『箱入りの特級術師』浅雛蒼空   作:おいしいお塩

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浅雛さん戦います


幼魚と逆罰編

──それは、ある日の穏やかな夕暮れのこと

 

「浅雛先生ーー!! 聞いてくれよ!!」

 

高専の回廊に、虎杖の元気な大声が響き渡る。

 

ペタペタとスリッパの音を鳴らしながら、大きすぎる萌え袖をゆらゆらさせて歩いていた蒼空は、とろんとした寝ぼけ眼をさらに細めて、ふふ、と微笑んだ。

 

「あ、虎杖くん。おかえりなさい……。遠くのお仕事、がんばったねぇ……。そんなに大声を出しちゃって、どうしたのぉ……?」

 

「あのさ! 今回の任務で行った映画館で、吉野順平っていう同い年の奴と友達になったんだよ! そいつがさ、俺と同じでめちゃくちゃ映画に詳しくて!」

 

虎杖は目をキラキラさせながら、一気に言葉をまくしたてる。

 

「でね、そいつの家にもお邪魔して、お母さんも一緒にみんなでご飯食べてさ! そしたら順平もやっぱり、あの『ミミズ人間4』の特殊造形について熱く語れるレベルのクソ映画仲間だったんだよ! 映画の趣味が合う同世代のダチなんて初めてだから、俺、嬉しくってさ!」

 

「わぁ……クソ映画仲間、だねぇ……。それは、とっても素敵な出会いだったねぇ、悠仁くん」

 

蒼空は、萌え袖できゅっと両手を包み込みながら、自分のことのように新鮮な満面の笑みを浮かべた。

 

彼女にとって、虎杖が嬉しそうに話してくれる時間は何よりの癒やしだ。大好きな生徒が「新しい友達ができた」と笑っている姿は、いつだって新鮮に、彼女の心をあたたかく満たしてくれる。

 

「そうなんだよ! だからさ、順平の任務とか色んなことが一段落したら、今度高専に呼びたいなと思って! その時はさ、先生も一緒に、3人で見ようぜ! 」

 

虎杖が人懐っこい笑顔で、親指を立てて提案する。

 

「3人で、映画……」

 

蒼空は、その言葉を慈しむように、おっとりとしたテンポで繰り返した。

 

(虎杖くんと……吉野くん、という新しいお友達と、3人で……。大きな画面をみんなで見つめて、映画を観て……)

 

想像するだけで、頭のなかの霧がぽかぽかと晴れていくような、眩しいほどに優しい「未来の約束」。

 

蒼空は、大きすぎるポケットからお気に入りの可愛いメモ帳をそっと取り出すと、いつものように消えないように丁寧な優しい文字で新しく書き加えた。

 

【よしのじゅんぺいくん。虎杖くんの、だいじな映画のおともだち。

こんど3人で、映画を観る。おかしもたくさん用意する。ぜったい、約束。】

 

「うん……! 3人で映画鑑賞、とっても、とっても楽しそうだねぇ……。約束だよ、虎杖くん。わたしね、その吉野くんっていう男の子の分も、お菓子をいっぱーい用意して待っているからねぇ……」

 

「おう! 約束な、浅雛先生! 順平にも『高専にめちゃくちゃ綺麗で、映画の趣味が合う最高のお姉さん先生がいるんだぞ』って自慢しとくわ!」

 

虎杖は白い歯を見せて笑うと、「じゃあ、五条先生に報告してくる!」と、夕焼けの廊下を元気いっぱいに走っていった。

 

「ふふ、いってらっしゃい、虎杖くん……」

 

遠ざかっていく愛おしい後ろ姿を見送りながら、蒼空はもう一度、メモ帳の「3人で映画を観る」という文字を愛おしそうに見つめた。

 

――――――

 

高専の冷涼な地下医務室

 

解剖台の上に横たわる、真人に改造された人間の遺体を前に、蒼空は大きすぎる萌え袖から細い指先をのぞかせ、その冷たい肌に直接触れていた。

 

「術式反転……『正緋(せいひ)』……! 綺麗に、平らになぁれ……!」

 

じんわりと、温かく鮮烈な緋色の呪力が遺体を包み込む。

 

しかし──ピクリとも動かない。肉体の表面の傷ならならせるはずなのに、細胞そのものが完全に崩壊し、壊死している。

 

「浅雛、もういい。よせ」

 

後ろから、夜蛾学長が重々しい声で蒼空の肩に手を置いた。隣に立つ家入硝子も、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、悲痛な目を宿して首を振る。

