Re: 幻想郷アウトレイジ   作:たこ焼き 龍月

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第五章 紅魔館の夜会

 

 霧の湖は、夜になると鏡になる。

 

 昼の湖はただの湖にすぎない。青い水が風を受けて細かく震え、岸辺の葦が音を立ててそよぐ。里の漁師が舟を出すこともあるし、河童が水面下で何かを運んでいることもある。日の高いうちなら、湖はただ湖の顔をしている。だが月がのぼるころになると、この水は別のものへと変わるのだった。風がやみ、波が消え、湖面が黒い硝子のように張りつめる。空の月がそのまま水へ落ち込んで、上と下のどちらが本物か分からなくなる。霧が岸から這い出してきて、湖のふちを白く包んでいく。そうなると、もう舟を出す者はいない。この湖が鏡になった夜は、映してはいけないものまで映すからだ。

 

 その黒い鏡の奥に、赤い館があった。

 

 尖った屋根がいくつも空へ突き出し、無数の窓に赤い灯がともっている。館そのものが、夜の湖に開いた一つの傷のように見えた。血の色をした灯りが、黒い水面へゆらゆらと尾を引いている。遠くから眺めるだけなら、それは幻想郷でもっとも美しい建物のひとつだった。だが近づけば近づくほど、その美しさの奥から、別の匂いが漂ってくる。古い木の匂い。香水の匂い。そして、そのどちらでもない、もっと重く、もっと甘く、もっと饐えた匂いだった。

 

 霊夢は、湖のふちの細い道を歩きながら、その匂いを鼻の奥に感じていた。

 

 永遠亭の竹林で拾った招待状の、あの甘い香水の匂いと同じだった。上等な香だ。だが、その上等さの奥に、饐えた甘さが沈んでいる。祭りの晩の安酒とは違う。もっと古く、もっと重い饐え方だった。長いあいだ、どこか暗いところで沈黙とともに眠らされてきたものの匂いだった。招待状の紙に染みていたその匂いが、いまや館そのものから流れ出して、霧に混じって湖のうえを渡ってくる。近づくたびに、匂いは濃くなった。

 

 門の前に、ひとりの女が立っていた。

 

 紅美鈴である。緑の衣に、いつもの穏やかな顔をしている。門番として夜ごとここに立ち、余計な者を里へ帰し、招かれた者だけを通す。それが、この女の役目だった。霊夢はこれまで何度もこの門を見てきたが、そのたびに、美鈴はどこか気の抜けた顔で欠伸を噛み殺していたものだった。だが今夜は違った。背筋がまっすぐに伸び、両の足はわずかに開いて地を掴んでいる。門の前に立つその姿には、いつもの緩さがどこにもなかった。

 

「こんばんは、霊夢さん」

 

 美鈴は、静かに言った。声音は穏やかなままだ。だが、その穏やかさの下に、隙のない張りつめたものが通っていた。

 

「招待状は、お持ちですか」

 

 霊夢は懐から赤い封蝋の招待状を取り出して、美鈴の前へ差し出した。美鈴はそれを受け取ると、まず封蝋へ目を落とした。薔薇を象った紋を、灯りにかざすようにして確かめる。それから紙の質を指の腹で確かめ、最後に、鼻先へ近づけて匂いを嗅いだ。長い所作ではなかった。だが、その一つ一つに、迷いがなかった。

 

「確かに、紅魔館の封蝋ですね」

 

「本物?」

 

「少なくとも、封蝋は本物です」

 

 美鈴は招待状を霊夢へ返しながら、静かに言った。

 

「紙も、香も、館で使うものです。偽物なら、この匂いは出せません。この香は、館の奥でしか調えられないものですから」

 

 霊夢は招待状を懐へ戻しながら、この門番の言葉を頭の隅に留めた。封蝋も、紙も、香も本物。つまり、この招待状はまぎれもなく紅魔館から出たものだ。永遠亭の薬包のように、印だけを借りた偽物ではない。名を盗む者は、これまで偽物ばかりを撒いてきた。だが今夜のこれは、正真正銘、この館が出した本物だった。そのことが、かえって霊夢を油断させなかった。偽物なら、名を盗む者の仕業だと片づけられる。本物であるということは、この館そのものが、何かを仕掛けているということだった。

 

「あんた、今夜はやけに真面目ね」

 

 霊夢が言うと、美鈴は口の端をわずかに動かした。笑みとも言えないほどの、小さな動きだった。

 

「夜会の晩は、門を抜かれるわけにはいきませんので」

 

「門を抜かれると、どうなるの」

 

「困ります」

 

 美鈴はそれだけ言って、それ以上は続けなかった。だが、その短い言葉の底に、この門番が何を守っているのかが、うっすらと透けた。門を一つ抜かれるだけで露見しかねないものが、この館の奥にはある。美鈴はそれが何であるかを、必ずしも全部は知らされていないのかもしれない。ただ、抜かれてはならないということだけを、骨の髄まで叩き込まれている。何を守っているのかを知らぬまま、それでも守り続ける。そういう立ち方をした門番だった。霊夢はその立ち方に、どこか永遠亭の廊下に並んでいた障子の影を思い出した。見ないことで守られる沈黙が、あの屋敷にはあった。ここにもまた、知らないことで守られる沈黙があるらしかった。

