Re: 幻想郷アウトレイジ   作:たこ焼き 龍月

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第三章 守矢の信仰商法

 

 人里の夜は、神社の夜とはまるで違う匂いをしていた。

 

 博麗神社の祭りの夜には、酔いと欲と騒ぎの匂いがある。焼けた串の脂と安酒の饐えた甘さが混じり合って、そこに人の熱がこもっていた。あの匂いはどこか浮かれていて、明日のことなど誰も考えていない者たちの匂いだった。だが人里の夜は、それとは根の部分から違っていた。もっと低く、もっと湿っていて、地面に染みついて動かない匂いだった。日々を生きる者たちが積み重ねてきた汗と煮炊きと、そして小さな諦めの匂いだった。

 

 軒の低い家並みが、細い路地を挟んで肩を寄せ合っている。灯りの落ちた窓の奥では、明日も同じ仕事をこなすために早々と眠りについた者たちがいた。祭りの晩だというのに、この里の大半は静かに戸を閉ざしている。神社の賑わいは、この里にとっては別の世界の出来事にすぎなかった。石畳を踏む足音だけが、闇の底に妙にはっきりと響いていく。

 

 その人里の中心から少しだけ外れた一角に、古い集会所があった。寺子屋のすぐ近くである。昼のあいだは里の寄合や子供らの手習いの場として使われる、なんの変哲もない建物だった。だが今夜は、その軒先にいくつもの幟が立てられていた。風もないのに、幟の布がわずかに揺れている。

 

 守矢安全講。結界再整備協賛。家内安全。現場安全。商売繁盛。

 

 白地に藍で染め抜かれた文字が、脇に据えられた行灯の灯りを受けて浮かび上がっていた。ひとつひとつは真っ当な願いを並べただけの文言である。だがそれが幟の数だけ連なっていると、まるで何もかもをまとめて引き受けようとする欲深さのように見えてくるのだった。

 

 霊夢はその文字の列を下から上まで眺めて、ふっと鼻で笑った。

 

「欲張りすぎでしょ」

 

 誰に聞かせるでもなく、独り言のように呟いた。祭りの晩に自分の賭場を抜けてまでここへ足を運んだのは、気まぐれではなかった。ここ数日のあいだに、幻想郷のあちこちで妙な札の話を耳にしていた。守矢の札、命蓮寺の荷、そして誰かが誰かの名を騙っているという噂。そのどれもが、霊夢の縄張りのすぐ隣で起きていた。均衡が崩れる音というのは、こういう小さな軋みから始まるものだった。

 

 集会所の入口には、簡素な受付台が据えられていた。そこに、東風谷早苗が立っている。白と青の清潔な装束を隙なく着こなし、やわらかな笑みを絶やさずに、訪れる者ひとりひとりへ丁寧に頭を下げていた。来る者の手を取るように札を渡し、身を屈めて困り事に耳を傾け、時おり深くうなずいてみせる。その所作のどれもが淀みなく、見ていて気持ちのよいほど整っていた。だからこそ、霊夢はその整いすぎた様子が信用ならなかった。

 

 早苗が霊夢に気づいて、ぱっと顔を明るくした。

 

「あ、霊夢さん。いらっしゃいませ。今日は博麗神社のお祭りでは?」

 

「そうよ」

 

「お忙しい中、わざわざこちらへ来てくださったんですか。ありがとうございます。見学だけでも歓迎しますよ。守矢安全講は、どなたでも参加できますから」

 

「へえ。私でも?」

 

「もちろんです。幻想郷の安全は、皆で守るものですから」

 

「綺麗なこと言うのね」

 

 霊夢は受付台の上に置かれた札の束へ、無造作に手を伸ばした。守矢の印が捺された、白く清潔な札である。何気なくその一枚を裏返してみると、そこには月ごとの奉納額を書き込む欄と、紹介者を記すためらしい空欄とが刷られていた。清潔な表とは裏腹に、裏側はずいぶんと事務的な作りをしている。霊夢の指先が、その紹介者欄のところで止まった。

 

「紹介者?」

 

「講に参加された方が、困っているお知り合いを連れてきてくださることが多いんです。そのご縁を記録しておくためのものです」

 

「ご縁ねえ」

 

 霊夢は札を目の高さに掲げたまま、感心したふうもなく続けた。

 

「つながりが増えるほど、守矢に金が入る仕組みってこと?」

 

 早苗の笑顔が、ほんの一瞬だけ硬くなった。だがそれはすぐに、元のやわらかさへと塗り直された。修練を積んだ者だけができる、崩れた表情のたたみ方だった。

 

「奉納は強制ではありません。皆さんのお気持ちです」

 

「気持ちに金額欄があるの?」

 

 霊夢は札の裏を早苗のほうへ向けてみせた。奉納額を書き込むための升目が、いやに几帳面に並んでいる。気持ちというなら、こんな欄はいらないはずだった。

 