 

「……私の解剖結果とも一致するよ、蒼空。これは肉体の『損傷』じゃない。根源にある魂の形そのものを強引に書き換えられて、肉体がそれに耐えきれずに死んでいるんだ。設計図そのものが歪められている以上、蒼空の『正緋』でも元には戻せないよ」

 

「そんなの……そんなの、やってみなくちゃ、わからないよぉ……」

 

蒼空の寝ぼけ眼から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。

 

しかし、夜蛾のサングラスの奥の目は、どこまでも厳しかった。

 

「浅雛。お前は貴重な解呪の要であり、上層部からも厳重に高専内待機を命じられている『箱入りの特級』だ。効果があるか分からぬ現場へ、お前を危険に晒して送り出すわけにはいかない。大人しく、ここで待機していなさい」

 

「夜蛾先生……」

 

「これは、学長としての命令だ」

 

夜蛾の言葉に、蒼空はそれ以上何も言えず、ただ大きすぎる萌え袖のなかで、拳をぎゅっと握りしめることしかできなかった。

 

学長たちが部屋を去ったあと、静まり返った高専の回廊。

 

ポケットの中のメモ帳の【よしのじゅんぺいくん。こんど3人でえいがを観る。ぜったい、やくそく。】という優しい文字が、魂の奥でカチカチと警告音を鳴らしていた。

 

(いま行かなきゃ……虎杖くんの『一緒』が、壊れちゃう……)

 

「大人しく待ってろって言われて、本当に待ってる奴が、あの2人の同期にいるわけないよねぇ……」

 

誰もいない廊下で、蒼空はぽやぽやとした口調のまま、けれど決意に満ちた目で小さく呟いた。

 

高専の外に出るとわ出張中の五条が「もし悠仁の身に何かが起きたら、ここへ飛べ」と言わんばかりにわざとらしく残していった、川崎方面へと続く『呪力の残穢』が漂っていた。

 

「五条のいけず……。反対するなら、こんな道標、残さなきゃいいのにねぇ……」

 

蒼空は人差し指を真っ直ぐに掲げ、空中に何度も、何度も、大きな「螺旋」をぐるぐると描き始めた。

 

彼女の術式順転『歪蒼』。それは、敵を内側にねじ切るだけではない。

 

現在地と、五条の残穢が指し示す目的地の間の「空間の距離」そのものを内側へ強引に絞り込み、ゼロ距離に歪めて繋ぎ合わせる跳躍──『歪蒼・縮地』

 

しかし、これは五条の無下限呪術による瞬間移動とは違い、重いリスクがあった。

 

移動経路の直線上にある建造物や帳の密度が高ければ高いほど、空間を引っ張るために膨大な呪力を消費する。

 

さらに、人差し指で空間を絞り込むための「数秒間の無防備な溜め」が必要で、何より──

 

ゴウッッッ!!!!

 

空間が強烈に軋み、次の瞬間、蒼空の身体は里桜高校の体育館へと転移していた。

 

「う、あたまが……グルグルするよぉ……っ」

 

着地した瞬間、空間を強引に通り抜けた代償として、三半規管と脳に凄まじい重力がかかる。

 

猛烈な目眩と吐き気に襲われ、蒼空はスリッパのまま、危うく体育館の床にへたり込みそうになった。

 

しかし、目眩で揺れる寝ぼけ眼のなかに飛び込んできたのは、あまりにも凄惨な絶望の光景だった。

 

「──順平ッッッ!!!!」

 

虎杖の悲痛な叫び。真人の手によって異形の怪物へとドロドロに作り替えられた吉野順平が、涙を流してのたうち回っている。

 

「せん、せい……! 浅雛先生ッ!!」

 

虎杖は、ふらつきながら現れた蒼空に気付き、縋りつくように叫んだ。

 

「頼む、頼むよ先生!! 先生の術式なら、順平を元に戻せるんだろ!? 順平を……順平を助けてくれよぉ!!」

 

「悠仁くん……」

 

蒼空は、空間酔いで激しく揺れる身体を必死に押し留め、ペタペタと駆け寄って順平の前に膝をついた。ブカブカな萌え袖から白い手を伸ばし、異形と化した少年の冷たい肌に直接触れる。

 

「術式反転……『正緋』……! 」

 

あたたかく鮮烈な緋色の呪力が順平を包み込む。

だが──ドクン、と不気味な拒絶の音が響くだけで、肉体は元の形に戻ろうとしない。

 

(やっぱり……なおらないの……? 硝子ちゃんの言う通り、魂のカタチそのものが、最初から歪められちゃっているから……?)