 

 門が、内側から重い音を立てて開いた。

 

 中から、音楽が流れ出てきた。弦楽器の、静かで、どこか物憂げな音色である。その音に混じって、笑い声が聞こえた。グラスの触れ合う、澄んだ音も聞こえた。そして匂いが、いっそう濃く押し寄せてきた。香水と、古い木と、酒の匂い。だが、そのどれよりも奥に、あの饐えた甘さがあった。霊夢はその匂いをくぐり抜けるようにして、門の内へと足を踏み入れた。

 

 美鈴は、通り過ぎる霊夢を、黙って見送った。止めもせず、案内もしなかった。ただ、その背中が館の奥へ消えるまで、門の前に立ち続けていた。門番の役目は、通したあとには終わる。中で何が起きるかは、門番の預かり知るところではなかった。

 

 玄関のホールは、広かった。

 

 高い天井から吊るされた燭台が、無数の蝋燭の灯を落としている。赤い絨毯が奥へと延び、その両脇に、古い絵と、古い甲冑が並んでいた。絵の中の人物たちは、どれもこちらを見ていない。甲冑は空っぽのまま、鈍い光を帯びて立っている。その静かな列の突き当たりに、ひとりの女が立っていた。

 

 十六夜咲夜である。銀色の髪を結い上げ、皺ひとつない給仕の衣をまとって、両手を前で組んでいる。その姿は、灯りの中で刃のように整っていた。所作の一つ一つが、無駄を削ぎ落とした末の静けさを帯びている。霊夢が絨毯の上を歩いて近づいていくあいだ、咲夜はまったく動かなかった。ただ、その視線だけが、まっすぐに霊夢を捉えていた。

 

「ようこそ、紅魔館へ」

 

 咲夜は、深く頭を下げた。

 

「博麗霊夢様、射命丸文様、鈴仙・優曇華院・イナバ様」

 

 霊夢の背後には、いつのまにか、二人の姿があった。射命丸文と、鈴仙。竹林で招待状に名を記された者たちだ。文は、霊夢が湖のふちを歩いているあいだに、どこからともなく合流してきた。天狗の記者らしく、こういう場所へは呼ばれずとも現れる。鈴仙は、永遠亭を出るときに永琳に命じられて、霊夢についてきた。名を盗まれた側の証人として、この目で夜会を見てこいというのが、あの医者の言い分だった。

 

「様づけされると、気持ち悪いわね」

 

 霊夢が言うと、咲夜は頭を上げて、静かに答えた。

 

「今夜は夜会ですので」

 

 その一言に、霊夢はこの女の切り替えを見た。ふだんの咲夜は、霊夢を「霊夢さん」と呼ぶ。だが夜会の晩だけは、来客の全員へ「様」をつける。それは親しさではなく、館の作法だった。この女は、私的な場面と館の接客とを、はっきりと分けている。いま咲夜が「様」をつけているのは、霊夢を敬っているからではない。館の客として扱っているからだ。そして、館の客として扱うということは、館の作法に従わせるということでもあった。

 

「この招待状、誰が書いたの」

 

 霊夢が訊くと、咲夜はためらいもなく答えた。

 

「私です」

 

「じゃあ、竹林に置いたのも、あんた?」

 

「置いたのは、別の者です」

 

「誰」

 

「お答えできません」

 

 咲夜はそう言って、静かに微笑んだ。氷のように整った微笑みだった。この女は、答えられることと答えられないことを、あらかじめ分けている。書いたのは自分だと認める。だが、竹林へ運んだ者の名は明かさない。その線引きの向こうに、この館の秘密があった。霊夢は、それ以上を問わなかった。問うても、この女は答えない。答えないことで、この女は自分の役目を守っている。

 

「霊夢様」

 

 咲夜は、ホールの奥の大扉へ手を向けながら、静かに言った。

 

「今夜、紅魔館はあなた方を客として迎えています。ですが、客である限り、館の作法には従っていただきます」

 

「幻想郷のルールは、通じないってこと?」

 

「ここは、紅魔館です」

 

 咲夜の答えは、短かった。だが、その短さが、この館の立ち位置を言い切っていた。幻想郷には幻想郷の均衡がある。博麗が判で縛り、白玉楼が金で縛り、八雲が制度で縛る。だが、この赤い館の門をくぐった瞬間から、そのどれもが通じなくなる。ここは幻想郷であって、幻想郷ではない。湖に浮かぶこの赤い傷の内側だけは、別の律で回っている。咲夜の一言は、その境目を、霊夢へはっきりと示していた。

 

 咲夜が、大扉を開いた。

 

 その向こうに、大広間があった。

 

 長い卓が、部屋の中央を貫くように据えられている。卓の上には、酒があり、料理があり、山と積まれた果物があった。赤い菓子が、皿の上で灯りを受けて艶やかに光っている。その卓を囲むようにして、大勢の客がいた。だが、その客たちは、ふつうの社交場の顔ではなかった。顔を布で隠した妖怪がいた。名を出せない身なりの商人がいた。山の技術者らしい者がいた。人里の金貸しの顔もあった。どこかの寺の使いらしき者もいた。誰もが杯を手にして、誰もが笑っている。だが、その笑いの下で、誰もが互いを見ていた。相手が誰で、何を握り、何を売り買いしに来たのかを、探り合うように見ていた。

