Re: 幻想郷アウトレイジ   作:たこ焼き 龍月

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幻想郷アウトレイジ ――こいつら、全員悪党――




第一章 博麗の賭場

 

 

 博麗神社の夜は、表と裏でまるで匂いが違っていた。

 

 表の境内には、焼けた醤油の香ばしさと安酒の饐えた匂いとが入り混じって漂っている。そこへ綿菓子の甘ったるさが重なり、狐の面をかぶった子供たちの甲高い笑い声が灯りの間を縫って流れていった。赤い提灯が夜風に揺れるたびに、屋台の灯が石段の下まで滲んで伸びていく。人間も妖怪も、今夜ばかりは同じ列に並んで同じ串を頬張り、同じように小銭を落としていた。普段は牙を剥き合う者どうしが、祭りの晩だけは肩を並べて笑っている。そういう光景を、博麗の巫女は毎年のように眺めてきた。

 

 子供が転んで泣けば、通りすがりの妖怪が面倒くさそうに抱き起こしてやる。人間の若い衆が酔って管を巻けば、隣の屋台の親父が笑いながらそれをいなす。境内のどこを切り取っても、そこには剣呑さのかけらもなかった。誰もが今夜だけは、明日の暮らしのことも、隣人への借りのことも忘れて騒いでいる。祭りとは、そういう一夜かぎりの休戦のことだった。

 

 そこだけを切り取って見れば、幻想郷は確かに平和だった。誰もがそう信じていたし、信じていたほうが都合がよかった。平和という言葉は、それを信じる者が多いほど値打ちが上がる。だから、この境内の賑わいは、ある意味で幻想郷そのものが張り続けている壮大な芝居でもあった。

 

 だが社務所の裏へ回り、苔むした古い倉の戸を一枚くぐった先は、まるで別の国のように空気が変わる。

 

 その一歩で、祭り囃子は嘘のように遠ざかった。表の甘い匂いは戸板一枚に断ち切られ、代わりに立ちこめてくるのは饐えた酒と汗と煙草の匂いだった。それが粘りつくように、鼻の奥にまとわりついてくる。畳は長年こぼされ続けた酒を吸って黒ずみ、壁という壁には煙草の脂が飴色に染みついている。低い卓の上には、無造作に積まれた札束と小判が鈍い光を放っていた。賽の目が転がるたびに、車座になった男たちの喉から、笑いとも唸りともつかない声が漏れる。

 

 妖怪は牙を隠し、人間は怯えを隠す。互いに腹の底を見せまいと取り繕っているが、どちらも負けた瞬間にだけ、こらえきれずに本性をさらけ出すのだった。勝っているうちは誰もが紳士でいられる。金が尽きたときにこそ、その者の地金が出る。ここに集まる者たちは、そのことを誰よりよく知りながら、それでも毎晩のように賽の目に己を賭けにやってくる。

 

 行灯の乏しい灯りが、車座の男たちの横顔を斑に照らしていた。天井の梁には煤が厚く積もり、そのさらに上のほうは、ほとんど闇に溶けている。誰かが煙管を叩く音、小判が擦れ合う乾いた音、それに押し殺した溜め息。表の祭りの陽気さとは、何もかもが裏返しの世界だった。ここへ足を踏み入れる者は、それを承知で戸をくぐる。祭りの銭を懐に、束の間の夢を買いにくるのだ。そして多くは、その夢の代わりに、もっと重い借りを背負って帰っていく。

 

 その賭場の中央に、博麗霊夢は座っていた。

 

 赤と白の巫女装束は、昼間の境内で見るときよりも、この薄暗い倉の中ではずっと冷たく見えた。膝を崩してだらしなく座り、欠けた湯呑みに口をつけている。だが霊夢は、卓の上で転がる賽の目など、まるで見てはいなかった。彼女が眺めているのは、部屋そのものの空気だった。

 

 誰が勝ち、誰が焦っているのか。誰が嘘をつき、誰が懐に刃物を忍ばせているのか。そういうものは、賽の目よりもよほど正直に表へ滲み出てくる。指先の震え、目の泳ぎ方、酒を呷る間合いのわずかなずれ。長年この場を仕切ってきた霊夢には、それらが手に取るように読めた。人の欲と怯えを読むことにかけて、幻想郷でこの女に勝てる者はいない。彼女はただ座っているだけで、部屋の内側のすべてを掌の上に載せていた。

 

「壺振り、手が震えてるわよ」

 

 霊夢が気だるげにそう言うと、賑わっていた部屋が水を打ったように静まり返った。

 

 壺を伏せて構えていた河童が、ぎくりと肩を跳ねさせる。周囲の男たちの視線が、いっせいにその手元へと注がれた。霊夢はゆっくりと湯呑みを畳に置き、いかにも面倒くさそうに頬杖をつく。責めるふうでもなく、咎めるふうでもない。ただ事実を淡々と指摘しただけの口ぶりだった。それがかえって、河童の顔から血の気を引かせた。声を荒らげられるほうが、まだ救いがあったかもしれない。