「運営には費用がかかるんです。お札を作るにも、この場所を借りるにも、現場で安全祈祷を執り行うにも、人手が要りますから」

 

「なら、素直に商売って言えばいいじゃない」

 

「商売ではありません。信仰です」

 

「その二つ、守矢では違うものなの?」

 

 受付の脇では、順番を待つ里の者たちが、二人のやり取りを遠慮がちに窺っていた。老いた女がひとり、握りしめた小銭を懐で温めるようにして、早苗の答えを待っている。その女にとっては、これは論争ではなかった。今夜ここへ来た自分の選択が、正しかったのか間違っていたのか、それを確かめるための問いだった。霊夢はその視線に気づいていたが、手心を加える気はなかった。加えれば、この女もまた騙されたことになる。

 

 早苗は答えなかった。

 

 言葉に詰まったのではない、と霊夢は見て取った。答えを持っていないのではなく、答えを口にしてはならないと躾けられている者の黙り方だった。清廉な顔の奥で、この娘は自分の勘定と信心とのあいだで、どこか折り合いをつけかねている。そういう揺らぎが、閉じた唇のあたりにわずかに滲んでいた。霊夢はその揺らぎを面白く思ったが、口には出さなかった。まだ、追い詰める頃合いではなかった。

 

 集会所の中からは、低く朗々とした声が漏れ聞こえていた。壇上で誰かが講話をしているらしい。時おり、聴衆のどよめきや、こらえきれずに漏れる嘆息のようなものが混じる。人が何かを信じようとするときの、あの独特のざわめきだった。霊夢はそのざわめきの質を、賭場でさんざん聞いてきた。賽の目に願をかける者の声も、神に手を合わせる者の声も、根のところではよく似ている。何かにすがって金を出すという一点で、信仰と博打は地続きだった。

 

 霊夢は札を受付台へ戻し、早苗の脇をすり抜けて中へ入った。早苗は止めなかった。止めれば見学だけでも歓迎するという先ほどの言葉が嘘になる。この娘は、そういう筋の通し方だけは崩さないのだろうと霊夢は思った。

 

 板張りの広間には、里の者たちがぎっしりと座り込んでいた。膝を突き合わせるようにして肩を寄せ、皆が同じ方向へ顔を向けている。若い商人もいれば、腰の曲がった老婆もいた。子を膝に抱えた母親もいれば、手に包帯を巻いた河童の姿もある。顔ぶれのどれもが、どこかしら疲れていた。日々の暮らしに何かしらの綻びを抱え、それを繕ってくれる何かを求めてここへ辿り着いた者たちの顔だった。

 

 その視線の先、一段高くなった壇の上に、八坂神奈子が立っていた。

 

 背後には、太い注連縄が壁いっぱいに張り渡されている。その脇には、帳面を胸に抱えた河童がひとり、神妙な顔で控えていた。壇の左右の壁には、守矢の祈祷札がびっしりと貼り並べられている。それらを従えて立つ神奈子の姿は、なるほど神そのもののように堂々としていた。だが霊夢の目には、その立ち姿はまるで違って映った。これは神ではない。これは、場を仕切る胴元の立ち方だった。賭場の中央に座る自分の姿と、どこかで通じるものがあった。

 

 神奈子の視線が、入ってきた霊夢を捉えた。講話の途中だというのに、その口元にゆっくりと笑みが刻まれていく。

 

「よう、博麗。祭りはいいのか」

 

 朗々と響いていた講話の声が、そのまま霊夢への呼びかけへと切り替わった。広間の者たちがいっせいに振り返り、闖入者の姿を見る。だが霊夢は動じなかった。人に見られることには慣れている。

 

「おかげさまで、客を取られて暇になったの」

 

「そいつは悪かったな」

 

 神奈子は少しも悪びれず、むしろ愉快そうに肩を揺すった。

 

「だが、人の足は縛れんよ。人は行きたいところへ行く。神社の祭りよりこちらのほうが今の自分に要るとなれば、こちらへ来る。それだけのことだ」

 

「神様のところへ? それとも、儲け話のところへ?」

 

「どちらでも同じことだ」

 

 神奈子は霊夢の皮肉を、皮肉のまま受け止めなかった。真正面から、当然の道理として受け返してきた。

 

「人が集まる場所には、力が生まれる。力が生まれれば、金も動く。金が動けば、また人が集まる。ぐるぐると回って、大きくなっていく。お前も知らないわけじゃあるまい、博麗。お前の賭場も、そうやって回っているんだろう」

 

 霊夢は答えなかった。図星を突かれたからではない。この女の言い分に、正面から反論できる筋がないと知っていたからだった。信仰も博打も、人の欲を器に注いで回す商いだという点では、確かに何ひとつ変わらない。違うのは看板だけだった。守矢は神を掲げ、博麗は祭りを掲げる。掲げる旗が違うだけで、下でやっていることはよく似ていた。

 