 

 この夜会そのものが、取引の場だった。

 

 華やかな社交の顔をしながら、その卓の下では、名を出せない品が動いている。誰が誰の隣に座るか。どの杯がどの卓へ回るか。その席次の一つ一つが、そのまま裏取引の格付けになっていた。霊夢は、卓の間を歩きながら、その空気を嗅ぎ取った。永遠亭の廊下が沈黙で仕切られていたように、この広間は、笑い声で仕切られていた。笑いながら、誰も本当のことは言わない。言わないことが、この夜会の作法だった。

 

 広間の最奥に、赤い椅子があった。

 

 その椅子に、レミリア・スカーレットが座っていた。

 

 小柄な体を赤い衣に包み、片手に杯を持って、けだるげに肘掛けへもたれている。だが、その小柄な体から放たれる圧は、広間のどの客よりも重かった。五百年を生きた吸血鬼が、その年月をそのまま身にまとって座っている。隣には、パチュリー・ノーレッジがいた。書見台に開いた本へ目を落とし、こちらを見ようともしない。ただ、そこにいる。館の帳簿を握る者が、主のかたわらで静かに数字の側から夜会を見張っている。そういう配置だった。

 

「来たわね、霊夢」

 

 レミリアが、杯を揺らしながら言った。

 

「呼んだんでしょ」

 

「呼んだからといって、来るとは限らない。でも、あなたは来た」

 

「小細工したみたいね。竹林に招待状なんか落として」

 

「紅魔館が招待するとき、それは小細工ではなく命令よ」

 

 レミリアは、そう言って笑った。上品な笑みだった。だが、その上品さの奥に、支配することに慣れきった者の傲慢が沈んでいた。命令。この吸血鬼は、招待を命令と呼ぶ。招かれた者は従うのが当然で、従わない者などそもそも想定していない。その前提そのものが、この館の律だった。

 

「幻想郷で、命令される覚えはないわ」

 

「幻想郷?」

 

 レミリアは、その言葉を面白がるように繰り返した。杯の赤い液体が、灯りを受けてゆっくりと揺れた。

 

「霊夢。あなたはまだ、自分が幻想郷の中心にいると思っているの?」

 

「少なくとも、異変の中心には、よくいるわね」

 

「それは、掃除係としてでしょう」

 

 その一言で、広間の空気が凍った。

 

 笑っていた客たちが、いっせいに口をつぐんだ。弦楽器の音だけが、途切れずに流れている。だが、その音さえ、どこか場違いに響いた。レミリアは、凍った空気の中で、なお微笑みを崩さなかった。この女は、いま自分が言ったことの重さを、はっきりと分かって言っている。分かって言うことで、相手を試している。

 

「あなたは、掃除係」

 

 レミリアは、静かに続けた。

 

「幻想郷で何かが散らかると、最後に出てきて片付ける。便利ね。誰もが頼りにする。でも、片付ける者が、館の主人になれるわけではない。散らかす者が上で、片付ける者が下。それが、この世界の順番よ」

 

「主人、ね」

 

「そう。幻想郷は、誰のものか。答えは簡単。所有できる者のものよ」

 

 霊夢は、その言葉を静かに受け止めた。所有。この吸血鬼の物差しは、そこにあった。異変を裁く権威も、賭場を握る力も、この女から見れば、しょせん掃除係の道具にすぎない。片付けることと、所有することは違う。片付ける者は、散らかった後にしか出てこられない。だが、所有する者は、散らかる前からそこにいる。レミリアが言っているのは、そういうことだった。

 

「紅魔館が、幻想郷を所有するって言うの」

 

「できる部分は、ね」

 

「できない部分は」

 

「できるようにする」

 

 レミリアの答えには、迷いがなかった。杯の赤を揺らしながら、この女は幻想郷そのものを一つの財産として語っていた。所有できる部分は所有し、できない部分は、できるようにしていく。五百年をかけて、この女はそうやって館の版図を広げてきたのだろう。血統を持つ者が上に立ち、長く生きる者が支配する。それが自然だと、この吸血鬼は信じきっている。

 

 咲夜が、レミリアの背後で静かに立っていた。パチュリーは、本から目を上げない。客たちは、息を潜めたまま、成り行きを見守っている。霊夢は、そのすべてを視界の端に置きながら、卓の上の一点へ目をやった。銀の盆が、卓の中央に据えられている。ふつうの盆ではなかった。何かが、その下に仕込まれている気配があった。

 

「ずいぶん、独裁的ね」

 

 霊夢が言うと、レミリアは、その言葉を楽しそうに転がした。

 

「独裁? それは、人間が多数というものを信じているから、怖がる言葉でしょう」

 

 レミリアは、杯を卓へ置いた。

 

「私は、吸血鬼よ。長く生きる者、強く支配する者、血統を持つ者が上に立つ。多数が正しいなんて、私は一度も思ったことがない。数が多いほうが上なら、蚊のほうが私より偉いことになる。上に立つべき者が上に立つ。それの、どこが独裁なの」

 

