脳の記憶と、世界の歴史
そのすべてが「五条悟単独での全面解決」と告げている。だが、世界の因果に紐づく彼の『六眼』だけは、その美しすぎる現実に潜む「不自然な空白」を捉えて離さなかった。
五条はまず、すべての始まりである渋谷駅の地下五階のホームへ、再び一人で降り立った。
すでに呪霊の死骸も、羂索の気配も綺麗に片付けられた、静まり返る暗がりのホーム。
五条は目隠しを外し、剥き出しの青い瞳で、壊れた壁や床の呪力残差を分子レベルでスキャンしていく。
そこで、五条は最初の『歪み』を見つけた。
「……これ、僕の術式の破壊じゃないな」
崩れ落ちたホームの奥。山嶽と金剛の特級二体が圧殺されたその座標の鉄骨が、まるで雑巾でも絞るかのように、内側に向かって凶悪な螺旋を描いて『ねじ切れて』いた。
高密度に空間そのものを捻り潰したような、異様な物質の破壊。
それは、五条自身の『蒼』による吸引でも、『赫』による弾きでも、ましてや『紫』の仮想の質量による消滅でも絶対に再現できない、全く未知の、しかし確実に『特級』の格を持つ誰かが放った術式の痕跡──世界が辻褄を合わせきれずに残してしまった、マイナスのパズルのピースだった。
「やっぱり、僕じゃない。ここに、誰かがいた」
確信を得た五条は、すぐに携帯を取り出し、高専にいる唯一の同期へ連絡を入れた。
────────
「……五条。あんたに言われて、高専を取り囲む『篁の結界』の防犯ログ、過去一年分を徹底的に探ってみたよ」
高専の医務室。硝子はパソコンの画面を見つめながら、部屋に入ってきた五条に煙草の煙を吹きかけた。その表情は、いつになく真剣で、どこか怯えを孕んでいる。
「おかしなデータが残ってた。今年の春から今日までの期間、高専の結界の通行ログに、呪力ID不明、名前も空欄の『未登録の誰か』が、毎日、何食わぬ顔で入館してる。しかも……その幽霊の学内での移動ログ、全部あんたの部屋か、私の医務室、あるいは教壇の前で途切れてるのよ」
硝子はパソコンの画面を五条に向けた。そこには、世界が「存在しない」と書き換えたはずの誰かが、確かにここにいて、自分たちと日常を共にしていたという、機械的なエラーログが不気味に浮かび上がっていた。
「私の記憶は、そんな奴知らないって言ってる。でも……この結界のシステムは、そいつが確かにここにいたって、今もエラーを吐き続けてる。五条、一体何が起きてるの?」
「世界がさ、僕たちの記憶から『そいつ』を消しゴムで消したんだよ。……硝子、もう一つ、調べて欲しいものがある」
五条はポケットから、あの地下五階に落ちていた、小さなメモ帳を硝子の机に置いた。
五条がそのノートに限界まで呪力を流し込み、六眼の解像度を引き上げて硝子と共に覗き込む。
それは、文字が「消されて白紙になった」のではなかった。文字のインクも、書いた人間の呪力の癖も、確かにそこに『ある』。
しかし、世界のシステムそのものが、見る者の脳に対して【この文字を認識してはならない】という強力なプロテクトを強制的に上書きしているのだ。
世界が必死に隠そうとしている、核心の答え
「ねじ切れた鉄骨」、「結界の幽霊」、そして「認識できないメモ帳」。
外堀は埋まった。世界がバグを起こしている証拠はすべて揃った。だが、肝心の『彼女の名前』、彼女の『顔』という最後のピースだけが、世界の強力な上書きプロテクトの前に、あと一歩で届かない。
「クソッ……、誰だ……! 僕が、誰を忘れてる……!」
五条が、己の脳に走る激しい拒絶の頭痛に顔をしかめ、白紙のノートを握りしめた、その時だった。
彼の手が、机の上に置かれていた別の「古い私物」に偶然触れた。
それは、かつて高専を離反し、昨年、五条自身の手で最期を看取った親友──夏油傑の高専時代の残置物だった。
世界が浅雛蒼空の存在を消滅させたのは、あくまで「今を生きるこの世界」の因果からである。
