『箱入りの特級術師』浅雛蒼空   作:おいしいお塩

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渋谷事変⑤

五体の特級呪霊の死骸がドロドロと黒い液体になって溶け落ちるホームの中心で、浅雛蒼空は肩を激しく上下させていた。

 

鼻から、耳から滴る血は止まらない。術式を無理やり脳の自傷で回復させ、さらに探知を犠牲にした『縛り』で出力を跳ね上げた肉体は、すでに内側からボロボロに崩壊を始めていた。

 

そんな満身創痍の特級術師を見つめながら、羂索は額の縫い目に指を這わせ、底知れない笑みを深くした。

 

「実に見事だ、浅雛蒼空。だが、私の勝ちだよ。君のその過剰な術式の行使──いや、君がこれまでの人生で重ねてきた『まどろみの代償』は、すでに限界を迎えている。五条悟が今年、なぜ君を呪術高専の教師という表舞台に引っ張り出したか、君は本当の理由を知っているかい?」

 

羂索はペタペタと足音を鳴らし、一歩、彼女へ近づく。

 

「君の『歪曲呪法』の代償として、君自身の記憶は消しゴムで削られるように消えていく。五条悟の『六眼』には、君の脳が、君という存在の器が、もうすぐ完全に白紙になってしまう未来が視えていたのさ。彼はね、君が全てを忘れてしまうしまう前に、せめて『浅雛蒼空という特級術師が確かにここにいた』という生きた証明を、生徒たちの記憶に残したかったのだよ。君に“先生”をさせたのは、最強の男が君に与えた、最初で最後の感傷、ただの思い出作りさ。──だが、それもすべて無駄になった」

 

羂索は腕を広げ、背後の獄門疆、そして夏油の肉体を指し示す。

 

「今の君のボロボロの脳では、精密な要件定義を必要とする黄昏の領域『逢魔幻天』の構築など不可能。そして君が『白の領域』を使えば、君自身だけでなく、夏油傑の肉体も、獄門疆の中の五条悟も一緒に消滅する。仲間を、生徒を想う君の優しい心は、そのまま君を縛る最高の枷だ。……これ以上君を生かしておく理由は無い。ここで確実に、その息の根を止めさせてもらうよ」

 

羂索が不気味に指を交差させ、印を結ぶ。

瞬間、地下五階の空間全体が、おぞましい赤黒い呪力の奔流によって埋め尽くされた。

 

「領域展開──『胎蔵遍野』」

 

それは結界を閉じない、神業の領域。

 

羂索の背後に、巨大な呪霊の頭部や無数の髑髏が幾重にも重なり合った、禍々しくもおぞましい巨大な仏宮のような異形がそびえ立つ。大気を圧殺するほどの凶悪な必中効果が、全方位から網の目のように蒼空へと牙を剥いた。

 

逃げ場はない。押し合いすら発生しない外側からの圧倒的な圧殺。

 

だが、迫り来る死の絶望を前にして、浅雛蒼空の意識は、深く、静かな、まどろみの奥へと潜っていく。

 

(……ん。五条、ありがとうねぇ。わたしのために、そんなあったかいこと、考えてくれてたんだね……)

 

脳裏に浮かぶのは、今年、高専の教師になってからの、あまりにも愛おしい思い出の数々だった。

 

初めて教壇に立った日、ブカブカの袖を見て不思議そうに首を傾げた生徒たちの顔。「浅雛先生、また居眠りしてる!」と呆れながらも毛布をかけてくれた優しい手の温もり。

 

硝子と二人、夜の医務室でくだらない話をしながら呑んだ暖かいほうじ茶の味

 

そして、さっきやっと思い出すことができた、あの遥か遠い夏の日の、夏油傑の眩しい笑顔と、廊下を吹き抜けていった風の匂い──

 

(みんな、大好きだよぉ。お姉さん、きみたちの先生になれて、本当に、すっごく幸せだったなぁ……)

 

それらの思い出を、蒼空は一つずつ、自らの手で丁寧に、静かに、燃える炉の中へと投げ入れていく。

 

 

彼女が選んだのは、これまでの『自分自身の白紙化』という因果を、世界のシステムへ向けて適応した【最期の縛り】

 

 

夏油の肉体から羂索の脳だけを消滅させる。

 

獄門疆の箱だけを消滅させ、中の五条だけを現世に残す。

 

白の領域が持つ「存在の白紙化」という絶対のルールに、『選択』と『消滅』という矛盾を成立させる奇跡を与えるための対価。

 

それは、【世界から『浅雛蒼空』という存在を過去も未来も、一滴残らず消し去ること】

 

世界から、彼女が消える。

 

それは単に肉体が死んで失われるということではない。

 

彼女がこの世界に生まれ、誰かと出会い、言葉を交わし、誰かを愛し、ここで戦ったという『歴史』そのものが、世界のシステムから消しゴムで消されるように、最初から「存在しなかったこと」に書き換えられるということ。