 

「別に、いまさら綺麗に遊べなんて言うつもりはないのよ。ここは賭場だもの、多少の細工なら目をつぶるわ。ただね、うちの場で下手な真似をされると私の顔が潰れるの。それだけは困るのよ」

 

「い、いや博麗さん、これはその……誤解でして」

 

「言い訳は外でやりなさい。ここでやられると空気が悪くなるから」

 

 霊夢が指を鳴らすよりも早く、入口脇に控えていた大柄な妖怪が無言で河童の肩を掴んでいた。河童は一度は身をよじって抵抗しかけたものの、相手の膂力を悟るとすぐに諦めてがくりと力を抜いた。手から離れた壺が畳の上に転がり、ごとりと乾いた音を立てる。その音だけが、静まった部屋に妙に大きく響いた。誰ひとり、河童のために口を開こうとはしない。この場で情けは、そのまま自分の首を絞めることに等しかった。

 

「次」

 

 霊夢の短い一言で、凍りついていた賭場は何事もなかったかのように再び動き出した。

 

 ここでは、叫んだ者から負けていく。泣いた者から毟り取られ、怒った者から静かに消されていく。感情を面に出した瞬間、その者は餌食になるのだ。博麗神社の賭場は、幻想郷で一番安全な場所であると同時に、一番危険な場所でもあった。安全なのは、この場に霊夢がいるからだ。そして危険なのもまた、この場に霊夢がいるからだった。

 

 彼女の胸ひとつで、ここの生き死にが決まる。誰もがそれを知っているからこそ、この倉の中では誰ひとり声を荒らげようとはしなかった。理不尽ではあっても、その理不尽が場を保っている。秩序というものは、たいてい誰か一人の理不尽の上に成り立っているのだと、霊夢はとうに悟っていた。

 

 この理不尽を担うのは、決して楽な役目ではない。恨みを買い、陰口を叩かれ、いざとなれば誰からも味方されない立場だ。それでも霊夢がこの座を降りないのは、降りればもっと質の悪い者がここに座るからだった。誰かがこの倉の中央に座り続けるかぎり、争いは戸の外へ放り出される程度で済む。だが座が空けば、争いは境内へ、そして人里へと溢れ出していくだろう。霊夢が守っているのは、賭場の秩序ではない。その外側にある、束の間の平和のほうだった。もっとも、そんな殊勝なことを、彼女が口にすることは決してなかったが。

 

 賭場の隅では、屋台の親方たちが今夜の上がりを木箱に詰めていた。焼き鳥に射的、見世物小屋に輪投げ、酒場に茶屋。どれも表向きは祭りを賑わせる善良な商いだった。だがその実、それらの銭は場所代や守り代といった名目を次々に通り抜けていく。揉め事処理代に博麗への奉納金まで乗せられて、最後にはことごとく霊夢の手元へと吸い上げられていくのだ。

 

 誰がどこで何を売るかを決める権利を握っているのは、ほかならぬ博麗神社だった。その権利があるからこそ、人里の商人たちは神社に頭を下げ続けるほかない。神が守っているのは信仰ではなく、この銭の流れそのものだった。表の参拝客はそれを知らないし、知る必要もない。

 

 賽銭箱には、相変わらずろくに金が入らない。だからこの神社は、別の箱で生きていた。賽銭では食えないが、上がりの箱でなら十分に食える。それが、表向き貧乏な神社の裏の真実だった。神頼みで腹は膨れないが、賭場の寺銭でなら腹は膨れる。皮肉な話だが、幻想郷の神とはたいていそういうものだ。

 

「霊夢さん」

 

 背の低い狐の妖怪が、木箱を大事そうに抱えて近づいてきた。祭りの露店を束ねる古株で、この界隈では顔の利く男だ。口元は愛想よく笑っているのに、その目だけは少しも笑っていなかった。長く裏の商いをしてきた者に特有の、値踏みするような目つきだった。

 

「今月分です。ただ、少しばかり山の連中に客を取られましてね。なにせ守矢の方で、このところ大きな講を開いてるそうで。人が、そっちへ流れちまうんですよ」

 

「ふうん」

 

 霊夢は木箱の蓋を開け、中身をちらりと一瞥した。積まれた小判の量は、いつもの月より明らかに少ない。彼女はそれを咎めもせず、ただ視線だけを狐の顔へ戻した。責める前に、まず相手の出方を見る。それが交渉というものの初手だった。

 

「山の神様は、ずいぶん商売熱心ね。祈祷に健康札、互助会に講。そのうえ今度は、うちの祭りの客まで持っていくってわけ? 欲張りな神様もいたものだわ」

 

「向こうは景気がいいですからね。巫女さんも若くて愛想がよくて、神様も金払いがいいときてる。人里の若い衆なんぞは、あっちのやり方のほうが今風だなんて、そんなことを言い出す始末で」

 

