家入硝子の手記
夏油が消えた。
その現実を、私は蒼空に隠し通すことができなかった。
高専の結界の外が騒がしくなり、何かがおかしいと気づいたあの子の真っ直ぐな瞳に耐えかねて、私は夏油の離反を伝えてしまった。──あれが、すべての引き金だった。
あの日の蒼空の姿は、今でも夢に見る。
いつも眠たげにまどろんでいたあの子が、見たこともないほどに顔を歪ませて、過呼吸になりながら泣き叫んで錯乱していた。夏油の名前を叫びながら、頭を掻きむしり、自分の思い出を必死に手繰り寄せようと、ボロボロと大粒の涙を流して狂ったように暴れていた。
あの子の魂が、目の前で内側から粉々に砕け散っていくような、そんな凄絶な絶望だった。
だけど、本当に恐ろしかったのは、その次の日の朝だ。
教室に入ると、蒼空はいつもと変わらない、ぽつんとしたトロンとした目のまま、窓際の席に座っていた。
前日のあの狂乱が嘘みたいに、すっきりと、ひどく穏やかな顔で、私を見るなりこう言ったんだ。
『……ん、硝子、おはよぉ。夏油、おそいねぇ。きょうはみんなで、えいがを見ようねぇ……』
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に、言葉にできない悍ましい恐怖が走った。
あの子のなかで、何かがぷつんと切れて、致命的な『何か』が取り返しのつかない速度で進行してしまったんだと直感した。
夏油を失ったあまりのショックに、あの子の防衛本能か、あるいは術式の【まどろみの代償】が暴走して、前日の狂乱も、夏油が呪詛師になったという事実も、その苦しみごと、脳からすべて綺麗に融かして消し去ってしまったんだ。
残された高専の教室で、蒼空は今も、夏油の好きだった映画のタイトルを必死に思い出そうと、掠れた文字でメモ帳をなぞっている。
馬鹿じゃないの。本当に、どいつもこいつも。
私はもう、すべてを忘れて笑顔でみんなを待ち続ける、あの狂おしいほどに哀しい蒼空の隣に座って、その細い髪を、五条や夏油が帰ってくるまで何度でも梳かし続けることしか、私にはできない。
◇
五条悟の手記
あの日、新宿の雑踏で、俺は傑を殺せなかった。
『最強』になったはずの俺はただ、あいつの背中が人混みに消えていくのを見ていた。
もしここで傑を殺せば、あいつが自分を犠牲にして【まどろみの代償】を払ってまで繋ぎ止めようとした『俺たちの青い春』が、本当に粉々に砕けてしまう気がしたんだ。
傑は言った。蒼空が帰ってこられる世界を作ると。
だけどな、傑。お前のいない世界なんて、あいつにとっては帰る場所でもなんでもねえんだよ。
誰もいなくなった教室で、夕焼けに染まりながら俺たちを待っている蒼空の姿を見る。
俺の『眼』に映る蒼空の呪力は、日に日に儚く、薄くなっていく。
守るさ。これからは、俺が一人で、最強としてあいつの日常を守る。
蒼空の脳がどれだけ融けようが、記憶が消え去ろうが、俺が全部覚えていればいい。
──だけど、あいつがメモ帳に書いた『みんなで映画を見る』っていうあの約束だけは、俺のこの手じゃ、どうしても叶えてあげられないんだ。
◇
東京都立呪術高等専門学校、誰もいない教室
世界は、燃えるような夕焼け色に染まっていた。
窓から差し込む残光は、オレンジと紫がドロドロと混ざり合う、不気味なほどに美しい黄昏時の色彩。昼と夜の境界線がゆっくりと融けていくその光のなかで、浅雛蒼空はぽつんと一人、窓際の席に座っていた。
「……ん、みんな、遅いなぁ……」
何も知らない彼女は、トロンとした眠たげな目のまま、大きすぎる制服の袖から小さなポケットメモ帳を取り出した。
指先で、拙い文字を愛おしそうに、丁寧になぞる。
【つぎ、みんなで、えいがをみる。約束。】
「今度はね、夏油のすきな、おもしろい映画にしようねぇ……。五条はまた、途中で寝ちゃうかもしれないけれどぉ……」
まどろむ頭のなかで、楽しかったあの夏の日の、清涼なラムネの味を思い出す。
もう二度と4人が揃うことのない教室で
特級術師・浅雛蒼空は、今もずっと、みんなの帰りを待っている──
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