 

「あ、が……。いた、い……な……んで……」

 

「順平……? 順平、しっかりしろ!!」

 

蒼空の腕の中で、順平の生命の灯火が、ボロボロと崩れ、完全に消え果てていく。

 

3人で映画を観るという、あの温かいメモ帳の約束が、指の隙間からサラサラと砂のように零れ落ちていく。

 

 

「……あ。約束、したのに……。お菓子、いっぱい用意するって、言ったのに……」

 

蒼空の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。

 

その涙が床に落ちた瞬間、彼女の「寝ぼけ眼」から光が完全に消え失せ、澄み渡るような、けれど底冷えするほど鋭い「蒼」と「緋」の呪力が爆発的に膨れ上がった。

 

ゆっくりと立ち上がる蒼空。特級術師としての圧倒的な呪力が、体育館に満ちる。

 

「君が……虎杖くんの『一緒』を、壊したんだねぇ……」

 

「へぇ、君が噂の『箱入りの特級』? 面白い呪式だけど、君の攻撃じゃ俺の魂には触れられないみたいだね」

 

真人はいつもの軽薄な笑みを浮かべ、両手を広げて挑発する。

 

「七海くん、悠仁くんを下がらせてください……。その泥人形は、わたしがぜんぶ、ねじ切っちゃいますから……」

 

「待ってください、浅雛先輩! 単独での交戦は──っ!」

 

七海が引き止めようとするが、その言葉より早く、蒼空の細い指先が空中にクルリと螺旋を描いた。直感的な生命の危機を察知した七海は、言葉を呑み、動けない虎杖の身体を抱えて即座に背後へと飛び退く。

 

「術式順転……『歪蒼』」

 

蒼空が手を開き、グッと目の前で握り込んだ瞬間──

 

ドォンッッッ!!!!

 

凄まじい空間の軋みと共に、真人の右半身が空間ごと強烈にねじ切られ、肉片となって四散した。爆音すら置き去りにする、不可避の攻撃。

 

「うわっ、凄い威力だ!」

 

真人は一瞬で肉体を再生させ、腕を何本もの鋭利な刃に変形させて蒼空へ肉薄する。

 

しかし、蒼空は避けることすらしない。眠たげな目を少し開き、指先をクルリと動かすだけで、真人の攻撃の軌道をぐにゃりと歪め、すべて不自然な方向へと受け流してしまう。

 

「歪蒼」による絶対的な破壊と、空間歪曲による完璧な防御。

 

格の違いは一目瞭然だった。蒼空は一歩も動かず、真人を文字通り「余裕で完封」している。

 

その超次元の戦闘を、少し離れた場所から七海と虎杖は息を呑んで見つめていた。

 

「な、んだよこれ……っ」

 

虎杖は、涙を流したまま呆然と呟く。自分たちの前で見せる「おっとりした優しい先生」とはあまりにもかけ離れた、冷徹で圧倒的な特級としての『強さ』。

 

隣に立つ七海も、ネクタイを締め直すことすら忘れ、冷や汗を流しながら先輩である蒼空の呪力操作を凝視していた。

 

(これが……『箱入りの特級』、浅雛先輩の真実ですか。上層部がなんと言おうと、この呪力コントロールの精密さ、空間を掌握する術式の格……間違いなく、五条さんに並ぶ怪物の系譜だ……!)

 

だが、蹂躙されているはずの真人の顔から、余裕の笑みは消えない。

 

「どれだけ肉体をミンチにされても、俺の魂の形が保たれている限り、俺は死なないんだよ!」

 

真人はニヤニヤと笑いながら肉体の変形と再生を繰り返す。魂に届かない攻撃は、彼にとってはただの「消費の少ない肉体遊び」に過ぎないからだ。

 

──しかし、真人は致命的な勘違いをしていた。

 

「……ん。おかしいねぇ。何回ねじ切っても、君のなかの『芯』のところが、ぜんぜん平らにならないの」

 

蒼空は、ねじ切るたびに真人の肉体が再生する「違和感」を、その微細な呪力操作で感知していた。

 

あらゆる事象の「歪み」と「正しさ」を掌握するのが、彼女の『歪曲呪法』。魂を知覚していなくても、そこに生じる「魂の歪みの残響」を、彼女の脳が捉えられないはずがなかった。

 

(な、に……?)