 ただ、ひとつだけ違いがあるとすれば、それは締め方だった。博麗の賭場は、負けた者を容赦なく締め上げる。金がなくなれば、それきりだ。冷たいが、そこには嘘がない。だが守矢は違った。守矢は、負けた者にこそ手を差し伸べる。行き場をなくした者を優しく迎え入れ、居場所を与え、そうして少しずつ、抜け出せないように囲い込んでいく。突き放す悪党と、抱き込む悪党。どちらがたちが悪いかと問われれば、霊夢は迷わず後者を選ぶだろう。突き放された者は逃げられる。だが抱き込まれた者は、自分が囚われていることにさえ気づかない。

 

 広間の空気が、微妙に張り詰めていた。里の者たちは、目の前で始まった二人の女のやり取りが何を意味するのか、はかりかねている。神と巫女。人里に食い込もうとする者と、それを苦々しく思う者。だが彼らの多くにとっては、どちらも自分たちの暮らしのすぐ上にいる、遠くて恐ろしい存在だった。誰も口を挟もうとはしない。ただ、成り行きを息をひそめて見守っている。

 

 その張り詰めた空気の端、広間の壁際に、腕を組んで立つ者の姿があった。霊夢はそちらへ目を向けた。

 

 上白沢慧音だった。

 

 難しい顔で腕を組み、壇上の神奈子をまっすぐに睨み据えている。里の教育を握り、寺子屋の隣で子供たちの明日を預かる者にとって、この集会所で今夜起きていることは看過できないものだった。ここは彼女の縄張りの、ほとんど喉元にあたる場所である。その横に、もうひとり立っている者がいた。

 

 藤原妹紅である。

 

 白い髪を無造作に垂らし、赤い目を気だるげに伏せて、両手を懐に突っ込んだまま壁にもたれていた。まるでここへ来たこと自体が億劫だとでもいうような、投げやりな立ち方だった。だが霊夢は知っていた。この女のこの姿勢が、実のところ最も油断ならない構えであることを。懐に手を入れたまま動かない者ほど、いざとなれば誰より速く動く。

 

 妹紅という女のことを、霊夢はよく知らなかった。知っているのは、この女が死なないということと、自警組の荒事の実働を差配しているということくらいだった。幾度も燃やされ、幾度も蘇ってきたと聞く。歴史に名を残すのはいつも上に立つ者ばかりで、燃やされた家も、消された名前も、誰も覚えていない。そういう者たちの側に、この女は立っている。その積年の鬱屈が、投げやりな立ち方の奥に、澱のように沈んでいるように霊夢には見えた。

 

「遅かったな、巫女」

 

 妹紅が、こちらを見もせずにそう言った。

 

「呼ばれてないもの」

 

「呼ばれなくても来るだろ、お前は」

 

「来てほしかったの?」

 

「さあな」

 

 妹紅はようやく赤い目を上げて、霊夢を見た。

 

「来たら面倒になるとは思ってたよ」

 

「顔が言っている」

 

 慧音が横から、たしなめるように妹紅を睨んだ。

 

「妹紅。余計なことは言うな」

 

「言ってないさ」

 

「顔が言っている」

 

 霊夢が言うのと、慧音が言うのと、まったく同じ言葉が重なった。妹紅は鼻を鳴らして、また視線を落とした。この二人は長い付き合いなのだろうと霊夢は思った。慧音の妹紅を見る目には、苛立ちと同じだけの気遣いが混じっている。庇う者の目だった。

 

 壇上の神奈子は、その一連のやり取りを愉快そうに眺めていた。そして、ふたたび広間全体へ向けて声を張り上げた。

 

「いい機会だ。せっかく来たんだ、聞いていけ、博麗」

 

 神奈子の声が、講話の調子を取り戻していく。それは霊夢へ向けた言葉であると同時に、広間に詰めかけた里の者たちへ向けた言葉でもあった。

 

「ここに座っている者たちは、皆、毎日を必死に生きている。今日の米、明日の火事、来月の仕事、子供の病、老いた親の世話。そういう小さな不幸の積み重ねの中で、歯を食いしばって生きているんだ。異変が起きれば、お前は飛んでくるだろう、博麗。空が赤くなろうが、山が鳴ろうが、お前が来て片をつける。それがお前の稼業だ。だがな」

 

 神奈子は一拍おいて、広間を見渡した。

 

「異変ではない不幸には、お前は来ない。米が買えなくても、仕事がなくても、子供が熱を出しても、お前は来ない。それは異変ではないからだ。当たり前の顔をして、じわじわと人を殺していく類の不幸だ。そこへ、守矢が入る。お前が来ない場所へ、私たちが行く。お前が嫌がろうと関係ない。人は、自分に必要なものを選ぶ。それだけのことだ」

 

「それが、講ってわけ」

 

「そうだ」

 

「紹介者を記録して、奉納額を並べて、困ってる人間を片っ端から信者にして?」

 

「悪意ある言い方だな」

 

「善意ある搾取よりは、正直でしょ」

 

