Re: 幻想郷アウトレイジ   作:たこ焼き 龍月

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第四章 永遠亭の薬瓶

 

 迷いの竹林は、夜になると息をする。

 

 昼の竹林はただの竹林にすぎない。青い幹が空へ向かってまっすぐに伸び、風が通れば葉擦れの音が涼やかに鳴る。里の子供らが薪を拾いに入っても、日の高いうちなら迷うことはない。だが日が落ちて月がのぼるころになると、この林はまるで別の生き物へと姿を変えるのだった。竹の幹の一本一本が青白い月光を吸い込んで、内側からうっすらと光を帯びる。風もないのに、葉だけが遠くのほうで擦れ合っている。誰かが息を吐くように、あるいは誰かが息を潜めるように、林全体がかすかに揺れていた。

 

 道はある。踏み固められた土の道が、たしかに足元に続いている。

 

 だが、その道を歩いているうちに、いつのまにか道ではなくなる。竹の一本を目印に定めて歩き出しても、しばらく行くとその竹はもう背後になく、代わりに見覚えのない幹が同じ顔をして前に立っている。竹には個性がない。どれもよく似た太さで、よく似た高さで、よく似た青さで並んでいる。その似ていることこそが、この林の罠だった。人は似たものの中で、いつしか自分がどこにいたかを忘れる。忘れたところで、林が静かに道を書き換える。

 

 霊夢はそういう竹林の性質をよく知っていた。だからこそ、月明かりだけを頼りに歩みを進めながらも、油断はしていなかった。この林で迷う者は、方角を失うのではない。方角そのものを、林に書き換えられるのだ。まっすぐ進んだつもりが元の場所に戻り、右へ折れたつもりが左の奥へ導かれる。そういう場所だった。人を惑わせるために作られたのか、あるいは惑わせたい者がひとりいるために自然とそうなったのか、そのあたりの事情を霊夢は知らない。ただ、この林の奥に住む連中が、迷わせることでずいぶんと得をしているのは間違いなかった。

 

 霊夢は懐から札を一枚抜き、目の前の竹の幹へ貼りつけた。

 

 方角を確かめるための、ごく簡単な呪だった。札が正しい方角の側で温かく、間違った側で冷たくなる。それだけの、子供だましのような術である。だがこの林では、その子供だましがときに命を救う。

 

 次の瞬間、札はぱちりと乾いた音を立てて、端から黒く焦げた。

 

 温かくも冷たくもならなかった。ただ焼けた。まるで、方角そのものが存在しないと言われたかのように。

 

「誰かが道を曲げてる」

 

 霊夢は独りごちて、焦げた札の残りを竹の幹から剝がした。焦げ跡は、貼った札の輪郭よりもわずかに大きい。何かが札の外側から力を加えて、術ごと焼き切ったのだ。この林の主が本気で人を迷わせにかかっているとき、こういうことが起きる。つまり、今夜の竹林は誰かを歓迎していないか、あるいは誰かひとりだけを奥へと導こうとしているかの、どちらかだった。

 

 霊夢はどちらでもかまわなかった。用があるのはこの奥だと決まっている。

 

 しばらく歩くと、竹のあいだから白く冷たい灯りが漏れてきた。

 

 祭りの提灯の赤とも、里の窓の橙とも違う、青みを帯びた白い光である。竹の青白さともまた別の、人の手で灯された明かりだった。その光を目印に竹をかき分けて進むと、不意に視界が開けた。

 

 永遠亭。

 

 古びた門が、月の下に沈んでいた。門の奥には長い廊下が延び、その廊下がさらに奥へ、奥へと屋敷を連ねている。外から見るかぎり、どこまで続いているのか見当もつかない造りだった。竹林と同じように、この屋敷もまた、奥行きを人に測らせないように出来ているのかもしれなかった。屋根の反りは古く、柱は年季を帯びて黒ずんでいる。だが荒れてはいない。手入れはされている。ただ、その手入れの行き届き方が、どこか人の暮らしのためではなく、別の目的のために保たれているように見えた。

 

 ここは、人里の者にとって最後に頼る場所だった。

 

 表の医者に診てもらえない者たちが、夜になるとこの門をくぐる。里の診療所で断られた怪我。人に知られたくない病。祈禱師にも祓えなかった呪い。喧嘩や賭場でこしらえた、名を残せない傷。そういうものを抱えた者が、竹林の迷いをくぐり抜けてまでここへやってくる。永遠亭は、そういう者たちを診た。金さえ払えば、あるいは沈黙さえ約束すれば、どんな傷でも診た。それが、この屋敷が長いあいだ潰れずにいる理由だった。

 

 門の前には、ひとりの兎が座っていた。

 

 因幡てゐである。門柱に背をあずけ、片膝を立てて、退屈そうに草の葉をもてあそんでいる。だがその目だけは、竹林から出てきた霊夢の姿を、とっくに捉えていた。

 

「こんばんは、博麗の巫女さん」

 

 てゐは草の葉を捨てて、にっと笑った。愛想のいい笑みだった。だが霊夢は、この兎の愛想を一度も信じたことがない。

 

「夜更けに往診? それとも、あんたが患者のほう?」

 

「患者はそっちでしょ」

 