 

真人の顔から、初めて笑みが消えた。

十数回目の『歪蒼』を喰らった瞬間、再生のテンポが一瞬だけ遅れた。

 

肉体ではなく、その奥にある「魂の表面」が、ほんの少しだけ削られたのだ。

 

「あ……。見えてきたよぉ……。君、そこがすっごく、歪なカタチをしてるんだねぇ……」

 

蒼空の瞳のなかの「蒼」と「緋」の光が、真人の魂の輪郭を少しずつ、けれど確実にロックオンし始める。

 

(嘘だろ!? 魂を知覚していないはずの人間が、ただの『歪みの計測』だけで俺の魂の形を学習して、ジャストフィットさせてきてるのか……!?)

 

初めて感じる、魂が物理的に削られる恐怖とストレス。このまま戦い続ければ、遠からず自分の存在そのものが「平らにならされて消滅する」と、真人の野生が警鐘を鳴らした。

 

 

強烈な死の恐怖。それが、この呪いに、爆発的な成長をもたらす。

 

 

「あはははは!! 凄いよ特級!! 君のおかげで、俺の魂のインスピレーションが、今、最高に研ぎ澄まされた!!」

 

真人は口の中にいくつもの手を形成し、叫んだ。

 

 

「──領域展開、『自閉円頓裹』!!!」

 

 

「浅雛先生!!!」

 

虎杖が叫ぶ。体育館がドス黒い巨大な手の群れに覆われ、真人の「魂に触れる」必中効果が世界を包み込もうとする。七海も呪力を最大に引き上げ、最悪の結末を覚悟した。

 

だが、浅雛蒼空は、一歩も引かない。

 

蒼空は、いつものとろんとした寝ぼけ眼を静かに閉じた。

 

そして、大きすぎるメンズサイズの制服の袖から、白くしなやかな右手をすっと掲げる。片手の人差し指と中指の2本だけを真っ直ぐに伸ばし、自らの目の前へと気高く掲げた。

 

「──黄昏時に境界は失せ、表は裏へ、右は左へ。歪なる魂に、永きまどろみの帳を」

 

その声は、驚くほど穏やかで、慈愛に満ちていて。

 

 

「領域展開──『逢魔幻天』」

 

 

ゴウッッッ!!!!!!!!

 

真人の放ったドス黒い手の群れを、その内側から強引に、かつ圧倒的な質量で押し潰すようにして、鮮烈な「色」が世界を凄まじい速度で塗り替えていった。

 

それは、昼と夜の境界線があいまいに溶け合う、不気味で、息を呑むほどに美しい「黄昏時」の光景。

 

上も下も、果てのない茜色の夕焼け空が広がり、その裾野には順転の「蒼」と反転の「緋」の呪力が、紫色のグラデーションとなってねっとりと空間全体に溶け合っている。沈まない太陽のような、けれど血のように赤い残光が空間を支配し、敵も味方も、己と世界の境界線すらもあいまいに揺らめかせる。

 

特級術師としての圧倒的な呪力量と、極限まで練り上げられた洗練。

 

真人が展開した『自閉円頓裹』の結界の壁が、上空からバリバリ、ミチミチと悲鳴を上げて罅割れ、蒼空の生み出した美しい夕暮れの空によって、完全に、一方的に「上書き」されていく。

 

「なっ……あ、は……っ!? 領域の押し合いで、ここまで一方的に……っ!?」

 

真人は、美しくも悍ましい夕焼け空を見上げ、その顔を驚愕と恐怖に歪ませた。

 

『逢魔幻天』の必中効果──それは「認識の歪曲」

 

領域に足を踏み入れた瞬間から、真人の五感はぐにゃぐにゃにねじ曲げられていた。

 

「あ、が……ッ!? なんだこれ、何が起きて……上下が、感覚が、俺の『魂の形』が……っ!?」

 

真人は強烈な眩暈に襲われ、まともに立つことすらできずにどさりと膝をついた。

 

見ている景色がねじれ、聞こえる音が歪み、自分が右手を動かそうとすれば左足が引きちぎれるような激痛が走る。

必中効果の「染黒」が真人の脳の認識を完全に支配し、己の魂を自分でどう保てばいいのかすら分からなくさせていく。

 

自滅と発狂の一歩手前。真人は自分の顔をかきむしりながら、おぞましく血を吐き散らした。

 