 広間の者たちのあいだに、小さなどよめきが走った。搾取という言葉が、彼らの胸のどこかを突いたのだ。だが同時に、神奈子の言葉もまた、彼らの胸のどこかを確かに掴んでいた。異変ではない不幸に、博麗神社は来ない。それは、この里に生きる者なら誰もが身に染みて知っていることだった。霊夢はその沈黙の質を、肌で感じ取っていた。ここにいる者たちは、必ずしも騙されて集まったわけではない。すがるものがなかったから、すがれるものを見つけただけだった。

 

 それが、この講話のいちばん恐ろしいところだった。神奈子は嘘をついていない。異変にしか動かない巫女と、日々の不幸に寄り添う神。その対比を、この女は事実だけで組み上げていた。反論できないからこそ、聴く者の心に深く食い込む。霊夢は自分の稼業のことを言われているのだと承知しながら、それでも口を挟めなかった。挟めば、ここにいる者たちが今日まで抱えてきた小さな不幸を、まとめて踏みにじることになる。神奈子は、そこまで読んで喋っていた。この女は、人の弱さを数字で計り、その数字の上に神を立てる。そういう者だった。

 

 早苗が、いつのまにか霊夢の傍らへ来ていた。清廉な顔に、抑えきれない色を滲ませている。

 

「霊夢さん」

 

 声が、わずかに震えていた。

 

「どうして、そこまで悪く見ようとするんですか。私たちは、人里を壊したいわけじゃありません。困っている人を助けたいだけなんです。現場で怪我をした河童も、火事で家を失った人も、仕事にあぶれた若者も、誰かに話を聞いてほしいお年寄りも、皆、居場所を求めています。行き場がないんです。博麗神社がそれをやらないのなら、私たちがやります。それのどこが、悪なんですか」

 

 早苗の言葉には、嘘がなかった。少なくとも、この娘自身は本気でそう信じている。霊夢にはそれがわかった。わかったからこそ、質が悪いと思った。悪意で人を集める者は、いつか化けの皮が剥がれる。だが善意で人を集める者は、剥がれるものがない。だからこそ危うかった。

 

 霊夢はしばらく黙って、早苗の顔を見ていた。それから、静かに口を開いた。

 

「早苗。善意で人を集めるのはね、悪意で集めるよりずっと危ないのよ」

 

「……なぜですか」

 

「集まった人間を、自分がどう使えるか考える奴が、必ず後ろにいるから」

 

 早苗の表情が、はっと固まった。そして、ゆっくりと壇上の神奈子を振り返った。神奈子は、笑っていた。里の者たちを見下ろす、あの胴元の笑みのまま、こちらを見ていた。その笑みを目にした瞬間、早苗の顔にあった清廉な確信が、ほんのわずかに揺らいだ。自分が信じているものの後ろに、自分の知らない何かが立っているのではないか。そういう問いが、初めてこの娘の中をよぎったように見えた。

 

 霊夢はそれ以上、何も言わなかった。言う必要はなかった。種は蒔いた。芽が出るかどうかは、この娘次第だった。

 

 壁際から、慧音が静かに声を発した。低いが、広間の隅々まで届く声だった。歴史を刻んできた者の、重みのある声だった。

 

「全員、ここがどこか忘れるな」

 

 その一言で、広間の空気がまた張り直された。

 

「ここは人里だ。寺子屋の隣だ。子供たちが明日も通ってくる場所だ。神だろうが巫女だろうが、不死人だろうが、ここで騒ぎを起こすというなら、私が相手をする。誰であろうと、だ」

 

 慧音の目は、神奈子と霊夢を等しく捉えていた。どちらの肩も持たない。ただ、この場所だけは守るという者の目だった。神奈子は肩をすくめ、霊夢は小さく息を吐いた。この里で、慧音を敵に回すのは得策ではない。それは、この場の誰もが承知していることだった。

 

 束の間、広間に沈黙が落ちた。壇上の行灯の炎が、じりと音を立てて揺れる。里の者たちは身じろぎもせず、女たちの睨み合いの行方を見つめていた。神と巫女と守り人と不死者。それぞれの筋がこの一室でぶつかり合い、どれもが引かずにいる。均衡というのは、こういう静けさの中でこそ、いちばん危うく張り詰めるものだった。

 

 その沈黙を破ったのは、霊夢だった。

 

 彼女はゆっくりと広間を横切り、壁際の妹紅の前まで歩いていった。里の者たちの視線が、その動きを追う。霊夢は妹紅の正面に立ち、懐に手を入れたままのその赤い目を、まっすぐに見下ろした。

 

「命蓮寺の水路で、あんたの名前が出たわ」

 

 妹紅の表情は、微塵も動かなかった。

 

「へえ」

 

 ただ一言、気のない相槌を返しただけだった。だが霊夢は、その気のなさこそを見ていた。本当に身に覚えのない者は、もっと問い返す。何の話だと。どこの水路だと。この女は、それを問わなかった。

 

