Re: 幻想郷アウトレイジ   作:たこ焼き 龍月

2 / 5
第二章 八雲ゼネコン

 

 水路を離れて竹林の縁を歩き出したとき、霊夢は背後の草むらでかすかに揺れる気配を感じ取っていた。

 

 風の動きとは違う。虫や獣が立てる音とも違う。誰かが息を殺しながら、こちらの足取りを一定の間合いで窺っているのだ。祭りの晩の水路に、わざわざこんな時刻まで張りついている者に、まっとうな用事などあるはずがなかった。倒れた男を看取ったあとの、この気の張りつめた場に居合わせて逃げもしない相手となれば、なおさらだ。霊夢は歩調をまったく変えないまま、ただ袖の奥へそっと指を滑り込ませた。ここで気づいたことを気取られれば、相手は逃げるか、あるいは先に仕掛けてくる。どちらにしても、向こうが動くより先に距離を潰しておくに越したことはなかった。

 

 三歩、四歩。相手が油断して間合いを詰めてきた、まさにその瞬間に、霊夢は振り向きざまに札を一枚放った。

 

 白い紙片が闇を裂いて飛び、地を這っていた影の足元へ吸い込まれるように貼りつく。その途端に相手の体が見えない糸で縛られたように硬直して、たまらず前のめりに倒れ込んだ。霊夢はゆっくりと歩み寄り、倒れた影を倉庫街の崩れかけた壁際まで、下駄の先で無造作に転がしていった。雲が切れて月明かりが差し込むと、ようやくその正体がはっきりする。

 

 妖怪ではなかった。人間でもない。そこに転がっていたのは、小柄な河童だった。

 

 まだ年若い河童だ。作業着の袖は泥で黒く汚れ、背中には工具袋を背負っている。顔は血の気を失って青ざめ、目だけが忙しなく左右に泳いでいた。逃げ道を探しているのだ。だがこの場に逃げ道など初めからありはしないと、この河童自身がいちばんよくわかっている顔つきだった。追われる者の目だ。追う側にいる者を、これまで嫌というほど見てきた霊夢には、その目つきひとつでおおよその見当がついた。

 

「名前」

 

 霊夢は短く訊いた。声に凄みを込めるでもなく、ただ用件だけを告げる口ぶりだった。

 

「……言えない」

 

「じゃあ、所属」

 

「……それも」

 

「じゃあ、骨の数でも数える? あんたの背骨、上から順に折っていったら何本あるのか、私も正確なところは知らないのよね。今夜、一緒に数えてみましょうか」

 

 霊夢が袖から細い針を一本抜いて、それを月明かりにかざしてみせると、河童は情けない悲鳴を上げてのけぞった。針そのものが恐ろしいのではない。それを構える霊夢が、まるで蕎麦でも手繰るような気軽さでそう言ったことのほうが、この河童には恐ろしかったのだ。

 

「待って! 待ってください! 私はただの下請けなんです! 言われた場所を見てこいって、そう言われただけなんですって!」

 

「誰に言われたの」

 

「知らないんです、本当に知らないんですって! 書付だけが小屋にぽんと届いてて、今夜のうちに命蓮寺の水路を見張れって、そう書いてあって。それで、もし博麗の巫女が来るようなことがあったら、何もするな、ただすぐに逃げろって」

 

 霊夢は針を袖へ戻すと、代わりに河童の工具袋を下駄の先で手前へ引き寄せた。抵抗する素振りも見せない相手から、中身をゆっくりとあらためていく。工具に縄、それから薄い測量板が一枚。さらに袋の底のほうには、木札が数枚、ばらばらと放り込まれていた。木札には焼印が押されている。霊夢はその一枚をつまみ上げ、月にかざした。八雲系列の下請け業者が、現場で持ち場を示すのに使う印だった。見覚えがある。この手の札を、霊夢はこれまで何度も帳簿の脇で目にしてきた。

 

「これ、どこでもらったの」

 

「……山の、現場で」

 

「どこの現場」

 

「旧参道の崖下です。結界杭の、打ち直しって聞いてます」

 

「誰が仕切ってるの、そこは」

 

「八雲様の式の……藍様が」

 

 霊夢は、転がった河童を静かに見下ろした。河童は小刻みに震えている。だがそれは、嘘を隠そうとするときの、腹の底から絞り出すような震えとは明らかに違った。喋ってしまったら、あとで殺されるかもしれない。そう思っている者の震えだ。この道で人の顔色ばかりを読んで生きてきた霊夢には、その二つの違いが手に取るようにわかった。この河童は、知っていることを正直に吐いている。隠す度胸すら、持ち合わせていないのだ。

 

「ほかに何を見たの。この際だから、覚えてることは全部言っておきなさい。中途半端に隠すのが、いちばん割に合わないわよ」

 

「……現場に、守矢の連中が来てました」

 

「守矢?」

 

 霊夢の声が、そこでわずかに低くなった。八雲の現場に守矢。その取り合わせが、頭の中で小さな音を立てて噛み合いはじめる。

 