 霊夢が短く返すと、てゐは首をかしげて、大げさに屋敷のほうを振り返った。

 

「うちは大繁盛だよ。今夜も怪我人がいて、病人がいて、あとは嘘つきもいっぱい」

 

「嘘つきも診るの?」

 

「診るよ。嘘つきほど、たくさん払ってくれるからね」

 

 てゐはそう言って、また笑った。今度の笑みには、さっきよりも幾らか本音が混じっていた。この兎が金の話をするときだけ、その表情は妙に生き生きとする。霊夢はそれを見て、この屋敷の商売の匂いを改めて嗅ぎ取った。傷を治す匂いの下に、金と口止めの匂いが染みついている。

 

「怪我や病を治すだけなら、里の医者でも足りるでしょ」

 

 霊夢が言うと、てゐは門柱に寄りかかったまま、ゆるく首を振った。

 

「里の医者は、傷は診ても、その傷がどこでついたかは診ないよ。うちは、そこまで診る。どこで、誰に、どうやってやられたか。それを一緒に呑み込んで、黙る。だから、里で治せない傷が、うちには来るんだ。傷の治し方が上等なんじゃない。黙り方が上等なんだよ」

 

 その言い方には、この屋敷がどういう商売で立っているかが、そのまま出ていた。永遠亭が売っているのは、薬でも治療でもなく、その先にある沈黙だった。傷は口実にすぎない。里に知られたくない事情を抱えた者が、その事情ごと沈めてもらいに来る。てゐはそれを、悪びれもせずに語った。

 

 霊夢は懐から、一包みの薬包を取り出した。人里で見つけたものだ。

 

 それは、里のとある家の裏庭から出てきた。表向きは真面目に暮らしている家の、しかし夜になると別の顔を持つ息子が、こっそり隠し持っていたものだった。その家の親が霊夢のところへ相談に来て、霊夢が息子の隠し場所を突き止めた。薬包には見覚えのある印が捺されていた。だからこそ、霊夢はこうして竹林をくぐってきたのだ。

 

「これ、あんたたちの?」

 

 霊夢が薬包を差し出すと、てゐは立ち上がって顔を近づけた。長い耳がわずかに動いて、まるで匂いを嗅ぐように、あるいは音を聞くように、薬包の上でぴくりと揺れた。

 

「うちの印に似てるね」

 

 てゐはしばらく薬包を眺めてから、ゆっくりと言った。

 

「でも本物なら、もっと上等な紙を使うよ。この紙は安物だ。折り方も違う。うちの折りはもっと角がきっちりしてる。印だって、よく見れば角度が雑だよ。急いで捺したみたいに、少し傾いてる。これは偽物だね」

 

「中身は?」

 

「それは、あたしにはわからない」

 

 てゐは薬包を霊夢に返して、肩をすくめた。

 

「永琳様に見せなきゃ、中身までは何とも言えない。でも、たぶん偽物だと思うよ。うちの印を借りただけの、別のもの」

 

 てゐはそこで一度言葉を切り、それから少し声を低くして付け足した。

 

「ただし、偽物でも効くものは効くし、効かないものでも、人は信じる。中身が本物かどうかなんて、飲む側にはどうでもいいことなんだ。効いてる気がすれば、それでいい。この商売はね、そういうふうに出来てる」

 

「その仕組みを、あんたたちが一番よく知ってるってわけね」

 

「知ってるから、真似されるんだよ」

 

 てゐは薬包を返す手を、途中で少しだけ止めた。愛想笑いの下に、ほんのわずか、苦いものが差した。

 

「うちの名前で偽物が出回るってことはさ、うちの名前にそれだけ値打ちがあるってことでもある。値打ちのないものは、誰も真似しない。だから、腹は立つけど、悪い気もしないんだ。ただ」

 

 てゐはそこで、薬包を霊夢の手に戻した。

 

「腹は立つよ。うちの商売は、信用で出来てる。その信用に泥を塗る奴がいるなら、永琳様が黙っちゃいない。あの方は、傷を治すのも上手いけど、けじめをつけるのはもっと上手いからね」

 

 その一言だけ、てゐの声から兎らしい軽さが抜けた。永遠亭の商売の芯を、この兎はちゃんと守っている。そのことが、その一瞬の声色に出ていた。

 

 霊夢は薬包を懐に戻して、てゐの脇をすり抜けるように門をくぐった。てゐは止めなかった。ただ、通り過ぎる霊夢の背中を、いつもの愛想笑いのまま見送っていた。

 

 廊下は長かった。

 

 磨き込まれた床板が、青白い灯りを鈍く照り返している。歩くたびに、足の下で板がわずかに軋んだ。その軋みは、この長い屋敷のどこまでも伝わっていきそうな響き方をした。霊夢はふと、この廊下を歩く自分の足音が、屋敷のどこかにいる誰かへの合図になっているような気がした。永遠亭は、来訪者の足音を数えている。そういう屋敷だった。

 

 廊下の両脇には、いくつもの障子が並んでいた。

 

 その障子の一枚一枚の向こうに、患者たちがいた。

 