「白い鳥。燃えない女。荷を運んでた者が、そう言い残したそうよ」

 

「幻想郷に白い鳥なんて、山ほどいるだろ」

 

「燃えない女は?」

 

「もっと探せば、いるんじゃないか」

 

「とぼけるの、下手ね」

 

 霊夢は静かに言った。責める口ぶりではない。ただ、そう見えるという事実を置いただけだった。妹紅はわずかに口の端を歪めたが、それも笑いとも呆れともつかない、どちらにも取れる歪め方だった。この女は嘘をつくのが上手いわけではない。ただ、本当のことを言わない術に長けているだけだった。その二つは、似ているようでまるで違う。

 

 そこへ、慧音が割って入った。妹紅と霊夢のあいだへ、身をねじ込むようにして立つ。

 

「決めつけるのは早いぞ、博麗」

 

 声に、庇う者の硬さがあった。

 

「妹紅は昨日の夜から、ずっとこの人里にいた。命蓮寺の水路まで行って戻る時間などない。あそこは遠い。私が保証する」

 

「証人は?」

 

「私だ」

 

「身内じゃない」

 

 霊夢の返しは、にべもなかった。慧音の顔が、かすかに強張った。

 

「では、この私が嘘をついていると、そう言うのか」

 

「まだ何も言ってないわ」

 

「目が言っている」

 

 今度は慧音のほうが、その言葉を返してきた。霊夢は小さく肩をすくめた。目が言っている、という言葉が、今夜はよほど流行っているらしかった。誰もが誰かの目を読み、読まれることを恐れている。疑心というのは、こうして人から人へ移っていく病のようなものだった。

 

 霊夢は、慧音の言葉をすぐには信じなかった。だが、頭ごなしに退けもしなかった。慧音が妹紅を庇うのは、身内ゆえの嘘かもしれない。だが、慧音という女は、嘘をつくときにこれほど正面から目を合わせる質ではない。長年この里を見てきた者の顔には、後ろ暗さの影がなかった。それが本当のことを言っている者の顔なのか、嘘を本気で信じ込んでいる者の顔なのか、霊夢にはまだ判じかねた。

 

「なぜ、そんなに妹紅を庇うの」

 

 霊夢が問うと、慧音は一瞬だけ言葉を探した。

 

「庇っているのではない。事実を言っているだけだ」

 

「同じことよ、この場では」

 

 妹紅が、壁から背を離した。

 

「慧音。もういい」

 

 初めて、その声に張りがあった。

 

「巫女が疑いたいなら、勝手に疑わせておけばいい。俺は誰の荷も運んじゃいない。運ぶ理由もない。だが、それを証してみせる義理もない。信じたい奴が信じて、疑いたい奴が疑う。それだけのことだろう」

 

 妹紅の言い分には、奇妙な筋が通っていた。潔白を証明しようとする者は、時に、証明しようとするその必死さゆえに疑いを深める。この女は、それをしなかった。証明を放棄することで、かえって身の潔白を主張していた。だがそれは、真に潔白な者のやり方であると同時に、追い詰められた者が最後に取る態度でもあった。どちらとも、まだ言い切れない。

 

 霊夢は、妹紅から神奈子へと視線を移した。壇上の神奈子は、この一部始終を面白そうに眺めていた。まるで、盤上の駒が勝手に動き出したのを楽しむような目つきだった。この女は、何かを知っている。あるいは、何かが起きることを、初めから待っていた。霊夢の背筋を、うっすらとした不快感が這った。

 

「神奈子。あんた、何を仕込んでるの」

 

「仕込む?」

 

 神奈子は心外だとでも言うように、両手を軽く広げてみせた。

 

「私はただ、講を開いているだけだ。困った者に手を差し伸べ、信仰を説き、奉納を受ける。それのどこに、仕込みなど要る」

 

「命蓮寺の荷が消えて、その痕から妹紅の名が出て、その妹紅が今夜あんたの講にいる。偶然にしては、揃いすぎでしょ」

 

「幻想郷は狭い。偶然など、いくらでも重なるさ」

 

 神奈子はそう言って、また笑った。読ませない笑いだった。霊夢は舌打ちを飲み込んだ。この女は、紫とはまた違う質の食えなさを持っている。紫は本心を煙に巻いて見せないが、神奈子は本心をあけすけに語りながら、その語りの中に肝心なものを一片も混ぜないのだった。すべてを喋っているように見えて、何ひとつ明かしていない。それは、信仰を数字で管理してきた者だけが身につける、独特の隠し方だった。

 

 妹紅は、そんな神奈子を冷ややかに見上げていた。

 

「面白いか、神様」

 

 問いというより、吐き捨てだった。

 

「人が疑い合うのを、上から眺めるのが、そんなに面白いか」

 

「面白いとは言っていない」

 

 神奈子は表情を変えなかった。

 

