『箱入りの特級術師』浅雛蒼空   作:おいしいお塩

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渋谷事変②

それは、渋谷事変が幕を開ける少し前のこと

 

マレーシアの美しい砂浜に、不釣り合いな長髪の男と、継ぎ接ぎだらけの呪霊が並んで座っていた。

 

「嫌だよ。あいつの相手なんて絶対に嫌だ」

 

真人は海に石を投げつけながら、いつもの無邪気な笑みを完全に消し、酷く怯えた声で吐き捨てた。

 

「あのお姉さん、ぽやぽやしてる癖に俺の『魂の輪郭』を正確に測って、掴みかけていた。あと一歩で俺は完全に、存在ごと握り潰されるところだったんだ。絶対に戦いたくないね」

 

特級呪霊であり、人間の恐れから生まれた傲慢な真人が、一人の術師に対してここまで明確な「恐怖」を口にする。それほどまでに、浅雛蒼空という存在は真人の本能に刻まれていた。

 

しかし、羂索は南国の風に髪を揺らしながら、諭すように優しく囁いた。

 

「大丈夫さ、真人。浅雛蒼空の対策は、すでにすべて済ませてある」

 

羂索はフッと不敵な笑みを深くする。

 

「まず、特殊な呪具を持たせた捨て駒を大量にばらまいた。これによって、彼女の拡張された脳は偽の空間情報でオーバーフローしているはずだ。まともに術式を出力するだけで、彼女の脳は内側から焼き切れる」

 

「へぇ……でも、それだけであのお姉さんが止まるかな?」

 

「そこで、君の『改造人間』だ。これから君が配置する人間たちは、完全に殺すんじゃない。わざと、魂の強度が保たれている『助かるかもしれない手前』で止めるんだよ」

 

羂索の冷徹な言葉に、真人は目を丸くした。

 

「彼女は君との戦いで、空間の歪みを計測する感覚を通して『魂の知覚』をし始めている。今の浅雛蒼空であれば、魂の形そのものを引き戻す『正緋』で、その改造人間たちを元に戻せてしまう可能性がある」

 

「俺の無為転変を、元に戻す……?」

 

「そう。だが、オーバーフローした脳で、それほど精密で膨大な呪力操作をノータイムで回し続ければ、彼女の脳は持たない。生徒を、人間を想う彼女の優しい心はね、そのまま彼女の脳を破壊する最高の『人質』になるのさ」

 

羂索の、どこまでも冷酷で合理的な悪意に満ちた作戦を聞いた瞬間──真人の顔に、おぞましい、爛漫な笑みが戻った。

 

「ああはははっ! さすが夏油、最高にエグいね! 俺、あのお姉さんの格好いいお顔が、絶望でぐにゃぐにゃに壊れるところ、すっごく楽しみになってきちゃった!」

 

 

――――――

 

 

そして現在、渋谷駅・地下二階

 

 

「さぁ、どうする? 「箱入りの特級」!」

 

真人の邪悪な嘲笑が響くなか、うめき声を上げ、皮膚をボコボコと膨らませて苦しむ数十人の人間たちが、蒼空の前に放り出されていた。

 

「──『術式反転・正緋』」

 

蒼空は、一切の迷いなく、ブカブカの萌え袖から鮮烈な緋色の光を放った。

 

じわり、と温かい光が、最前列にいた改造人間の身体を包み込む。

 

バキバキバキっ、と肉体が強引に組み替わる音が響き、ドロドロに変形しかけていた男の顔が、一瞬で元の『人間の顔』へと戻り、改札口の床に崩れ落ちた。

 

「あ、あれ……? 俺……」

 

「嘘……本当に戻したの!?」

 

真人が驚愕に目を見張る。羂索の見立ては正しかった。

今の蒼空の『歪曲呪法』は、空間だけでなく、魂の歪みすらも完全に計測し、あるべき『正しさ』へと引き戻す領域に達していたのだ。

 

だが、代償はあまりにも残酷だった。

 

「が、はっ……! げほっ、ごほっ……!」

 

『正緋』を発動した瞬間、真人の無為転変の呪力と、蒼空の歪曲呪法が真っ向から衝突。

羂索の仕掛けたノイズによって限界を超えてオーバーフローしていた彼女の脳に、凄まじい呪力の逆流が直撃した。

 

蒼空の白くて細い鼻から、ボタボタと鮮血が床に滴り落ちる。視界が真っ赤に染まり、耳鳴りが脳髄を激しく掻きむしる。

 

(だめ……このやり方じゃ、みんなを助ける前に……わたしの、頭が、ぜんぶ焼き切れちゃう……)

 

すでに完全に手遅れで、肉体が千切れてしまった人間もいた。だが、まだ息がある者が、高専の下級術師たちが、血の涙を流しながら自分を救いを求めている。

 

みんなを見捨てることなんて、浅雛蒼空には、絶対にできない。

 

「あはははは! 凄いね、凄いよお姉さん! でもさぁ、あと何人持つかなぁ!?」

 

真人はニヤニヤと笑いながら、さらに多くの改造人間を前へと突き出す。

 

視界が霞む。脳の隙間から、またいくつかの「大切な思い出」が、消え去る砂のようにポロポロと崩れ落ちていく感覚があった。

 

(……ん。もう、いいよぉ……)

 

蒼空は静かに息を吐き、萌え袖で鼻の血を乱暴に拭うと、そのトロンとした寝ぼけ眼を──ひんやりとした、冷徹な特級の瞳へと切り替えた。

 