 その理屈は、まぎれもなく傲慢だった。だが、まったくの詭弁とも言い切れなかった。この幻想郷では、実際に、力を持つ者が上に立っている。博麗も、白玉楼も、八雲も、みなそうだ。ただ、それを口に出して言うか、言わずにおくかの違いだった。他の頭目たちは、それを均衡という言葉で覆い隠している。だが、この吸血鬼だけは、覆いを剥いで、そのまま口にする。上に立つべき者が上に立つ、と。その剥き出しの物言いが、この女の恐ろしさであり、同時に、この女の危うさでもあった。

 

 霊夢は、話の向きを変えた。

 

「命蓮寺の船荷に、紅魔館の封印箱があったって聞いたわ」

 

 その言葉に、パチュリーが、はじめて本から目を上げた。

 

「何が入ってたの」

 

「帳簿よ」

 

 答えたのは、パチュリーだった。感情のない、乾いた声だった。

 

「紅魔館の、外部契約台帳。保護対象、奉仕契約、医療委託、物資移送、沈黙契約、身元保証、労務登録。館が外の者と結んだ約定を、まとめて一冊にしたものよ」

 

「保護対象。奉仕契約」

 

 霊夢は、その言葉を繰り返した。

 

「つまり、人を物みたいに扱ってる帳簿ってこと?」

 

 レミリアは、笑みを消さなかった。

 

「物みたいに、ではないわ」

 

 静かに、しかしはっきりと、この吸血鬼は訂正した。

 

「資産として、扱っているの」

 

「同じでしょ」

 

「違うわ。物は、使えば減る。だが資産は、扱い方しだいで増える。行き場をなくした者。借金で潰れた者。名を消したい者。里にいられなくなった者。そういう者を、私は引き取る。引き取って、館の資産として登録する。里で野垂れ死ぬより、館の資産になったほうが、よほど生き延びられる。私は、拾っているのよ。捨てられた者を」

 

「最低ね」

 

 霊夢が短く言うと、レミリアは、かえって面白そうな顔をした。

 

「そうかしら」

 

 レミリアは、卓の縁を指でなぞりながら、静かに問い返した。

 

「博麗の賭場で負けた人間は、どうなるの。守矢の講で、払い続けられなくなった者は。永遠亭で、治療の代わりに秘密を預けた者は。八雲の工事で、名もなく穴を掘る河童たちは。命蓮寺の船で、返せぬ借りを働きで返している者たちは。白玉楼から金を借りて、返せなくなった者は。ねえ、霊夢。答えて。彼らは今、どこにいるの」

 

 霊夢は、答えなかった。

 

「幻想郷は、最初から、弱い者を何かに変えて回っているのよ」

 

 レミリアは、微笑みを崩さぬまま、言い切った。

 

「賭場は、負けた者を借金に変える。講は、信じた者を布施に変える。薬は、病んだ者を得意客に変える。工事は、貧しい者を人手に変える。私は、それを資産と呼んでいるだけ。呼び方が正直なだけで、やっていることは、みんな同じよ。博麗のあなたも、含めてね」

 

 その言葉は、ひとつの刃だった。だが、その刃は、まっすぐに霊夢の急所を突いてもいた。賭場で負けた者を借金に変えているのは、まぎれもなく霊夢自身だ。この吸血鬼は、それを分かって言っている。全員が弱い者を何かに変えて回している。ただ、それを資産と正直に呼ぶか、均衡と呼んで覆い隠すかの違いだけだ。レミリアの言い分には、たしかに一分の理があった。だからこそ、霊夢はこの吸血鬼を、頭ごなしに悪党と切り捨てられなかった。ここにいる全員が、同じ穴の悪党だった。ただ、この女だけが、その穴の底を隠そうともしなかった。

 

 その時だった。

 

 卓の中央に据えられていた銀の盆が、ぱきりと乾いた音を立てて割れた。

 

 客たちが、いっせいに身を引いた。割れた盆の下から、一通の黒い封筒が現れた。誰かが、あらかじめそこに仕込んでいたのだ。銀の盆を割らねば取り出せないように、この夜会の卓の真下へ、その封筒を隠していた。竹林の迷いを操り、永遠亭の封印を破らずに中身を抜いた者にとって、夜会の卓へ封筒を一つ仕込むくらい、造作もなかっただろう。

 

 霊夢は、卓の上へ手を伸ばして、その黒い封筒を取り上げた。

 

 封を切ると、中から一枚の紙が出てきた。墨で、短い文字が刷られている。永遠亭の裏口へ撒かれた紙片と、同じ筆致だった。

 

『紅い館は、誰を所有している』

 

 霊夢は、次の行へ目を落とした。

 

『所有された者は、誰の名で売られた』

 

 さらに、次の行があった。

 

『地下の帳簿を開け。次は、死者の蔵』

 

 霊夢は、その最後の一行を、しばらく手の中で眺めていた。地下の帳簿。死者の蔵。永遠亭のときと同じだった。名を盗む者は、暴くべき次の場所を、こうして指し示していく。永遠亭の裏口では「次は紅い館」と刷った。その言葉どおり、霊夢はいまこの紅い館にいる。そして、この館の卓の下からは、また次の矢印が現れた。次は、死者の蔵。それがどこを指しているのかは、幻想郷に住む者なら誰でも分かった。

 

「白玉楼か」

 

 霊夢が、ぽつりと呟いた。

 