 そこまで言って、狐は最後の一言を慌てて喉の奥へ飲み込んだ。霊夢の目が、ほんのわずかに細くなったのを見て取ったからだ。細くなっただけだ。声を荒らげたわけでも、眉を吊り上げたわけでもない。それでも、この道で生きてきた狐には、その些細な変化が刃物のように感じられた。相手の機嫌の潮目を読み違えれば、身の破滅につながる。それが裏の世界の作法だった。

 

「今風ねえ。そんなに今風がいいなら、あんたもあっちに鞍替えすれば? 守矢の巫女に、せいぜい可愛がってもらいなさいよ」

 

「め、滅相もない。うちは昔っから博麗さん一本でやってきた身です。よそへ移るなんて、そんな不義理は」

 

「そう。なら昔からの付き合いらしく、来月はちゃんと耳を揃えて持ってきなさい。今月の分は大目に見といてあげる」

 

「もちろんです、もちろんですとも。来月は必ず」

 

 狐は幾度も頭を下げながら、そそくさと下がっていった。その背を見送りもせず、霊夢は再び湯呑みへ手を伸ばす。守矢が人里で信仰を広げているという話は、以前から耳に入っていた。信仰そのものなら、霊夢の知ったことではない。誰がどの神を拝もうと勝手だ。

 

 だが、その信仰が祭りの客を――つまり上がりを削り始めているとなると、話は別だった。あれは信仰の問題ではない。縄張りの問題だ。神奈子はそれをよくわかったうえでやっている。祈りの顔をして、その実、こちらの畑を耕しにきているのだ。いずれ落とし前をつけさせなければならない相手が、また一つ増えたということだった。霊夢は湯呑みの縁を指でなぞりながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

 

 ちょうどそのとき、賭場の奥で大きな物音が上がった。

 

 卓がひっくり返り、宙に舞った札束が畳の上に散らばる。倒れた徳利から酒が流れ出し、割れた盃の破片が飛んだ。怒号が、倉の空気を震わせる。見れば、大柄な人間の男が仁王立ちになって、向かいに座っていた山犬の妖怪の襟首を片手で締め上げていた。目は血走り、額には青筋が浮いている。負けが込んで、とうに理性の箍が外れかけていた。

 

「てめえ、今、牌をすり替えやがっただろうが! 俺の目は誤魔化せねえぞ!」

 

「証拠もねえのに騒ぐんじゃねえ、人間風情が。負けたのを人のせいにするな」

 

「この俺の金を、舐めた真似しやがって! ふざけるのも大概にしろ!」

 

 男が懐へ手を突っ込むと、着物の合わせから刃物の柄がちらりと覗いた。その瞬間、賭場の空気が一段と冷える。周囲の者たちは息を殺したまま、誰ひとり止めに入ろうとはしなかった。下手に割って入れば、自分まで巻き添えを食う。それがこの場の暗黙の掟だった。皆、目だけを動かして成り行きをうかがっている。血を見たくないのではない。ただ、自分の血でなければそれでいいのだ。

 

 だが霊夢は、立ち上がりさえしなかった。湯呑みを持ったまま、その手をほんの少しだけ動かす。ただそれだけの、ごく小さな仕草だった。次の瞬間には、懐へ突っ込まれていた男の手元に、一枚の紙札がぴたりと貼りついていた。男は自分の手が動かなくなったことに気づき、驚愕の表情を浮かべる。振りほどこうともがくが、腕はまるで見えない縄で縛られたように、ぴくりとも動かなかった。

 

「ここで揉めるなって、入口にちゃんと書いてあるでしょ。字が読めないの?」

 

 霊夢はそう言いながら、今度こそゆっくりと腰を上げた。下駄の音が、静まった畳の上で妙に大きく響き渡る。彼女が立ち上がっただけで、周囲の者たちはいっせいに目を伏せた。霊夢が通り抜けるための道が、人と妖怪の間に、誰に言われるでもなく自然と開けていく。この場の全員が、この女に逆らうことの意味を骨身に染みて知っていた。

 

「ねえ。ここが誰の場か、あんた、わかってて暴れてるの?」

 

 男は何か言い返そうと口を開いた。だが、声が出ない。喉の奥が凍りついたように、言葉が一つも出てこなかった。ただ、目だけが泳いでいる。額に浮いた汗が、行灯の灯りを受けて鈍く光った。彼はようやく、自分が誰の掌の上で暴れていたのかを悟りつつあった。

 

「外に出して。二人まとめて」

 

 霊夢が顎で示すと、控えていた用心棒たちが男と山犬を両脇からがっちりと抱え上げた。

 

「博麗さん、待ってくれ! 悪いのはこいつだ! こいつが先に牌をすり替えたんだ!」

 

「どっちが先でも、私にとっては同じことよ。うちの場を荒らしたんだから」

 

「金を返してくれ! 頼む、あの金だけは! あれは家の、女房と子供の飯代なんだ!」

 

「賭けた時点で、それはもうあんたの金じゃないわ。賭場に持ち込んだ金に、家も女房も関係ない。それが賭け事ってものでしょ」

 