「ただ、こうなることは、いつか起きると思っていた。誰かが荷を消し、誰かの名を借り、疑いを撒く。幻想郷は、そういう仕組みで回っている。均衡というのは、放っておけば必ず誰かが崩しにかかるものだ。私はそれを、いつも待っているだけだ。崩れた隙間にこそ、人は神を求めるからな」

 

 その言葉は、聞きようによっては、神奈子自身がすべてを仕組んだと白状しているようにも取れた。だが同時に、傍観者としての本音を漏らしただけだとも取れた。神奈子は、そのどちらにも取れるように喋っていた。霊夢は、この女の言葉から確かなものを引き出すことを諦めた。ここで問い詰めても、返ってくるのは煙ばかりだった。

 

 慧音が、忌々しげに眉根を寄せた。

 

「神奈子。あんたが人里へ来るのは構わん。困った者を助けるというなら、それも止めはしない。だが、疑いを撒くのだけはやめてもらおう。この里で人と人が疑い合えば、真っ先に壊れるのは子供らの居場所だ。誰が敵で誰が味方か、大人が疑い出せば、それは必ず子供へ移る」

 

「私は何も撒いてはいない、上白沢」

 

 神奈子は静かに応じた。

 

「撒いたのは、別の誰かだ。私はただ、撒かれた種の上に立っているだけだ」

 

 その言葉に、霊夢は引っかかりを覚えた。撒いたのは別の誰か。もしそれが神奈子の本音なら、この女もまた、何者かの掌の上で踊らされている駒のひとつだということになる。仕組んだ側だとばかり思っていた者が、実は仕組まれた側だった。そういう裏返りは、幻想郷ではよくあることだった。誰もが誰かを疑い、その疑いそのものを、さらに上の誰かが利用している。

 

 霊夢の脳裏に、ここ数日の断片が並んだ。命蓮寺の水路で消えた荷。そこに残された、白い鳥と燃えない女という証言。守矢の講に集まる、行き場のない里の者たち。そして今、その講の場に、疑いの糸がいくつも手繰り寄せられている。守矢を疑わせ、妹紅を疑わせ、命蓮寺に荷を探させる。糸の先を辿れば辿るほど、それぞれが別の方向を向いていた。まるで、誰かがわざと、糸をばらばらの方角へ引いているようだった。

 

「妹紅」

 

 霊夢は、もう一度その名を呼んだ。

 

「あんた、輸送路の抜け道を知ってるでしょう。人里から命蓮寺の港まで、正規の道を通らずに荷を動かせる道を」

 

 妹紅の眉が、わずかに動いた。図星ではない。だが、無関係でもないという動き方だった。

 

「知ってたとして、それがどうした」

 

「あんたの名前が出たのは、その抜け道を使える者が限られてるからよ。誰かが、あんたなら疑われると踏んで、あんたの名前を借りた。白い鳥も、燃えない女も、あんたを指すための飾りにすぎない」

 

 妹紅は、しばらく黙って霊夢を見ていた。それから、ふっと肩の力を抜いた。

 

「……巫女。お前、案外まともなこと言うんだな」

 

「案外は余計よ」

 

「だが、それが本当なら、俺の名前を借りた奴は、俺のことをよく知ってる奴だ。抜け道のことも、燃えないことも、白い鳥のことも。全部知ってて、全部使った」

 

 妹紅の声から、投げやりな響きが消えていた。自分の名を騙られたという事実は、この不死の女の中で、疑いよりも重い何かに変わりつつあった。誰かが自分を道具に使った。それは、幾度も切り捨てられ、幾度も忘れられてきた者にとって、いちばん触れられたくない古傷だった。

 

 死なないというのは、使い勝手のいいことだった。燃やしても蘇り、斬っても立ち上がる者は、都合よく使い潰せる。名を借りるにも、これほど便利な相手はいない。疑われても死なず、責められても消えない。妹紅はこれまで、そうやって幾度も誰かの筋書きの中で駒として動かされてきたのだろう。その積み重ねが、この女を投げやりにさせ、同時に、こうした仕掛けの底を誰より早く見抜く目を与えていた。慧音が横で、そんな妹紅の横顔を痛ましげに見ていた。庇いたいのは、身内だからではない。この女がまた一人で古傷を舐めることになるのを、見ていられないからだった。

 

 その時だった。

 

 集会所の外で、鋭い悲鳴が上がった。

 

 夜気を裂くような、若い男の叫び声だった。広間の空気が一瞬で凍りつき、里の者たちが弾かれたように腰を浮かせる。神奈子の笑みが消え、慧音の体がすでに戸口へ向かって動いていた。霊夢は舌打ちして踵を返す。妹紅も懐から手を抜き、慧音のすぐ後ろについた。

 

 戸を蹴り開けて外へ出ると、集会所の脇の路地に、若い商人が膝をついていた。

 

 まだ二十歳そこそこの、痩せた男だった。胸元を両手で強く押さえ込み、ひどく怯えた顔で肩を震わせている。周囲に争った跡はない。血も流れていない。だが男の目は、何か恐ろしいものを見た者の目だった。行灯の乏しい灯りが、脂汗の浮いたその顔を斑に照らしていた。