 その直後だった。広間の外で、何かが置かれる、鈍い音がした。門のほうからだ。美鈴が守る、あの門の外側からだった。咲夜が、音のした方角へ視線を走らせた。だがその足は、動かなかった。夜会の最中に主のそばを離れるわけにはいかない。しばらくして、ひとりの給仕が広間へ駆け込んできて、咲夜に何かを耳打ちした。咲夜の眉が、わずかに動いた。

 

「門の外に、箱が置かれていたそうです」

 

 咲夜が、静かに報告した。

 

「誰が運んだのかは、分かりません。美鈴は、門の内側を見張っていました。外側から、いつのまにか置かれていたと」

 

 霊夢は、その報告を聞いて、内心で舌打ちした。美鈴が背筋を伸ばして門を守っていた、まさにその外側へ、何者かが箱を置いていった。門番の目を盗んでではない。門番の目が届かないところに、平然と置いていったのだ。竹林の迷いを操る者と、同じ手口だった。守りは完璧なまま、その守りのすぐ外側を、易々と通り抜けていく。

 

 箱は、広間へ運ばれてきた。

 

 赤い布で包まれた、小さな箱だった。咲夜が布を解くと、中から一冊の古い帳面が出てきた。表紙は色褪せ、綴じ糸はところどころ切れかけている。ずいぶん古いものだった。その表紙に、墨で短く、一言だけ書かれていた。

 

『命の値段』

 

 霊夢は、その帳面を開いた。

 

 中には、細かな文字がびっしりと連なっていた。名前と、数字。名前と、数字。それが、何頁にもわたって続いている。名前のほうは、人のものだった。里の者の名も、妖怪の名も、寺の使いの名もあった。数字のほうは、金額だった。だが、その金額が何を意味するのかを、表紙の一言が言い切っていた。命の値段。この帳面に並んでいるのは、人ひとりの身柄につけられた値だった。誰かが、この帳面へ、人の命を金額に換えて書き連ねていた。

 

 レミリアの笑みから、はじめて余裕が消えた。

 

 それまで、どんな言葉を向けられても崩れなかった微笑みが、その古い帳面を目にした瞬間、わずかに強張った。この吸血鬼が表情を動かすのを、霊夢ははじめて見た。レミリアは、その帳面を、しばらく黙って見つめていた。それから、低い声で言った。

 

「なるほど。私たちを、踊らせたいのね」

 

「踊るの?」

 

 霊夢が問うと、レミリアは、強張りをすっと消して、また元の微笑みへ戻った。だが、その微笑みの奥には、さっきまでなかった冷たいものが宿っていた。

 

「いいえ」

 

 レミリアは、静かに言った。

 

「踊らせた者を、次の曲で吊るすわ」

 

 その一言に、この吸血鬼の芯があった。名を盗まれ、名を借りて怒らされ、踊らされている。それを、この女はもう分かっている。分かったうえで、踊らされたふりをして、踊らせている者の首を、いずれ絞めにいく。五百年を生きた者の、そういう執念が、その一言には籠もっていた。霊夢は、この点だけは、この吸血鬼と自分が似ていることを認めた。動かされているうちは、まだ相手の手の内にある。だが、動かされているふりをして、動かしている者の手元を覗くことはできる。それが、この幻想郷で長く生き延びてきた者たちの、共通の流儀だった。

 

「その帳面」

 

 霊夢は、レミリアへ問うた。

 

「あんたのところの帳面?」

 

「違うわ」

 

 答えたのは、パチュリーだった。書見台の本を閉じ、はじめて霊夢のほうへ向き直っていた。

 

「うちの外部契約台帳とは、綴じ方が違う。糸の通し方も、紙の裁ち方も。これは、うちのものではない。だが」

 

 パチュリーは、そこで一度言葉を切った。

 

「だが、うちの台帳の写しを、別の題でまとめ直したものかもしれない。本物を切り貼りして、悪意ある表紙をつけたもの。命の値段、なんていう題は、うちの帳簿には決してつけない。数字は数字。うちは、そう記す。こういう題をつける者は、数字を怒りに変えたい者よ」

 

 その説明を聞いて、霊夢は永遠亭の輝夜の言葉を思い出した。名前を盗む者。名を借りて怒らせる者。この帳面もまた、同じ手口だった。中身は本物かもしれない。だが、その本物へ、怒りを煽る題をつけて、名を盗まれた者たちの目の前へ投げつける。命の値段。その四文字が、この夜会の華やかな笑いを、いっぺんに冷えさせた。

 

 霊夢は、パチュリーへ目を向けた。この魔女は、館の帳簿をすべて頭に入れていると言われる者だった。どの取引が誰の名で動いたのかを、数字の側から一冊残らず握っている。表舞台へ立つことはなく、その栄誉はいつもレミリアや咲夜へ譲られてきた。だからこそ、こういう問いを最も正確に答えられるのも、この魔女だった。

 

「あんたは、館の帳簿を全部握ってるんでしょ」

 

 霊夢が言うと、パチュリーは、感情の読めない目でこちらを見た。

 

「握っている、というより、憶えているだけよ」

 

「その憶えてる中に、命の値段はある?」

 

 パチュリーは、しばらく答えなかった。書見台の縁を、指先で一度だけ叩いた。それは、この寡黙な魔女がめずらしく見せた、逡巡のような仕草だった。

 