「神奈子様の使いだって言ってました。工事に必要な信仰導線がどうとか、祈祷の権利がどうとか、そんなことを藍様と延々と話し込んでて。私はほんの末端なんで、詳しいことはわかりません。でも、現場の河童たちはみんな知ってるんです。これは八雲様の仕事のはずなのに、なんで守矢がここまで大きな顔で口を出してくるんだって。おかしいって、みんな陰で言ってました」

 

「藍のほうは、それをどう見てたの」

 

「怒ってるみたいでした。でも、止められない感じで……なんというか、もっと上のほうで何かがもう決まっちまってて、藍様の一存ではどうにもできないって顔をしてました。指示を出しながら、ずっと苦い顔をしてて」

 

 霊夢はしばらく黙って河童を見つめてから、手にしていた札を軽く振った。河童を縛っていた霊力がふっとほどけて、体の硬直が解ける。河童は自分の腕が動くようになったことに気づいて、かえって混乱したように霊夢を見上げた。

 

「行きなさい」

 

「……え?」

 

「逃げていいって言ってるの。ただし、ひとつだけ仕事を頼まれてちょうだい。博麗が八雲の現場へ向かってるって、山じゅうに言いふらしておいて。声のでかい相手から順にね。あんたなら、その手の役は得意でしょう」

 

 河童は信じられないという顔でしばらく固まっていたが、やがて震えながら何度も頷き、転がるようにして夜の奥へと消えていった。霊夢はその背中を、見送りもしなかった。あの河童が本当に言いふらすかどうかは、たいした問題ではない。要は、こちらから正面切って出向くのだと相手に知らせてやること自体に意味があった。奇襲を狙う気などはなから無い。むしろ堂々と正面から乗り込んで、慌てふためく者の顔を拝んでやるほうが、よほど多くのことがわかるのだ。誰が驚き、誰が驚いた振りをするのか。人の狼狽の質こそ、賽の目よりも正直に真実を映す。

 

 河童の足音が完全に竹林の奥へ消えてから、霊夢は懐の焦げた紙片に、そっと手を触れた。この河童が張りついていたということは、誰かが命蓮寺の水路に博麗が来ると読んでいたということだ。倒れた男を襲った者が、あとから来る者まで見越して見張りを置いていた。つまり相手は、一手先ではなく、二手も三手も先に駒を進めている。焦げた匂いの主が誰であれ、その背後で盤を眺めている者は、たいそう用意周到だった。慌てて荷を奪ったのではない。すべてを組み終えてから、静かに動いている。それがわかっただけでも、この河童を締め上げた甲斐はあった。

 

「使い走りを一匹、わざわざ逃がしてやったんですね」

 

 闇の中から、聞き慣れた軽い声がした。文だ。いつのまにか、頭上の竹の梢のあたりに気配がある。

 

「泳がせて損はないでしょ。あそこで捕まえて締め上げたって、あれ以上のことは何も知らないわ。それより、あいつが山へ帰って騒いでくれたほうが、向こうが勝手に慌てて動いてくれる。動けば、隠したいものが表に浮いてくるものよ」

 

「相変わらず、人の使い方がお上手で。私もいつか、そうやって泳がされてる口なんでしょうね」

 

「今さら気づいたの? あんたを泳がせるのなんて、河童一匹より簡単よ」

 

 文は喉の奥で低く笑った。霊夢はそれには構わず、山道のほうへと歩き出す。焦げた匂いは、まだかすかに風に乗って流れてきていた。その匂いの源をたどるように、彼女は旧参道への長い坂を登っていった。祭りの喧騒はもうすっかり背後へ遠ざかり、代わりに、山の上のほうから金属を打つ乾いた音が、断続的に夜気を伝って降りてくる。

 

 旧参道といえば、かつては人里から山の神へ詣でるための、細く曲がりくねった一本道だったはずだ。霊夢も幼い頃には、その道を幾度か登った覚えがある。両脇に古い杉が並び、苔むした石段が延々と続く、静かな道だった。だが今、その面影はどこにもなかった。石段は掘り返され、杉は根こそぎ倒されて脇へ積み上げられている。参道が消え、そこに工事の道が刻まれていた。信仰の道が、利権の道へと造り替えられていく。それを工事と呼ぶのか、破壊と呼ぶのかは、立つ側によって変わる。八雲は整備と呼ぶだろうし、守矢はそこへ新しい祈りの道を敷き直すつもりでいる。古い神への道を潰した跡に、新しい神が賽銭箱を据える。それが幻想郷のやり方だった。

 

 登りながら、霊夢はふと、この道の付け替えそのものが金になるのだと気づいた。参道が変われば、人の流れが変わる。人の流れが変われば、露店の立つ場所も、賽銭の落ちる場所も変わる。八雲が土を動かすたびに、その先で誰が儲かるかが決まっていく。守矢が食い込みたがるのも道理だった。この現場は、ただの結界の補修ではない。人と金の流れそのものを、根こそぎ引き直す工事なのだ。

 

 旧参道の工事現場は、夜だというのに、生き物のように動いて息づいていた。

 