 霊夢の声には、憐れみも怒りもなかった。ただ事実を告げているだけの、乾いた声だった。飯代を賭けたのはこの男自身であって、霊夢ではない。賭場は誰かに賭けを強いたことなど一度もなかった。皆、自分の足でこの倉へ入ってきて、自分の手で賽を振ったのだ。その結末を賭場のせいにされる筋合いはない。それが霊夢の、揺るがぬ理屈だった。

 

 用心棒が戸を開けた拍子に、外の祭り囃子が一瞬だけ倉の中へ流れ込んできた。景気のいい太鼓の音、澄んだ笛の音、そして人々の笑い声。表では、何も知らない者たちが今も楽しげに騒いでいる。だが次の瞬間には戸が閉じられ、その音はまた遠くへと押しやられていった。男の悲鳴も、囃子の音と一緒に、戸の向こうへ消えていく。

 

 戸が閉まると、倉の中には再び饐えた静けさが戻った。表の陽気な音は、まるで別の世界の出来事のように隔てられている。この戸板一枚が、幻想郷の表と裏を分ける境目なのだと、霊夢は思う。そして自分は、いつもこの戸の内側に座り続けている女なのだった。

 

「はい、続けて」

 

 霊夢が事もなげに言うと、居合わせた誰かが場の緊張をほぐそうとするように、ぎこちなく笑った。それを合図にして、止まっていた賽がまた転がり始める。何事もなかったかのように、賭場は元の喧騒を取り戻していった。ほんの数分前まで刃物が抜かれかけていたことなど、もう誰も覚えていないかのようだった。

 

 幻想郷の平和とは、つまるところこういうものだった。面倒事はすべて戸の外へと放り出してしまい、畳の上に残った金だけを黙って数えていればいい。外で何が起きようと、この倉の中の金勘定には関わりがない。それが、博麗霊夢の流儀であり、この場所を長年回してきた理屈だった。綺麗事で場は回らない。回すのはいつも、割り切りと理不尽のほうだった。

 

 霊夢は奥の小部屋へ戻ると、行灯の灯りを引き寄せ、古びた帳簿を開いた。屋台の上がりに賭場の取り分、用心棒への手間賃や異変を収めたあとの仲裁料。さらに八雲から回ってきた社殿の修繕費に、守矢への対抗のために割いた費え。数字の列は赤字と黒字が入り乱れていて、一見すると火の車のようにも見える。だが、指でひとつひとつ辿っていけば、最後の帳尻はどうにか黒で収まっていた。毎月、綱渡りのようにしてこの神社は回っている。

 

 筆を舐めて数字を書き入れながら、霊夢は小さくため息をついた。異変を一つ収めるたびに黒字が増えるかといえば、そうでもない。後始末の仲裁料は入ってくるが、その裏では貸し借りが増え、義理も面倒も膨らんでいく。金勘定より厄介なのは、いつもこの義理の帳尻のほうだった。そちらは帳簿には書ききれない。頭の中の、もう一冊の帳簿に書き込むしかなかった。

 

 博麗神社は貧乏だった。少なくとも、表向きは、どこまでも貧乏だった。そしてその貧しさこそが、霊夢の張り続けている、もっとも巧妙な仮面のひとつでもあった。奪うものがないように見える者からは、誰も奪おうとしない。ぼろぼろの賽銭箱と傾いた鳥居は、そのまま霊夢の身を守る鎧でもあったのだ。

 

「相変わらず、地獄みたいな帳簿をつけてますねえ」

 

 声は、天井の梁のあたりから降ってきた。

 

「文。入るときは、ちゃんと戸から入りなさいって、何度言えばわかるの」

 

「だって、戸から堂々と入ったら入場料を取られるじゃないですか。博麗さんのところは、何をするにも銭がかかる。梁から入るくらいの知恵は働かせないと、割に合いませんよ」

 

 射命丸文は、梁の上にちゃっかりと腰掛けていた。黒い翼を背に折りたたみ、片手には使い込まれた手帳を、もう片手には古びたカメラを提げている。口元に浮かべた笑みは、いかにも軽薄で人懐こい。だがその目だけは、霊夢の広げた帳簿の数字よりも、なお細かく物事を見透かしていた。この天狗の軽口を真に受ける者は、幻想郷にひとりもいない。軽口の下に、いつも刃を隠しているからだ。

 

「取材なら、今日は帰って。こっちは祭りとその後始末で、それどころじゃないの」

 

「ええ、存じてますとも。なにせ、ついさっき外で二人ばかり、用心棒に担がれて運ばれていくのを見ましたからね。博麗神社の夜祭り、今年も大盛況で何よりです。記事の見出しが目に浮かびますよ」

 

「記事にしたら、あんたを落とすわよ」

 

「おや、どこへ落とすおつもりで?」

 

「地面より、下」

 