だからこそ、すでに過去のものとなり、現世の因果のシステムの外側に逝ってしまった『死者』からは、世界は彼女の存在を奪うことができなかったのだ。
古い教科書の端。夏油傑の達筆な文字で書かれた、当時の落書きのようなメモ。
そこには、若き日の夏油の呪力の残存と共に、色褪せない文字でありありと刻まれていた。
──『今日の任務、悟が代わってくれ。浅雛さんがまた眠ってしまったよ』──
「──ッ!!!!」
その文字が、夏油の遺した過去の呪力が、五条の六眼を通じて脳髄へと直接突き刺さった。
世界のプロテクトが、死者からの遺言によって、内側から爆音を立てて粉々に砕け散る。
脳裏に、一気に溢れ出す。
ブカブカの萌え袖。トロンとした眠そうな、優しい寝ぼけ眼。「ん……っ、五条、おはよぉ……」と眠そうに笑う、あのお姉さんの声。
今年、彼女のために自分が教壇の椅子を用意したこと。消えゆく彼女の記憶を世界に繋ぎ止めたくて、不器用ながらに「先生」をさせたこと。
そして、あの地下五階で、自分と傑の肉体を護るために、自らを白紙にして笑った、あの笑顔──
「……浅雛、蒼空」
五条は、ぽつりとその名前を口にした。
目から一筋の涙が音もなく頬を伝って落ちる。
世界の歴史がどれだけ彼女を否定しようとも、かつて共に過ごした親友の遺した因果が、最強の男に本当の真実を呼び覚ました。
五条は、天を仰ぎ、親友の遺物に感謝するように、狂おしいほどの笑みを浮かべた。
「傑……ありがとな。お前に助けられたわ」
最後のピースは、完全に揃った。
五条悟の『確信』が世界の『浅雛蒼空を消去し続ける』という縛りを打ち破った。
──パキィン
世界が契約違反の莫大なペナルティに悲鳴を上げ、システムに『バク』が生まれる──『白昼夢』が砕け散ろうとしていた。
────────
上も下もなく、距離感すらも存在しない。
ただ、残酷なまでに眩しく、透き通るような純白だけが無限に広がる、息を呑むほどに静謐な世界──『白夜歪獄』の檻の底。
浅雛蒼空は、その色彩も音もない白昼夢のなかを、ただ一人でプカプカと漂っていた。
(んぅ……。何も、ないなぁ……。わたしは、だれ、だったかなぁ……)
ブカブカの袖を手放し重い瞼を閉じたまま、彼女は自分という存在の境界線すらもすべて曖昧になったまま、深い、深い、まどろみの海に沈んでいた。
だが、そこは決して寂しいだけの虚無ではなかった。
この真っ白な空間には彼女がこれまでの人生で術式の代償として削り落とし、失ってきた『すべての思い出』が目に見えない光の粒子となって優しく溶け込んでいたのだ。
いつかの夏の日のじっとりとした暑さと青い空
恋愛映画の登場人物たちが見せる繊細な心の揺らぎ
旅行記のページをめくるたびに広がっていたまだ見ぬ遠い異国の風景
優しく頭を撫でてくれた誰かの手の温もり
廊下を吹き抜けていく風の匂いと他愛のない笑い声
時間の概念すらも失われたこの永遠の空間で、蒼空は失ったはずの愛おしい過去のすべてに抱かれ、穏やかに浮かんでいた。何も分からない。
自分が誰なのかすら思い出せない。けれど、魂の根源が「とても心地いい」と幸福な安堵に満たされていた。
ずっと、このままでいい。
そう思って、さらに深い眠りへと意識を委ねようとした。
──パキィン
静寂そのものだった純白の世界に場違いな硬いガラスがひび割れるような音が冷たく響いた。
まどろみの中にいる蒼空はそれが現実の音だとは気づかない。ただ、見慣れた夢の景色が変わっていくのをトロンとした目のまま見つめていた。
ひび割れた白の世界の向こう側から幻のように3人の影が歩み寄ってくる。
「おい、いつまで寝てんだよ、蒼空。俺を一人にするなんていい度胸じゃん」
目隠しを外し狂おしいほどの青い瞳を輝かせた五条が呆れたようにけれど愛おしそうに彼女の肩を優しく揺さぶる。