 木を打つ音、石を砕く音、鉄材を地面へ引きずる重たい音。それらが夜気の中で幾重にも重なり合って、山の斜面いっぱいに響き渡っている。かつては鬱蒼と茂っていたはずの木々は無残に切り開かれ、剥き出しになった赤土の斜面には、仮設の足場が幾段にも組み上げられていた。松明とも行灯とも違う、外の世界から持ち込んだらしい白々とした灯りが、そこかしこで現場を昼のように照らし出している。その不自然な明るさが、かえってこの場所の得体の知れなさを際立たせていた。

 

 河童たちが担いで運んだ鉄管、天狗が空から下ろしたらしい太い木材、地の底から巻き上げられた石材。そのすべてに、一枚ずつ管理札が丁寧に貼りつけられていた。荷の一つひとつが、どこの手から出て、どこの帳簿に載っているのかを示すための札だ。八雲の仕事は、いつもこうして表向きは几帳面すぎるほど整っている。整いすぎているからこそ、その裏で何がひそかに抜き取られているのか、外からはまるで見えなくなってしまうのだった。乱雑な帳簿より、完璧すぎる帳簿のほうが、よほど多くを隠している。それを霊夢は、自分の帳簿づけを通じて誰よりよく知っていた。

 

 霊夢は札に書かれた文字を、歩きながら一枚ずつ目で追っていった。八雲建設。八雲組。境界工務。九尾管理。名前を変えて分けてはいるが、どれも根はひとつの家から伸びた枝にすぎない。名を分けることで、金の流れを追いにくくしているだけだ。そして最後の一枚の札の前で、霊夢はふと足を止めた。

 

「守矢安全祈祷部?」

 

 その札だけが、明らかに毛色が違っていた。横で文が、待っていましたとばかりに肩をすくめてみせる。

 

「最近できたそうですよ、その部署。工事現場の安全祈願に、作業員向けの互助会、現場で売るお守りに、事故が起きたときの補償相談まで。表向きは、ずいぶんと親切で気の利いた部署です」

 

「で、裏は」

 

「信仰の回収ですよ。現場に人が集まれば、祈る者も自然と増える。祈る者が増えれば、守矢はそのぶんだけ太っていく。八雲が土地を掘り返した端から、守矢がその上へちゃっかり賽銭箱を据えていくって寸法です。畑を耕す者と、その畑から黙って実だけを摘んでいく者。役者が違うだけで、やってることの根っこは、あんたの祭りとそっくり同じですよ」

 

「言うわね」

 

「事実を並べただけです。それ、博麗さんの十八番でしょう」

 

「その部署、いつからあるの」

 

「さあ、正確なところは。ですが、この現場が動き出したのと、ほとんど同じ頃合いだと聞いてます。つまり、八雲が土地を掘ると決まった、その瞬間にはもう、守矢は賽銭箱の据え場所を選んでたってことですよ。ずいぶんと鼻が利く」

 

「鼻が利くんじゃないわ。事前に知ってたのよ、工事の話を。八雲の中に、守矢へ筒を通してる者がいる」

 

「おや。それはまた、穏やかじゃない見立てですね」

 

 文の声に、はっきりと興味の色が滲んだ。この天狗は、こういう剣呑な見立てを何より好む。記事になるからだ。

 

 霊夢は鼻を鳴らしただけで、それ以上は言い返さなかった。守矢が八雲の公共事業に食い込んでいる。それも、ただ祭りの客をかすめ取る程度の、かわいらしい話ではない。工事そのものに信仰の網をすっぽりとかぶせにきている。やはりこれは信仰の問題ではなく、縄張りの問題だった。神奈子はどこまでも、祈りの澄ました顔をしながら、その実こちらの畑を耕しにくる。八雲の畑にも、博麗の畑にも、平気で鍬を入れて回っているのだ。落とし前をつけさせるべき相手の輪郭が、また少し、はっきりしてきた。

 

 だが同時に、腑に落ちない点もあった。八雲と守矢は、そもそも競り合う間柄のはずだ。土地と資材を握る者と、信仰と人を握る者。どちらも幻想郷を裏から回している巨頭でありながら、狙う獲物が重なる部分は少ない。その二者が、なぜこの現場で肩を並べている。紫は守矢を嫌々受け入れているのか、それとも、何か大きな取引の一部として抱き込んでいるのか。河童の目には守矢が押しかけているように映り、藍は苦い顔で耐えている。だが、それすらも見せかけかもしれなかった。この山では、誰が誰を使っているのか、外から見ただけではまるで判じがたい。

 

 工事現場の入口を抜けたところに、八雲藍が立っていた。

 

 九本の尾を背に大きく広げ、作業台の前で帳面に何かを書き込んでいる。周囲の河童や妖怪たちへ次々と指示を飛ばす声は、落ち着いていて、どこにも隙がない。だが白々とした灯りに照らされたその目元には、隠しようのない疲れが色濃く滲んでいた。この式は、上から降りてくる無理と、下で膨れ上がる不満との、ちょうど真ん中で挟まれて磨り潰されかけているのだ。霊夢は近づきながら、まずその疲れの色を値踏みした。疲れている相手からは、たいてい本音が漏れやすい。

