2018年10月31日 19時00分
東京・渋谷の街に、突如として巨大な『帳』が下ろされた。
ハロウィンの熱気に浮き立つ大勢の一般人が閉じ込められ、電波は遮断され、街の明かりは不気味な夜の闇に呑まれていく。そして、帳の結界に閉じ込められた人々を嘲笑うように、地下の暗闇からドバドバと湧き出した無数の呪霊たちが、人間の肉を喰らい、引きちぎる阿鼻叫喚の地獄絵図が始まりつつあった。
──そこから少し離れた、高専が設置した渋谷外縁の後方支援拠点
薄暗いビルの一室に、簡易的な医療設備を整え、家入硝子はパイプ椅子に腰掛けていた。白衣のポケットに両手を突っ込み、ひっきりなしに鳴り響く補助監督からの無線を冷徹な目で見つめている。
その隣で、浅雛蒼空は、大きすぎるメンズサイズの制服の袖をきゅっと握りしめ、とろんとした寝ぼけ眼を不安そうに揺らしていた。
「みんなぁ……大丈夫、かなぁ……。虎杖くんも、伏黒くんも、釘崎さんも……みんな、渋谷の中に入っちゃったんだよねぇ……」
「……大人しく待ってな、蒼空。あいつらには一級術師たちが付いてる。何より、五条が真っ先に中心部に乗り込んでるんだ。私たちが心配するまでもないさ」
硝子は淡々と告げるが、その指先がわずかに震えているのを、蒼空の優れた感覚は見逃さなかった。
蒼空の術式『歪曲呪法』。それは、世界に存在するあらゆる「歪み」を掌握する力。
本来なら脳にかかる反動が大きすぎてまともな運用が困難な欠陥呪法だ。それを彼女は、自らの大切な「記憶」や「思い出」を削り落とす、『まどろみの代償』によって、脳の処理容量を強制的に限界まで拡張することで高精度で出力している。
だからこそ、集中を極めずとも彼女の脳には、ここから数キロ離れた渋谷の街の「空間の歪み」が、リアルタイムで直接流れ込んできていた。
ぐにゃり、ぐにゃり。
「……ん。おかしいよ、硝子ちゃん……。街のカタチが、どんどん変な風にねじれていってるの……。人間じゃない、すっごく黒くて冷たい呪力の塊が、いっぱい、いっぱうごめいて……みんなの、高専の術師たちの綺麗な呪力が、どんどん小さく、掠れていっちゃう……」
蒼空は、ズキズキと痛み始めたこめかみを萌え袖の手で押さえながら、縋るように硝子を見つめた。
「五条くんの呪力は……すっごく深い地下にいるのは分かるの。でもね、そのすぐ近くに……あの、夏のすっごく暑い日に感じた……『懐かしい呪力』が、確かに漂っているんだよぉ……。わたし、行かなきゃ……! みんなが、壊されちゃう……!」
ペタペタとスリッパの音を鳴らし、部屋の出口へ向おうとする蒼空。
その瞬間。
バタンっ!!! と、激しい音を立ててパイプ椅子が倒れた。
「待てって言ってるのが聞こえないの、蒼空!!!」
硝子の、これまで聞いたこともないような、悲痛で、烈火のごとき怒号が室内に響き渡った。
驚いて振り返った蒼空の視線の先、硝子は拳を真っ白になるまで握り締め、肩を激しく震わせながら、ボロポロと大粒の涙を溢れさせていた。
「学長の命令を忘れたわけ!? あんたは高専内待機を命じられている『箱入りの特級』、呪術界の最終防衛線だよ! 効果があるかも分からない戦場へ、あんたまで失うかもしれない場所へ、行かせるわけにいかない……!」