 

生徒たちのアルバムから彼女の姿は消え、硝子との思い出の景色には最初から誰もいなくなる。彼女が今を生きていたという証明のすべて、そして未来に託されるはずだった全ての可能性が、永遠に、完璧に白紙化する。

 

(……いいよぉ。それなら、わたしのせいで、誰も泣かなくて済むから……。硝子ちゃん、約束、守れそうだよぉ。『みんな』が無事で、戻ってくるよ。……そこに、わたしがいなくても)

 

蒼空の全身から、すべてを白紙に戻す【純白の輝き】が爆発的に溢れ出した。

 

羂索の『胎蔵遍野』の赤黒い呪力が、その白い光に触れた瞬間から、塵となって消滅していく。

 

その光の性質、そして彼女が結んだ『世界からの白紙化』の縛りを感じ取った瞬間、羂索の顔から、生まれて初めて、底知れない本能の恐怖が噴き出した。

 

「な……正気か、君は……!? 自分自身を世界から消すというのか……! 自分が存在したという因果のすべてを燃料にして、領域の効果を選択するだと!?」

 

千年の年月をかけ、非術師の同化という大願の成就を目の前にしながら、彼はここで完全に潰されることを悟った。

 

だが、呪術の深淵を求め続けた求道者として、羂索は恐怖の最中にありながら、眼前の特級術師の狂気的な覚悟に対し、震える声で最大の賞賛を口にした。

 

「狂っている……! 呪術師として、これ以上の呪力を生み出すために全てを差し出すなど、これ以上ない最悪の選択だ……! だが、浅雛蒼空。君のその選択は……呪術師としては最悪の独り善がりだが、君は間違いなく、最期まで『先生』であったよ……」

 

蒼空は、深く、深い静寂のなかで、血に染まった両手を胸の前へと持ち上げた。

指先を繊細に交差させ、ふんわりと「狐の窓」の印を組む。

 

そして、その小さな四角い隙間から、トロンとした、けれど世界で一番優しい眠そうな目で、羂索をそっと覗き込んだ。

 

 

「──歪なる因果を平らにならし」

 

「白夜の底に、理を還す──」

 

 

その唇から、世界のシステムをバグらせる、最も美しく切ない祝詞が紡がれる。

 

 

「──領域展開・『白夜歪獄』」

 

 

ゴオオオオオオオオっっっ!!!!!!!

 

 

次の瞬間、地下五階のコンクリートの壁も、天井も、音も、色も、概念すらもが、残酷なまでに美しい「真っ白な空間」へと塗りつぶされた。

 

そこには上も下もなく、距離感すらも存在しない。

 

ただ、どこまでも眩しく、透き通るような純白だけが無限に広がる、息を呑むほどに静謐な世界。

 

領域に引き込まれた羂索の肉体は、世界との境界線を失い、水彩画の絵の具が水に溶けるように、その純白の背景へとサラサラと溶け込んでいく。

 

「結末を見られないのは残念だが、最後に、面白い人物に出会えた……。やはり素晴らしいな……!」

 

声すらも白に融解していく。

純白の檻の中で、指向性を極限まで絞られた光は、夏油の肉体を傷つけることなく、その奥にある羂索の脳髄だけを狙い撃ちして完全に消滅させていく。

さらに、すぐ隣にあった獄門疆の「箱」の概念だけを綺麗に白紙に戻し、中に囚われていた五条悟の魂を、無傷で現世の位相へと引き戻していった。

 

光が弾ける。

 

激しい白光のあと、領域が解除された地下五階のホームに残されたのは──脳髄を完全に消滅させられた、抜け殻のような夏油の肉体。

 

そして、封印を強引に解かれ、床に膝をつく五条悟の姿だった。

 

五条は、ハッと辺りを見回す。

今、ここで、誰かが悍ましい結界術を破り、自分を助けてくれた。それは分かる。

 

だが、最強の『六眼』をどれほど凝らせど、そこには「不自然なまでに残穢が残っていない」という、世界そのものが不自然に修正されたような奇妙な空白だけが広がっていた。

呪力のブレすら存在しない、完全な無。五条はその場から一歩も動けず、ただその不気味なほどの虚無の空間に、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 

床にぽつんと落ちていたのは、涙で滲んだ一冊の、白紙のメモ帳だけ。

高専の医務室で、硝子がふと、窓の外の青空を見上げる。

 

 

「……あれ? 私、誰と“みんなで無事に戻ってくる”って約束したんだっけ……?」

 

胸を締め付けるような寂しさがあるのに、理由が分からない。涙がひとすじ、硝子の頬を伝って落ちた。

 

 

誰も、泣かない。

 

誰も、覚えていない。

 

ただ、みんなが無事で、明日を迎える。

 

浅雛蒼空という優しいお姉さん先生がいた世界は、静かに、優しく、純白のまどろみの底へと還っていったのだった。

 




『みんな』助かりました
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