イリュジオムの地下、その深淵は腐臭に満ちていた。
本来、首都の結界を維持する生命線たる発光結晶を掘り出すための最重要拠点――『第14採掘区』。だが、いまヘリアの眼前に広がるそれは、機能不全に陥っている。
地層深くへと垂直に穿たれた、直径数百メートルに及ぶ巨大な
壁面に突き刺さる掘削用の巨大な重機はすべて沈黙し、不規則な蒸気をプシューと吐き出す排気管の音だけが、不穏な秒針のように響く。
何より悍ましいのは、縦穴の底から湧き上がる黒霧だった。地下特有の湿気と不浄の霊力が混ざり合ったそれは、冷たく、どこか獣の生臭い呼気の匂いが混ざり合い、視界をわずか数メートル先まで遮っている。床や手すりは界非が撒き散らした粘着質の黒い粘液によってドロドロに泥濘化し、生物の生命力をじわじわと吸い上げる異界へと変貌させていた。
「……お黙りなさい。泣き声で泥が溶けるわけではないでしょう」
凛とした冷徹な声が、薄暗いプラントの空気を切り裂いた。その場に似つかわしくない、白と金を基調とした豪奢な法衣を纏った一人の女性――ヘリア・ル・イグニエルが、網目状の足場を軽やかに歩いてくる。
彼女の周囲だけ、その圧倒的な威圧感ゆえに不浄の霧が近づけないかのようにすら錯覚させる。だが、ヘリアの金色の瞳は、内側で沸き上がる焦燥と嫌悪を隠すために、細く絞られていた。
彼女の前に立っていた数人のアウルム所属の神官たちは、恐怖で顔を引きつらせたまま、その場にへたり込んでいた。彼らにとってヘリアたちル・イグニエルの使徒は、教団の教義から外れた異端であり、同時に、自分たちには到底扱えない劇薬に他ならない――だが、紛れもない英傑でもある。
「ヘ、ヘリア殿……! 助かった……アウルムの防衛隊はもう、全滅寸前で……!」
「無能な猟犬たちですね。防波堤の役割すら果たせず、こうして迷子のように震えているとは」
ヘリアは鼻で笑うと、汚れた鉄骨にそっと指先を添えた。強烈な加護力により異形化した指先が、冷たい鉄にわずかに触れる。
――汚い。
心の中のヘリアが叫ぶ。服の裾が舞うたび、舞い上がる塵や泥が、自身の清浄な装衣を汚そうとする。そのたびに、ヘリアは神経を逆撫でされるような苛立ちを覚えた。
(……すぐ激昂しそうになるのが、私の悪い癖――落ち着きなさい、ヘリア)
自分自身に言い聞かせる。今の自分は、ただのル・イグニエルの戦士ではない。この理不尽な時代において、人類の灯火を守るべき存在であるはずだ。彼女に火を授けた教皇ルートラは自らにそう命じた。ここで感情を爆発させ、戦線を離脱すれば、それは人類にとっての致命的な損失となる。
「……私の言葉が理解できないのですか? 質問を一つ。生存者は何名。そして、この泥の発生源はどこですか?」
努めて冷静に、教科書のような丁寧さで問う。一人の神官が震える手で、より深い地下――逆さ摩天楼の底を指差した。
「そ、そこです……我らが神官、メルクリエ様が部隊と共に……しかし、彼女は……」
ヘリアは指先で顎をなぞる。知っている名前だった。法の教皇ヴェヌスの信徒。自分と同じく“次世代を担う者”と目されたアウルムの天才、メルクリエ。規律と正しさを信仰する、あの融通の利かないガリ勉のことだ。
「口を噤みなさい……賎しくも私と名を並べられる存在が、早々に死ぬはずがありません」
ヘリアは背後に控える、無表情な白磁の従者――
「前進します。貴方たちはここで待機していなさい。泥臭すぎます」
ヘリアは踵を返し、振り返らず底なしの暗闇へと続くキャットウォークへ足を踏み出した。ヒールの音が、不気味なほど鮮明に響く。奥から、ゴボゴボという湿った、肺を腐らせるような異音が聞こえてきた。粘液を使用する界非はどれもこれも厄介なものばかりである。近年暴れ散らかした“ドロドラ”という超強力な界非程の気配は感じないが、油断はできない。