 文は、心底おかしそうにけらけらと笑った。その笑い方には、少しも怯えたところがない。霊夢の脅しの重みを知っていながら、それでもなお笑っていられる。それがこの天狗の食えないところだった。

 

「怖い怖い。博麗さんの脅し文句は、いつ聞いても味がありますねえ。ですが、ご安心を。今夜の私は、記事のネタを拾いに来たんじゃないんです。むしろ逆でしてね。売り込みに来たんですよ」

 

「売り込み? 情報を、私に売るってこと?」

 

「ええ、そういうことです。鮮度は抜群、ただし火傷にはご注意を。腐る前に買っておいたほうが、絶対に得なネタです。こういうのは、寝かせておくと値打ちが下がりますからね」

 

「で、値段は?」

 

「そこはまあ、博麗さん次第ということで。話を聞いてから、値を決めていただければ」

 

 霊夢は、開いていた帳簿を静かに閉じた。文がこういう持って回った言い方をするときは、たいてい、ろくでもない話が控えている。それも、値がつくほどには重い話が。この天狗は、値打ちのないネタをわざわざ梁の上まで運んでくるような真似はしない。売り込みに来たということ自体が、すでに一つの報せだった。

 

「もったいぶらないで、さっさと言いなさい」

 

「命蓮寺の船荷が、消えました」

 

「船荷?」

 

「ええ。表向きは、寺の法具と、困窮した者への救援物資ということになっています。ですが実際には、その中に各勢力の荷が、こっそり混ぜ込まれていたようでしてね。山から下ろした部品もあれば、永遠亭の薬箱もある。白玉楼の金庫に、紅魔館の封印箱。そのうえ、八雲の建材書類まで紛れていたという話です。慈悲の名を借りた、寄せ集めの荷ですよ」

 

「命蓮寺が運んでた荷が消えたなら、命蓮寺が勝手に揉めればいいでしょ。うちには関係ないわ」

 

「それだけの話でしたら、私もこんな時刻に、わざわざ梁の上まで登ってきませんよ。今ごろ山で、のんびり茶でもすすってます」

 

 文は懐から一枚の紙片を取り出すと、それを霊夢の膝の前へ、そっと滑らせるように置いた。紙は端が黒く焼け焦げていて、書かれていた文字はほんの一部しか判読できない。だが、そのなかで一つだけ、はっきりと残っているものがあった。

 

 朱色の印判。博麗の印だった。

 

 その印を認めた瞬間、霊夢の顔から、それまでの気だるげな表情がすっと消えた。頬杖をついていた手がゆっくりと下り、視線が紙片の一点へと縫い止められる。文はその変化を見逃さなかったが、あえて何も言わずに、ただ手帳の頁をめくる音だけをさせていた。

 

「これ、どこで拾ったの」

 

「命蓮寺の水路の近くです。もっと正確に申し上げるなら、そこで拾った者から、私が買い取りました。さらに正確を期すなら、その拾った者は私が会ったときにはもう、口を利ける状態ではありませんでしてね。ですから情報としては、この私が最初の買い手ということになります」

 

「悪趣味ね。死にかけから買い叩いたってわけ」

 

「情報屋ですから。鮮度のいいネタは、たいてい血の匂いがするものですよ」

 

 霊夢は紙片を指先で押さえ、焼け残った印をじっと見つめた。確かに、これは博麗の印だ。偽物ではない。だが、こんな書類に判を押した覚えは、まったくなかった。いや――覚えがないというだけであって、押していないと言い切れるかといえば、それも怪しい。

 

 異変の後始末や勢力間の示談で、内容もろくに読まずに判を押すことは、これまで幾度もあった。八雲から回ってくる書類など、たいていは中身を確かめる前に判を求められる。誰かが、その一枚をこういう書類に紛れ込ませたのかもしれない。霊夢の名は、それだけの重みを持っている。博麗の印が押されていれば、たいていの荷は誰にも咎められずに幻想郷を通り抜けられるのだ。誰かが、その重みを利用した。

 

「これ、何の書類なの」

 

「私の見立てでは、おそらく大結界再整備計画の裏帳簿……その一部かと」

 

 その名前が文の口から出た瞬間、狭い小部屋の空気が一段と重く沈んだ。

 

 大結界再整備計画。幻想郷の外縁を守る大結界を点検し、補修するための、大がかりな公共事業だ。表向きは八雲紫が中心となって旗を振り、博麗神社をはじめとする各勢力がそれに手を貸すという、体裁のいい建前になっている。だが霊夢は、その裏側をよく知っていた。あの事業は、途方もなく金になる。

 

 土地が動き、資材が動き、人が動く。そうなれば、その流れのあちこちから金が漏れ出す。漏れた金がどこの懐へ入るのかは、誰も検証できない。「整備のため」の一言で、何もかもが片づいてしまうからだ。大結界という幻想郷そのものの命綱を人質に取れば、どの勢力も金を出さざるを得ない。紫はそれをよく心得たうえで、この事業の旗を振っている。結界を守るという大義名分ほど、金を集めるのに都合のいい看板はなかった。

