地下五階の底暗いホームに、異様なプレッシャーが満ちていく。
羂索が袖から解き放った五体の影。それらは先ほどまでの呪霊たちとは次元が違う、世界を呪う濃厚な気配を放つ、選りすぐりの『特級呪霊』たちだった。
羂索は、額の縫い目をなぞりながら、冷徹な声音で告げる。
「さあ、浅雛蒼空。君がその身に結んだ新しい『縛り』がどこまで機能するか試させてもらおうか」
五体の特級が、一斉に浅雛蒼空に襲いかかる。
凄まじい呪力の圧壊がホームを揺らすが、蒼空はただ、ブカブカの萌え袖をパタパタと揺らしながら、ひんやりとした瞳でそれを見つめ返していた。
探知を捨て、出力に全てを振った純白の呪力が、彼女の細い身体の輪郭を眩しく縁取っている。
「……ん。そんなにたくさん、お姉さんを囲んじゃ、めっ、だよぉ……。順番に、お片付けしてあげるからねぇ……」
最初に行動を起こしたのは、天井に頭が届かんばかりの巨躯を誇る二体のバケモノ──『山嶽の呪霊』と『金剛の呪霊』だった。
超高密度の岩石を全身に纏った山嶽が、ホームの支柱をまとめてへし折りながら、巨大な拳を振り下ろす。同時に、ダイヤモンド以上の硬度を持つ半透明の呪力皮膚で覆われた金剛が、絶対に破れぬ盾となりて蒼空の退路を完全に塞いだ。
常人の術師であれば、その質量と硬度を前に絶望し、圧殺されるのを待つしかない。
だが、蒼空は、トロンとした寝ぼけ眼を、すっと僅かに開いた。
「──ロックオン、だよぉ」
彼女の視線が、突進してくる二体の特級の『中心』を正確に捉える。
──術式順転『歪蒼』──
蒼空はブカブカの袖から、白く細い手首をのぞかせた。
開かれていた5本の指が、スローモーションのように、瑞々しく、そして容赦なく、掌の中の空気を潰すようにグッと強く握り込まれる。
ゴキィィィィィィィィッッッ!!!!!!!
次の瞬間、地下五階に響き渡ったのは、この世の限界を超えて物質がねじ切れる、おぞましい破壊音だった。
山嶽の巨躯も、金剛の絶対防御の皮膚も、そんなものは関係ない。蒼空の『歪蒼』が発動した瞬間、二体の特級が位置する『空間そのもの』が、内側に向かって雑巾を絞るように、猛烈な速度で螺旋にねじ込まれたのだ。
「ギ、ガ、アアアアアアッ!?」
どれだけ硬かろうが、どれだけ巨大だろうが、世界を構成する空間の絞り込みには抗えない。二体の特級呪霊の肉体は、バキバキと音を立てて内側に巻き込まれ、肉も骨も岩石もダイヤモンドも区別なく、一瞬にして超高密度に圧縮された小さな『肉の塊』へと捻り潰され、床へと転がった。
「ほう……空間ごとの圧壊か。術式の出力を上げたとはいえ、特級二体をノータイムで肉塊にするとはね」
羂索が小さく感嘆の息を漏らす。だが、攻撃の手は緩まない。
二体の肉塊が転がった隙間から、姿を持たない不気味な紫色の霧が、爆発的な速度でホーム全体に充満していった。
三体目の特級──『蠱毒・疫病の呪霊』
「お姉さん、捕まえたぁ」
霧の奥から、無数の怨嗟の声が響く。この霧は、肌に触れ、肺に吸い込んだ瞬間に、あらゆる生物の肉体を内側から腐らせ、融解させる致死性の呪毒そのものだった。
しかし、探知の力を犠牲にして直感を研ぎ澄ませた蒼空は、その毒霧を避けるどころか、むしろ霧の最も濃い中心へと、ペタペタと足音を鳴らして真っ直ぐに進んでいく。
「ごほっ、げほっ……。んぅ……ちょっと、喉がピリピリするなぁ……」
霧を吸い込んだ蒼空の鎖骨のあたりに、ドス黒い血管が浮かび上がり、肉体を腐らせようと毒が回り始める。
だが、彼女の表情に恐れはない。
「──『正しさ』に戻りなさい、ねぇ」
──術式反転『正緋(せいひ)』──
蒼空の全身から、鮮烈な緋色の光が、波紋のように一気に広がった。
『正緋』の持つ、歪んだものを正常な状態へと引き戻す絶対の平坦化。
彼女の肉体に侵入した致死の呪毒の因子は、その緋色の光に触れた瞬間、ただの「正常な空気」と「無害な水分」へと一瞬で強制的に書き換えられた。浮かび上がっていた黒い血管がみるみるうちに消え失せ、白く美しい肌へと戻っていく。