 

 霊夢が入口を抜けても、河童たちは誰ひとり止めようとしなかった。博麗の巫女がここへ来ることは、あの逃がした河童が言いふらしたのか、それとも別の筋から伝わったのか。いずれにせよ、この場の全員が、霊夢の顔と、逆らったときの意味とを知っていた。誰もが目を伏せ、手元の作業に戻る振りをしながら、その耳だけをこちらへ向けている。八雲の現場であっても、博麗の名の重みは変わらない。むしろ、こういう他人の縄張りでこそ、その名は使いどころがあった。

 

「いい夜ね」

 

 霊夢が気安く声をかけると、藍は帳面を書く手を止めて顔を上げた。

 

「博麗霊夢」

 

「呼び捨て? ずいぶんな態度じゃない」

 

「この時間に、許可も取らずに現場へ入ってくる者を、私は客とは呼べない」

 

「じゃあ、こう言い換えてあげましょうか。踏み込まれたくない物を隠してる現場だから、私を客扱いなんてできないってことよね」

 

 藍は帳面を静かに閉じた。表情そのものは変えなかったが、その閉じる仕草がわずかに速かった。図星を突かれた者は、たいてい手元で本音を漏らす。霊夢はその小さな速さを、見逃さなかった。

 

「ここは大結界再整備計画の重要区域だ。結界の不安定化を防ぐために、夜間も止めずに作業を続けている。悪いが、邪魔をしないでもらいたい」

 

「命蓮寺の船荷が消えた」

 

「知っている」

 

「そこから、博麗の印が出た」

 

「それも知っている」

 

「なら話が早いわ。誰がやったの」

 

「私が知っているなら、あなたがここへ来るより前に、とっくに処理を終えている」

 

 藍の返しには、淀みがなかった。嘘ではないのだろう。少なくとも、実行犯そのものを藍がすでに把握しているわけではない。だが、把握していないということと、何も知らないということは、まるで違う話だった。この式は、自分が知っていいことと知ってはいけないことの境目を、幻想郷の誰よりわきまえて動く女だ。知りすぎれば、その累はそのまま主へと及んでいく。だからこそ、あえて途中で目を閉じている。忠義とは、時に何も見ないことでもあるのだった。

 

 霊夢は、その疲れた目の奥をしばらく覗き込んだ。藍という式は、痕跡から真実を組み上げることにかけては、幻想郷でも指折りの知恵者だ。焼け跡ひとつ、足跡ひとつから、そこで何が起きたかを描き出せる。その藍が、この現場の異変にまるで気づいていないはずがなかった。気づいていながら、口にできずにいるのだ。上が決めたことに口を挟めば、九尾の狐としての矜持が、式としての忠義に噛みつく。その板挟みが、この目元の疲れになって滲み出している。霊夢には、そう読めた。

 

「あんた、下の連中に嫌われてるでしょ」

 

 霊夢がそう言うと、藍の表情が、初めてわずかに動いた。

 

「……なぜ、そう思う」

 

「上の決めたことを、あんたが下に押しつける役だからよ。橙だっけ、あんたの式。あの子が現場で見てるものを、あんたは全部は聞かせてもらえてない。聞けば、あんたが庇わなきゃならなくなるから。あんたも、上に同じことをされてる。よくできた仕組みね。誰も、自分の担いでる荷の重さを知らずに済む」

 

 藍は答えなかった。答えないことが、そのまま答えだった。この式は、自分の式にすら真実の全体を見せず、そうすることで橙を守っているつもりでいる。だが、守るという名のもとに何も知らせずにおくことが、いちばん質の悪い使い方でもあるのだと、霊夢は賭場で嫌というほど見てきた。何も知らされない者から順に、消えていくのだ。

 

 そのときだった。二人のすぐ横で、空間が薄い布を裂くように、すうっとめくれ上がった。

 

 黒い隙間がぽっかりと口を開け、その奥から一人の女が滑り出てくる。八雲紫だった。薄紫の衣をゆったりとまとい、扇で口元を半ば隠している。現場に立ちこめる泥の匂いも、耳をつんざく騒音も、そこらじゅうに満ちている殺気も、まるで彼女の周りだけを避けて通っているかのようだった。汚れひとつ、この女の衣には触れていない。血と泥の中に立ちながら、そこだけが別の座敷であるかのように、涼しげだった。

 

「やめておけ、藍」

 

 紫のその一言で、藍はすぐに口を噤んで一歩下がった。命令が上から降りてきた瞬間に、式の役目はそこで終わる。あとはすべて、頂点が引き受ける。それが八雲の家のやり方だった。藍は自分の判断を、迷いなく主の判断へと明け渡す。その素早さのなかに、この一族の指揮系統の深さがそのまま透けて見えた。

 

 霊夢は、その隙間の開き方を横目で見た。いつもより、開くのがわずかに早い。紫が隙間を通るときは、たいてい優雅に、こちらへ余韻を見せつけるようにゆっくりと現れる。それが今夜は、藍を制するために間に合わせで開いたような、性急な開き方だった。細かなことだが、霊夢はそういう仕草の綻びから、相手の内心を測る。この女は、藍にこれ以上喋らせたくなかったのだ。よほど、触れられたくないものが近くにある。