 

 しかも、その事業には博麗神社も一枚噛んでいた。結界の管理は、もとをただせば博麗の役目だ。だからこそ紫は、何かにつけて霊夢の判を求めてくる。霊夢のほうも、修繕費や仲裁料の名目でいくらかの金を受け取ってきた。つまり霊夢自身、この金の流れの片隅で、しっかりと甘い汁を吸っている側の人間なのだった。潔白な顔で誰かを裁ける立場ではない。それは霊夢自身が、誰よりよくわかっていた。それでもなお腹が立つのは、この件で自分の名が、自分の与り知らぬところで使われていたからだった。

 

「紫は、この件でどう動いてるの」

 

「まだ表には、一切出てきていません。ですが、式の藍さんが山と人里の間を、それはもう慌ただしく走り回っていましてね。傍から見ても、かなり急いている様子でした」

 

「藍が走り回ってる? 紫本人じゃなくて?」

 

「ええ。しかも、ずいぶんと慌てているように見えました」

 

「……嘘くさい話ね」

 

「ええ、私もそう思います。おそらくは、慌てて見せているだけでしょう。あの一族が、本当に慌てて尻尾を出すなんてこと、そうそうありませんからね」

 

 霊夢は無言で頷いた。紫が本当に慌てているなら、それは天変地異に等しい。あの女が慌てて見えるときは、たいてい誰かにそう見せたい思惑があるときだった。藍を走らせているのも、おおかた、慌てている絵図を幻想郷じゅうに撒いておくためだろう。真に受ければ足元をすくわれる。その程度のことは、霊夢にも見当がついた。

 

 ちょうどそのとき、部屋の隅の空間が薄い布を裂くように、すうっとめくれ上がった。そこにできた闇の裂け目から、一枚の封筒がひらりと落ちてくる。紫の気配だった。姿はどこにも見えない。ただ、鼻の奥にまとわりつくような、嫌になるほど上品な香の匂いだけがあとに残された。用件だけを置いて、当人は決して出てこない。いつもの、あの女のやり口だった。

 

 霊夢は、落ちてきた封筒を無言で拾い上げ、中の紙を引き出した。

 

『余計なことはしないで。これは幻想郷の管理案件です。あなたが首を突っ込むような話ではありません』

 

 几帳面な字で、そう書かれていた。霊夢は、その紙を片手でくしゃりと握り潰した。

 

「管理案件、ねえ」

 

 管理案件。便利な言葉だ。そう名づけてしまえば、どんな汚れ仕事も幻想郷のための公務ということになる。紫は、いつもそうやって、自分の利権を守るという言葉で覆い隠してきた。そして今、その同じ言葉を霊夢に向かって突きつけている。首を突っ込むな、と。

 

 だが、その封筒が届いたということ自体が、この件に紫が深く関わっている何よりの証拠だった。本当に関わりがないなら、わざわざ釘を刺しに来るはずがない。あの女は、痛いところを突かれそうになったときにだけ、こうして先回りをする。霊夢は握り潰した紙を、行灯の火にかざした。紙はあっけなく縮れて燃え、青白い灰になって膝の上に落ちた。

 

「文。今夜のネタ、買うわ。値は、私がこの件を片づけたあとで払う」

 

「おや、後払いですか。博麗さんにしては、珍しく気前がいい」

 

「前払いするほど、まだ信用してないだけよ」

 

 文は肩をすくめて笑い、それ以上は何も言わなかった。霊夢が動くと決めたなら、それ以上の売り文句は無用だった。むしろこれから起きることを、いちばん近くで眺められる。天狗にとっては、それこそが最上の報酬だった。銭よりも、記事になる出来事のほうがずっと値打ちがある。文がこの神社まで足を運んだのも、半分はそれが目当てだったのだろう。

 

 霊夢はそれを承知のうえで、この天狗を使っている。文の売る情報は、たいてい高くつく。だが、他の誰も持ってこない鮮度のいいネタを運んでくるのも、また文だけだった。互いに、相手を利用しているという自覚がある。その割り切った関係こそが、この二人を長く続けさせている理由でもあった。信頼ではなく、勘定で繋がった間柄。裏の幻想郷では、それがいちばん壊れにくい絆だった。

 

 その夜更け、霊夢は命蓮寺の水路へと足を運んだ。

 

 祭りの喧騒はとうに背後へ遠ざかり、あたりには虫の音と水の流れる音だけが満ちていた。月は雲に半ば隠れて、足元をおぼつかなく照らしている。水路のそばには、壊れた荷車が一台、打ち捨てられるようにして残されていた。車輪は片方が外れて泥にめり込み、積み荷を覆っていたはずの布は、水を吸って重たげに沈んでいる。

 

 あたりには割れた木箱の破片や濡れてふやけた紙、それに何人もの足で踏み荒らされた草が乱雑に散らばっていた。争いがあったのは間違いない。だが、その跡は決して派手ではなかった。むしろ、不自然なほどに手際がよすぎた。霊夢は膝を折り、指先で泥の上の跡をなぞる。血の跡はある。だが、飛び散った血ではなく、拭き取り損ねた血だった。