「蒼空、早く起きなよ。あんたがいないと、夜の医務室での話し相手がいなくなっちゃうよ」
硝子ちゃんがいつものように煙草を咥えそうな手つきのまま困ったように微笑んで彼女の手を握る。
「……浅雛さん。そろそろ、起きる時間だよ。悟も硝子も、君の帰りを待っている」
そして、あの夏の日の姿のままの夏油が切れ長の目を優しく細めて彼女の背中をそっと現実へと押し出すように触れた。
「あ……、五条……。硝子ちゃん……。それに、夏油……?」
3人の温もりに揺さぶられ声をかけられるたびに、真っ白に溶けていた蒼空の意識が急速にカタチを取り戻していく。
曖昧だった皮膚の境界線が、自分の名前が、みんなと過ごした大切な日々の記憶が、彼女の魂の器へと濁流のように流れ込み自分という存在が再び編み上げられていく。
────────
それは、世界における絶対的な『契約違反』
浅雛蒼空が最期に結んだのは、自分の命どころではない、世界のシステムそのものを取引相手にした『最期の縛り』
──『世界のすべてから、浅雛蒼空の存在を消滅させる』
世界のシステムそのものに「浅雛蒼空の抹消」という絶対の因果が組み込まれ、歴史は完璧に書き換えられたはずだった。
しかし、世界の因果に紐づく五条の『六眼』による観測と、死者である夏油が遺した過去の呪力に導かれた男の『確信』が世界から完全に消し去られたはずの「浅雛蒼空の存在」を完璧に認識し、定義してしまった。
絶対に消去し続けなければならない存在を内側から観測する者が現れた。
ここで、世界のシステムに致命的なエラーが発生する。
天秤は崩壊した。
そして、この最大規模の縛りを破ったのは術師ではない。五条の観測を止められなかった『世界そのもの』だったのだ。
縛りを破れば、破滅的な報いを受ける。
世界は縛りの破綻という最悪のエラーを相殺し、因果の帳尻を合わせるための莫大な代償を支払わざるを得なくなる。
世界が支払うべきペナルティのカタチ。
それこそが、消去したはずの歴史を再び引っ繰り返す【浅雛蒼空という因果の『再定義』】であった。
世界が自らのバグを修正するために、彼女を現世に『戻さざるを得なくなる』という、呪術の理をねじ伏せる奇跡の逆流。
千年の知恵を持つ羂索が笑いながら口にしたあの言葉──
『システムを限界までバグらせた歪みの結晶』
その真の意味が、世界の底で、いま静かに証明されようとしていた。
パキ、パキパキパキ、ピキィィィィィィ!!!
純白の白昼夢の世界のあちこちに無数の巨大な亀裂が凄まじい速度で走り広がっていく。
世界が縛りのペナルティの負荷に耐えかねて悲鳴を上げて割れていく。
「──ほら、行くぞ、蒼空」
ひび割れの向こう側から五条の力強い手が真っ白な空間を強引に引き裂き彼女の腕をしっかりと掴んだ。
ゴガァァァァァァンっっっ!!!!!!!
残酷なまでに美しかった純白の世界が大音響と共に粉々に砕け散る。
その砕け散った白の破片の隙間から、高専の木々の青臭い匂い、夕暮れの茜色の光、そして、泥臭くて愛おしい、正真正銘の『現実の世界』が溢れ出してきた。
「あ……、あぁ……っ……!」
歴史が、因果が、世界そのものが、悲鳴を上げながら浅雛蒼空という存在を現実へと吐き出していく。
────────
窓の外から燃えるような夕暮れの茜色の光が差し込む高専の医務室
そこには、いつもの静けさだけが満ちていた。
「……ふぅ」
硝子は小さく息を吐き、激動の戦後処理の合間の一息を入れるためお気に入りの器具を使ってコーヒーの準備をしていた。
お湯を注ぐと香ばしい匂いがふわりと室内に広がる。けれど、その香りに包まれながらも彼女の胸の奥には理由の分からないぽっかりとした空白と冷たい寂しさがずっと居座り続けていた。
(……私、本当に誰と約束したんだっけ)
思い合わされた記憶の不自然さに首を傾げそうになった──その時だった。
──パリンッ!!!