「硝子ちゃん……」
「……行くなら、絶交する」
硝子は張り裂けそうな声を絞り出し、冷たく、けれど泣きながら蒼空を睨みつけた。
「あんたがこの部屋を出て行くなら、私はあんたを二度と親友だなんて思わない。名前も呼ばない。あいつみたいに、私の目の前から勝手にいなくなる奴なんて……もう、一人だって御免んだよ……!」
かつて、共に青春を過ごし、そして自分の目の前から去っていったもう一人の級友。
まどろみによって記憶が消えかけている蒼空とは違い、硝子はその傷を、片時も忘れずに胸の奥底に抱え続けてきたのだ。
静まり返る部屋。冷たい無線の音だけが響く中、蒼空は、大きすぎる萌え袖の手をそっと自分の胸に当てた。
そして、いつものまどろんだ寝ぼけ眼を、かつてないほど優しく、気高く細めて、微笑んだ。
「ありがとう、硝子ちゃん……。わたしを、そんなに大切に想ってくれて、すっごく、すっごく嬉しいなぁ……」
蒼空はペタペタと硝子に歩み寄り、その震える手を、萌え袖の上からぎゅっと包み込んだ。
「でもね……わたし、みんなの先生なんだよぉ? 虎杖くんも、伏黒くんも、釘崎さんも……みんな、わたしの大事な、大事な生徒たちなの。生徒たちが泣いているのに、危ないからってお部屋で寝ぼけているお姉さん先生なんて……ぜったいに、めっ、だよぉ」
蒼空の背中に、頼れるお姉さんとしての、そして『特級術師』としての圧倒的な覚悟の呪力が満ちていく。
「硝子ちゃん。絶交は、いやだなぁ……。だからね、約束。わたし、ぜったいにみんなを守って、みんなを連れて、ここへ帰ってくるからねぇ。そしたらね、硝子ちゃんが『もう許してあげる』って言ってくれるまで、いっぱーい、いっぱーいごめんねって謝るから……。だから、お姉さんのこと、信じて待っていてねぇ?」
蒼空の真っ直ぐな瞳を見つめ、硝子は小さく、嗚咽を漏らすように息を吐いた。
昔からそうだ。この女は、ぽやぽやとして頭がまどろんでいても、一度「生徒を守る」と決めたら、五条悟ですら止められないほど頑固になる。
硝子はきつく涙を拭うと、わざとぶっきらぼうに背を向け、パイプ椅子を乱暴に引き起こした。
「……勝手にしなよ。帰ってきたら、蒼空が泣いて謝るまで、たっぷり、それこそ朝まで説教してやるから。……死んだら、解剖台の上で絶対に口きいてやらないからね」
「ふふ、うん……! たっぷりお説教、おねがいねぇ……。いってきます、硝子ちゃん……!」
蒼空は満面の笑みを浮かべて萌え袖をパタパタさせると、拠点のビルを飛び出し、夜の渋谷へと跳躍した。
――――――
ドォンっ!!! と、渋谷の『帳』の結界を強引にすり抜け、街へと足を踏み入れた瞬間──
「──あ、が……っ!? あたま、が……割れちゃう、よぉ……っ!!」
激しい精神的衝撃波に殴られたように、蒼空はその場に崩れ落ち、頭を抱えて激しくのたうち回った。
頭から血が吹き出しそうになるほどの、未だかつて経験したことのない凄まじい情報の奔流が、彼女の脳をダイレクトに破壊しにくる。
(な、にこれ……っ! 情報が、多すぎて……処理が……っ!)