そして、その小さな両手を、萌え袖の中で、静かに十字に交差させた。

 

それは、世界のカタチを変える、逢魔が時の構え

 

「──なっ、領域だと!? バカ言え、そんなボロボロの脳でできるわけがないだろ!!」

 

真人の顔から一瞬で余裕が消え去った。

脳がオーバーフローした状態で領域を展開すれば、それこそ即座に自滅する。そう思いながらも、真人の本能は、かつて自分を消し去りかけた、あの茜色の絶対世界の恐怖に激しく共鳴し、身体が勝手に数歩、後ろへと飛び退いていた。

 

しかし、浅雛蒼空は、深く、深い静寂のなかで、その美しい祝詞を紡ぎ出した。

 

「──黄昏時に境界は失せ、表は裏へ、右は左へ。歪なる魂に、永きまどろみの帳を」

 

ゴオオオオオオっ!!! と、地下構内のすべての空気が震え、夜の闇を裂くような茜色の結界が、凄まじい呪力量と共に一瞬で空間を覆い尽くしていく。

 

「──領域展開・『逢魔幻天』」

 

本来、浅雛蒼空の『逢魔幻天』には、敵を即座に殺傷するような「必殺効果」は付与されていない。

 

彼女の領域は、拡張術式『染黒』による「必中効果」のみに対象を極限まで絞り込んでいる。

 

必殺という余分なリソースを一切削ぎ落とし、必中効果の精度と空間の支配力にすべての出力を全振りしているからこそ、この領域は、五条のそれと同じく、他者の領域との「押し合い」において絶対的な強度を誇るのだ。

 

そして、今の彼女が『染黒』の必中効果に設定した要件は、「認識の歪曲」ではない。

 

『領域内における、すべての生物の性質の強制変化──すなわち、歪んだ肉体の完全なる正常化』

 

「──あ、あ、あああ……っ!!」

 

茜色の光が満ちた結界の中で、数十人の改造人間たちが、一斉に光に包まれた。

 

衣服を溶かし、骨を捻じ曲げ、肉の塊へと変えられていた彼らの魂の設計図が、領域の絶対的な必中効果によって、強制的に「元の人間」の形へと書き換えられていく。

 

ボコボコと歪んでいた皮膚が滑らかな肌に戻り、引き裂かれていた四肢が繋がり、彼らは次々と、元の無傷な人間の姿を取り戻して、改札口の床へと崩れ落ちていった。

 

「……みんな、もう大丈夫、だよぉ……。おうちに、帰りなさいねぇ……」

 

パリンっ、とガラスが割れるような音と共に、茜色の結界が静かに霧散していく。

 

「はっ……ははっ……! やった、やったぞ! あのお姉さん、本当に自滅した!!」

 

物陰に隠れて様子を伺っていた真人が、狂喜の声を上げて姿を現した。

 

領域を展開し終えた蒼空は、その場に力なく立ち尽くしている。

 

領域展開の直後──術師の術式は、一時的に焼き切れ、使用不可能になる。

 

しかし、これこそが、浅雛蒼空の『システムをバグらせた』狙いだった。

 

術式が焼き切れた。

それはつまり、これまで彼女の歪曲呪法が半自動的に処理し続けていた、渋谷中の『不快なノイズ』が、一瞬にして脳に流れ込んでこなくなったことを意味していた。

 

脳を焼き切ろうとしていた情報の奔流がピタッと止まり、拡張された脳は、静まり返った広大な空き地のように、ただ静かに凪いでいた。

 

「あはは! 術式も使えない、フラフラの特級なんて、ただの肉塊だよ! 今度こそ、俺が君をぐちゃぐちゃに──」

 

真人はニタニタと邪悪な笑みを浮かべ、蒼空をなぶり殺しにするため、ペタペタと足音を鳴らして近づいていく。

 

だが、あと一歩。

あと一歩で、その手が蒼空の肉体に触れるという、その瞬間だった。

 

ピクッ、と真人の全身の細胞が、凍りついたように硬直した。

 

蒼空は、ゆっくりと顔を上げた。

 

術式は焼き切れ、呪力も底を突き、身体は一歩歩くのさえ覚束ないほど満身創痍。

 

しかし──そのひんやりとした冷徹な瞳の奥には、何者にも決して侵されない、特級術師としての、それ以上に生徒を守る「お姉さん先生」としての、絶対的な『覚悟』が、劫火のように静かに揺らめいていた。

 

(……俺が触れた瞬間、この人は、呪力がなくても俺の魂の形を素手で引き裂く──!)

 

肉体の強弱ではない。彼女の魂そのものが放つ、底知れない、圧倒的な凄みに、真人は魂の根源からくる恐怖を思い出し、完全に硬直して指一本動かすことができなくなってしまった。

 

そんな、恐怖でガタガタと震え、一歩も動けない真人の横を──蒼空は、視線すら合わせることもなく、覚束ない足取りで、ペタペタと静かに通り抜けていった。

 

「うぅ……頭はスッキリしたけど……身体が、すっごく重たいなぁ……。でも、待っててね……五条……それから、わたしのノートの……『だれか』……」

 

耳から、鼻から血を流しながらも、浅雛蒼空の瞳は真っ直ぐに前を見つめていた。

 

失われた記憶の向こう側にいる、あの夏の日に泣いていた『だれか』の元へ──彼女は、一歩一歩、確実な足取りで、さらに深い最地下層への階段を下りていくのだった。

 

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