『箱入りの特級術師』浅雛蒼空   作:おいしいお塩

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起首雷同篇・エピローグ1

八十八橋での死闘は、辛くも呪術高専側の勝利で幕を閉じ、夜の帳が静かに下りる頃、傷だらけの3人はようやく高専へと帰還した。

 

ポツポツと降り始めた冷たい雨が、彼らの制服に染み込んでいく。

 

伏黒は限界を超えた領域展開の反動で意識を失いかけ、釘崎は『蝕爛腐術』の毒に肉体を蝕まれて顔を歪め、虎杖は2人の身体を支えながら、ただ俯いて歩いていた。

 

「みんなぁ……お帰りなさい、だよぉ……」

 

薄暗い廊下の向こうから、ペタペタと聞き慣れたスリッパの音が響く。

大きすぎる萌え袖をゆったりと揺らしながら、浅雛蒼空が、両手をぽん、と優しく広げて3人の前に現れた。

 

「浅雛、先生……」

 

虎杖がかすれた声で呟く。その瞬間、蒼空の瞳からぽやぽやとしたまどろみが一瞬で消えた。

「ん……みんな、すっごく、すっごく頑張んだねぇ。……もう大丈夫、お部屋に入って、いたいのを平らにしちゃおうねぇ」

 

蒼空は萌え袖の手をすっと掲げ、3人を包み込むように呪力を練り上げる。

 

「術式反転……『正緋』」

 

じわり、と廊下の暗闇を照らすように、鮮烈で温かい緋色の光が3人を優しく包み込んだ。

それは肉体を一から再生する医療の術式ではない。世界をあるべき形へと引き戻す、空間の歪みの逆転。

 

バキバキバキッ!!! と凄まじい速度で音が鳴り、伏黒のズレていた骨が、一瞬で元のあるべき位置へと完璧に結合していく。それと同時に、傷口の血流の歪みが正され、吹き出していた鮮血がピタッと一瞬で止血された。

 

さらに、釘崎の腕を黒くただれさせていた九相図の猛毒──これこそが、蒼空の最も得意とする領域だった。

「解呪」に関して言えば、硝子の反転術式をも遥かに凌駕する。正緋の光が触れた瞬間、衣服を溶かしていたおぞましい呪いの毒が、ジュウ……と音を立てて霧のように完全に消滅していった。

 

「……っ、痛みが、消えた……? 毒の気配が、まったくない……」

 

釘崎が自分の両腕を見つめ、驚きに目を見張る。あれほど激痛を放っていた壊死の毒が、跡形もなく消え去っていた。

 

「伏黒くん。不完全でも、自分の世界を広げられたんだねぇ……」

 

蒼空は、骨が繋がって痛みが引き、呆然としている伏黒の頭を、萌え袖の上からよしよしと優しく撫でた。

 

「でもね、まだ呪力が空間に馴染みきれなくて、少しだけ外側の世界と喧嘩しちゃってるの。次からはね、おへその奥の歪みをすうっと抜いて、空間に自分を『溶かす』みたいにしてみてねぇ。そうすれば、もっと綺麗な、伏黒くんだけの庭になるからねぇ」

 

「……空間に、溶かす……」

 

伏黒はその言葉を反芻し、特級ならではの、感覚的でありながら核心を突いた助言に、深く深く頷いた。

 

「釘崎さんも、すっごく痛かったのに、男前さんに耐えて偉かったねぇ。……うん、治療も解呪もバッチリだけど、あとは、硝子ちゃんに診てもらおうねぇ。お薬も塗ってもらおうねぇ」

 

強がる釘崎の頭も、蒼空は微笑みながら優しく撫でてあげる。

 

しかし

怪我の歪みも毒もすべて消え去ったはずの空間で、ただ一人、虎杖悠仁だけが、自分の掌を見つめたまま静かに立ち尽くしていた。

 

血の繋がった九相図の兄弟──人間の涙を流した彼らの命を奪ってしまった重みが、彼の魂を、鉛のように重く沈めさせていた。

 

「……虎杖くん」

 

蒼空は、ペタペタと静かに虎杖の前に歩み寄り、その少し震える大きな手を、萌え袖の手でそっと包み込んだ。

 

「先生……俺さ……」

 

虎杖が、泣き出しそうな、それでいて酷く寂しそうな目で、ぽつりと呟く。

 

その、雨の日の薄暗い光のなかで、静かに背中を丸める虎杖の横顔を見つめた、まさにその瞬間だった。

 

ぐにゃり

 

蒼空の脳の奥、固く閉ざされたはずの『記憶のノート』が、強烈な歪みを伴って激しく震えた。

 

視界が急激にセピア色に点滅し、激しい頭痛が彼女を襲う。

 

まどろみの霧を強引に突き破るように、冷たい雨の音をかき消して──あの、まとわりつくようなアスファルトの熱気、じりじりと肌を焦がす蝉時雨、そして、眩暈がするほど濃厚な、あの『夏の匂い』が脳内に溢れ出してきた。