「数字は、ある」

 

 やがて、パチュリーは静かに言った。

 

「だが、うちの帳簿では、それを命の値段とは呼ばない。契約額と呼ぶ。移送費と呼ぶ。保証金と呼ぶ。呼び方を変えれば、同じ数字が、まったく違うものに見える。命の値段なんて題をつけるのは、その数字を憎ませたい者だけよ。そして、その者は、うちの呼び方も、うちの綴じ方も、うちの隠し方も、知り尽くしている。知らなければ、こんなふうには真似できない」

 

 その言葉に、霊夢は引っかかりを覚えた。うちの呼び方も、綴じ方も、隠し方も知り尽くしている者。それは、館の内側を知る者ということだった。パチュリーは、それを口にしながら、どこか遠くを見るような目をしていた。まるで、その者の顔に、心当たりがあるかのように。だが、この魔女は、それ以上は言わなかった。言わないことで、この魔女もまた、自分の役目を守っていた。霊夢は、その沈黙の底に、まだ名の出てこない誰かの影を感じた。だが、それを問い詰めるには、この夜会は華やかすぎ、そしてこの魔女は、あまりに口が重かった。

 

 霊夢は、帳面を赤い布で包み直して、鈴仙へ手渡した。

 

「持ってて」

 

 鈴仙は、青ざめた顔で、その帳面を両手で受け取った。永遠亭の兎にとって、命を金額に換えた帳面は、あの屋敷の薬棚とどこかで通じるものに見えたのかもしれない。救う量と壊す量の境目を、紙一枚の薄さで決める。人ひとりの身柄を、数字一つで書き記す。屋敷は違っても、その底には、同じ冷たさが沈んでいた。

 

「霊夢様」

 

 咲夜が、静かに声をかけてきた。

 

「もう、お帰りですか」

 

「用は済んだわ」

 

「今夜の夜会は、まだ続きます」

 

「続けたいなら、勝手に続ければいい」

 

 霊夢は、そう言って、大扉のほうへ足を向けた。だが、数歩進んだところで、ふと立ち止まって、レミリアのほうを振り返った。

 

「ひとつ、訊いていい」

 

「なにかしら」

 

「この帳面が本物なら、ここに名前を書かれた連中は、今どこにいるの」

 

 霊夢の問いに、レミリアは、しばらく答えなかった。

 

 赤い椅子にもたれたまま、杯の赤を揺らしていた。その沈黙が、答えだった。どこにいるのか。この吸血鬼は、それを知っている。知っていて、言わない。言えば、それはこの館の底を、自分の口で暴くことになるからだ。名を盗む者が里に撒こうとしている問い――紅い館は誰を所有しているのか、所有された者は誰の名で売られたのか――その答えを、レミリアは自分の胸の内に沈めたまま、口を開かなかった。

 

「言わないのね」

 

「言う必要が、ないもの」

 

 レミリアは、静かに微笑んだ。

 

「あなたは、掃除係でしょう。散らかったものを片付けるのが役目。散らかす前のことを、片付ける者が知る必要はないわ」

 

 その言葉は、突き放すようでいて、どこか疲れてもいた。五百年を生きた者の、底のない疲れだった。この女は、自分の館の底に何が沈んでいるのかを、誰よりも知っている。知っていて、その重さを、上品な微笑みの奥に沈め続けている。名を盗む者は、その沈黙を暴こうとしている。そして、暴かれれば困る者ほど、動く。レミリアは、いま動くべきときと、沈黙を守るべきときとを、天秤にかけていた。そういう顔だった。

 

 霊夢は、それ以上は問わなかった。

 

 問うても、この吸血鬼は答えない。永琳が救う量と壊す量の境目を語らなかったように、レミリアもまた、赤い杯の底に沈めたものを語らない。この幻想郷では、どの屋敷にも、底に沈めたものがある。永遠亭には薬瓶の底の沈黙があり、紅魔館には赤い杯の底の秘密がある。そして白玉楼には、死者の蔵がある。名を盗む者は、その底を一つずつ暴いて回っている。暴かれて困る者が動き、動いたところで、また次の底が水面へ浮かんでくる。焼け跡ほど、地面の空くものはない。輝夜の言葉が、霊夢の耳の奥で、もう一度響いた。

 

「射命丸文」

 

 霊夢は、背後の天狗を振り返った。文は、いつのまにか手帳を開いて、何かを書き留めていた。この記者は、夜会のあいだ、ほとんど口をきかなかった。ただ、見ていた。すべてを見て、すべてを書き留めていた。名を盗まれた側として招かれた者たちの中で、この天狗だけが、盗まれることを商売にできる立場にいた。

 

「あんた、この夜会のこと、記事にする気?」

 

「まさか」

 

 文は、手帳から目を上げて、営業用の笑みを浮かべた。

 

「こんな上等なネタを、そのまま刷ったりしませんよ、霊夢さん。良い情報ほど、寝かせるものです。誰が、いつ、いくらで欲しがるか。それを見極めてから値をつける。私たちの商売は、そういうふうにできていますから」

 

「その情報を、名前を盗んでる連中に売ったりしないでよ」

 

「売りませんとも」

 

