ペタペタと覚束ない足取りでさらに深い闇へと下りていった浅雛蒼空。
階段を下りる一歩ごとに、焼き切れた脳が急速に冷えていく。羂索の仕掛けたノイズの嵐が止んだ代わりに、肉体は鉛のように重く、心臓が爆発しそうなほどの疲弊が彼女を襲っていた。
やがて辿り着いた、最深部──副都心線ホーム、地下五階
そこは、不気味なほどに静まり返っていた。
ホームの床は激しい戦闘の名残でひび割れ、中央には、おぞましい無数の目玉をギョロギョロと輝かせる立方体の呪具──『獄門疆』が、床に深くめり込んだまま、異様な呪力を放って鎮座している。
五条が、あの最強の五条が、本当に閉じ込められてしまったのだ。
そして、その獄門疆のすぐ傍らに、片手を腰に当て、愛おしそうにそれを見つめている一人の男が立っていた。
五条の、そして硝子の、かつてのたった一人の親友。
「……ん。……夏油、? 夏油、なの……?」
蒼空の、血に染まった寝ぼけ眼が、その男の背中を捉えた瞬間。
脳の奥底、記憶を犠牲にして広げすぎた広大な空き地に、凄まじい勢いで『何か』が決壊して流れ込んできた。
蝉の声。
青空が眩しい、いつかの夏。高専の中庭。
難解な術式専門書を胸に抱いたまま、木陰のベンチで気持ちよさとまどろみに負けてうたた寝をしていたわたし。
『……ん。……、……さん?』
誰かが優しくわたしに声をかける。
──『浅雛さん。こんなところで寝ていると、風邪をひいてしまうよ』──
そう言って、すっごく優しい声で、私の頭をそっと撫でて起こしてくれた、細い目の黒髪の少年。
あのノートの片隅に、涙の跡と一緒に眠っていた、ずっとずっと呼びたかった、大切な親友の姿。
「夏油……なんで……なんでそこにいるのぉ……?」
蒼空はブカブカの袖の手を伸ばし、縋るように声を絞り出した。
その声に、男はゆっくりと振り返る。五条を親友と呼んだ、あの頃と全く変わらない、穏やかで涼しげな微笑みを浮かべて。
「やあ、浅雛さん。ずいぶんと酷い有様だね。真人との鬼ごっこは、少々刺激が強すぎたかい?」
「夏油……」
蒼空の術式『歪曲呪法』が、目の前の男の情報を、空間の歪みを通して瞬時に計測する。
返ってきた数値は──正真正銘、本物。骨の軋みも、肉の波形も、呪力の残骸すらも、すべてが記憶の中の『夏油傑』であると世界が告げていた。
(でも……ちがう。計測は本物だって言ってるのに……)
数値ではない。計測値を超えた彼女自身の『魂』が、目の前の男の存在そのものに対して、猛烈な拒絶反応を起こしていた。
肉体は夏油のもの。けれど、その内側にある魂が、おぞましいほどに歪み、濁り、真っ黒にねじ曲がっている。
「……だれ、ですかぁ?」
蒼空のトロンとした瞳から、一切の光が消えた。
「夏油の皮を被って、夏油の声で喋る、きみの悪い偽物さん……。そこにいるの、だれですかぁって、聞いてるのぉっ!!」
男は一瞬、意外そうに目を見張ったが、すぐにククク、と肩を揺らして笑い出した。
そして、自らの額にある不気味な『縫い目』に指をかけ、惜しげもなくペリペリと頭蓋骨を頭頂部から持ち上げてみせた。
剥き出しになった脳みそには、おぞましい牙と目が不気味に蠢いている。
「驚いたな。君の術式はもとより、五条悟の『六眼』すらも欺けていたのだが。肉体が本物だと理解した上で、魂の歪みだけで私を偽物と断ずるか。さすがは浅雛蒼空、特級の異名は伊達じゃないね。だが、悲しまないでほしい。この肉体は、正真正銘、本物の夏油傑のものだよ」
パチン、と頭蓋骨を閉め直した男──羂索は、心底楽しそうに微笑む。
「夏油を、返しなさい……」
蒼空の足元から、静かなる殺意の呪力が膨れ上がり始める。
脳の記憶のノートが完全に開き、かつての彼らの青春を、そして親友の遺体を弄ぶこの目の前の怪物が、心の底から許せなかった。
「返しなさいっ……! 夏油の身体を……みんなの思い出を、おもちゃにするな、よぉおぉおっ!!」
「いいや、返さないさ。この呪霊操術の肉体はね、私の大願にどうしても必要なんだ。──さあ、術式が焼き切れた君が、私に何を見せてくれるのかな? 浅雛蒼空」
羂索が袖を翻した瞬間、彼の背後の空間がぐにゃりと裂け、数十、数百もの異形の呪霊たちが、ホームを埋め尽くすようにドバドバと溢れ出した。
術式は一時的に焼き切れ、使用不可能。
元々の身体能力が極めて低い蒼空にとって、本来なら致命的な状況だった。しかし──
(ん……。お姉さんを、舐めちゃ、めっ、だよぉ……)
蒼空の萌え袖の奥で、呪力が恐ろしいほど緻密に、そして完璧な密度で練り上げられていく。
彼女の本質は、比類なき『繊細な呪力操作』
肉体の構造、筋肉の動き、骨の連動──そのすべてを、一ミリの無駄もない極限の呪力強化によって完璧に補う。五条や宿儺のような天性の絶対的な肉体の「上澄み」には及ばずとも、特級術師としてそれなりに前線で戦い抜くための、彼女だけの至高の技術。
バゴォォォンっ!!!