(それに、汚れるのは御免です)
ヘリアはそう呟き、深く息を吐き出す。その瞬間、彼女の背後に、巨大な黄金の円環――『
臨戦態勢に入ってなお優雅な足取りのまま、ヘリアは新しき脅威が蠢く、逆さの摩天楼の深淵へと下っていく。
地下プラントの下層へと進むにつれ、空気は目に見えて重くなり、粘り気を帯びていった。
鉄骨の隙間から這い出してきたのは、この時代に突如として各地で観測され始めた新しき脅威――『
身長2メートルを超える、灰白色の不潔な獣毛に覆われた亜人間の怪物。退化した眼球の代わりに、粘膜に覆われた大きな耳をせわしなく動かし、ヘリアたちの生命力と呼吸を敏感に察知しようとしている。その足元からは、触れた鉄や岩をドロドロの泥へと変質させる黒い粘液が滴り落ちていた。
「不潔なけだもの共。あまりに醜悪で、吐き気がしますね」
ヘリアは美しく整えられた眉を不機嫌そうにひそめたが、その声のトーンはどこまでも平坦で冷徹だった。流石にこの程度の相手に不覚は取らない。むしろ問題となるのは祓滅の仕方となる。周囲には貴重な採掘が転がっているのだ、ヘリアの火力はル・イグニエルにおいても突出して高い。
(落ち着きなさい、ヘリア。感情のままに神器の力を放てば、この貴重な採掘結晶まで灰になります。それは人類の損失――私の理知の敗北です)
敵の群れが一斉にヘリアを察知して牙を剥こうとした瞬間、彼女の背後の『大日臨月輪』が静かに逆回転を始めた。
放たれたのは破壊の炎ではない。月の理による、極限の完全隠蔽だった。
ヘリアの周囲の霊力と体温が、空間から完全に消去される。直前まで目の前にいた獲物の気配を完全に見失い、泥虫たちは困惑したようにゴボゴボと音を立てて立ち尽くした。
「そこですか?」
ヘリアが異形化の指先で空間を鋭く一閃する。その軌跡に沿って、空間そのものが結晶化したかのような透明な鏡面――『辺津鏡』が何重にも展開された。
気配を失ったヘリアを探し、狂ったように泥の弾丸と不浄の霧を撒き散らす界非たち。しかし、それらの攻撃はヘリアに届く直前、辺津鏡の表面に触れた瞬間、幾何学的なラインで綺麗に屈折した。鏡が書き換えたのは物理的な軌道ではない。敵の放った攻撃の標的への指向性そのものを欺き、反転させたのだ。
バチバチと不快な音を立てて、泥の弾が電磁加速され放った張本人たちの肉体を撃ち抜き、黒霧が身内を腐食させていく。ヘリアは指先一つ、服の裾一つ汚すことなく、ただ優雅に歩みを進めるだけで、押し寄せる雑魚の群れを自滅へと追い込んでいった。
鎧袖一触。この程度の相手ならば、群れようとも次世代を担う者の中でも、最強の火力と継戦力を持つヘリア・ル・イグニエルの敵ではない。何の損耗も無く勝利を重ね、敵の防衛線を幾度も突破していく。
その防衛線の最奥で、ヘリアはついに、細い光の障壁に身を隠しながら戦うアウルムの部隊を発見した。
「──光の障壁、第三節を展開!規律を乱すな、一歩も退いてはなりません!」
凛とした、だが明らかな疲弊を孕んだ声。そこにいたのは、白と金の法衣を血と泥で汚し、巨大な法杖を構えた少女――メルクリエだった。
「此処が最終防衛ラインです。イスルンの民ならば死守してみせなさい!」
神官の中では突出して強いはずの彼女だったが、すでにその背にあるはずの輝かしい光の翼は、霊力の枯渇ゆえに火花のようにパチパチと明滅するだけで、本来の光速移動を齎す機動力や、広範囲を焼き払う大火力は見る影もない。残されたわずかな霊力をフェンシングの針のように絞り出し、泥虫の弱点へ正確に突き刺すという、綱渡りの節約戦闘を強いられていた。