それどころか、ホームに充満していた紫色の毒霧そのものが、緋色の光に洗われ、ただの透き通った綺麗な水蒸気へと還元されて霧散していった。
「……私の蠱毒の呪詛を、因子のレベルで完全解呪したか。本当に、君という術師は、私の計算をどこまでも狂わせてくれる……!」
羂索の顔から、ついに余裕の笑みが消えた。
残る特級は二体。
羂索の影から飛び出したのは、姿も呪力すらも完全に世界から隠蔽された暗殺の異形『虚像の呪霊』と、こちらが与えたダメージをそのままそっくり反射する精神攻撃の極致『因果の反転呪霊』
フッ、と蒼空の視界から、すべての敵の気配が消失した。
完全な不可視。呪力の探知能力を縛りで失っている今の蒼空にとって、本来ならどこから攻撃が来るか分からない絶望的な状況。
しかし、浅雛蒼空は、その場で静かに立ち止まると、
──そっと、両目を完全に閉じた。
視界を、自ら完全にシャットアウトしたのだ。
──拡張術式『染黒』──
視覚を完全に捨てるという極限の『縛り』を成立させた瞬間、蒼空の残された五感──完璧な呪力操作によって研ぎ澄まされた、空気の振動を感じ取る皮膚感覚が、爆発的に拡張された。
(……ん。そこ、だよぉ)
シュッ、と虚空から放たれた、目に見えない不可視の刃。
蒼空は目を閉じたまま、首をわずかに傾けてその刃の軌道を紙一重でかわす。そして、刃の余波でブカブカの袖を切り裂かれながらも、恐れずに、その不可視の空間へと、自ら一歩踏み込んだ。
遮二無二伸ばした彼女の、白くて細い両手が。
何もないはずの虚空へと──ポン、と直接、優しく触れた。
「──『染黒』」
刹那、蒼空の手のひらから、底なしのドス黒い呪力が津波のように溢れ出し、何もない空間を強引に真っ黒に塗りつぶしていった。
塗りつぶされた空間の中から、「ギャアアアッ!?」という悲鳴と共に、全身を黒色の呪力でコーティングされた『虚像の呪霊』の醜悪な姿が、誰の目にも明らかなド派手な存在として、生々しく浮き彫りになった。
『染黒』によって、【不可視】という世界の認識を、【誰の目にも明らかな存在】へと、強制的に書き換えたのだ。
「な、に……っ! 認識の改変だと!?」
羂索が驚愕の声を上げる。
姿を暴かれた虚像の呪霊を守るように、もう一体の特級『因果の反転呪霊』が、異様な障壁を張って蒼空の前に立ち塞がった。
触れればあらゆる攻撃のエネルギーを術師本人へと反射する、絶対反射の盾。
だが、目を閉じたままの蒼空は、止まらない。
流れるようなステップで、その反射の盾を持つ呪霊の胸元へと滑り込み、その冷たい肉体に、もう一度、直接その手で触れた。
「きみたちのルールはね、お姉さんが、ぜんぶ塗り潰してあげるよぉ……」
二度目の、『染黒』
黒い呪力が因果の反転呪霊の全身をも塗りつぶす。
書き換えたのは、その物質の『性質』
【触れたらダメージを相手に反射する盾】から、【触れたら自分自身の身を削る自傷の塊】へ。
性質を完全に狂わされた反射呪霊は、自らが張り巡らせていた強力な反射の結界のエネルギーをそのまま自分自身の肉体へと『内側から』受ける形になった。
「ギ、ジ、ア、ア、ア、ア、ア、アッッッ!!!!」
自らの絶対的な攻撃反射の力によって、自分自身の肉体を内側からミンチのように細切れに引き裂いていく因果の反転呪霊。
さらに、その暴走した自傷のエネルギーの渦は、すぐ隣で『染黒』によって姿を固定されていた虚像の呪霊をも巻き込み、お互いがお互いをズタズタに切り刻み合う、最悪の自滅の連鎖を引き起こした。
バシャァァァァァァンッッッ!!!
地下五階のホームに、二体の特級呪霊だったドロドロの黒い液体が、激しい雨のように降り注ぎ、床を汚していく。
ゆっくりと、蒼空は両目を開いた。
そのトロンとした、けれど底知れない輝きを宿した寝ぼけ眼の向こう側で、羂索が放った五体の特級呪霊は、跡形もなく、完全に全滅していた。
静寂が戻るホーム
血に汚れた萌え袖を静かに下ろし、蒼空は、息を切らしながらも、真っ直ぐに羂索を見つめる。
「……さあ、偽物さん。次のお人形は、なぁに……?」
五条の封印された獄門疆の前で、千年の呪詛師と、傷だらけのお姉さん先生。
二人の特級の決着の時は近い──