 灯りに照らされて、障子には人影が透けている。ひとつの部屋では、腕を吊った天狗が壁にもたれて動かずにいた。翼を折ったのか、腕を痛めたのか、その影は片方の肩をひどく下げていた。天狗は誇り高い連中だ。仲間の前では傷を見せない。だからこそ、こうして人目のない永遠亭まで、痛めた翼を運んでくる。別の部屋では、顔を布で隠した人間の女が、じっとうつむいて座っていた。里の女房らしい身なりだったが、里の診療所ではなく、わざわざこの屋敷まで来ている。診てもらいたい傷は、きっと顔にも、あるいは心にもあった。さらに奥の部屋では、身なりのいい妖怪が横になっていた。金のかかった羽織を着たまま、荒い息をしている。どこかの縄張りを持つ者らしかった。表の医者にかかれば噂になる。噂になれば、弱みになる。だからこの屋敷へ来る。

 

 どの影も、こちらを見なかった。

 

 互いに見ないことが、この屋敷の礼儀だった。ここへ来る者は、名前を名乗らない。隣の部屋に誰がいるのかを、詮索しない。障子の向こうで誰が何を治しているのかを、けっして問わない。問えば、自分もまた問われる立場になる。だからみな、うつむいて、自分の傷だけを見つめている。この長い廊下に並ぶ障子の一枚一枚が、それぞれの沈黙で仕切られていた。永遠亭が売っているのは薬ではなく沈黙だと、てゐは門前で言った。廊下を歩けば、その言葉の意味が、灯りに透けた影の数だけ理解できた。

 

 霊夢はふと、いちばん手前の障子の前で足を止めた。障子の向こうの女の影が、その足音にわずかに肩をこわばらせた。見られている、と感じたのだろう。霊夢はすぐに視線を外して、また歩き出した。この屋敷では、見ることそのものが罪になる。見なければ、そこに何もなかったことにできる。見なかったことにするために、人はここへ来る。

 

 霊夢は障子の列を横目に、廊下を進みながら、ぽつりと言った。

 

「沈黙を売ってるだけでしょ」

 

 誰に言うでもない、独り言のつもりだった。だが、いつのまにか背後についてきていたてゐが、少し低い声で返した。門前とは違う、笑いの抜けた声だった。

 

「沈黙で助かる命も、あるんだよ」

 

 霊夢は振り返らなかった。てゐも、それ以上は何も言わなかった。

 

 廊下の突き当たりに、大きな引き戸があった。てゐがすっと前へ出て、その戸を開けた。

 

 薬棚が、壁の一面をびっしりと埋めていた。

 

 天井まで届く棚に、無数の抽斗と、無数の瓶が並んでいる。抽斗にはそれぞれ小さな札が貼られ、瓶にはそれぞれ違う色の粉や液体が満たされていた。琥珀色、乳白色、澄んだ緑、濁った赤。灯りを受けて、それらがぼんやりと光を含んでいる。部屋には、乾いた薬草の匂いと、それに混じる何か甘く重い匂いが漂っていた。ひとつひとつは薬の匂いだった。だが全部が混ざり合うと、それはもう、生と死のどちらともつかない匂いになっていた。

 

 その棚を背にして、八意永琳が立っていた。

 

 長い髪を背に垂らし、静かな目でこちらを見ている。霊夢が戸口に立った瞬間には、もうその視線は霊夢の顔の上にあった。まるで、来るのを待っていたかのように。

 

「遅かったわね、霊夢」

 

「待ってたの?」

 

「来ると思っていた」

 

 永琳の口調には、驚きも警戒もなかった。ただ、予定していた客がようやく着いた、というだけの落ち着きがあった。それが霊夢には、いつも少しばかり癪に障る。この医者は、幻想郷のたいていのことを先に知っている顔をする。そして、たいていの場合それは本当なのだった。

 

 霊夢は部屋の中央にある机まで歩み寄って、懐から薬包を取り出し、その上に置いた。

 

「これ」

 

 永琳は机の上の薬包へ、ちらりと目を落とした。手に取りもしなかった。ただ一瞥しただけで、すぐに口を開いた。

 

「偽物ね」

 

「中身を見ないで?」

 

「見なくてもわかる」

 

 永琳は薬包の脇に指を置いて、しかしまだ開こうとはしなかった。

 

「うちのものではない。印の形が違う。紙が違う。折りが違う。てゐも同じことを言ったでしょう。あの子の目は、こういうことにかけては確かよ」

 

 永琳はそこでようやく薬包を手に取り、慎重に折りを開いた。てゐの言うとおり、折り目は雑だった。永琳の指は、まるでその雑さを確かめるように、開く前に一度だけ紙の角をなぞった。

 

 中には、薄い灰色の粉末が包まれていた。

 

 永琳はその粉を、開いた薬包ごと灯りへ近づけた。しばらく、無言でそれを見ていた。匂いを嗅ぐでもなく、なめて確かめるでもなく、ただ見ていた。だがその沈黙のあいだに、この医者はきっと、粉の色と粒の細かさから、およその中身を見抜いていた。霊夢にはそれがわかった。

 

「危ないもの?」

 

 霊夢が訊くと、永琳は薬包を静かに机へ戻した。

 

「危ないわ」

 

 短く言って、それから少し言葉を継いだ。

 