 文は、そう言って手帳を閉じた。だが、その笑みの奥が、本当に何を考えているのかは、霊夢にも読めなかった。この天狗は、情報を全勢力へ同時に流して価格を吊り上げることもできる者だ。今夜見たものを、いつ、誰へ、どの順で流すか。それしだいで、幻想郷の均衡は大きく傾く。名を盗む者が疑心暗鬼を撒いているこの盤の上で、天狗の記者もまた、いつでも火に油を注げる位置に立っていた。招かれた三人のうち、鈴仙は名を盗まれた側の証人であり、霊夢は名を盗まれた側の当事者だった。だが文だけは、名を盗まれたことすら、商売の種にできる立場にいる。それが、この記者の底知れなさだった。

 

 霊夢は、大扉をくぐって、玄関のホールへ戻った。

 

 弦楽器の音が、背後で、まだ物憂げに流れていた。客たちの笑い声も、また戻り始めていた。命の値段と書かれた帳面が現れても、この夜会は止まらない。しばらく凍った空気も、時が経てばまた温まる。誰かが底を暴かれかけても、この館の宴は続く。永遠亭が明日も患者を診て沈黙を売るように、紅魔館もまた、暴かれかけた底を静かに沈め直して、次の夜会を開くのだろう。この幻想郷の屋敷というものは、そう簡単には崩れない。崩れる前に、たいていは誰かが、その底へ新しい沈黙を沈めてしまうのだった。

 

 玄関のホールを抜けて、門をくぐると、美鈴がまだ、背筋を伸ばして立っていた。

 

 霊夢の姿を見ても、美鈴は表情を変えなかった。ただ、通り過ぎる霊夢へ、静かに頭を下げた。門を抜かれることなく、夜会は無事に済んだ。この門番の役目は、それで果たされた。中で命の値段が飛び出したことも、卓の下から黒い封筒が現れたことも、この門番は知らないのかもしれなかった。知らないまま、それでも門を守り抜いた。守るべきものの核心を知らぬまま守り続ける門番の孤独が、その静かな一礼に滲んでいた。

 

「あんた、中で何があったか、訊かないの」

 

 霊夢が、通りすがりに言うと、美鈴は、わずかに首を振った。

 

「門番は、門の外だけを見ています」

 

 美鈴は、穏やかに答えた。

 

「中のことは、私の役目ではありません。私が知るべきなのは、誰を通し、誰を止めるか。それだけです」

 

「知りたくないの? 自分が何を守ってるのか」

 

 美鈴は、その問いに、一瞬だけ黙った。

 

 湖から這い上がってくる霧が、二人のあいだを白く流れた。門の赤い灯りが、その霧の中で、ゆらゆらと尾を引いていた。美鈴は、しばらくその霧を見つめてから、静かに口を開いた。

 

「知れば、守れなくなるかもしれません」

 

 それだけ言って、美鈴はまた、まっすぐに湖のほうへ向き直った。門番の顔に戻っていた。霊夢は、それ以上は問わなかった。永遠亭のてゐが、沈黙で助かる命もあると言った。この門番もまた、知らないことで守れるものがあると言っている。どちらも、強がりではないのかもしれなかった。知らないからこそ、迷わず門を守れる。知らないからこそ、迷わず沈黙を売れる。この幻想郷では、知らないでいることそのものが、ひとつの流儀だった。

 

 霊夢は、湖のふちの細い道を、来た方角へと歩き出した。

 

 霧が、いっそう濃くなっていた。黒い鏡だった湖面が、もう見えなくなっている。背後で、赤い館の灯りだけが、霧の向こうにぼんやりと滲んでいた。あの館は、今夜暴かれかけた自分の底を、また静かに沈め直すだろう。命の値段の帳面が持ち出されても、明日にはまた夜会を開いて、上品な微笑みの奥に赤い杯の底を隠す。レミリアは、踊らせた者を次の曲で吊るすと言った。あの吸血鬼は、必ずそれをやる。だが、そのために、まずは名を盗む者の手元を読まねばならない。その一点で、あの吸血鬼と霊夢は、同じ盤の上に立っていた。

 

 鈴仙が、後ろから、遠慮がちに声をかけてきた。

 

「霊夢さん」

 

「なに」

 

「あの帳面、本物だと思いますか」

 

 鈴仙は、赤い布に包んだ帳面を、両手で抱えたまま訊いた。永遠亭の兎らしく、その声には、真面目な戸惑いが滲んでいた。

 

「本物かどうかは、どうでもいいのよ」

 

 霊夢は、歩きながら答えた。

 

「永遠亭の偽薬と同じ。本物に見えれば、それでいい。あの帳面に名前を書かれた連中が本当にいようがいまいが、里の連中がそれを信じて怒れば、盤は動く。名前を盗む奴が狙ってるのは、そこよ。本物の証拠じゃない。動いた者が、隠してたものを揺らすこと。それだけ」

 

「では、私たちも、揺らされているんですか」

 

「そうね」

 

 霊夢は、少し間を置いてから、続けた。

 

「揺らされてる。でも、揺らされてるふりをして、揺らしてる奴の手元を覗くこともできる。永遠亭の裏口で紙が撒かれて、竹林で招待状を拾って、こうして紅い館まで来た。次は、死者の蔵ですって。あの黒い封筒は、そう言ってる。だったら、行ってやるわ。行かなきゃ、盤の外の顔は見えない」