「あら、随分とボロボロの小鳥さんですね、アウルムのガリ勉さん」
「ヘ、ヘリア……!?なぜ貴方がここに……っ、いえ、ここは危険です!避難勧告の規律に基づき、速やかに退避を──」
限界を迎えてなお、教科書通りの正しさとプライドを崩そうとしないメルクリエ。ヘリアはそんな彼女の頑固さを、傲慢な、しかしどこか器の広さを感じさせる笑みで見下ろした。
「お黙りなさい。その限界を迎えた霊力でこれ以上杖を振り回されては、私の邪魔ですけれど」
その時だった。
地下プラントのさらに深き闇から、泥濘を揺るがす悍ましい地響きが鳴り響いた。
雑魚とは比較にならない巨体――肥満したヒキガエルとゴリラを融合させたような醜悪な変異体、この突発的な新しき脅威の統率者である『不浄の長老』が、その姿を現したのだ。
長老の濁った眼が、高い霊力を持つヘリアとメルクリエを捉え、その巨大な裂け口のような
即座に反応したのは神官だった。メルクリエは細いリソースを切り即座に結界を展開。
「光の障壁、第三節を十重に展開──えっ、消され……!? そんな、教本にはこのような術式の相殺特性は記載されて──」
教科書のどこにも載っていない、光そのものを融解させる理不尽な初見殺しの一撃。メルクリエの顔から、完全に血の気が引いた。光を腐食させる真っ黒なブレス――『不浄の反吐』の質量と初見の特性を前に、メルクリエの精緻な頭脳が一瞬だけフリーズする。アウルムの育成機関で歴代最高クラスの成績を収め、法と巫覡術を完璧に修めた彼女だが、実戦経験が不足している事が災いした。
この世界は未だ理不尽の霧に覆われているのだ。
死を覚悟し、恐怖に身を強張らせたアウルムの天才。その眼前へ、滑り込むように展開されたのは一枚の『辺津鏡』だった。
ヘリアが異形化の指先で空間をなぞることで生み出された透明な鏡面が、押し寄せる不浄の濁流を受け止める。ガラスや金属のそれとは異なる、空間そのものが結晶化したかのような透明な壁は、濁流の物理的な軌道を単に弾いたのではない。攻撃が宿す『標的への指向性』そのものを欺き、幾何学的なラインでその軌道を綺麗に捻じ曲げたのだ。
ドガァァン!!!
屈折した黒い反吐が、ヘリアのすぐ傍の床を直撃し、地下プラントを激しく揺るがす爆音を立てた。網の目のように組まれたブラックスチールの鉄骨が悲鳴を上げ、衝撃波が狭い通路を吹き抜ける。
防壁としての計算は完璧だった。メルクリエの命を救ったのも事実だ。しかし、予測不能な新脅威の放ったエネルギーの爆風は、ヘリアの緻密な想定をほんのわずかに上回っていた。
爆風によって、先ほどヘリアが自滅に追い込んだ『泥這う毛躯』たちの腐った灰白色の濡れ毛と、粘着質の黒くドロドロした泥ヘドロが、雨のように宙に激しく舞い上がる。
そして――それが。
ポタ、ポタポタ。
ヘリアの着る、あの雪のように真っ白な装衣の袖口へ。さらに、彼女が「神へ至る変革」として何よりも誇りに思っていた指先の甲へと、容赦なくベッタリとこびりついた。
しん、と地下プラントの空気が凍りついたように静まる。
ヘリアの動きが完全に止まった。ゆっくりと、自身の汚された指先と、煤けた袖を見つめる。金色の瞳からすべての光が消え失せ、冷徹だった顔から急速に血の気が引いていく。
それは、単に潔癖症だからではない。
彼女にとってこの服の汚れ、指先の汚濁は、自分が“典型的なル・イグニエルの粗暴な戦士”ではなく、一人の尊き人間として生きるために必死に積み上げてきた美しい自分。礼節と知性が、界非という不潔な存在によって暴力的に汚され、内なる残虐性を引きずり出されてしまうことへの逡巡そのものだった。結果は――