「使えば、一時的に不安が薄れる。胸のつかえが取れて、眠れなかった者が眠れるようになる。だから最初は、救われた気になる。だが、繰り返せば心身が壊れていく。判断力が鈍る。何が大事だったかを、忘れるようになる。そして、これがなければ生きていられなくなる。依存が起きるのよ。しかもこれは粗悪な作りだから、なおのこと悪い。混ぜ物が多い。何を混ぜたかは、作った者しか知らない」

 

「永遠亭の薬じゃないのね」

 

「違う」

 

「でも、永遠亭に似せてる」

 

「ええ」

 

 永琳は薬包から目を上げて、まっすぐに霊夢を見た。

 

「誰かが、うちの名前を使って、こういうものを流している」

 

 その声には、はじめて感情めいたものがわずかに滲んだ。怒りとまではいかない。だが、自分の名を勝手に使われた者の、静かな不快がそこにはあった。永遠亭の薬は、救う薬だ。少なくとも、この医者の理屈の中では。それが、人を壊す粗悪な粉と同じ印を捺されて里に出回っている。それは、この屋敷の商売そのものへの、ひとつの汚しだった。

 

 永琳は机に片手を置いて、静かに続けた。

 

「薬にはね、霊夢。表も裏もないのよ」

 

「どういう意味?」

 

「使い方と、管理があるだけ。それだけよ」

 

 永琳は薬棚のほうを、ちらりと振り返った。天井まで並ぶ無数の瓶を、まるで自分の子供でも見るような目で眺めた。

 

「人を救う量と、人を壊す量。その境目は、同じ瓶の中にある。眠らせるための薬と、二度と目覚めさせないための薬。痛みを和らげる薬と、痛みそのものを感じさせなくする薬。それらは、まったく別の薬ではない。同じ薬の、量が違うだけ。使い方が違うだけ。境目は、この薬包の紙一枚よりも薄いのよ」

 

「その薄い紙を」

 

 霊夢は机の上の薬包を、指先で軽くつついた。

 

「あんたが勝手に決めてるんでしょ。どっちが救う量で、どっちが壊す量か。この患者は生かして、この患者は眠らせる。全部、あんたひとりの匙加減で」

 

「医者だから」

 

 永琳の答えは、ためらいがなかった。

 

 その二文字を、この医者は言い訳にも誇りにもしていなかった。ただ、事実として口にした。境目を決める者が要る。誰かがその役目を負わねば、薬は薬にならない。永琳はその役目を負っているというだけで、それ以上でもそれ以下でもない、という顔をしていた。

 

「この幻想郷で、いちばん多く人を救っているのは、私よ」

 

 永琳は静かに続けた。

 

「里の医者が匙を投げた者も、祈禱師が匙を投げた者も、最後にはここへ来る。そして、そのうちの多くを、私は救ってきた。だから問い返すのよ、霊夢。救い方が綺麗かどうかを、いったい誰が決めるの。綺麗に救えなかった命は、汚い救い方でも救わないほうがよかったと、あなたは言えるの」

 

「神様みたいに言うのね」

 

 霊夢が言うと、永琳はかすかに口の端を動かした。笑みとも言えないほどの、わずかな動きだった。

 

「医者も、神も」

 

 永琳は霊夢を見たまま、静かに言った。

 

「苦しんでいる者から見れば、似たようなものよ。どちらも、生かすか死なせるかを握っている。どちらに祈っても、決めるのは向こう側。祈る者には、選ぶ権利がない。私はただ、その決める側に立っているというだけ」

 

 永琳は薬棚の一つの抽斗に手をかけて、少しだけ引いた。中には、透き通った小瓶が並んでいた。どれも同じ形をして、同じように澄んだ液体を湛えている。だが、その一本一本が、救う薬にも、壊す薬にもなる。永琳の指は、そのうちの一本に触れて、しかし取り出さずに、また抽斗を静かに閉めた。

 

「同じ棚に、両方が入っている。救う薬と、壊す薬を、別々の場所に分けたりはしない。分けてしまえば、それは別のものになってしまうから。同じ棚に置いて、同じ手で扱う。そのほうが、境目を見失わずにいられる。境目を忘れた医者は、いちばん危ないのよ」

 

 その言い分は、狡かった。だが、まったくの詭弁とも言い切れなかった。救う薬と壊す薬を同じ手で握るからこそ、その境目に神経を張っていられる。分けて安心した者こそ、いつのまにか境を越える。永琳の理屈には、そういう一分の理があった。だからこそ、霊夢はこの医者を憎みきれず、また信じきることもできなかった。

 

 霊夢は何も返さなかった。返す言葉がなかったわけではない。だが、この医者の理屈に真正面から言葉を返しても、それはただ理屈と理屈のぶつかり合いにしかならない。そして、この屋敷の理屈は、たいていの正論よりも一枚ぶん狡かった。

 

 その沈黙を破ったのは、奥から現れたひとりの兎だった。

 

 鈴仙・優曇華院・イナバ。長い耳を張りつめさせ、顔色をひどく悪くしている。息を切らして駆けてきたらしく、その足取りには普段の落ち着きがなかった。

 

「師匠」

 

 鈴仙は永琳の前まで来て、一度だけ深く息を吸ってから、絞り出すように言った。

 

「地下の、保管庫を確認しました。封印棚の一部が、空です」

 

 永琳の顔から、表情が消えた。

 