 

酷暑。連日の終わりのない呪霊の群れ。

高専の、人気の無い薄暗い廊下。

 

壁に背を預け、ずるずると床に座り込んで、今にも壊れてしまいそうなほど痛々しく、寂しそうな背中をした『誰か』の姿が、鮮明にフラッシュバックする。

 

その人の手には、悍ましい、呪いの塊。

排泄物のような、嗅ぐだけで胃が強烈な拒絶反応を起こして競り上がる、あの泥のような匂い。

 

当時のわたしは、大きすぎるメンズサイズの制服の袖をパタパタさせながら、トロンとした目をこれまでにないほど心配そうに揺らして、そっと隣にしゃがみ込んだんだ。

 

『……大丈夫……?』

 

その人は、初めて、わたしの前でポロポロと、濁った本音を溢れさせたんだ。

 

『……不味いんだ。これ、本当に』

 

『何のためにこれを喰らい続けなければいけないのか、分からなくなってしまったんだ。……辛いな。本当に、辛いよ、浅雛さん』

 

ぽつり、ぽつりと零れ落ちる、その人の張り裂けそうな弱音。

あの、熱を帯びた夏の匂いと、彼の苦しげな声が、頭の奥にこびりついて離れない──

 

 

「浅雛先生……? 顔色、悪いですよ……?」

 

虎杖の心配そうな声で、蒼空はハッと我に返った。

 

気がつけば、自分の頬を冷たい一滴の涙が伝い、ボタボタと廊下の床に落ちていた。

 

「……あ、あれぇ……? わたし、どうしちゃったのかなぁ……」

 

「ちょっと、何やってんのさ、あんたたちは」

 

白衣のポケットに両手を突っ込み、気だるげに歩いてきたのは、保健室からみんなを迎えに来た家入硝子だった。本来、補助監督から治療の要請を受けて待機していた彼女は、グラウンド側の廊下まで足を運んできたのだ。

 

硝子は3人の状況を見て、ふぅ、と紫煙を吐き出すようにため息をついた。

 

「やっぱりね。蒼空、あんたが全部、おまけに治療までやっちゃったら、本当に私の仕事がなくなるじゃない。……本来、治療は私の領分。ただでさえ術式の使いすぎるんだから、こういう時は私に任せて、あんたは大人しく休んでなよ」

 

だが、硝子はすぐに気がついた。大きすぎる萌え袖で慌てて涙を拭う、蒼空の震える肩に。

 

「……蒼空? あんた、なんで泣いてるわけ」

 

「あ、硝子ちゃん……」

 

蒼空は、縋るように硝子の白衣の袖をぎゅっと握りしめた。その寝ぼけ眼は、今にも消えてしまいそうなほど切なく揺れている。

 

「ねぇ、硝子ちゃん……教えて、おねがい……。今ね、虎杖くんの横顔を見ていたら、頭の奥がすっごく痛くなって……。昔、夏のすっごく暑い日にね、暗い廊下で……『だれか』が、いたの……。辛いよって、わたしの前でぽろぽろ泣いていた、もう一人の『だれか』が、いたはずなの……。ねぇ、あの人は、だれだったかなぁ……?」

 

「っ……!」

 

その言葉を聞いた瞬間、硝子の顔が、凍りついたように強張った。

 

いつも冷静な彼女の瞳が、一瞬だけ、張り裂けそうなほどの激しい痛みに歪む。あの日からずっと、胸の奥底に仕舞い込んできた『もう一人の級友』の残響。

 

硝子はきつく唇を噛み締め、だがすぐに、いつもの感情を殺した無表情へと無理やりに顔を戻した。そして、蒼空の手を優しく、けれど強く引きはがすようにして、わざとぶっきらぼうに話を逸らした。

 

「……何言ってんのさ。蒼空の気のせいだよ、疲れて変な夢でも見たんだろ。それより、怪我人は早く保健室に連れていかなきゃダメじゃない。ほら、伏黒も釘崎も、治療とバイタルチェックするから来な」

 

「硝子ちゃん……」

 

「虎杖も、ほら、突っ立ってないで歩く」

 

硝子は一度も蒼空と目を合わせようとしないまま、3人を促してスタスタと歩き出してしまう。その背中が、ほんの少しだけ震えていることに、傷の癒えた生徒たちは気づく由もなかった。

 

一人廊下に取り残された蒼空は、ぽつんと自分の掌を見つめていた。

名前も、顔も、何があったのかも、お頭がぐるぐるして何も思い出せない。

 

だけど、あのどこか懐かしくて苦しい夏の匂いと共に、まどろみの霧の向こう側にいる『だれか』に、どうしても会いたい、もう一度だけ名前を呼びたいという切ない気持ちだけが、胸の奥で、消えない熱を持って疼き続けていた──




読んで貰えて嬉しいです
起首雷同篇は浅雛さんの出番なく終わってますね
短めです
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