 

「出たわね、管理者様」

 

「ずいぶんなご挨拶ね。せっかく、お茶を用意してあげようと思っていたのに」

 

「泥水なら、そこらじゅうに間に合ってるわ。要らない」

 

 紫は扇の奥で、それはそれは楽しげに微笑んだ。この女は、皮肉を返されると、かえって機嫌がよくなる質だった。逆に、本当に痛いところを突かれたときほど、笑みを深くして取り繕う。だから霊夢は、いつもその笑みの深さのほうで、相手の急所を測ることにしていた。そして今夜の笑みは、いつもより明らかに一段深かった。何かを、この女は隠している。

 

「命蓮寺の件でしょう」

 

「そう」

 

「残念だけれど、こちらだって被害者なのよ」

 

「被害者? よくもまあ、その口で言えたものね」

 

「消えた荷の中には、八雲の重要書類も混ざっていたの。結界工事の工程表に、資材の台帳、それから各勢力との覚書。あれがそっくりそのまま外へ出てしまえば、無用な混乱を招くわ。困るのは、私だけではないのよ」

 

「無用かどうか、いったい誰が決めるの、それ」

 

「私」

 

 紫は、ごく当たり前のことのように、ひとことだけ答えた。その短い一言だけで、現場の空気がまた一段と冷えていく。近くで作業していた河童たちが、聞こえないふりをしながら、明らかに手を止めて聞き耳を立てているのがわかった。誰が無用と決め、誰が必要と決めるのか。その裁量を握っている者こそが、この幻想郷を回している者なのだ。紫はそれを、いっそ清々しいほど無邪気に言ってのけた。

 

「あんたのそういうところ、本当に嫌いよ」

 

「あら。私はあなたのそういうところ、そんなに嫌いではないわ」

 

「茶化さないで。あんた、いったい何を隠してるの」

 

「隠してなどいないわ。整理しているだけよ」

 

「同じでしょ、そんなの。言い方を変えただけじゃない」

 

「違うわ。隠すのは、自分のため。整理するのは、幻想郷のため。まるで別のものよ」

 

「汚い言い換えね。反吐が出る」

 

 霊夢はそう吐き捨てながら、あらためて現場全体をぐるりと見回した。切り開かれた斜面、幾段にも組み上がった足場、山のように積まれた資材。この一つひとつが、そっくりそのまま金だった。そして金というものは、動けば動くほど、必ずどこかから漏れていく。

 

「大結界再整備計画。土地が動く。資材が動く。人も動くし、当然、金も動くわよね。それだけ大きく動かせば、必ずどこかから漏れが出る。じゃあ訊くけど、その漏れたぶんの金は、いったい最後は誰の懐に入るの」

 

 周囲で息を殺して聞いていた河童たちが、その問いに、ざわりと小さく動いた。日々この過酷な現場で汗を流しながら、自分たちの上げた稼ぎのほとんどが、いったいどこへ吸われて消えているのかを、何ひとつ知らされていない者たちだ。霊夢の問いは、その者たちの胸の奥に長くくすぶっていたものを、そっと外から突いてやる問いでもあった。答えを求めているのではない。この場に、答えを知りたがっている者が大勢いるのだと、紫の目の前で可視化してやることに意味があった。

 

 紫はしばらく黙り込んだ。扇を軽く閉じ、それからまた、ゆっくりと開く。やがて、その白々とした灯りの下で、静かに口を開いた。

 

「守矢が、この現場に入り込んでいるわ」

 

 霊夢は口を挟まず、ただ黙って続きを待った。

 

「神奈子は、この大結界再整備計画を、信仰の再配分の絶好の好機と見ている。工事が進めば、結界に近い土地の値打ちが変わるでしょう。参道の道筋が付け替われば、そこを通る人の流れも変わる。人の流れが変われば、そのまま信仰の流れまでもが変わっていく。あの女は、その先の先までを見越して、ここへ食い込んできているの」

 

「つまり、私に守矢を叩けって、そう言いたいわけね」

 

「私は何も言っていないわ。ただ、目の前にある事実を、順番に並べているだけ」

 

「嘘つき」

 

 霊夢は、そのひとことで切り捨てた。紫のやり口は、いつだってこうだ。自分の手は決して汚さず、事実だけをきれいに一列に並べて見せて、あとは相手が勝手にその上を歩き出すように仕向ける。今夜も、守矢という名を、霊夢の目の前へそっと置いてみせた。あとは博麗の巫女がそれを拾い上げて、勝手に守矢へ噛みつきにいく。紫はその一部始終を、また一枚も二枚も後ろに退いた場所から、涼しい顔で眺めていればいい。そういう筋書きだった。

 

