ここから原作が始まりますが浅雛さんが出ないところはカットされていくのであっさり進んで行きます
※今回の話のために少しだけプロローグの五条のセリフが変わりました
呪術高専、地下解剖室
ひんやりとしたコンクリートの部屋には、重苦しい静寂と、鼻を突く消毒液の匂いが満ちていた。
部屋の中央にある解剖台。そこには、少年院の事件で命を落としたはずの虎杖悠仁が横たわっており──その横で、白衣を着た家入硝子が呆れたように煙草を咥え、もう一人の女性を宥めていた。
「よしよし、蒼空、もう泣き止みな。私の白衣が涙でびしょびしょさ」
「だってぇ……グスッ、うわァァァん! 硝子ちゃぁん……! 虎杖くんが、あんなに良い子が、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのぉ……っ!」
大人のメンズサイズのブカブカな制服を着た浅雛蒼空先生は、大親友である硝子の胸に顔をうずめ、まるで子供のようにグスグスと激しく泣き崩れていた。普段はおっとりしたお姉さん先生としての洗練された姿を保っている彼女だが、初めての大切な生徒の死を前に、その繊細な心は完全に限界を迎えていたのだ。
その時、解剖台の上で、布に包まれていた虎杖の体がピクリと動いた。
ガバッ、と勢いよく上半身を起こし、虎杖が大きな声をあげる。
「うわっ!? どこだここ! 裸じゃん!」
「……え?」
「……あら」
泣きじゃくっていた蒼空と、煙草を咥えた硝子の動きがピタリと止まる。
虎杖は自分の胸の傷が完全に塞がっているのを確かめ、戸惑いながら解剖台から降りた。そこに、真っ赤に目を腫らした蒼空が、トロンとした寝ぼけ眼をこれ以上ないほど丸くして、ぽやぽやと近づいてくる。
「……虎杖くん……? 生きて、る……?」
「あ、浅雛先生! 心配かけてごめ──」
「う、うわぁぁぁぁぁん!!! よかったぁぁぁぁ!! 虎杖くん、生き返って本当に本当によかったぁぁぁ……!!」
次の瞬間、蒼空は安堵と喜びが爆発し、再びわんわんと大号泣しながら虎杖の体に抱きついた。ブカブカの萌え袖で虎杖の背中をぎゅーっと抱きしめ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら泣いている。
「わあぁっ! 先生、めちゃくちゃ泣くじゃん! 大大丈夫だから、俺生きてるから!」
虎杖は照れつつも、自分をこれほどまでに想って泣いてくれる優しいお姉さん先生の温もりに、胸を熱くしていた。
「はいはい、蒼空、そこまで。そろそろ生き返った虎杖の検診をさせてくれ。じゃないと、五条に文句を言われる」
硝子が呆れ顔で蒼空の首根っこを引っ張り、虎杖から引き剥がす。硝子が手際よく基本的なバイタルをチェックした後、蒼空に向き直った。
「基礎的な身体機能は問題ないね。ただ、特級の呪いに直接触れて一度死んでるんだ。蒼空、お前の術式で視てやってくれ」
「ん……っ……うん、分かったぁ。わたし、しっかり診てあげるねぇ……」
蒼空はブカブカの袖で涙をゴシゴシと拭うと、おっとりしたお姉さんから「特級術師」の顔へと表情を切り替えた。
彼女の長い睫毛がゆっくりと持ち上がり、澄み渡るような「鋭い蒼」と「鮮烈な緋」の呪力が激しく混ざり合った双眸が、カッと限界まで見開かれる。
「──『術式反転・正緋』」
蒼空が虎杖の胸元にそっと手をかざす。
本来、対象を内側へねじ切る苛烈な指向性を持つ彼女の『歪曲呪法』。だが、その呪力を正のエネルギーへと反転させた『正緋』の効果は、真逆の性質を持つ。空間、肉体、あらゆる事象の「歪み」を強制的に平らにならし、「正常な直線」へと書き換える擬似的な反転術式──それこそが、この技の本質だった。
精緻を極めた緋色の呪力が虎杖の体内に優しく流れ込み、細胞の隅々に残っていた少年院の呪霊の禍々しい残穢や、一度心臓を止められたことによる肉体の細かな歪みを、まるできれいにならすように消し去っていく。
「すげえ……なんか、体がどんどん軽くなる……。浅雛先生、そんなことも出来んの!?」
虎杖が驚きに目を丸くする。あのグラウンドをねじ切った恐ろしい術式からは想像もつかない、あまりにも繊細で温かい治療の呪力。
そんな虎杖の反応を見て、硝子がフッと紫煙を燻らせながら、呆れたように口を開いた。
「何言ってんの。本来、蒼空は普段は私と一緒に治療するのが専門だよ。……あのバカ、五条が言ってなかった?」
「えっ! 五条先生、『僕と同じもう一人の特級』としか言ってなかったぞ!」
「あいつ、相変わらず適当な紹介しかしないねぇ……」