 さっきまであった、客をあしらうときの余裕も、薬を語るときの静かな熱も、その一言でぬぐい取られたように消えた。残ったのは、ただの冷たい平面のような顔だった。霊夢は、この医者のこういう顔をはじめて見た。そして、そのことにわずかな緊張を覚えた。永琳がこの顔をするということは、それだけ深いところを突かれたということだった。

 

「何が消えたの」

 

 永琳の声は、低く、しかしどこまでも平坦だった。

 

「禁制薬の原瓶が、三つ」

 

 鈴仙は、一つずつ確かめるように言った。

 

「それから、治験記録の一部。あとは、廃棄予定の試薬箱がひとつです」

 

「いつ」

 

「わかりません」

 

 鈴仙は唇を噛んで、うつむいた。

 

「昨日の見回りでは、たしかに揃っていました。私がこの目で数えました。今夜、もう一度数え直したら、足りなかった。その間の、いつなのか。私にはわかりません」

 

 鈴仙の声は、後半になるほど細くなった。数を管理するのは、この兎の役目だった。その役目のさなかで、数が合わなくなった。それは、鈴仙自身の落ち度をも意味しかねなかった。だからこそ、この兎はこうして顔色を失って駆けてきたのだ。

 

「封印は、壊されていませんでした。鍵も、そのままです。私が捺した札も、破られていません。結界も、乱れた形跡がない。全部、そのままなんです。それなのに、中身だけが」

 

 鈴仙はそこで言葉を詰まらせた。この兎にとって、それがどれだけ信じがたいことなのかが、その詰まり方から伝わってきた。守るべきものを守れなかったのではない。守りは完璧なままだった。それなのに、守られていたはずのものが消えていた。それは、守るという行為そのものが嘲笑われたということだった。

 

 霊夢は、鈴仙の報告を聞きながら、静かに口を開いた。

 

「つまり」

 

 永琳と鈴仙の視線が、こちらに向いた。

 

「中に入れる者の仕業ってこと?」

 

 封印を壊さず、鍵も札も結界も乱さずに、中身だけを持ち出す。それができるのは、そもそも壊す必要がない者だけだ。鍵を持ち、札を捺し、結界を通ることを許された者。つまり、この屋敷の内側にいる誰か。霊夢の言葉は、まっすぐにその結論を指していた。

 

 永琳は、すぐには答えなかった。

 

 しばらく薬棚のほうへ目を向けて、それから、ゆっくりと霊夢に視線を戻した。

 

「そう見せたいのでしょうね」

 

 静かな声だった。

 

「内部の者の仕業だと、私に思わせたい。屋敷の中に裏切り者がいると、私が疑い始める。そうなれば、私はまず身内を疑う。てゐを疑い、鈴仙を疑い、この屋敷の者たちを、ひとりひとり疑う。屋敷の内側が乱れる。信頼が崩れる。それこそが狙いなら、この盗みは成功している。何を盗んだかよりも、私に何を疑わせたか。そちらのほうが、よほど重い」

 

 永琳はそこで、一度言葉を切った。

 

「あるいは」

 

「あるいは?」

 

「本当に、内部の者かもしれない」

 

 永琳はそう言って、鈴仙のほうを見た。鈴仙の顔が、さっと強張った。だが永琳の目には、鈴仙を疑う色はなかった。ただ、あらゆる可能性を等しく机の上に並べる、医者の目だった。生きる目を残すために、死にかけの目も見捨てない。そういう目だった。

 

「私は、その両方を疑うわ。内部犯に見せかけた外部犯と、内部犯そのもの。どちらであっても、対処は変わらない。棚を数え直して、記録を照らし合わせて、誰がいつ何を持ち出せたかを洗う。それだけよ」

 

 永琳の口調は、また元の落ち着きを取り戻していた。だが霊夢は、その落ち着きの下に、さっきの冷たい平面がまだ残っているのを感じていた。この医者は、自分の屋敷を汚されたことを、けっして忘れない。忘れないまま、笑って薬を調える。そういう質だった。

 

 その時、部屋の奥の襖が、するりと開いた。

 

 蓬莱山輝夜が、現れた。

 

 寝間着とも普段着ともつかない、ゆったりとした衣をまとっている。髪は無造作に垂らされ、目はまだどこか眠たげだった。だがその眠たげな目の奥に、霊夢は見慣れた光を見た。面白いものを見つけた者の、退屈しのぎの光だった。

 

「夜中に、騒がしいわね」

 

 輝夜はあくびを噛み殺すような口ぶりで言って、それから霊夢に気づいて、ふっと笑った。

 

「あら、霊夢。いらっしゃい。こんな夜更けに、珍しいこと」

 

「遊びに来たんじゃない」

 

「わかっているわ」

 

 輝夜は襖にもたれかかったまま、けだるげに部屋を見回した。机の上の偽物の薬包を見て、青ざめた鈴仙を見て、表情を消したままの永琳を見た。そして、その全部をひとまとめにするように、小さく肩をすくめた。

 

「今回の相手はね、霊夢。ものを盗んでいるんじゃないのよ」

 

「じゃあ何を盗んでるって言うの」

 

「名前」

 

 輝夜は、ゆっくりとその言葉を口にした。

 

「名前を、盗んでいるの」

 