 だが、その筋書きに、あえて乗ってやるのも悪くはなかった。守矢が絡んでいるのは、どのみち霊夢自身の縄張りに関わる問題でもある。使われてやると見せかけておいて、その裏で、この女がいちばん隠したがっているものを引きずり出せばいい。互いに、相手を都合よく使っているつもりでいる。この女とのやり取りは、いつだって、そういう底の抜けた化かし合いにしかならなかった。信頼などどこにもない。あるのは、相手の手の内を読み合う緊張だけだ。

 

 それにしても、と霊夢は思う。紫がここまで自ら口を開くのは、いかにも珍しかった。普段のこの女なら、隙間から封筒を一枚落として、それきり姿も見せない。用件だけを置いて、当人は決して盤の上へ降りてこない。その紫が、こうして泥の現場まで自ら出張ってきて、守矢の名まで差し出している。それは裏を返せば、藍に任せておけないほど、この件が根深いということでもあった。式に処理させられる範囲を、とうに超えている。頂点が自ら出てくるということ自体が、事の重さを何より雄弁に物語っていた。

 

 もっとも、その重さを霊夢に見せることすら、この女の計算のうちかもしれない。深刻ぶって見せて、博麗の巫女を本気にさせる。そうやって手駒として動かす。どこまでが本物の焦りで、どこからが芝居なのか。紫という女を相手にすると、その境目がいつも溶けて見えなくなる。だから霊夢は、この女の言葉ではなく、笑みの深さと、それが消える瞬間だけを信じることにしていた。

 

 ちょうどそのとき、現場のずっと奥のほうで、突然、大きな怒号が上がった。

 

 霊夢が振り返ると、資材置き場のあたりから、白い粉塵がもうもうと立ち昇っている。目を凝らして見れば、結界杭を保管しているらしい建屋の扉が、内側から外へ向かって派手に吹き飛ばされていた。誰かが外から押し入ったのではない。中から、何かが壁を破って出ていった痕だった。破壊の向きが、そう告げている。

 

 霊夢と紫、それに藍が、ほとんど同時にそちらへ駆け出した。文だけは相変わらず、少し離れた足場の高みから、現場全体を鳥のように見下ろしている。この天狗は、いつだって危険からいちばん遠い、いちばんよく見える席を確保するのがうまい。

 

 資材置き場のあたりは、すでに騒然としていた。粉塵の中を河童たちが右往左往し、誰かが水をかけろと叫び、誰かが逃げろと怒鳴っている。だが不思議なことに、火の手はどこにも上がっていなかった。焦げた匂いだけが立ちこめて、肝心の炎がない。爆ぜたような音がしたというのに、燃えているものが何ひとつないのだ。霊夢は駆けながら、その奇妙さに眉をひそめた。火薬でも呪符でもない。まるで、破壊だけを起こして、燃焼はきれいに抜き取っていったかのような壊し方だった。ここでもまた、火を持つ者が、あえて火を残さずに立ち去っている。

 

 破られた保管庫の中は、めちゃくちゃに荒らされていた。立てて整然と並べてあったはずの結界杭は倒れ、貼られていた呪符はことごとく無残に引き裂かれ、金属の板が泥にまみれて床いっぱいに散乱している。そして壁には、黒い焦げ跡が一筋、斜めに走っていた。だが、それは炎に舐められた跡とは違う。まるで、炎そのものではなく、炎の記憶だけがそこを通り抜けていったような、なんとも奇妙な焦げ方だった。霊夢はその焦げ跡を見た瞬間に、水路で倒れていたあの男の傷を思い出した。同じだ。半端に焼けていて、それでいて、火に巻かれてはいない。まるで、火を持つ者が、あえて火を使わずに火の痕だけを残していったかのようだった。

 

 荒れ果てた床の上に、白い羽根が一枚だけ、そっと落ちていた。

 

「妹紅さん、ですかね」

 

 足場の上から、文が低く抑えた声で言った。

 

「決めつけるには、まだ早いわよ」

 

 霊夢は屈んでその羽根を拾い上げ、指先で軽くつまんで、灯りに透かしてみた。確かに白い羽根だ。だが、あの妹紅が荒らした現場に羽根をわざわざ一枚だけ、こんな見つけやすい場所へ落としていくというのは、いかにもできすぎている。焦げ跡といい、この羽根といい、まるで最初から「これは藤原妹紅の仕業に違いない」と読ませるために、丁寧にそこへ置かれたかのようだった。誰かが、妹紅の名を、こちらの目の前へそっと差し出している。ちょうど今しがた、紫が守矢の名を差し出してみせたのと、寸分たがわず同じやり口で。

 

 しかも、と霊夢は焦げ跡へあらためて目をやった。この破壊は、内側から起きている。外から誰かが押し入って荒らしたのではない。中にあった何かが、あるいは中に潜んでいた者が、壁を破って外へ出ていったのだ。ということは、この保管庫はもともと施錠されていて、盗人はあらかじめ内側に入り込んでいたことになる。堂々と現場を出入りできる立場の者。八雲の札を持ち、誰にも咎められずにこの区域を歩ける者だ。あの水路で捕まえた河童のように、八雲系列の下請けに紛れ込めば、それは造作もない。焦げ跡と羽根で妹紅を装いながら、その実、内側から静かに事を運んでいる。手口が、どこまでも玄人だった。

