冷たい。
全身から少しずつ熱が失われていく。
薄暗い独房。
錆びた鉄格子。
湿ったコンクリートの床。
小西浩平は痩せ細った身体を簡素なベッドへ横たえ、静かに天井を見つめていた。
神奈川毒物カレー事件。
日本中を震撼させた大量殺人事件。
その犯人として逮捕され、死刑判決を受けて十数年。
何度も冤罪を訴えた。
何度も再審請求を行った。
しかし、誰一人として耳を貸さなかった。
警察は証拠を信じた。
裁判所は判決を信じた。
そして何より、人々は名探偵の推理を信じた。
「……〇〇 〇〇」
乾いた唇から、その名だけが漏れる。
怒りなのか。
憎しみなのか。
あるいは、理不尽への諦めなのか。
自分でも分からなかった。
「俺は……やっていない……」
かすれた声は、誰にも届かない。
独房には、自分の呼吸だけが静かに響いている。
(これで終わりか)
誰にも信じてもらえず。
誰にも救われず。
冤罪のまま人生を終える。
そんな結末だけは受け入れられなかった。
視界がゆっくりと白く霞み始める。
身体から力が抜けていく。
(せめて……)
(もう一度だけ……)
(人生を……)
そこで意識は途切れた。
---
「っ!」
小西は勢いよく目を開いた。
荒い呼吸。
額には冷や汗が滲んでいる。
見慣れた寝室。
静かな朝だった。
しばらく天井を見つめたまま呼吸を整える。
「……また、この夢か」
いや。
夢ではない。
自分が確かに生き、そして死んだ未来の記憶だった。
小西はゆっくりと身体を起こし、窓の外を見る。
朝日が街を照らしている。
平和な日常。
あの日、二度と見ることはないと思っていた景色だ。
「もう何年経っても、忘れられないか」
静かに呟く。
忘れるはずがない。
あの日々が、今の自分を作ったのだから。
---
朝食を済ませ、黒いスーツへ袖を通す。
伊達眼鏡を掛けると、鏡の中にはいつもの帝丹高校の数学教師・小西浩平が映っていた。
「……」
鏡を見つめながら、タイムリープした直後のことを思い返す。
最初は理解できなかった。
死んだはずの自分が、高校一年生の春へ戻っていた。
家族がいた。
友人がいた。
自由に歩ける街があった。
そのすべてが眩しかった。
何日も泣いた。
未来は悪夢だったのではないかと思おうとした。
しかし、それは叶わなかった。
ニュースで流れる事件。
街で起きる事故。
未来で知っていた出来事が、一つ残らず現実になっていく。
その瞬間、理解した。
(時間が戻った)
(俺は人生をやり直している)
最初に考えたのは、未来を変えることだった。
真犯人を警察へ突き出す。
未来を話す。
自分の冤罪を防ぐ。
だが、どれだけ考えても結論は変わらない。
証拠がない。
未来を知っているなど、誰も信じない。
未来の自分を救ってくれる者はいない。
ならば、自分で未来を変えるしかない。
小西は決意した。
正義に期待することをやめる、と。
生きるためなら、悪人になっても構わない。
まず、自ら電話相談サイト『ライフ・ライン』を立ち上げた。
表向きは悩み相談窓口。
しかしそれは、本物の絶望だけを選別し、相談者へ完全犯罪の設計図を授ける犯罪相談窓口。
最初は自分一人で窓口をしていたが、ビジネスとして回り始めたことで徐々に規模を広げていった。
そして、相談者が起こした事件を隠れ蓑にしながら、自分を冤罪へと追い込む未来に関わった人間の現在の居場所を、一人ずつ調べ上げていった。
真犯人。
捜査を誤る警察官。
誤判を下す裁判官。
そして、未来で自分を犯人と断定した名探偵。
未来を変えるため、小西は盤上の駒を静かに動かし始めた。
その卓越した頭脳は、やがて黒の組織のナンバー2・ラムの目にも留まる。
「組織へ来い」
その一言が、小西の人生を再び大きく変えた。
表では教師として教壇に立ち。
裏では黒の組織のブレイン「コニャック」として暗躍する。
すべては、二度とあの独房へ戻らないため。
すべては、生き抜くため。
小西はネクタイを締め直し、伊達眼鏡の位置を整えた。
「……同じ未来には、絶対にしない」
その静かな決意を胸に、数学教師・小西浩平として、新たな一日が始まるのだった。
冤罪の恐ろしさを少しでも感じて頂けたでしょうか。