 霊夢は眉をひそめた。輝夜は、それを楽しむように続けた。永遠を生きる者らしい、どこか他人事めいた語り口だった。

 

「博麗の印。永遠亭の薬包。妹紅の白い羽根。守矢の鍵。八雲の現場。ねえ、気づいている? この幻想郷で今、あちこちの名前が、勝手に借りられているのよ。誰かが、みんなの名前を一枚ずつ抜き取っては、別の場所で使っている」

 

「偽物だってことは、みんな見ればわかる」

 

「そう。本物である必要は、ないの」

 

 輝夜は襖から身を起こして、机のほうへ一歩近づいた。

 

「本物に見えれば、それでいい。誰かの名前を借りて、別の誰かを怒らせる。永遠亭の名で流された薬が、里で人を壊す。里の者は永遠亭を恨む。あるいは、守矢の鍵で開けられた蔵から荷が消える。荷主は守矢を疑う。怒った者は、動くでしょう。動けば、隠していたものが揺れる。今まで静かに沈めておいたものが、水面まで浮かんでくる。そういう仕組みなのよ、これは」

 

「目的は何」

 

 霊夢が訊くと、輝夜は少し首をかしげて、しばらく考える素振りを見せた。それから、確信のない者の口ぶりで、しかし面白がるように答えた。

 

「暴露。たぶんね」

 

「暴露」

 

「ええ。誰かの隠し事を、白日の下に晒す。ただし」

 

 輝夜は、ここで唇の端を上げた。

 

「悪事を正すための暴露では、ないと思う。そういう真っ当なものなら、こんな回りくどいやり方はしない。これは、悪事を使って、新しい悪事を作るための暴露よ。誰かの罪を暴くことで、暴いた者がその上に自分の商売を建てる。倒れた家の跡地に、次の家を建てるみたいにね。焼け跡ほど、地面が空いているものはないもの」

 

 輝夜はそう言って、けだるげに部屋を見回した。永い時を生きた者だけが持つ、どこか達観した目つきだった。この目は、幻想郷の勢力が興っては潰れ、また興っては潰れるのを、いくども眺めてきた。だから、今回の一件もまた、その繰り返しの一つとして面白がっている。自ら盤に手を出すことはない。ただ、駒が動くのを、退屈しのぎに見ている。

 

「私はね、霊夢。どちらが勝っても、どちらが沈んでも、あまり困らないの。永く生きすぎたから、勝ち負けにもう飽きてしまった。でも、誰かの名前を借りて、みんなを噛み合わせて回っている者がいるとしたら、それは少し面白い。ものを盗む泥棒なら、いくらでもいる。でも、名前を盗んで、それで幻想郷そのものを動かそうという者は、そうそういない。私は、その顔を見てみたいのよ」

 

 霊夢は、輝夜の言葉を反芻した。名前を盗む。名を借りて怒らせる。怒らせて動かし、動いたところで隠し事を暴く。そして、その暴かれた跡地に、自分の商売を建てる。それは、一枚の盤の上で、駒同士を勝手に噛み合わせるやり方だった。噛み合った駒が潰し合っているあいだに、盤の外にいる者だけが得をする。守矢の一件も、この竹林の一件も、同じひとりの手が回しているのかもしれなかった。

 

 永琳は、輝夜の言葉を黙って聞いていた。だが、その黙り方には、否定ではなく同意の色があった。この医者もまた、今夜の盗みが単なる物盗りではないことを、とうに見抜いていた。封印を破らずに中身だけを抜く手際。内部犯に見せかける狙い。そして、里に撒くための問いを刷った紙。すべてが、暴露へ向けて組み上げられていた。永琳が恐れているのは、盗まれた薬そのものではなかった。その薬が、永遠亭の名でどこに撒かれ、どんな沈黙を暴くために使われるか。そちらのほうだった。

 

「私は、その者が誰であれ」

 

 永琳が、ようやく口を開いた。

 

「うちの名前で人を壊した分だけは、必ず取り立てる。救う薬と壊す薬を同じ手で握るのが医者の筋なら、うちの名を騙って壊した者に落とし前をつけさせるのも、同じ筋よ。それだけは、譲らない」

 

 その声は静かだったが、さっきまでの理屈を語る声とは、芯の硬さが違っていた。てゐが門前で言った、けじめをつけるのが上手い、という言葉の意味が、その一言に凝縮されていた。

 

 その時だった。

 

 屋敷の裏口のほうで、何かが置かれる、鈍い音がした。

 

 鈴仙が反射的に身構えた。永琳が視線だけを裏口へ向けた。てゐが、いつのまにか戸口の陰から音のほうへ耳を向けている。誰も、何も言わなかった。ただ、その音の重さから、置かれたものがそれなりの大きさであることだけが知れた。

 

「木箱ね」

 

 輝夜が、面白そうに言った。

 

 霊夢は薬棚の部屋を出て、廊下を裏口のほうへ進んだ。てゐが先に立って案内した。裏口の三和土に、たしかにひとつの木箱が置かれていた。誰がいつ運んできたのか、その姿は見えなかった。竹林の迷いをくぐり抜けて、封印を破らずに保管庫の中身を抜き取る手際の者だ。木箱を裏口へ置くくらい、造作もなかっただろう。

 