 

 文が、後ろから口を挟んだ。

 

「白玉楼、ですね」

 

「そうよ」

 

「霊夢さん。白玉楼は、少々厄介ですよ」

 

 文は、営業用の笑みを潜めて、めずらしく低い声で言った。

 

「あそこは、痛めつけない金貸しです。永遠亭が沈黙を売り、紅魔館が資産を握るのとは、また質が違う。白玉楼が恐ろしいのは、静かに筋を通させるところです。あの帳面が本当に白玉楼の写しなら、次に会うのは、幻想郷でいちばん読めない微笑みですよ」

 

 霊夢は、その言葉を、黙って受け止めた。

 

 西行寺幽々子。冥界の名家の主にして、幻想郷の金の流れをすべて一冊の帳簿に収めている者。飄々とした物腰の奥に、冷たい淵を抱えた亡霊。永遠亭の永琳が救う量と壊す量の境目を語り、紅魔館のレミリアが所有と資産を語ったように、白玉楼の幽々子もまた、死者と生者の境目で、独自の理屈を握っている。名を盗む者は、その死者の蔵を、次に暴こうとしている。命の値段と書かれた古い帳面を、わざわざ紅魔館の夜会の卓の下から浮かび上がらせて、白玉楼へと矢印を向けた。

 

「読めない微笑みなら、慣れてるわ」

 

 霊夢は、そう言って、霧の中を歩き続けた。

 

 湖のふちの道が、里へと続いている。その道の先の、さらに奥に、冥界へ通じる石段があるはずだった。名を盗む者が霊夢を白玉楼へ向かわせたいなら、向かってやればいい。盤の上で動かされる駒のふりをして、盤の外にいる者の顔を、こちらから覗いてやる。永遠亭でそう決めたときと、霊夢の腹は変わっていなかった。名を借りられ、賭場のそばで均衡を揺らされ、竹林の奥まで足を運ばされ、こうして紅い館の夜会にまで招かれた。ここまで動かされて、最後の蔵にだけ足を運ばずにいられる質ではなかった。

 

 しばらく歩くと、霧が、少しずつ薄れ始めた。

 

 背後を振り返ると、赤い館の灯りは、もう霧の向こうへ完全に沈んで見えなくなっていた。あの夜会は、今ごろまた、笑い声で満ちているのだろう。命の値段の帳面のことなど、なかったかのように。名を盗まれても、底を暴かれかけても、この幻想郷の屋敷は崩れない。ただ、崩れる前に、その底へ新しい沈黙を沈めるだけだ。だが、と霊夢は思った。沈めた沈黙は、いつか浮かぶ。名を盗む者は、その浮かぶ瞬間を、一つずつ手繰り寄せている。永遠亭の底。紅魔館の底。そして、死者の蔵の底。

 

 霊夢は、赤い布に包まれた帳面を抱える鈴仙を、ちらりと振り返った。

 

「その帳面、白玉楼で使うわ」

 

「使う、とは」

 

「あの微笑みに、突きつけてやるの。命の値段が、あんたのところの写しかどうか。読めない顔がどう動くか、見てやる」

 

 鈴仙は、帳面を抱えなおして、こくりと頷いた。文は、その後ろで、また手帳を開いて何かを書き留めていた。名を盗まれた者たちが、名を盗む者の指し示す矢印を追って、次の底へと向かっていく。それ自体が、名を盗む者の狙いどおりだった。だが、狙いどおりに動くことでしか見えてこない顔も、この盤の上にはあった。動かされながら、動かしている者を読む。霊夢の流儀は、そこにあった。

 

 道の先に、里の灯りが、遠くぼんやりと見えてきた。

 

 その灯りの向こう、さらに奥の暗がりに、冥界へ通じる道が沈んでいる。生者の世界には、夜でも何かしらの音がある。だが冥界へ続く道には、それがない。音が消えるのではなく、音が最初から生まれない場所だと、誰かが言っていた。霊夢は、まだその道を見てはいなかった。だが、命の値段と書かれた帳面が、その道の先を指している。次に相対するのは、幻想郷でいちばん読めない微笑みだった。

 

 霊夢は、指先へ目を落とした。

 

 紅魔館の招待状に染みていた、甘い香水の匂いが、まだかすかに残っていた。饐えた甘さ。赤い杯の底で、長いあいだ沈黙とともに沈められてきたものの匂いだった。その匂いを、霊夢は霧の中へ振り払うように、手を軽く振った。だが、匂いは消えなかった。この夜、霊夢が嗅いだ底の匂いは、指先に染みついて、もう簡単には落ちなかった。

 

「次は、死者の蔵ね」

 

 誰に言うでもなく、霊夢は呟いた。

 

 霧が、また一段、薄れた。湖のうえで、風もないのに、水面がかすかに震えた。黒い鏡が、一瞬だけ、月を映した。だが、映ったのは月だけではなかったかもしれない。その水面には、名を盗む者の顔も、どこかに一瞬、映っていたのかもしれなかった。だが、霊夢が振り返ったときには、湖はもう霧に沈んで、何も映してはいなかった。

 

 冥界へ続く道の奥は、まだ、静かすぎるほど静かだった。

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