 

 藍は羽根には目もくれず、荒らされた奥の棚を、一つひとつ黙々とあらためていた。やがて、ある棚の前で、その顔をさっと青くして立ち止まる。

 

「紫様。一本、ない」

 

「結界杭が?」

 

「試験用の、小型の杭です。まだ本設置の前のものですが、使われている呪符と金属板の構造は、本物とまったく同じものです」

 

 その報告を聞いた瞬間、紫の口元から、あの余裕の笑みがすっと消えた。扇を持つ手が、そこでわずかに止まる。この女の笑みが、こうして跡形もなく消えるところを、霊夢はこれまでめったに見たことがなかった。それだけで、事の重さがおのずと知れた。

 

「使い方によっては、結界を安定させる薬にもなる。だけれど、逆さまに向ければ、結界そのものを揺るがす毒にもなるわ。あれは、そういう代物なの」

 

 紫の声は、いつになく低く沈んでいた。

 

 霊夢は思わず舌打ちした。

 

「命蓮寺の荷から抜くだけじゃ足りなくて、この現場からも、わざわざ一本持っていったってわけね」

 

「盗ったというより、選んで抜いた、と言うべきでしょうね」

 

 紫は破られた棚を見つめたまま、静かに続けた。

 

「帳簿、印、薬箱、そして結界杭。この一連の相手は、欲しいものが、あまりにもはっきりしすぎている。手当たりしだいに荒らして回っているのではないの。何がどこにあって、それが何にどう使えるのかを、あらかじめすべて知り尽くしている者の手口よ。素人には、まず無理なやり方」

 

「どれもこれも、幻想郷を根っこから揺らすための道具ばかりね」

 

 霊夢は口の中で、盗まれた品を一つひとつ数え直した。裏帳簿は、各勢力の弱みそのものだ。博麗の印は、荷を咎めなしに通す通行手形になる。永遠亭の薬箱は、人を癒すことも狂わせることもできる。そして結界杭は、幻想郷そのものの命綱を握る。金を奪うための盗みではない。これは、幻想郷の均衡を丸ごと手の中へ収めようとする者の、買い集めだった。弱みと、通行証と、薬と、命綱。そのすべてを一人が握れば、どの勢力もその者に頭を下げるほかなくなる。誰かが、紫の座そのものを狙っている。境界を管理する者に代わって、幻想郷を管理しようとしている。そう考えれば、この女が笑みを消した理由も腑に落ちた。

 

 霊夢は、荒らされた保管庫の中から、ゆっくりと紫のほうへ視線を戻した。

 

「ねえ。あんた、それでもまだ、これを管理案件とやらで済ませる気なの」

 

「異変として表沙汰にすれば、何もかもが表に出てしまう」

 

「もう出てるでしょ。とっくのとうに」

 

「出し方を、ひとつでも間違えれば、幻想郷が割れるわ。どこの誰が何を運び、どこの誰の名がそれに使われていたのか。それが一度に表へ噴き出せば、全勢力が同時に牙を剥き合う。そうなったら、もう誰の手にも止められない。私にも、あなたにも」

 

「割れるも何も、この幻想郷なんて、最初っから割れてたんじゃないの。あんたが上から紙を一枚べたっと貼って、その割れ目を隠して見せてただけで」

 

 紫は、それには答えなかった。ただ扇を静かに閉じて、破られた保管庫の暗い奥を、じっと見据えている。霊夢は、その横顔をしばらくのあいだ黙って眺めた。この女は、本当に何かを恐れている。管理者としての揺るぎない自負を、盤面を読み切れていなかったという、たった一点で脅かされている。今夜のこれは、慌てて見せているだけの芝居ではないのかもしれない。今度ばかりは、この八雲紫が、本当に足元を掬われかけているのかもしれなかった。そう思わせるだけの、ひやりとした静けさが、その横顔には確かにあった。

 

 だが、それをこの場でゆっくり確かめている暇はなかった。糸はいくつも垂れ下がっている。命蓮寺の消えた荷にはじまり、抜き取られた裏帳簿があって、そこへ勝手に使われた博麗の印が絡む。半端に焦げた傷があり、そして今度は結界杭だ。ばらばらに見えるが、たぐっていけば必ずどこか一点で束ねられているはずだった。まずは、いちばんたぐりやすいところから引いていくしかない。守矢という名は、紫の手からも、あの河童の口からも、今夜すでに二度も差し出された。それが罠であろうと、餌であろうと、噛みにいって損はなかった。噛んでみて初めて、その糸がどこへ繋がっているのかが見えてくる。

 

 霊夢は荒らされた保管庫にくるりと背を向けて、山道を下りはじめた。文が、少し遅れてその後をひらりと追ってくる。

 

「守矢へ行くつもりなら、早いほうがいいですよ」

 

「なぜ」

 

「神奈子様は、もうとっくに動いてますからね。今夜、人里で守矢の講が開かれてるんです。場所は、寺子屋のすぐ近くの集会所」

 

「寺子屋?」

 