蒼空がペタペタと地を滑るように踏み込んだ瞬間、最前列の呪霊の頭部が、音を置いてきぼりにした呪力の一撃でトマトのように弾け飛んだ。
「はぁ、ぁぁっ!!」
無駄な力みを一切排除した最小限の動きで、迫る呪霊の爪を紙一重でかわし、呪力を集中させた掌底でその核を正確に打ち抜いて爆散させていく。
術式という武器を失ってもなお、その技術が生み出す戦闘力は、千年の呪詛師である羂索をして「ほう」と感嘆させるに十分な美しさだった。
だが、羂索は動じない。
呪霊が一体死ぬごとに、さらに十、二十と、まるで尽きることのない泥水のように新しい呪霊を戦場へ供給していく。
「実に見事な呪力操作だ、君。だがね、私は呪霊操術を完全に手の内に馴染ませている。夏油傑本人が至らなかった領域まで、ね」
羂索が手をかざす。
「極ノ番──『うずまき』」
羂索の頭上に、数十体の呪霊が超高密度に圧縮された、禍々しい呪力の塊が出現する。
直撃すれば、肉体が跡形もなく消し飛ぶ大出力の光条。
(術式、まだ……っ!? わたしの術式、早く、戻って、よぉ……!)
迫る最悪の光を前に、蒼空の脳内で焦りが弾ける。術式の自然回復は間に合わない。
直撃の寸前、彼女は一か八か、自らの脳内に極小に絞り込んだ呪力を突き刺した。
繊細な呪力操作を誇る彼女であっても、一歩間違えれば即座に廃人になる、命懸けの自傷行為──
ドガァァァァァァンっ!!!!
爆発が巻き起こり、煙が晴れた瞬間──
『うずまき』の奔流は、蒼空の手前で空間ごとぐにゃりと不自然にねじ曲げられ、ホームの天井を派手に消し飛ばしていた。
「……何?」
羂索の目が、驚愕に細められる。
「なぜ術式が使える……? 君の脳はまだ回復には至っていないはずだ」
羂索は油断なく蒼空の様子を観察し、そして、彼女の目と鼻から新しく溢れ出た新鮮な血の跡を見て、すぐにその狂気を看破した。
「……なるほど、自らで脳の一部を破壊して術式を回したか。そんな無茶苦茶な荒業をそのボロボロの脳で行うとはね。本当にシステムをバグらせた女だ」
術式が戻った。それは同時に、あの忌々しい渋谷中の『微細な空間ノイズ』が、再び彼女の拡張された脳へ流れ込もうとすることを意味していた。
頭痛の予兆がこめかみを走る。しかし、蒼空は間髪入れずに、自らの魂に新しく、強固なルールを刻み込んだ。
(──わたしの呪力探知能力を、ぜんぶ、今この瞬間から完全に、生贄(オフ)にする──!)
蒼空の呪力探知を犠牲とした縛り。それによって脳を襲いかけていたノイズが遮断され、さらには彼女の身体を巡る呪力の『出力』が爆発的に跳ね上がる。
ブカブカの制服が、吹き荒れる純粋な呪力の風で激しくパタパタと揺れた。
「あはは……。そんなに驚かないでよ、偽物さん……。お姉さん、まだまだ、頭は冴えてるんだからねぇ……」
蒼空はふらつく足を呪力操作で強制的に固定し、冷徹な瞳で羂索を睨みつける。
羂索は、術式を無理やり戻し、さらに縛りで出力を上げてみせた特級術師の執念を前に、クク、と笑みを消した。
「数で押せないなら、今度はこれだ。……付き合ってもらうよ、浅雛蒼空」
羂索が袖をさらに深く引く。
空間の裂け目から這い出てきたのは、先ほどまでの雑多な呪霊とは一線を画す、圧倒的な呪力密度と凶悪な気配を放つ、『特級呪霊』の群れだった。
ボロボロになりながらも、生徒たちの未来のために呪力を滾らせる浅雛蒼空。
そして、底知れぬ千年の手札を繰り出す羂索。
地下五階の底暗いホームで、二人の特級による、さらなる凄絶な死闘の幕が上がろうとしていた──