硝子が溜息をつくのを横目に、蒼空はカッと開いていた目を元のトロンとした寝ぼけ眼に戻し、おっとりと微笑んだ。
「ん、もう大丈夫だよぉ。呪いも残っていないし、体の中はとっても綺麗に平らになってるからねぇ……」
そこへ、ガラッ、と解剖室の重い扉が開き、五条悟がひょっこりと顔を出した。
「よっ! 悠仁、おかえり! いや〜、生得領域から無事に帰ってこれて良かった良かった!」
「あ、五条先生!」
「悟、タイミングがいいね。ちょうど検診が終わったところさ」
硝子の言葉に、五条はニカッと笑うと、真面目な顔をして人差し指を口元に当てた。
「実はさ、悠仁が生き返ったことは、まだ上層部には内緒にしようと思って。このまま死んだことにして隠しちゃえば、悠仁を狙う刺客も来ないし、僕の元で安全に特訓できるでしょ? というわけで、蒼空。アレ、お願いしていい?」
「アレ……? ああ、うん、分かったよぉ。悠仁くんの安全のためだもんねぇ。わたし、しっかりもののお姉さん先生として、がんばるねぇ……」
蒼空はコクンと頷くと、胸のポケットから大切なメモ帳を取り出し、【虎杖くんをかくす。アレを使う】と拙い文字で書き留めた。そして、メモ帳を仕舞うと、虎杖の目の前に真っ直ぐに立つ。
「虎杖くん、ちょっと動かないでねぇ……」
そう言うと、蒼空はカッと目を開けるのではなく、逆に、その両眸を「すっ」と完全に閉じた。
光のないトロンとした瞳すら隠し、深い「無」の静寂へと入る。
これこそが、この術式における縛り──『触手遮限』
視覚という一切の認識情報を遮断し、対象に直接手で触れることで発動する、極めて限定的な近接の縛りだった。
両目を完全に閉じたまま、蒼空はブカブカの袖から出した白く細い手を、虎杖の胸元へと直接、優しく触れさせた。
「──拡張術式・『染黒』」
ゾクッ──!!!
触れられた瞬間、虎杖の全身の肌を、底なしの深淵のような「漆黒の呪力」が波紋のように一瞬で塗りつぶしていった。
『染黒』とは、空間や対象を己の呪力の黒で完全に染め上げることで、その存在の「認識」や「物質の性質」そのものを根底から上書きする呪法。
衣服や皮膚を通じて蒼空の黒い呪力が浸透していくにつれ、虎杖の体内に眠るあの禍々しい両面宿儺の特級の呪気すら──高専の結界や上層部の目を欺くレベルの【ただの一般人】の性質へと、強制的に塗り替えられて隠蔽されていく。
(うわ、なんだこれ……! 俺の中にいる宿儺の気配が、だんだん遠くなっていくみたいだ……!)
虎杖がその異様な感覚に息を呑んだ、まさにその時だった。
虎杖の頬の皮膚がグニャリと割れて、不気味な「口」が浮かび上がった。両面宿儺が、内側からその意思を表出させたのだ。
しかし、いつもなら傲岸不遜に嗤うはずの呪いの王の声には、明らかな「驚愕」と、底知れない「好奇心」が混ざり合っていた。
『……ほう。俺の存在という認識すら、その身の黒で上書きするか。おい、女』
宿儺の赤い目が虎杖の顔に浮かび上がり、目を完全に閉じたまま、おっとりと佇む蒼空をじっと見つめる。
『空間をねじ切るかと思えば、今度は物質の性質そのものを塗り替えるか……。面白い、実に面白い術式を使うな、お前は』
最強の呪いの王が、小娘の持つ特級の異質さに、明確な興味を示してニヤリと不気味に口元を歪めた。
だが、蒼空は目を閉じたまま、少しだけ首を傾げて、ぽやぽやとした大人の洗練された笑顔を崩さなかった。
「ふふ、お褒めいただいて、ありがとうねぇ、宿儺。でもね、虎杖くんの体を勝手に使って、五条たちの内緒話を盗み聞きしちゃダメだよぉ……?」
そう言って、蒼空が胸元からそっと手を離し、ゆっくりと両目を開けると、虎杖の体を覆っていた黒い呪力は空気中にフッと霧散した。と同時に、宿儺の口も「チッ……」と忌々しげな音を残して、再び皮膚の奥へと消えていった。
「浅雛先生……ありがとな。宿儺のやつ、なんか先生の術式を面白がってたみたいだけど……」
虎杖がホッとしたように頬を擦る。
蒼空はいつものトロンとした寝ぼけ眼に戻ると、ブカブカの袖をパタパタと振りながら、おっとりと微笑んだ。
「うううん、大丈夫だよぉ。これでもわたし、みんなのお姉さん先生だもん。虎杖くんのことは、わたしと五条と硝子ちゃんで、ぜったいに守ってあげるからねぇ……」
胸のポケットのメモ帳に、拙いけれど愛おしそうな文字で【虎杖くん、生きてた。かくまう。宿儺にお喋りされたけれど、大丈夫。】と書き加える浅雛蒼空。
彼女は特級術師としての底知れぬ力を秘めながら、愛おしい生徒の未来を、今度こそその両手で優しく確かに包み込むのだった。