世界のシステムさえもバグらせた浅雛蒼空
彼女の脳の設計図は完璧に修復され、まどろみに消えていた記憶もすべて戻ってきた。
──けれど、世界をバグらせて現世に帰還するという神業の代償は確かに彼女の肉体に刻まれていた。
「よいしょ、っと……。んぅ、クシュってできたよぉ……」
高専の医務室
蒼空はブカブカの萌え袖の手でアルミの空き缶を握り微弱な呪力を込めて楽しそうにそれを小さく潰していた。
今の彼女の体内に残されている呪力はせいぜいこの程度。世界をねじ切っていた最凶の生得術式『歪曲呪法』は完全に消失し、今の彼女にはこれが精一杯だった。
当然、呪術総監部からは正式に『特級』の称号を剥奪された。
今の蒼空の肩書きは、特級術師でも高専の教員でもない。ただの『高専の補助員』──家入硝子の助手として医務室の書類仕事をしたりほうじ茶を淹れたりする非戦闘員としての静かな日常だった。
「浅雛先生……! 本当に大丈夫なのかよ、無理すんなよな!?」
「そうよ! なんかあったらすぐに言いなさいよね、あたしたちがその前に全部ぶっ飛ばしてあげるから!」
医務室のドアを開けて入ってきた虎杖や野薔薇、伏黒たちは数日前まで無敵の強さを誇っていた先生が急に『空き缶を潰すのが精一杯』なほど弱くなってしまったことを我がことのようにすっごく心配してオロオロと取り囲んでいた。
けれどそんな生徒たちの過保護な様子を見て蒼空はトロンとした眠そうな目のまま、ふふ、といつも通りポヤポヤと柔らかく微笑むだけだった。
「んふふ、みんな、ありがとうねぇ……。でもね、お姉さん、ちっとも悲しくないんだよぉ? だってね……」
蒼空はブカブカの袖を伸ばして心配そうに見下ろしてくる悠仁くんたちの頭を一人ずつ「えらいねぇ、優しいねぇ」と愛おしそうに撫でていく。
彼女にとってかつて与えられていた『特級呪術師』という強さの頂点など最初からどうでもいいものだったのだ。
世界を滅ぼせるほどの力よりも誰かを恐怖させる最凶の術式よりも今の蒼空にとって何よりも大切で、何よりも欲しかったもの──
それは自分を『浅雛蒼空』という一人の人間として受け入れ、愛してくれる、この暖かくて心地よい高専という居場所そのもの
「お姉さんはね、こうしてみんなと一緒にいられることが、何よりも、何よりも嬉しいんだよぉ……」
強さを失った代わりに彼女は『大好きなみんなと同じ世界で、共に生きる未来』をその小さな両手にしっかりと掴み取ったのだ。
蒼空はブカブカの萌え袖の手でペンを握りあの「白紙」だったはずの小さなメモ帳に、一文字一文字、愛おしそうに文字を書き留めていた。
世界の上書きプロテクトが消え去ったそのメモ帳には、いまや「今日みんなと食べたお菓子の名前」や「他愛のない約束」が消えることのない確かなインクでたくさん書き込まれている。
「先生ー! 何書いてんの? あ、それよりさ、今日のお昼、五条先生の奢りで購買の焼きそばパン全部買っていいって言われたんだけど、先生も一緒に食べる!?」
廊下から、虎杖が元気いっぱいに顔を覗かせる。
生徒たちは蒼空がかつて背負っていた『まどろみの代償』のことも、世界から一度消え去ったことも、もともと何も知らない。
彼らにとって、浅雛蒼空は「いつも通りにそこにいて、いつも通りに自分たちを甘やかしてくれる、優しくてちょっと抜けてるお姉さん先生」のままだった。
「わぁ、焼きそばパン……! いいねぇ、お姉さんも、虎杖くんたちと一緒に食べたいなぁ……。五条におねだりしに行こうねぇ……」
トロンとした眠そうな寝ぼけ眼のまま、ふふ、と柔らかく微笑む蒼空。
「……なあ、蒼空。お前さ、本当に脳みそ治ってんの?」
ラウンジのソファにドカッと座り込んだ五条がサングラスの奥の『六眼』を凝らしながら怪訝そうな顔で蒼空の顔を覗き込んできた。
六眼で視る彼女の脳の設計図は今や驚くほどに完璧だった。酷使され、白紙化しかけていた神経のバグは世界の強制再定義によって完全にそして美しく『回復』している。
今までは蒼空を常に襲っていたあの不自然な重いまどろみも、今の彼女の体内には一ミリだって残っていない。
蒼空自身、頭の芯がすっきりと晴れ渡り意識がこれまでにないほどはっきりとしていることを実感していた。
──実感している、はずなのだが
「んぅ……? 五条、なぁに……? お姉さんの顔に、どら焼きのあんこでもついてるかなぁ……?」
首をコテンと傾げ萌え袖で自分の頬をペタペタと触る姿はあの頃と何一つ変わらない『おっとり系天然お姉さん』のままだった。
長いことポヤポヤとした時間の中で生きてきたため脳が治ったところで染み付いた性格までは治らなかったらしい。
五条はそんな蒼空の様子をしばらく凝視していたがやがて呆れたように、けれど心底愛おしそうに前髪をガシガシとかきむしって笑った。
「ははっ、なんだそれ。脳みそが100%新品になってもポヤポヤのまんまかよ。……まぁ、いいけどさ。それが蒼空だしな」
「んふふ、五条が笑ってると、お姉さんも嬉しいなぁ……」
そこへ一息入れるためにコーヒーを手にした硝子が静かに部屋に入ってきた。
硝子は五条の隣でいつも通りポヤポヤと笑っている蒼空の姿を見てふっと目元を優しく緩める。
(まぁ、生きて戻ってきてくれたんだから、ポヤポヤだろうが何だろうがどっちでもいいわよ)
硝子にとって大切な親友が目の前で笑ってくれていることそれ以上の事実など必要なかった。
なにより──「これからは蒼空の記憶が削れていくことは絶対にない」とさっき五条の太鼓判付きで聞いていたのだ。
もう夜の医務室で隣にいる彼女の記憶が消えていく恐怖に一人で耐える必要はない。そのことが硝子の心をこれ以上ないほど深く温かく満たしていた。
「いいじゃない。特級の仕事なんて押し付けられたらまたこの子、私の知らないところで無茶するに決まってるわ。これからは私の助手として一生ここで美味しいコーヒーでも淹れてもらうから」
硝子もまたお気に入りのコーヒーを口に含みながら嬉しそうに蒼空の隣に座り込む。
机の上の小さなメモ帳にはこれからも消えることのない、みんなとの温かい思い出の日常が一ページずつ、ゆっくりと書き留められていく。
みんなと一緒に過ごしたあの眩しい夏の日のことも
夜の医務室で硝子ちゃんと交わした静かな約束も
渋谷の地下で誓ったあの日の決意も
これからはもう何一つ忘れることはない。
大切な思い出も、これから紡ぐ未来の約束も、すべてをこの胸に抱きしめたままみんなと一緒に生きていける。
「ん……っ……。お姉さんね、いま、すっごく、すっごくハッピーだよぉ……!」
雲一つなく晴れ渡った高専の空の下、ほうじ茶の優しい香りとみんなの笑い声に包まれてお姉さん先生の日常がここから新しく始まっていくのだった。
最強の終わり。それは、おっとり系天然お姉さんにとっての、最高に愛おしくて、最高に優しい『本当の幸福』の始まりだった。