空間を微細に歪ませる特殊な呪具を持たせた呪詛師を捨て駒にあらかじめ渋谷の各所に大量に配置し、彼女の脳に「無数の偽の歪み情報」を送り込まれる。
普通の術師なら感知すらできずにスルーする微細なノイズ。しかし、蒼空は歪曲呪法を脳の処理容量を限界を超えて高精度で運用している。
広げすぎたその脳の器へ、羂索が仕掛けた何万、何十万もの空間ノイズが遮る防壁もなく一滴残らず流れ込み、強制的に処理させられていく。
処理しきれないほどの雑音が脳内で爆発を起こし、凄まじい目眩と吐き気が彼女を襲う。術式を維持しようとするだけで、脳細胞がミリ単位で焼き切れていくような地獄の負荷。
「うぅ……五条のいけず……空間のお掃除くらい、ちゃんとしておいてよぉ……っ」
蒼空はブカブカの袖で必死に頭を押さえ、耳から一筋の血を流しながらも、ふらつく足取りでペタペタと走り出した。
広げすぎた脳に突き刺さるノイズの激痛に耐えながら、彼女の感覚が辛うじて捉えている、二つの強大な呪力の源泉──地下の底深くへと引きこもる五条悟の『無限』、そして、そのすぐ傍で妖しく拍動する、あの『懐かしい夏の匂い』
「待っててね、虎杖くん、みんな……。お姉さん先生が、いま、助けにいくからねぇ……っ!」
一歩進むごとに脳の隙間から大切な思い出がポロポロと零れ落ちていくような恐怖のなかで、浅雛蒼空は、大切な生徒たちの未来を守るため、暗黒の地下迷宮へと突き進んでいく──
――――――
地下へと続く薄暗い階段を、激しい頭痛に耐えながらペタペタと下りていく蒼空。
ノイズのせいで距離感が狂うなか、地下二階の改札口へと辿り着いた、その時だった。
「あはは! 待ってたよ、高専の『箱入りの特級』!」
不気味なほど軽薄で聞き覚えのある声が、無人の構内に響き渡る。
通路の奥から現れたのは、パッチワークのような継ぎ接ぎだらけの顔をした特級呪霊──真人だった。
その背後には、虚ろな目をし、肉体を不自然に変形させられた数十人もの「改造人間」たちが、うめき声を上げながらズラリと従っている。
「君、あのときの泥人形さん……。虎杖くんの『いっしょ』を壊した、悪い子だねぇ……」
蒼空は激しい吐き気を押し殺し、萌え袖の奥で特級としての鋭い呪力をピキピキと滾らせた。
しかし、真人は焦る様子もなく、ニヤニヤと歪んだ笑みを深くする。
「おっと、動かない方がいいよ。君がちょっとでも指を動かしたら、この子たちの『魂のスイッチ』を押しちゃうからね」
真人が指をパチンと鳴らす。
その瞬間、改造人間たちの肉体がドクンと不気味に脈打ち、その皮膚の奥で、真人の呪力が爆発寸前の爆弾のように脈動を始めた。
『正緋』を持つ蒼空に対して、魂の形そのものを書き換えられた改造人間を突きつけ、彼女の優しい心に付け込む──
「君の『正緋』は事象を元に戻すんだよね? だったら、今すぐこの子たちの魂の歪みを平らにして、助けてあげなよ。今の君なら『魂の輪郭』を捉えられるかもしれないよ!あはは! 特級の先生サマなら、見殺しになんてしないよねぇ!?」
うめき声を上げながら、皮膚をボコボコと膨らませて苦しむ人間たち。その中には、高専の制服を着た、傷だらけの補助監督や下級術師の姿も混ざっていた。
「……っ……!」
蒼空の寝ぼけ眼が、衝撃に大きく見開かれる。
脳がノイズで焼き切れそうなこの極限状態で、これほど大量の魂の歪みを同時に『解呪』しようとすれば、真人の魂の拒絶反応により、蒼空の拡張された脳といえど耐えられない。
助ければ、自分の脳が完全に破壊される。
助けなければ、目の前で多くの人間が、生徒を支える仲間たちが、ドロドロの怪物になって破裂する。
「さぁ、どうする? 『箱入りの特級』!」
真人の邪悪な嘲笑が響くなか、浅雛蒼空は、ブカブカの萌え袖のなかで拳をぎゅっと握り締め、一歩、ペタペタと前に踏み出した──