「すごいね、君……。人間を、世界を、こんなに弄んで、楽しかったのかなぁ……?」

 

夕暮れの茜色の光を背に受けて歩み寄る蒼空の姿は、まるで黄昏の神仏のように神聖で、冷徹だった。

 

カッと限界まで見開かれたその瞳は、普段の眠たげな状態から一変し、澄み渡るような「鋭い蒼」と「鮮烈な緋」の呪力が激しく混ざり合った、吸い込まれそうなほど美しい色へと変化している。特級術師としての、あまりにも圧倒的な威圧感。

 

「これで、おしまいだよぉ……」

 

蒼空が真人の頭部に指を向け、完全に魂の輪郭を捉えた『歪蒼』を放とうとした、その刹那──

 

ゾワッッ!!!!

 

体育館の床、影の隙間から、見たこともない不気味な呪霊の群れが、泥のようにドバドバと湧き出し、蒼空と真人の間に割って入った。

 

「……っ!? なに、これ……!」

 

蒼空が瞬時に『歪蒼』で空間ごとねじ切ったものの、わずか数秒の視界の遮りのなかで、真人の気配は泥のように空間の奥へと消え去ってしまっていた。

 

「逃げられちゃった、かぁ……」

 

領域が解け、いつもの夕焼けの体育館に戻る。

瞳の輝きが消え、いつものまどろんだ寝ぼけ眼に戻った蒼空の視線の先には──動かなくなった順平を抱きしめて、声を上げて泣き続ける虎杖と、それを痛ましそうに見つめながら、静かに佇む七海の姿があった。

 

 

―――

 

──里桜高校での激しい戦いから、数日後

 

「……反省、してまぁす……」

 

高専の学長室。浅雛先生は、大きな体をさらに小さく縮こまらせ、大きすぎる萌え袖の手を膝の上に乗せて、ぽやぽやとした寝ぼけ眼で床を見つめていた。

 

その目の前では、夜蛾学長が腕を組み、仁王立ちでこれ以上ないほど恐ろしい仁王顔をしている。隣には、呆れたようにため息をつく硝子、そして出張から帰ってきた五条が「いや〜、蒼空がまさか結界をすり抜けて川崎まで飛ぶなんてねぇ!」と、ニヤニヤしながら面白がっていた。

 

「浅雛。お前が虎杖や七海を救った功績は認める。だが、命令を無視して独断で高専を抜け出し、さらに身体に大きな負担がかかる『歪蒼・縮地』を無断で使用したことは、特級術師として、また高専の教師として、断じて許されることではない!」

 

「うぅ……夜蛾先生、お怒りの拳骨は、勘弁してくださいぃ……。あたまが、まだちょっとグルグルするのぉ……」

 

「これに懲りたら、次からは大人しく私の診療所にいなよ。……あんまり無理をされると、主治医としての私の胃がもたないからね」

 

硝子は言葉を少しぼかすように告げた。それでも、その瞳には大切な大親友を心から心配し、それゆえに怒る、温かい厳しさが宿っていた。

 

「それは、いやだなぁ……硝子ちゃんを困らせるのは、めっ、だよぉ……」

 

蒼空がしょんぼりとしたハネ髪を揺らすと、硝子はそれ以上追及せず、「分かればいいさ」と小さく笑って彼女の頭を軽く小突いた。

 

それから、また数日が経った、ある日の午後。

 

「浅雛先生! ななみん!」

 

高専の談話室の扉を元気に開けて入ってきたのは、あの事件から少しずつ、けれど確実に前を向き始めた虎杖だった。その手には、何やら怪しげなパッケージのDVDが握られている。

 

「この前さ、順平のことで約束してたろ? 映画、一緒に観ようぜって。……本当は、3人で観るはずだったんだけどさ」

 

虎杖は一瞬だけ寂しそうに目を伏せたが、すぐにいつもの人懐っこい笑顔を作って、DVDを掲げた。

 

「これ! 例の『ミミズ人間4』! やっと借りてこれたんだよ。先生と、それからななみんも一緒に観よう!」

 

「わぁ……虎杖くん、覚えていてくれたんだねぇ……。嬉しいなぁ。よし、お菓子をいっぱーい用意して、みんなで観ようねぇ……」

 

蒼空は、自分のことのように新鮮な満面の笑みを浮かべて萌え袖をパタパタとさせた。

 

一方、ソファで静かに書類を読んでいた七海は、一度は「私はこれから、報告書を……」と言いかけた。

 

