるんだよ。あいつはあんたが戻ってくるのを待ってるんだよ。あんたが隣にいないと、あいつのまどろみはただの崩壊になっちまう」
「だからこそだよ」
夏油は一歩、硝子の方へと歩を進める。その足取りには、迷いの破片すら残っていなかった。
「非術師を呪いから守るために、浅雛さんが自らの身を削り、大切な記憶を融かされ続ける。そんな、呪術師の『犠牲』の上で成り立っている世界のほうが、歪んでいると思わないかい?」
「夏油……」
「私はね、硝子。これ以上彼女が磨り潰されず、笑っていられる世界。そのために、私はこの茹だるような夏の泥を全て、取り除くことに決めた」
「何言ってんのさ、あんた。そんなの──」
「傑!!!!」
人混みを暴力的に掻き分けるようにして現れた五条の叫びが、新宿の喧騒を両断した。
サングラスを外したその『六眼』が、眼前に立つかつての親友の術式の流れ──「呪詛師」としての塵一つない決意を捉え、激しく動揺に揺れる。
「説明しろ、傑……! お前、非術師を全員殺す術師の世界を作るって、本気で言ってんのかよ!?」
「本気さ、悟」
「できるわけねぇだろ、そんなこと! お前……お前がそんなことしたら、高専に残されたあいつはどうなるんだよ!」
五条は一歩踏み込み、声を荒らげた。怒りと、それを上回る恐怖の混ざった悲鳴だった。
「蒼空が俺たちのために何をしたか、忘れたなんて言わせねぇぞ! お前の苦しそうな顔を見て、あいつがどれだけ泣いて……自分の大切な思い出を削ってまで、強くなることを選んだか分かってんのか!?」
「分かっているさ、悟。すべて分かった上で、私はこの道を選んだ」
夏油は五条の魂の叫びを、真っ向から、静かに受け止めた。その揺るぎなさが、五条をなおさら絶望させる。
「あの子は優しいからね。これからも、私や君の隣に立つために、泥を啜って強くなろうとするだろう。……だが、それをさせる今の世界が、私は反吐が出るほど嫌いんだ。私はね、あの子が本当に『ただいま』と帰ってこられる世界を作りたいんだ」
それだけを言い残すと、夏油はふっと視線を落とし、それからゆっくりと背を向けた。
その背中には、もう今までの彼はない。独善的な『大義』を纏った、一人の呪詛師の背中だった。
五条が、世界に置いてきぼりにされた子どものようにその場に立ち尽くすなか、夏油は一歩、また一歩と、新宿の雑踏のなかへ歩みを進めていく。
「非術師を皆殺しにする私の大義を、否定したければ、君が、私を殺せばいい」
人混みの向こうから、冷たく突き放すような声だけが届く。
「……傑っ……!」
五条の右手に、世界を消し去るための呪術順転『蒼』の光が灯りかける。
あの日々を共にした親友の笑顔が、そして、苦しむ夏油のためにボロボロと涙を流し、自分の手を伸ばして必死に引き留めようとしてくれた蒼空が脳裏をよぎり、最強の指先が、一瞬だけ、決定的に止まる。
その一瞬の、あまりにも人間らしい隙の間に──夏油の背中は、新宿の人の波の向こうへ、完全に溶けて消えていった。
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