静かな医務室にまるで巨大なガラス窓が粉々に砕け散ったかのようなあまりにも鮮烈で硬質な音が鳴り響いた。
「っ!? 呪力──」
硝子が驚愕して振り返ると部屋の真ん中誰もいないはずの白いベッドの真上の『空間』が目に見えるほどの巨大な亀裂を走らせてバリバリと音を立てて割れていた。
その純白の光の裂け目から重力に引かれるようにして何かが現実の位相へと吐き出された。
──ポテッ
シーツの上に頼りなく、小さな音を立てて倒れ込んだのは──
血の滲んだブカブカの制服を纏った、一人の美しい女性だった。
「……え?」
硝子は、手にしたケトルを持ったまま硬直した。
目の前のベッドに横たわっている人物が一体誰であるのか、彼女の脳は初め、全く認識することができなかった。世界の歴史から一度デリートされた存在への脳の拒絶反応。
しかし、次の瞬間。
──ゴ、オオオオオッ……!!!
硝子の脳内にせき止められていたダムが決壊したかのような勢いで狂おしいほどの『記憶の濁流』がなだれ込んできた。
忘れていたんじゃない。
最初から、ここにいた。
私の隣で私がタバコを吸うのをトロンとした目で見守りながら、いつも美味しそうにコーヒーの香りを嗅いでいた、私の大切な、大好きな──
「……あ、……、……蒼空……っ!?」
硝子は慌ててコーヒーの器具を机に置き、ベッドへと駆け寄った。
目頭が熱くなり視界が涙で一気にボヤけていく。
視界がブレるのも構わず、硝子は静かにけれど止めどなく涙を流しながらベッドに横たわる彼女の元へ膝をついた。
「あんた、は……っ、本当に……!」
硝子は震える手でそっと蒼空の柔らかな髪を撫でた。
愛おしさとそれ以上の安堵、そして──自分たちを置いて勝手に世界から消え去ろうとしたその無茶な選択への怒りが涙混じりの声となって溢れ出す。
「勝手に……、勝手に一人で消えてんじゃないわよ……! バカ、蒼空のバカ……っ。どれだけ心配したと思ってるのよ……!」
硝子の温かい涙が蒼空の頬にぽつりと落ちる。
その温もりと髪を撫でる優しい手のひらの感覚に、蒼空は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
「……んぅ……?」
トロンとした、世界で一番優しくて眠そうな寝ぼけ眼。
蒼空は目の前でボロボロと涙を流している大切な親友の顔を見て、ふふ、といつも通りのどこか抜けた柔らかい微笑みを浮かべた。
「ん……っ……、硝子ちゃん、おはよぉ……? わたし、また、うたた寝しちゃってたのかなぁ……」
まだ事態が飲み込めていないいつものまどろんだ声。
その日常の響きに硝子がさらに愛おしそうに顔を歪めた。
バァァァァァァンッッッ!!!!!!!
医務室のドアが、壊れんばかりの勢いで乱暴に跳ね上がった。
そこに立っていたのは息を激しく切らし目隠しを外した剥き出しの『六眼』を限界まで見開いた五条だった。
「ハァ、ハァ、……っ!!」
世界に反逆し、因果をハッキングして最後のピースを掴み取った最強の男。
五条は部屋に入るとベッドの上の蒼空とその傍らで涙を流している硝子の姿を交互に、何度も、何度も確かめるように見つめた。
六眼に映る不自然な空白ではない完璧に世界に『再定義』された本物の確かな呪力の光。
「……っ、〜〜〜〜〜〜あぁ」
五条はその場にへたり込みそうになるのを堪えるように、深く、深く、胸をなでおろした。
いつも世界の全てを舐め腐っている最強の男の顔にこの時ばかりは子供のような心からの安堵と晴れやかな喜びの笑顔が咲き誇る。
「おかえり、蒼空」
茜色の夕暮れが満たす医務室でコーヒーの香りが、日常の始まりを告げるように、優しく、温かく、3人を包み込んでいく。
世界のシステムすらもバグらせて、浅雛蒼空は、大好きなみんながいる『現実』へといま確かに帰ってきたのだった。
ここまでご愛読いただきありがとうございました
この物語は以上となります
少しだけおまけは続けます