――我慢する必要はないと判定。
理性からGOサインを受けた瞬間。頭の芯が沸騰するような、ドロドロとしたル・イグニエルの本性――破壊衝動は、すでに脳内の鎖を一本残らず噛み千切って溢れ出ようとしていた。努力によって己を律し、理想の自分を維持しようとするヘリアの精神的な堤防が、この一滴の泥によって開け放たれたのだ。
「ヘ、ヘリア……? 急に黙って、どうしまし──」
メルクリエがその異常な気配に気付き、本能的な恐怖から一歩退いた、次の瞬間だった。
「───あ?」
地獄の底から響くような、ドスの効いた声。さっきまで聖歌のようだった澄んだ聲音は木っ端微塵に吹き飛び、ヘリアの顔が、怒りと狂気的な残虐性で悍ましく歪んだ。
「───このゲロカスどもがァっっっ!!!!誰の服に、私のこの尊い指に、その汚ねえ腐れ毛とドブヘドロへばりつかせてんだあぁぁぁっっっ!!!」
鼓膜を震わせる怒号と共に、ヘリアは努力の結晶である理知の仮面を完全に投げ捨てた。背後の『大日臨月輪』が、まるで爆発した太陽のように狂った金紅色の熱量で大発光を始める。地下を満たしていた不浄の黒霧が一瞬で「ジュッ!」と音を立てて蒸発し、プラント全体の温度が沸騰するかのように跳ね上がった。
太陽の如き後光を背負いながらヘリアは腰元から、教皇ルートラに認められた存在としての象徴であり、超高熱を宿す近接切り札【八握剣】を荒々しく引き抜いた。
常人なら触れただけで手が焼け落ちる、神の忌み火を宿して激しく赤熱する刀身。それを彼女は、自身の異形化の指先――ヒヒイロカネの爪でガチリと鷲掴みにする。白熱する刃が、不気味なほどの暴の光を放ち始め、周囲の空間を陽炎のように歪ませる。
「ブチ殺すっ!!」
鼓膜をぶち破るような怒号と共に、ヘリアは自ら黒い泥濘の海へと躍り出た。
それは美しいチェス盤の放棄であり、緻密に積み上げてきた理性という名の堤防の完全な決壊。己が本性を呪い、忌み嫌ってきたヘリア自身が、最も恐れていた「ル・イグニエルの怪物」への豹変だった。
元来、本能的に火と熱を極度に嫌う『泥這う毛躯(ヴーアミ・トロール)』たちにとって、白熱する【八握剣】を引っ提げて突撃してくるヘリアは、歩く太陽そのものだった。本能的な絶望に駆られた雑魚の群れが、獣毛を逆立てて一斉に逃げ惑う。だが、一度臨界点を突破したヘリアの残虐性は、害虫の一匹たりとも見逃すつもりはなかった。
「逃げるな!灰に、灰になりなさい!!」
荒々しく横一線に振るわれた八握剣から、扇状の爆炎が衝撃波となって迸る。迫り来る泥毛の波は、刃がその肉体に触れるよりも早く、放射された超高熱によって細胞ごと沸騰し、一瞬で消し炭へと変えられていった。ヘリアが鋭いヒールで鉄骨を踏みしめるたび、足元を汚していた黒い粘液は瞬時に水分を失ってカラカラの白い灰へと焼き固められ、プラントを支える頑強な鉄骨すらも赤黒くドロドロのマグマへと融解していく。
しかし、新しき脅威の元凶である『不浄の長老(ツァトグ・トロール)』も、ただの獣ではなかった。種の全滅を賭けた絶対的な天敵を前に、長老は肥満した巨体を激しく震わせ、狂暴性を爆発させる。その裂け口のような巨大な顎(あぎと)から、先ほどメルクリエの防護陣を紙のように溶かした、あの光と熱を強制消滅させる『不浄の反吐』を、今度はプラントの縦穴全体を埋め尽くすほどの規格外の質量で一斉に放射したのだ。
底なしの闇が、津波となってヘリアを呑み込もうと押し寄せる。光を腐食させる漆黒の濁流。それは、いかに高位の祓魔使であっても防御不能な不条理の塊だった。
「──舐めるなと言っているのです、不潔な泥虫が!!」