 

 騒ぎ立てられる前に、相手を黙らせている。すべてを燃やしてしまう前に、必要なものだけを運び出している。残すものと消すものを、あらかじめ冷静に選り分けた者の仕事だった。腹立ちまぎれの略奪ではない。目的のはっきりした、玄人の手口だ。何が欲しかったのかを知っている者が、迷わずそれだけを抜き取っていった。

 

 こういう仕事をする者を、霊夢はいくつか知っていた。だが、命蓮寺の荷を狙う理由を持ち、しかもこれだけ静かに片づけられる者となると話は別だ。その顔ぶれはぐっと絞られる。荷の中身を事前に知っていたということは、命蓮寺の内側に通じた者がいるということだ。あるいは、荷を混載させた各勢力のいずれかに繋がっている。ただの物盗りでは、あの寄せ集めの荷から必要なものだけを抜き取るなど、できるはずがない。

 

 霊夢は泥に残った足跡を目で追った。荷車の周りには複数の足跡が入り乱れているが、そのどれもが浅く、争った時間は短かったことをうかがわせる。抵抗する暇も与えず、一気に片をつけている。人数を揃え、段取りを組み、逃げ道まで用意したうえでの襲撃だった。頭の中で候補を数えながら、霊夢は倉庫のほうへと足を進めた。数えれば数えるほど、後ろで糸を引いている者の顔が見えなくなっていく。それが、この一件のいちばん薄気味の悪いところだった。

 

 倉庫の裏手に回ると、命蓮寺の下働きらしい男が一人、地面に倒れていた。かろうじて息はあるが、もう長くはもたないだろう。血の匂いに混じって、何か焦げたような匂いがかすかに漂っている。霊夢がそばに膝をついて声をかけると、男はうつろな目を薄く開け、かすれきった声を切れ切れに絞り出した。

 

「荷が……違った……聞いてた……中身と、違ってた……あれは、ただの金じゃ……帳簿と……名前が……全部……」

 

「誰がやったの。あんたをこうしたのは」

 

 男は震える指を持ち上げて、竹林と山道が交わるあたりの暗い境目を指し示した。指先は小刻みに揺れ、その先が示すものを、霊夢はじっと目で追った。

 

「火……白い、鳥……燃えない……女が……」

 

 そこまで言い終える前に、男の指はだらりと落ち、意識が途切れた。胸はまだかすかに上下している。だが、霊夢が知りたかったことは、もうこの男の口からは出てこないだろう。

 

 火。白い鳥。燃えない女。

 

 その三つの言葉が指し示す者を、霊夢は一人しか知らなかった。

 

 藤原妹紅。

 

 人里の自警組は、火消しに問屋、人足の手配から揉め事の仲裁まで手広い。里の暮らしに関わる荒事を、ひととおり引き受けている。表向きは、人里を守る頼もしい者たちだ。だが、その裏の顔は違った。彼らは、幻想郷じゅうの汚れ仕事を下請けとしてこなしている連中でもあった。

 

 どの勢力にも属さず、どの勢力からも使われる。金さえ積まれれば、荷運びでも口封じでも始末でも引き受ける。そして、その実働を差配しているのが、不死の女である藤原妹紅だった。死なない体は、この稼業には都合がよすぎた。何度斬られても立ち上がる者を、脅しで縛ることはできない。だからこそ妹紅は、どの勢力にとっても使い勝手のいい駒であり続けてきた。

 

 だが、駒であるということは、いつか捨てられるということでもある。汚れ仕事の下請けは、事が済めば真っ先に切り捨てられる立場だ。表の勢力は手を汚さず、その汚れだけを人里の自警組に押しつけてきた。妹紅がその構図に、何の思うところもないはずがなかった。もし今回、彼女が誰かの筋書き通りに動かされているのだとしたら――そう考えたところで、霊夢はいったん思考を止めた。憶測を重ねても、証拠にはならない。まずは本人に会って、その口から聞き出すしかなかった。

 

 もっとも、その妹紅がなぜ命蓮寺の荷を襲う側に回ったのかは、まだわからない。誰かに雇われたのか、それとも自分の意志で動いたのか。妹紅という女は、金で動くようでいて、その実は違う。金だけでは動かないところがある。何か別の理由が絡んでいるはずだった。だが、少なくとも現場に残された証言は、彼女の関与をはっきりと指し示していた。

 

 霊夢は、倒れた男の傷にもう一度目をやった。焼けた跡はあるが、火に巻かれた跡ではない。まるで、炎そのものではなく炎の記憶だけが通り過ぎたような、奇妙な焦げ方だった。妹紅の火なら、こんな半端な焼き方はしない。何かが、いつもと違う。その違和感が、霊夢の胸の奥に小さな棘のように刺さった。

 

 霊夢は、ゆっくりと立ち上がった。倒れた男にもう一度だけ目をやってから、暗がりの向こうへ静かに語りかける。

 