「ええ。よりによって、上白沢慧音の縄張りのど真ん中です。そのど真ん中で、大々的に信仰を集めてる。慧音がいったいどんな顔でそれを見てるか、想像するだけで、私は記事が三本は書けますよ」

 

 霊夢は足を止めずに、無言で頷いた。守矢が寺子屋のすぐそばで講を開いているというのは、ただの偶然の巡り合わせであるはずがなかった。自警組の縄張りへ、信仰と、そしてそこへ集まってくる人手を狙って、堂々と割り込んでいる。畑を耕す者は、いつのまにか、他人の畑にまで平気で鍬を入れはじめていた。神奈子は、八雲の現場だけでは飽き足らず、人里の人材そのものにまで、じわじわと手を伸ばしている。この女の欲は、祈りの顔をしていながら、どこまでも際限がなかった。

 

「文。ひとつ訊くけど」

 

「なんでしょう」

 

「守矢のその祈祷部が現場に入り込んだのと、荷が消えたのと、どっちが先だったの」

 

 文は少し間を置いてから、慎重に答えた。

 

「……ほとんど同じ頃です。強いて言えば、祈祷部のほうが、わずかに早い」

 

「そう」

 

 霊夢はそれきり黙った。祈祷部が先。つまり守矢は、荷が消える前から、この現場の内側に人と目を置いていた。荷を抜くのに都合のいい者が、あらかじめ現場に紛れ込んでいたことになる。守矢が下手人だと決めつけるには、まだ何もかもが足りない。だが、少なくとも守矢は、下手人が動きやすい場所を整えていた側にいる。畑を耕しにきたのか、荷を抜くための踏み台を作りにきたのか。神奈子の講へ乗り込めば、その口から、どちらなのかが漏れるかもしれなかった。

 

 しばらく、二人とも黙って坂を下った。虫の音だけが、闇の底に満ちている。

 

「文。あんた、この件をどこまで売った」

 

「おや、藪から棒に」

 

「情報屋が、私にだけ売って満足するわけがない。ほかに誰へ流したの」

 

 文は答えなかった。その沈黙が、そのまま答えだった。この天狗は、同じネタを幾筋にも分けて売る。博麗にも、おそらくはほかの勢力にも。鮮度のいい真実を、いちばん高く買う者から順に配っていく。それを咎める気は、霊夢にはなかった。咎めたところで、天狗は天狗だ。ただ、自分が握っている札が、すでに何人もの手に渡っているのだと知っておくだけでいい。

 

「まあ、いいわ。あんたが撒いた種で、勝手に芽が出るなら、それも見物だし」

 

「博麗さんは、私を責めないんですね」

 

「責めて直るなら責めるわよ。あんたは直らないでしょ」

 

 文が、闇の中で低く笑う気配がした。それきり、天狗はまた口を閉ざした。

 

 山を下りきったころには、背後の工事現場の音は、もう嘘のように遠く小さくなっていた。代わりに前方の人里のほうから、祭りの余韻とはまた別の、妙にそろった大勢の人の声が風に乗って流れてくる。祈りの声だった。大勢の人間が、まるで一人の口から出ているかのように、示し合わせて同じ言葉を繰り返し唱えている。整いすぎたその声には、どこか背筋の冷えるものがあった。祭りの喧騒には、酔いも喧嘩も混じっていて、そこには人間のいびつな熱があった。だが、この祈りの声には熱がない。数えられた声だった。

 

 人里の外れまで来ると、集会所のあたりだけが、ぼんやりと明るかった。障子の向こうに、大勢の人影が整然と並んでいるのが透けて見える。その手前の道には、真新しい幟が何本も立てられていた。守矢の紋だ。そして、その幟の列のすぐ先に、寺子屋の暗い屋根がひっそりと沈んでいる。灯りひとつ点いていない。明るい集会所と、暗い寺子屋。その明暗が、そのまま今の人里の勢力図を映していた。神を新しく建てた側が明るく、里を古くから守ってきた側が暗い。

 

「慧音、起きてるかしらね」

 

 霊夢は暗い寺子屋を見やってつぶやいた。返事はなかった。文の気配は、いつのまにか消えている。おおかた、先回りして集会所の屋根の上にでも陣取っているのだろう。

 

 霊夢は幟の列の手前で、いったん足を止めた。ここから先は、守矢の縄張りだ。踏み込めば、神奈子は必ず気づく。だが、気づかれて困る用事でもない。むしろ、博麗が来たと知らせてやったほうがいい。慌てる者の顔を見る。それが、今夜の霊夢のやり方だった。

 

 懐の中には、水路で拾った、あの焼け焦げた紙片。袖の中には、御札と針。頭の中には、笑みを消した紫の横顔と、罠じみた白い羽根が一枚。そして鼻の奥には、あの半端に焦げた、いつまで経っても消えてくれない匂いが、しつこくこびりついたまま残っていた。落とし前をつけさせる相手の列に、また一人、名前が加わろうとしている。

 

 整った祈りの声が、夜気の中で、ひときわ高くそろった。

 

 霊夢は焦げた匂いのするほうへ、ただ黙って足を踏み出した。夜は、まだ終わらなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。