だが、ヘリアの放つ原初の火は、その絶望を遥かに凌駕する上位の暴力だった。八握剣を大上段に構え、自らの魂に刻まれたルートラの炎を限界を超えて刃へと注ぎ込む。白熱していた刀身は、直視すれば網膜が焼き切れるほどの純白の臨界点へと達した。
一刀両断
それは神話の光景だった。振り下ろされた純白の熱線は、迫り来る『不浄の反吐』の津波を正面から真っ二つに叩き割る!熱を消滅させるはずの黒い泥濘が、それを遥かに上回る圧倒的な絶対熱量の前に、相殺を許されず強制的に熱分解され、凄まじい水蒸気爆発を起こして四散していく。
「ガ、ブ、ゥゥゥオオォォッ!?」
自身の最大の切り札を力ずくでねじ伏せられ、恐怖に巨体を硬直させる長老。その一瞬の隙を、ヘリアは見逃さなかった。
爆炎を割って突進したヘリアは、長老の強固な泥の装甲を、自身の異形化の指先――ヒヒイロカネの爪で物理的に、雑作もなく引き裂いた。肉を裂くのではない、熱によって装甲ごとドロドロに融解させて抉り開けたのだ。
そして、剥き出しになった敵の胸の核心へと、純白に輝く八握剣を容赦なく突き立てる。
「貴様の死に場所は――此処だァ!!」
ヘリアが叫ぶと同時に、長老の体内へ直接、ル・イグニエルの烈火が流し込まれた。内側から膨れ上がる金紅色の光。次の瞬間、長老の巨体は内側から爆発するように激しく炎上し、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その細胞の最期の一片にいたるまでドロドロの灰へと焼き尽くされ、完全に消滅した。
プラントの縦穴を満たしていた黒霧は完全に一掃され、視界はどこまでもクリアに、そしてカラカラの白い灰に包まれた焦土へと変わっていた。
長い防衛戦で霊力が枯渇していたメルクリエは、ただ呆然と、その光景を見つめることしかできなかった。自分が信じてきたアウルムの規律。必死に節約し、教科書通りに組み立てた防衛線。それは間違いではなかったのは確かだ。それらを超える新しき脅威が現れ、ヘリアという一人の異端が放った、圧倒的な『上位の火力』の前に文字通り塵へと還された。それもまた現実だった
戦場を支配したあまりの暴虐と、その底知れぬ実力。メルクリエは喉を鳴らすことすら忘れ、炎の中に佇むヘリアの背中を凝視していた。
戦闘は終わった。
新しき脅威、暫定名“トロール”は一匹残らず駆逐され、あんなに不潔だった地下プラントは、ヘリアの荒れ狂う熱によってカラカラに乾いた、白い灰の荒野へと変貌していた。
だが、ヘリアの肩は激しく上下したままで、黄金の瞳は血走っていた。ハァ、ハァ、と荒い呼吸を繰り返すたび、口元から熱い呼気が漏れ出す。剥き出しになったル・イグニエルの残虐性。その昂ぶりが収まるにつれ、熱が引いていく脳の片隅で、今度は激しい自己嫌悪の波が押し寄せていた。
(……また、やってしまいました)
私は、あんな粗暴な怪物になりたくなくて、必死に本を読み、礼節を学び、計算を重ねてきたというのに。
またあの醜い本性を晒し、下品な言葉を喚き散らし、ただ暴力のままにすべてを焼き尽くしてしまった。戦術としては正しい判断だと確信してはいるものの、理想として美しくあるべき自分が、内なる獣に堕した事は間違いない。
「最悪……! 最悪よ……!私のバカ!感情を支配されるなんて、礼節の欠片もないわ!!」
頭の芯に残る残虐性の残滓、そして自己嫌悪のストレス。膨れ上がった過負荷の熱量を排出しなければ、自分が完全に狂ってしまう。よって、限界を迎える前にヘリアは、傍らに控えていた白磁の従者――『式』の顔面に向かって、異形の拳を容赦なく叩きつけた。
バキィッ!