「文。まだそのへんで聞いてるんでしょ。紫に、伝えて」

 

「はい、なんと伝えましょう」

 

 いつのまにか、文の気配が近くにあった。姿は見せないまま、その声だけが返ってくる。梁の上でも竹林の闇でも、この天狗はいつも一番いい席から眺めている。

 

「管理案件だろうが、公共事業だろうが、そんなことはどうでもいい。博麗の名前を勝手に使った時点で、これはもう、あの女の案件じゃなくて私の件になったって。そう伝えなさい」

 

「承知しました。実に博麗さんらしい言伝で、伝える甲斐がありますよ」

 

 文の気配が、ふっと軽くなって竹林の奥へ消えていく。羽ばたきの音すら残さない、天狗らしい去り方だった。あとには霊夢一人と、倒れた男の浅い呼吸だけが残された。霊夢は懐から御札を一枚抜き、男の額にそっと貼りつけてやる。命を繋ぐほどの力はないが、痛みを和らげるくらいのことはできた。せめて、朝までもてばいい。それ以上は、霊夢の領分ではなかった。

 

 遠くでは、まだ祭り囃子が続いていた。景気のいい笑い声も、腹に響く太鼓の音も、いっこうに止む気配がない。澄んだ笛の音が、そこへ幾重にも重なっていく。表の幻想郷は、水路で人が一人死にかけていることも、その裏で何かが動き始めたことも知らずに浮かれ騒いでいる。誰も、ここで流れた血のことなど知らない。知らないまま、明日もまた笑って暮らしていくのだろう。

 

 そしてその賑わいの足元で、裏の幻想郷がひたひたと目を覚ましつつあった。表の灯りが明るいほど、裏の闇は濃くなる。霊夢は、その闇のいちばん深いところに、長年ひとりで座り続けてきた女だった。表の平和を守るということは、この闇を一人で引き受けるということでもある。誰にも感謝されず、誰にも知られず、ただ黙って面倒を戸の外へ放り続ける。それが博麗の巫女という役目だった。

 

 だが今度ばかりは、その面倒が、戸の内側へ土足で踏み込んできた。博麗の名を騙り、博麗の印を勝手に使って。誰がやったのかはまだわからない。妹紅の背後に誰がいるのかも、紫が何を隠しているのかも、守矢がどこまで絡んでいるのかも。だが、一つだけはっきりしていることがあった。この件は、もう他人事では済まされないということだ。

 

 霊夢は焼け焦げた紙片を袖の奥へしまい込みながら、誰にともなく低く呟いた。

 

「さあて。まずは、どいつから落とし前つけさせようかしらね」

 

 返事は、なかった。ただ夜の奥のほうから、何かが燃えているような、かすかに焦げた匂いだけが風に乗って流れてくるばかりだった。その匂いを、霊夢はしばらく黙って嗅いでいた。

 

 厄介なことになる。そういう予感が、確信に変わりつつあった。消えた命蓮寺の荷にはじまり、抜き取られた裏帳簿があり、そこへ博麗の印が絡んでいる。妹紅の火の影がちらつき、そのうえで紫がわざわざ慌てて見せている。ばらばらに散らばって見えるこれらの糸が、どこか一点で束ねられているのだ。その束ねている手の主を引きずり出すまで、この夜は終わらないだろう。

 

 霊夢は月を見上げた。雲が切れて、青白い光が水路の水面に落ちている。いつもと同じ月だった。だが、今夜は少しだけ遠く見えた。彼女は下駄の歯で泥を蹴り、山道のほうへと歩き出す。

 

 まず向かうべきは、消えた荷の行き着いた先だった。荷が大結界再整備計画の裏帳簿に絡んでいるなら、その事業を仕切っている場所へ行けば、何かが見えてくるはずだ。八雲の工事現場。旧参道の崖下で、結界杭の打ち直しが進んでいると聞いている。そこには藍がいるだろうし、うまくいけば紫本人を引きずり出せるかもしれない。慌てて見せているというなら、その仮面の裏を覗いてやればいい。次の糸口は、あの現場に転がっているはずだった。

 

 背後で、倒れた男が小さく呻いた。霊夢は振り返らなかった。振り返っても、してやれることはもう何もない。ただ、この男の名前くらいはあとで誰かに書き留めさせよう――そんなことを、なぜか一瞬だけ考えた。理由は自分でもわからなかった。ただ、消えていく者の多すぎるこの幻想郷で、せめて一人の名前くらいはと。

 

 そう思った自分を、霊夢はすぐに鼻で笑った。柄にもない。落とし前をつけるのが先で、感傷はそのあとだ。彼女は焦げた匂いの流れてくるほうへ、迷わず足を向けた。祭り囃子は、もうほとんど聞こえなくなっていた。




同じ世界感とシリーズで

「幻想郷アウトレイジ ―白玉楼の帳簿―」 https://syosetu.org/novel/417652/

があります。
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