 木箱の蓋には、一枚の白い羽根が挟まっていた。

 

 霊夢はその羽根を、指でつまみ上げた。妹紅の羽根に、よく似ていた。だが本物ではないだろう、と霊夢は思った。輝夜の言うとおりだ。本物である必要はない。ただ、妹紅の羽根に見えればいい。この羽根もまた、盗まれた名前のひとつだった。

 

 霊夢は羽根を脇へ置いて、木箱の蓋を開けた。

 

 次の瞬間、箱の中から、無数の紙片が舞い上がった。

 

 白い蝶の群れのように、あるいは季節はずれの雪のように、細かく切られた紙片が、灯りの中でひらひらと舞った。何かの仕掛けがしてあったのか、蓋を開けた勢いで一斉に噴き上がったのだ。紙片は薬棚の部屋の灯りを受けて、青白く光りながら、ゆっくりと三和土へ降りていった。

 

 霊夢は、そのうちの一枚を、宙で捕まえた。

 

 墨で、短い文字が刷られていた。

 

『永遠亭は、人を救う場所か。人を沈める場所か』

 

 霊夢は次の一枚を拾った。

 

『薬瓶の底に、何人分の沈黙が沈んでいる』

 

 三枚目を拾った。

 

『次は紅い館』

 

 霊夢は、その三枚目を、しばらく手の中で眺めていた。

 

 背後で、永琳が紙片の一枚を拾い上げていた。永遠亭を問う文言のほうだった。永琳はそれを一読して、静かに握り潰した。表情は変わらなかった。だが、その握り潰す指の力だけが、この医者が何を感じているかを物語っていた。人を救う場所か、人を沈める場所か。それは、この屋敷がずっと自分の内側に飼っていた問いだった。誰かがその問いを、わざわざ紙に刷って、屋敷の裏口へ投げつけてきたのだ。

 

 永琳が握り潰したのは、紙片ではなかったのかもしれない。この屋敷が長いあいだ答えを出さずにきた、その問いそのものだった。答えを出せば、どちらに転んでも、この屋敷は今のかたちではいられなくなる。だから永琳は答えを出さずにきた。ただ薬を調えて患者を診ながら、救う量と壊す量の境目を、日々紙一枚の薄さで測り続けてきた。その均衡を、誰かが外から突き崩そうとしている。握り潰された紙片は、その均衡の脆さを、静かに突きつけていた。

 

 鈴仙は、舞い落ちた紙片を一枚も拾わなかった。ただ立ち尽くして、それらが三和土に降り積もっていくのを見ていた。この兎にとって、その紙片の一枚一枚が、守りきれなかった証のように見えたのだろう。

 

 輝夜が、舞い落ちる紙片のひとつを手のひらで受けて、それを目の高さに掲げた。

 

「ほらね。暴露でしょう」

 

 どこか嬉しそうな声だった。

 

「永遠亭の秘密を、里じゅうに撒こうとしている。この紙が竹林の外へ出れば、里の者はどう思うかしら。あの屋敷は人を救っているのか、それとも沈めているのか。一度そう疑い始めたら、もう元には戻らない。信頼というのは、そういうものよ。積むのは百年、崩すのは一晩」

 

「次は紅い館」

 

 霊夢は、三枚目の紙片を読み上げた。

 

「紅魔館ね」

 

 永琳は、握り潰した紙片を三和土へ落とした。

 

「あそこにも、沈めたものがあるでしょうからね」

 

 静かに、しかし確信を持った口ぶりだった。永遠亭に薬瓶の底の沈黙があるように、紅魔館にも、赤い杯の底に沈めたものがある。この幻想郷で、底に何も沈めていない場所などない。名前を盗む者は、そのことを誰よりもよく知っていた。だから、次々と底を暴いて回るのだ。暴かれて困る者ほど、動く。動けば、また次の底が浮かんでくる。

 

「霊夢」

 

 永琳が、去ろうとする霊夢を呼び止めた。

 

「この一件、あなたはどう始末をつけるつもり」

 

「まだ決めてない」

 

「決めておいたほうがいい」

 

 永琳の声は、忠告というより、医者の見立てのようだった。

 

「名前を盗む者は、いずれあなたの名前も使うでしょう。博麗の印は、もう使われ始めている。あの者にとって、あなたは駒であると同時に、道具でもある。使い勝手のいい名前ほど、繰り返し借りられる。気をつけなさい。あなたが動けば動くほど、あなたの名前の値打ちが上がって、また借りられる」

 

 霊夢は振り返らずに、片手だけを軽く上げて応えた。永琳の見立ては正しかった。だが、正しいからといって、動かずにいられる立場でもなかった。名前を盗まれた者が誰も動かなければ、盗んだ者だけが得をする。それこそが、あの者の狙いなのだ。ならば、動きながら、盗んだ者の手元を逆に読む。それしか、この盤の外へ出る道はなかった。

 

 霊夢は舞い落ちた紙片を踏まないように気をつけながら、裏口を出た。てゐが黙って戸を開けてくれた。門前で交わした愛想笑いは、もう兎の顔から消えていた。

 

 竹林は、相変わらず青白く息をしていた。

 