硬質な、しかしどこか虚無的な音が響き、式の滑らかな白い仮面に鮮烈な亀裂が走る。だが、式は避けることもせず、その衝撃をただ静かに受け止めた。ヘリアの激昂は止まらない。なおも、式の胸をポカスカと両拳で乱暴に殴りつける。
式は静かに、ヘリアの拳を受け止めながら、彼女の荒れ狂う過負荷の熱量を自らの体内に吸い上げていく。白磁の体のヒビから、プシューと音を立てて金色の熱気が排熱される。どれほど殴られても、式は拒むことも首を振ることもせず、一通り殴られ終えるのをただ待っていた。
ヘリアが前線を離れれば、人類にとって致命的な損失になる。だからこそ、ヘリアはこの人間ではない「式」を殴ることで、物理的に精神を排熱し、必死に「あるべき優美な自分」へと繋ぎ止めている。式は彼女の狂気を安全に処理するための、壊れても構わない特別なサンドバッグなのだ。
だから彼/彼女には戦闘力は愚か、口も無いのだから。
ヘリアの息がようやく落ち着く。式は壊れた顔のまま、懐から一枚の白いハンカチを取り出し、ヘリアの汚れた指先を丁寧に、優しく拭い始めた。
「……ご苦労」
汚れが拭われ、精神の放熱を終えたヘリアは、再び、優雅で理知的な声音を被り直した。
ふと見ると、少し離れた鉄骨の陰で、メルクリエがその場にペタンと座り込んでいた。神官の中では突出して強いはずの自分が、実戦での理不尽を前に手も足も出なかったこと。そして、目の前で行われたヘリアという異端の、圧倒的で暴虐な戦い。
自分の作戦の甘さ、経験不足、そして限界を完璧に突きつけられたアウルムの天才は、プライドを粉砕され、大粒の涙をポロポロと流していた。
「ひっ、ふえぇん……! わ、私が間違っていたというのですか……!? 規律通りに、教本通りに計算したのに……そんな、そんなのってないです……ううぅ、うわぁぁぁん!!」
子供のように声を上げて大泣きし始めるメルクリエ。ヘリアはため息をつき乱れた髪を指先で整えながら、メルクリエへと近づいた。
「泣くのをやめなさい、アウルムのガリ勉さん。見苦しいです」
声をかけた瞬間、メルクリエは泣き止み冷静なトーンで涙を拭いながら答える。
「ひぐっ……はい、何か? これはれっきとした、涙によるストレス対応術ですけど……!?」
涙を拭い、澄まし顔を取り戻しているメルクリエ。ヘリアはそんな彼女を見つめ、ふっと小さく、今度は皮肉ではない笑みを浮かべた。
「貴方の頑固さは相変わらず評価出来ませんが、限界まで生存者を守り抜いたその『意志の厳格さ』だけは、評価して差し上げてもよろしいですよ……さあ、早く引き揚げましょう。私たちがここで突っ立っていては、施設の修理が滞ります」
ヘリアが差し出した、変異した異形の指先。メルクリエはその異形の、しかし誰よりも誇り高い手を驚きの目で見つめ、それから、自分の法杖を支えに立ち上がった。
「……助けていただいたことは、法区の規律に則り感謝します。ですが、次こそは私の『光の翼』が、貴方の不届きな炎より早くすべてを片付けてみせますから」
アウルムとル・イグニエル――所属する教区も、信じる正しさも、戦いの在り方も何から何まで反発し合う二人の英雄。けれど、未だ理不尽の霧に覆われたこの時代において、彼女たちこそが間違いなく、人類の次世代をその肩に担うべき若き星たちだった。
完璧な理知を誇る烈火の異端と、教科書通りの厳格さを殉じる光の神官。互いの背中を追うライバルとして、あるいは苛烈な世界を繋ぎ止める不本意な協力者として。
最悪の泥濘の中で結ばれた歪な絆は、白い灰の焦土と化した地下プラントの底から、今、確かな熱量を持って歩みを始めた。