『機動戦士ガンダム WHITE ELEVEN ―白いスパイクと赤いストライカー―』 作:アクア
試合の映像を止める。
アムロ・レイは、モニターの中で動きを止めた右サイドバックの膝を見ていた。
ピッチ脇に設置された簡易分析室は、空調の効きが悪い。
外では人工芝を踏む音と、笛の音が断続的に響いている。
育成拠点セクター7。
世界最大のメガクラブ、FCアースが抱える、選手育成と戦術開発のための施設だ。
立派な名前のわりに、この分析室は狭い。
壁際には古い端末が並び、足元にはケーブルが這い、机の上には飲みかけの缶コーヒーと、選手名簿と、何枚もの走行データが散らばっていた。
「また止めてる」
背後から声がした。
アムロは振り向かない。
「止めてない。確認してるだけ」
「さっきから同じ場面を七回見てる」
「六回」
「細かい」
フラウ・ボウは、呆れた顔でアムロの隣に立った。
窓の向こうでは、FCアースのユース選手たちがアップをしている。
白い練習着。
青いビブス。
整えられた芝。
遠くから見れば、恵まれた少年たちの風景だった。
だがアムロは、映像の中の一人を指した。
「この選手、後半六十分を過ぎると左足の接地が外に流れる」
「え?」
「ほら。右へ切り返す時、左膝が内側に入る。疲れてるんじゃない。足首をかばってる」
フラウは画面を見た。
正直、何も分からない。
ただ、アムロがコマ送りをすると、確かにその選手の左足は、ほんの少しだけ不自然に外を向いていた。
「そこまで分かるなら、自分でやればいいのに」
その一言に、アムロの手が止まった。
モニターの中で、選手たちは動かない。
誰もが走る途中で止まり、腕を振り上げたまま、ボールを追う途中の姿勢で固まっている。
「分かるのと、できるのは別だよ」
「でも、アムロだって昔は少しやってたじゃない」
「公園で、だろ」
「それでも」
「サッカーって、画面の外はもっと速いんだ」
アムロは再生ボタンを押した。
画面の中の選手たちが、また走り出す。
「見てる時はいいんだよ。次にどこへ行くか、なんとなく分かる。でも、実際にあの中に入ったら……」
言葉が続かなかった。
身体を当てられる。
足を踏まれる。
大勢に見られる。
ボールを失えば、自分が止めた映像の中の選手みたいに、何度も何度も失敗を見返される。
それを想像しただけで、喉の奥が狭くなる。
「……まあ、アムロらしいけど」
フラウはそれ以上、何も言わなかった。
その時だった。
分析室の外の通路を、数人のスタッフが慌ただしく走り抜けていった。
誰かが怒鳴っている。
「テスト選手はどこだ! まだ来ないのか!」
「医療班を呼べ! いや、先に本部へ連絡しろ!」
「連盟の立会人は?」
「もうグラウンドに入ってる!」
フラウとアムロが顔を見合わせる。
窓の向こうで、白いユニフォームの選手たちが一度アップを止めた。
その中心に、見慣れない黒いスーツの男たちがいる。
「何かあったのかな」
「……Vプロジェクトじゃないか」
アムロは立ち上がった。
セクター7では、今日だけ特別なテストが行われていた。
FCアースが極秘に進めている育成・戦術開発計画。
その中心にあるのが、白い試作スパイクだった。
通称――GUNDAM。
アムロは、父が関わっていたその試作品を、遠くから何度か見たことがある。
真っ白なアッパー。
青いライン。
足裏に埋め込まれた、小さなセンサー。
選手の接地圧、踏み込み、足首の角度、加速の癖を読み取り、反発とスタッドの噛み方を瞬間ごとに調整する。
ただし、それは選手を上手くするための靴ではない。
父は以前、そう言っていた。
『これは才能を作る靴じゃない』
テム・レイは、試作スパイクを机の上で回しながら笑った。
『その選手が持っているものを、隠せなくする靴だ』
アムロは、その言葉の意味がよく分からなかった。
今も、分からない。
ただ、セクター7のグラウンドへ出ると、空気が明らかに変わっていた。
白いユニフォームのFCアース・ユース。
その向かいに、深い緑のユニフォームを着た十一人。
胸に刻まれた紋章は、ジオン・ユナイテッド傘下の育成クラブ――ザク・ユース。
交流試合。
形式上は、そういうことになっている。
だが、相手の顔に笑みはなかった。
「連盟の規定に則った、公開評価試合です」
スーツ姿の男が、妙に丁寧な声で言っている。
「FCアースが誇るVプロジェクト。その成果を、我々も見学させてもらうだけですよ」
「見学?」
若い分析スタッフのブライト・ノアが、相手を睨んだ。
まだ二十代前半にしか見えない。
監督でもなければ、育成責任者でもない。
本来は、戦術データの整理や試合映像の切り出しを担当するスタッフだった。
アムロと同じく、ピッチの外にいる側の人間だ。
「試作機のテストは非公開のはずです」
「それはFCアース内部の都合でしょう。連盟が登録した公式評価試合なら、我々にも参加資格があります」
「こんな急な編成で?」
「急だからこそ、価値がある」
男は笑った。
「本当に優れた技術なら、条件を選ばないでしょう?」
嫌な言い方だった。
アムロは、思わず白いスパイクへ目を向けた。
ベンチ脇のケースに、GUNDAMは置かれている。
まだ誰にも履かれていない。
まるで、これから誰かを試すために待っているように。