けれど、順平の死という大きな傷を抱えながらも、それを乗り越えようと健気に明るく振る舞う虎杖の様子、そして亡き友人への彼なりの追悼の思いを、七海は敏感に察していた。

 

(……彼なりの、折り合いの付け方ですか)

 

それに、隣でおっとり美人の浅雛先輩が「七海くん……いっしょに、観よう……?」と、とろんとした寝ぼけ眼でじーっと見つめてきている。先輩の可愛らしさと純粋なおねだりには、流石の七海も昔から敵わなかった。

 

七海は深く、深くため息をつき、眼鏡の位置を直した。

 

「……1時間半。それ以上は、私は定時で失礼しますからね」

 

「よっしゃ! ななみん、最高!」

 

こうして、3人での映画鑑賞会が始まった。

 

──映画の内容は、それはもう、目も当てられないほどくだらなくて、くだらなくて、逆に笑えてくるような最低のクソ映画だった。

 

巨大化したミミズが人間と融合し、なぜか最後は宇宙でレーザーを撃ち合うという、脈絡もへったくれもない超展開。

 

「あははは……! 虎杖くん、これ、お魚じゃなくてミミズさんなのに、なんで宇宙を泳いでいるのぉ……? おもしろいねぇ……」

 

蒼空は、画面が変わるたびに新鮮に声を上げて、お腹を抱えて大笑いしている。七海は眉間にこれでもかと深いシワを寄せながらも、律儀に最後まで席を立とうとはしなかった。

 

「なぁ、これマジで酷いよな! 特殊造形、完全にただのゴムチューブじゃん! あははは!」

 

虎杖も一緒になってガハガハと笑っていた──はずだった。

 

けれど、映画のクライマックス、主人公のミミズ人間が「俺は……人間として、死にたかった……」と、チープな合成の爆発の中で散っていく、呆れるほどベタでくだらないシーンに差し掛かった、その時。

 

「……っ……、あはは、まじで、くだらねぇ……なぁ……っ」

 

虎杖の口元は、確かに笑っていた。

 

画面を観て、面白いね、と笑みを浮かべている。

なのに、彼の目からは──声もなく、無言のまま、ポロポロと大粒の涙が溢れ出し、頬を伝って床へと静かに落ちていた。

 

それは、映画の感動なんかじゃなかった。

主人公のその安っぽい台詞の向こう側に、自分が救えなかった、人間の尊厳を奪われて壊されてしまった、あの吉野順平という優しい友人の最後の姿を、どうしても重ねてしまっていたからだ。

 

「……っ、ふふ、ほんと……酷い映画、だぜ……っ」

 

泣いているのに、笑っている。

 

悲しみを強がって、それでも必死に前を向こうと明るく振る舞う少年のその姿を、蒼空と七海は、何も言わずにただ静かに、温かく見守っていた。

 

七海は静かに視線を落とし、その少年の抱えた大きすぎる痛みを、同じ空間でただ黙って受け止める。

 

そして、蒼空は──

 

「……ん。がんばったねぇ、悠仁くん……」

 

おっとりとしたまどろみの中にいながらも、泣いている生徒を包み込んであげる、世界でいちばん優しい「しっかりもののお姉さん先生」の顔になっていた。

 

大きすぎる萌え袖の手をそっと伸ばし、泣きながら笑っている虎杖の背中に、優しく手を当てた。

 

そして、その小さな背中を、ゆっくり、ゆっくりと、そっと摩ってあげる。

 

彼女の鮮烈な緋色の呪力が、虎杖の傷ついた心へとじんわりと、温かく寄り添うように染み込んでいく。

 

チープな宇宙ミミズの爆発がテレビ画面の中で静かにフェードアウトしていく中、虎杖は無言で涙を流し続け、蒼空はその背中をあたたかく摩り続け、七海は静かに佇んでいた。

 

夕暮れの談話室は、くだらない映画の光と、ほうじ茶の温かい湯気、そして、大切な人を失った痛みを共に静かに分かち合う、3人の優しい沈黙に満たされていた。

 

その日の夜、蒼空は自室で、引き出しの奥から大切なノートをそっと取り出した。

そして、ページの一部に涙の跡が滲むその下に、小さな、けれどこれからの決意を込めて、静かに書き加えるのだった。

 

【じゅんぺいくんのぶんまで、虎杖くんのことを、せんせいがぜったいに、まもってあげるからね。おねえさんだから、がんばるよ。】

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