 行きよりも、月が高くなっている。霊夢は焦げた札のことを思い出して、今度は札を貼らずに歩いた。どのみち、この林は誰かに道を書き換えられている。ならば、書き換えた者が導きたい方へ、素直に導かれてやるのも一つの手だった。名前を盗む者が霊夢を紅魔館へ向かわせたいなら、向かってやればいい。盤の上で動かされる駒のふりをして、盤の外にいる者の顔を、こちらから覗いてやる。

 

 しばらく歩くと、道の真ん中に、一通の封筒が落ちていた。

 

 わざとらしいほど、はっきりと落ちていた。霊夢が通る道の、ちょうど足元に。竹林の迷いを操れる者が置いたのなら、これも偶然ではありえなかった。

 

 霊夢は封筒を拾い上げた。

 

 赤い封蝋で、封じられていた。蝋には、薔薇を象った紋が捺されている。それがどこの紋であるかは、幻想郷に住む者なら誰でも知っていた。霊夢は封を切って、中の紙を取り出した。

 

『今宵、紅魔館にて夜会あり』

 

 流麗な文字が、そう記していた。

 

『博麗の巫女、永遠亭の兎、天狗の記者を歓迎する。秘密は、赤い杯の底に沈む』

 

 紙からは、甘い香水の匂いが染み出していた。

 

 夜の竹林の青い匂いの中で、その甘さだけが、ひどく場違いに濃かった。上等な香だった。だが、その上等さの奥に、霊夢はかすかな別の匂いを嗅ぎ取った。饐えた甘さ。祭りの晩の安酒とはまた違う、もっと古く、もっと重い、饐え方だった。長いあいだ、赤い杯の底で沈黙とともに沈められてきたものの匂いだった。

 

 招待状は、この夜会がすでに仕組まれたものであることを、隠そうともしていなかった。永遠亭の裏口に紙片が撒かれた、まさにその夜に、竹林の道に招待状が落ちている。名前を盗む者と紅魔館の夜会と、そのどちらか、あるいは両方が霊夢を紅い館へ引き込もうとしていた。

 

 博麗の巫女、永遠亭の兎、天狗の記者を歓迎する。招待状はそう記していた。永遠亭の兎とは、てゐか、鈴仙か。天狗の記者とは、射命丸文のことだろう。名を盗まれた者たちを、一つの卓に集めようとしている。集めて、赤い杯の底の秘密を、その全員の目の前で暴くつもりなのだ。あるいは、集めた者たちの誰かを、また新しい名前として盗むつもりなのか。どちらにせよ、行かねば読めない盤だった。行けば、駒として動かされる。行かなければ、盤の外の顔は永遠に見えない。

 

 霊夢には、迷いはなかった。名を借りられ、賭場のそばで均衡を揺らされ、こうして竹林の奥まで足を運ばされた。ここまで動かされて、最後の夜会にだけ行かずにいられる質ではなかった。動かされているうちは、まだ相手の手の内にある。だが、動かされているふりをして、動かしている者の手元を覗くこともできる。それが、この幻想郷で巫女を続けてきた霊夢の、たった一つの流儀だった。

 

 霊夢は招待状を、ゆっくりと握り潰した。

 

 甘い香りが、握った拳のあいだから、なお漂った。

 

「次は紅魔館ね」

 

 誰に言うでもなく、霊夢は呟いた。

 

 竹林の奥で、白く冷たい永遠亭の灯りが、まだ静かに灯っていた。あの屋敷は、今夜暴かれかけた自分の底を、また静かに沈め直すだろう。何事もなかったように明日も患者を診て、沈黙を売り、救う量と壊す量の境目を、紙一枚の薄さで決め続ける。名前を盗まれても底を暴かれても、この幻想郷の屋敷というものは、そう簡単には崩れない。崩れる前に、たいていは誰かがその底に新しい沈黙を沈めてしまうのだった。

 

 霊夢はふと、門前で交わしたてゐの言葉を思い出した。沈黙で助かる命もある、と兎は廊下で言った。それは強がりでも、言い逃れでもなかったのかもしれない。里で治せぬ傷を抱えた者たちが、この林の迷いをくぐってまでここへ来る。その一人ひとりに、名前を明かせぬ事情がある。永遠亭はその事情ごと引き受けて、黙る。黙ることで、たしかに救われる者もいる。だが、その同じ沈黙の底に、二度と浮かんでこない者もまた、沈んでいる。救う場所か、沈める場所か。名前を盗む者が里に撒こうとしたその問いに、霊夢もまた、答えを持ち合わせてはいなかった。

 

 この幻想郷では、誰も完全な悪党ではなく、誰も完全な善人ではない。永琳の理屈にも一分の理があり、てゐの沈黙にも一分の情がある。だからこそ名を盗まれた者たちは怒って動き、互いに噛み合っていく。そのあいだを縫うようにして、盤の外の顔だけが得をしていく。その顔を、まだ霊夢は見ていない。だが、赤い杯の底に沈む秘密のそばに、きっとその顔はある。

 

 霊夢は、赤い封蝋のかけらを月明かりの下で一瞥してから、それを竹林の土へ落とした。甘い香水の匂いだけが、まだ指先に残っていた。その匂いに導かれるように、霊夢は竹林の出口へと歩き出した。

 

 返事はなかった。

 

 ただ、遠くの竹が、風もないのに、また一度だけ擦れ合った。

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