 

「札が……札が……」

 

 男は、かすれた声でそれだけを繰り返していた。言葉になっていない。何かに縋りつくように、押さえた胸のあたりを掻きむしっている。

 

 霊夢は男の前に膝をつき、その手を胸元からそっと引き剥がした。男は抵抗しなかった。抵抗する気力さえ残っていないようだった。霊夢は男の懐へ手を差し入れ、そこから小さな紙包みを取り出した。

 

 守矢の札ではなかった。

 

 白い、薄手の紙である。何の飾りもない、ただ白いだけの紙。だがその表に、薄く滲むように押された印があった。灯りにかざすと、それはうっすらと浮かび上がった。兎の印だった。

 

 永遠亭。

 

 霊夢の指先が、その印の上で止まった。背後で、神奈子が息を呑む気配がした。

 

「……永遠亭だと」

 

 紙包みは、思ったより軽かった。開いてみると、中には小さな薬包がひとつと、それに折り重なるようにして、短い書付が一枚入っていた。霊夢はまず薬包を検めた。粉薬らしきものが、ごくわずかに入っている。匂いを嗅ぐと、甘いような、それでいてどこか鼻の奥を刺すような、嫌な匂いがした。次に書付を開いた。細い筆で、たった一行だけが記されていた。

 

『不安を鎮める。信仰より確実』

 

 霊夢は、その一行をしばらく見つめていた。それから、静かに笑った。声を立てない、冷えた笑い方だった。

 

「今度は永遠亭ね」

 

 守矢の講の隣で、永遠亭の名を騙った札が撒かれ、それを受け取った男がこうして怯えている。信仰より確実、という一行は、あからさまに守矢への当てつけだった。神を信じるより薬を飲め。守矢の講の真横で、その足元を掬うような言葉が置かれていた。

 

 神奈子が路地へ進み出た。その顔から、これまでの余裕が消えていた。壇上で見せていた胴元の笑みはどこにもなく、代わりにあったのは、縄張りを侵された者の冷たい怒りだった。

 

「私の集会の、すぐ隣にだ」

 

 声が、低く沈んでいた。

 

「私の講の場に、永遠亭の名を置いたか。よくもまあ」

 

 だが霊夢は、その怒りを冷静に見ていた。この撒かれ方は、あまりに露骨だった。永遠亭が本当に守矢を潰しにかかるなら、こんな分かりやすい形で名を残しはしない。永遠亭の八意永琳という女は、そういう詰めの甘い仕事をする者ではないはずだった。救う薬と蝕む薬を同じ手で握り、合法と非合法のあいだを平然と渡り歩いてきた女が、自分の印を押した札をこんな路地にばら撒くだろうか。答えは、否だった。

 

 これもまた、借りた名だ。霊夢はそう直感した。妹紅の名が借りられたように、永遠亭の名もまた、誰かに借りられている。

 

 その時、妹紅がぽつりと口を開いた。壁にもたれていた時とは違う、腹の底から絞り出すような声だった。

 

「……なるほどな。ようやく読めてきた」

 

 皆の視線が、妹紅へ集まった。

 

「誰でもいいんだ。誰の名前でもいい。守矢に永遠亭を疑わせる。永遠亭に守矢を疑わせる。博麗には妹紅を疑わせる。八雲には守矢を疑わせる。命蓮寺には自分たちの荷を探させる。簡単だろ。俺たちは、最初から隣の奴を信用しちゃいないんだから」

 

 妹紅の言葉が、路地の闇にひとつずつ落ちていった。

 

「種なんか、蒔く必要もない。もう畑には、疑いの芽が最初から埋まってる。誰かがちょっと水をやってやるだけで、勝手に育つ。荷をひとつ消して、名前をひとつ借りて、札をひとつ撒く。それだけで、幻想郷中が互いに刃を向け合う。仕組んだ奴は、何もしなくていい。ただ、俺たちが疑い合うのを、上から眺めていればいいんだ」

 

 それは先ほど、神奈子が壇上で口にした言葉と、奇妙なほどよく似ていた。崩れた隙間にこそ人は神を求める、と神奈子は言った。妹紅は、その仕組みの底を、別の角度から言い当てていた。二人は敵同士のように睨み合っていたが、この幻想郷という盤の仕掛けについては、同じものを見ていた。誰もが悪党で、誰もが隣を疑っている。その疑いこそが、この世界を回す燃料だった。そして、その燃料に火をつけて回る者が、どこかにいる。

 

 霊夢は薬包を握りしめ、立ち上がった。怯えた商人は、いつのまにか慧音に抱えられていた。慧音は男の背をさすりながら、厳しい目で路地の奥を睨んでいる。

 

「この男は、私が寺子屋へ連れていく」

 

 慧音が言った。

 

「里の者だ。この里で怯えたのなら、この里で介抱する。それが筋だ」

 