試合は始まった。
開始十分。
ザク・ユースの最初のタックルで、FCアース側のテスト選手が倒れた。
足首を押さえている。
ただの接触ではない。
相手は、ボールを奪うためではなく、足を狙っていた。
主審は笛を吹いた。
だがカードは出ない。
相手のベンチは、何事もなかったように選手を戻す。
「荒いな……」
フラウが呟く。
アムロは返事をしなかった。
見えてしまった。
ザク・ユースの選手は、タックルの直前、ボールではなく相手の足首を見ていた。
偶然ではない。
その後も、似たような接触が続いた。
二人目が膝を痛める。
三人目が肩を打つ。
控えが減る。
スタッフたちは電話をかけ始める。
誰かが責任者を呼び、誰かが本部の指示を待ち、誰かが「試合を止めるべきだ」と言い、別の誰かが「連盟がいる以上、止められない」と答える。
誰も、ピッチの中には入らない。
前半終了間際。
FCアースの主力が、相手DFとの競り合いで倒れた。
顔を歪め、立ち上がれない。
ベンチにいた選手が、慌ててアップを始める。
しかし、数を数えたブライトの表情が変わった。
「……足りない」
「え?」
「後半、登録選手が十人しか残らない」
フラウが息を呑む。
アムロは黙っていた。
自分には関係ない。
そう思った。
思おうとした。
だがブライトは、ゆっくりこちらを見た。
「レイ」
「……何ですか」
「登録はあるな」
「テスト用です」
「選手登録としては有効だ」
「だからって」
「出られるか」
一瞬、音が消えた気がした。
風の音。
観客席のざわめき。
スパイクが芝を削る音。
全部が遠くなる。
「僕、選手じゃありません」
「分かってる」
「サッカーだって、まともにやってない」
「分かってる」
「じゃあ、どうして」
ブライトは、少しだけ目を伏せた。
「十一人目が必要なんだ」
それだけだった。
合理的で、冷たい言葉だった。
でも、ブライト自身も震えているように見えた。
彼もまた、こんな判断をする立場ではない。
誰かが逃げた結果、残された。
アムロは逃げ場を探すように周囲を見た。
フラウ。
ベンチ。
白いケース。
そして、ピッチ。
そのどれもが、自分を待っているように見えた。
「アムロ」
フラウが、ケースの前に立った。
ゆっくり蓋を開ける。
白いスパイクが現れる。
近くで見ると、思っていたより普通だった。
武器のような形をしているわけでもない。
ただの靴に見える。
「ずっと見てたでしょ」
フラウは言った。
「あの選手が、次にどこへ行くか。誰が苦しそうか。どこが空くか」
「見てるだけだよ」
「なら、今日は一歩だけ入ってみなよ」
アムロは答えられなかった。
白いスパイクを受け取る。
軽い。
軽すぎて、不安になる。
靴紐を結ぶ指が震えた。
後半開始。
アムロは、右のインサイドに入った。
スタンドにいるのは、関係者と、数人の育成年代の観客だけだ。
それでも視線は重い。
ザク・ユースの選手は、アムロを見るなり笑った。
「新人か?」
「違う。分析室のガキだろ」
「じゃあ、ボールを預けてやれよ」
笑い声。
アムロの足裏が芝に沈む。
GUNDAMのスタッドが、人工芝を細かく掴んだ。
笛が鳴る。
ボールが動く。
最初のパスは、アムロのところへ来なかった。
ありがたい。
そう思った。
二本目も来ない。
三本目。
左の選手が追い込まれ、逃げるように中央へ出したボールが、アムロの前へ転がってきた。
来る。
来てしまった。
アムロは足を出す。
ボールが、足元で少し跳ねた。
止めきれない。
その瞬間、正面から大きなDFが突っ込んできた。
肩が当たる。
身体が浮く。
アムロは、あっさり倒れた。
芝の粒が頬に張りつく。
息が詰まる。
遠くで誰かが叫んでいる。
「立て!」
ブライトの声だった。
アムロは起き上がれない。
胸が痛い。
怖い。
やっぱり無理だ。
画面の外は、こんなに硬い。
次のプレーで、またボールが来た。
味方が苦し紛れに出した横パス。
アムロは逃げたかった。
だが、ボールは逃げてくれない。
足元に収まる。
正面に一人。
右に一人。
背後からも足音。
視界が狭くなる。
奪われる。
また倒される。
その時だった。
正面のDFの右膝が、ほんの少しだけ内に入った。
軸足のつま先が、アムロの右側へ向いている。
次の一歩で、相手は右へ踏み込む。
右を切る。
だから。
左が空く。
ほんの半歩。
人間一人が通るには狭すぎる隙間。
けれどアムロには、その隙間だけが、突然はっきり見えた。
芝の上に一本、細い道が引かれたように。
(……そこ、空く)
考えるより先に、左足が出た。
GUNDAMのスタッドが芝を噛む。
足首が返る。
ボールが、吸い寄せられるように左へ滑った。
DFの身体が逆へ流れる。
肩が空を切る。
アムロは、その横を抜けた。
初めて。
自分の足で。
相手を置き去りにした。
背後で、誰かが息を呑んだ。
目の前には、まだ広い芝がある。
ゴールは遠い。
追ってくる足音もある。
それでもアムロは、初めて顔を上げた。
(……サッカーって)
白いスパイクが、次の一歩を促す。
(こういうふうに、見えるのか)
アムロ・レイは、走り出した。
その少年はまだ、ゴールの決め方を知らなかった。
だがこの日。
彼は初めて、相手が倒れる前の未来を見た。