 霊夢はうなずいた。この場で慧音に任せられるなら、それがいちばん確かだった。

 

「永遠亭に行くわ」

 

 霊夢はそう言って、薬包を懐へしまった。

 

 行き先は、竹林の奥だった。この札が本当に永遠亭のものなのか、それとも借りられた名にすぎないのか。それを確かめるには、あの女に直接会うほかなかった。撒かれた種を辿れば辿るほど、糸は別々の方角へ伸びていく。だが、伸びた糸のどれかは、必ず本当の手元へ繋がっているはずだった。

 

 神奈子は、しばらく黙って霊夢を見ていた。それから、傍らの早苗の肩に、ゆっくりと手を置いた。

 

「早苗。講は、今夜はここまでだ。中止にする」

 

「神奈子様……」

 

「人々を、静かに帰せ。だが、いいか。札は回収するな」

 

 早苗が、戸惑ったように顔を上げた。

 

「なぜ、ですか。永遠亭の名で疑いを撒かれたのなら、私たちの札まで疑われます。回収したほうが」

 

「回収すれば、こちらが何かを隠したように見える」

 

 神奈子の口ぶりは、すでに落ち着きを取り戻していた。怒りは、冷たい算段へと変わっていた。

 

「配ったものは、そのままでいい。堂々としていろ。奉納だけは、今夜は受け取るな。金を受け取れば、この騒ぎに乗じて稼いだと言われる。今は一銭も受け取るな。それが、いちばん高くつく守り方だ」

 

 早苗は、しばらく神奈子の横顔を見つめていた。この人は、こんな時でも勘定をしている。人が怯え、疑いが撒かれ、講が壊されようとしている、その只中で、どう振る舞えば損をしないかを、冷たく計算している。先ほど霊夢に言われた言葉が、早苗の胸の奥でもう一度だけ疼いた。集まった人間を、自分がどう使えるか考える奴が、必ず後ろにいる。早苗は、それ以上は何も言わなかった。ただ、静かに頭を下げて、集会所の中へと戻っていった。

 

 その背中を、霊夢は見送った。あの娘は、いつか気づくだろうと思った。自分が清廉な顔で人里へ配ってきた札の、その裏側にある勘定に。気づいたとき、あの娘がどうするのか。神社に留まるのか、それとも袂を分かつのか。それは今夜の話ではなかった。だが、種はもう蒔かれていた。芽が出るのを待つのは、疑いを撒いた何者かだけではない。霊夢もまた、別の種の芽吹きを、静かに待つことにした。

 

 霊夢は、その背を一瞥してから、竹林のほうへ足を向けた。

 

 人里の路地を抜け、家並みが途切れると、その先には竹林の暗がりが広がっていた。祭りの灯りも、講の行灯も、もうここまでは届かない。月明かりだけが、細く高く伸びた竹の葉を青白く濡らしている。風が渡るたびに、竹と竹が擦れ合って、乾いた軋みを立てた。その音は、まるで無数の骨が触れ合うようにも聞こえた。

 

 竹林というのは、入ると方角を失う場所だった。どこを見ても同じ竹が並び、どこまで進んでも景色が変わらない。永遠亭がこの奥に居を構えているのは、偶然ではないはずだった。辿り着ける者だけを辿り着かせ、そうでない者は迷わせて追い返す。医療を独占する者が、その館をこれほど入り組んだ場所に隠しているのは、それ自体がひとつの答えだった。人を癒す薬も、人を蝕む薬も、同じ竹の闇の奥から流れ出てくる。

 

 その奥から、匂いが流れてきた。

 

 薬の匂いだった。甘く、苦く、そしてどこか嘘くさい匂いだった。人を癒す匂いと、人を蝕む匂いとが、同じ源から溶け合って漂ってくる。近づけば近づくほど、その匂いは濃くなっていった。霊夢は懐の薬包に手を添えたまま、竹林の奥へと分け入っていく。

 

 背後で、人里の灯りが遠ざかっていった。守矢の講も、怯えた商人も、庇い合う不死者と守り人も、すべてが竹の闇の向こうへ沈んでいく。前にあるのは、薬の匂いだけだった。

 

 霊夢は、懐の薬包を一度だけ握り直した。この一包みが、どこから来て、誰の手を経て、あの商人の懐に収まったのか。永遠亭の名が本物なのか、また借り物なのか。問い詰めるべき相手は、この匂いの奥にいる。だが、あの女がすんなり口を割るとは思えなかった。八意永琳という女は、救う薬と蝕む薬を同じ手で握りながら、どちらを渡したかを問われても顔色ひとつ変えない類だった。竹林の奥で待っているのは、また別の食えない笑みだろう。それでも、行くしかなかった。糸を辿るのをやめれば、疑いだけが幻想郷に残る。

 

 名を借りられた者が、また一人増えた。誰が糸を引いているのか、まだ影も見えない。だが、辿るべき糸は、確かにこの匂いの奥へ伸びていた。

 

 夜は、まだ終わらなかった。

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